冬 陽 (四)




閉じられた雨戸の隙間から射し込む朝の陽が白い障子にあたり、その明るさで総司は薄く瞼を開いた。
片方の目だけを少し眩しそうに細めたが、もう一方はまだ光についてゆけずに開けられない。
それでも今少し慣れてくると、両の瞳を開いて辺りを探った。
だが起きればいつもそこにあるものとは違う情景に、暫し思考はついてゆけないようだった。
すぐに探し求めた広い背を見つけて安堵し声を掛けようとしたとき、それが求めていた人間のものとは違う事に気付き又戸惑って口を噤んだ。

「少しは眠ったようだな」
気配を察して、田坂俊介がゆっくりと振り向いた。
「・・・田坂さん?」
「寝呆けているのか?」
起き掛けの耳に何の障りも無い、田坂の可笑しそうな笑い声だった。
咄嗟に身体を起こそうとして、夜着の上から纏っていた綿入れの更にその上にも、厚い掻巻きが掛けられているのを知った。
その状況に、昨夜からの出来事が初めて現のものとして総司の記憶に蘇った。

「浩太さんは・・?」
「もう大丈夫さ」
慌てて聞いた総司に、怪我人の顔を見ることができるよう、田坂は座していた体を少し横にずらした。
前が開けた視界の中に、顔の色は悪いが静かに眠る水梨浩太の姿があった。
「熱も大分引いてきた。元々頑丈な男だからもう心配はいらない」
夜通し見守っていた田坂の顔にも、隠せぬ安堵の色がある。
昨夜キヨと総司に告げた患者の容態は、やはり懸念すべきものだったのだろう。
だがそんな田坂の邪魔をしたばかりか、結局あれから自分はうたた寝をしてしまい、挙句そのまま深い眠りに落ちてしまったのだ。
思い起こせばあまりの不甲斐なさに顔が赤くなる。

「・・すみませんでした」
詫びる言葉を言う声は小さい。
「何がだ?途中で寝たことがか?」
「・・それだけじゃない」
田坂の優しさに触れれば、余計に情ない自分が辛い。
「何を殊勝な顔をしている?じきキヨが朝飯だと言ってくるぞ」
そんな総司を慰めるともからかうともつかない軽口を叩いたところへ、控えめな足音が聞こえてきた。


「せんせい、開けてもよろしおすか?」
外から遠慮がちに掛かったのは、やはりキヨの声だった。
「構わない」
静かに開いた障子から覗いたキヨの顔が、総司の姿を見て和んだ。
「やっぱりおいやしたわ。お部屋にいやはらへんから、何処に行かれはったんかえろう心配しましたんえ」
「すみません、ここで田坂さんに迷惑を掛けていました」
総司がキヨに向かって申し訳無さそうに頭を下げた。
「途中で居眠りを始めなければ、中々優秀な助手だったがな」
田坂の言葉に総司は、今度こそ項(うなじ)までをも鮮やかな朱に染め上げた。

「せんせい、沖田はんを苛めはったらあきまへん。キヨが許しまへん」
「キヨは怖いな」
「へぇ。キヨは隠し事をしはる若せんせいよりも、沖田はんの方がよっぽど贔屓ですよって」
「俺がいつキヨに隠し事をした?」
「このご病人・・・、若せんせいの大切なお人ですやろ?」
キヨは相変わらずふくよかな頬に、見る者誰もに警戒を解かせるような、穏やかな笑みを浮かべている。
キヨへの応えを待って、総司も田坂の表情からひとつの変化も見逃すまいと、瞬きもせず視線を止めている。


「二人に責められては困ったことだな」
諦めたように、田坂が吐息と共に苦笑した。
「この浩太は俺の幼馴染の瀬口雄之真の家に、親の代から仕えていた男だ。俺と雄之真は年が同じで、この浩太は三つ上。幼い頃はよく三人で遊んだものさ」
まだ深い闇にあり、固く瞼を閉ざしている浩太に目を遣った田坂の眸が、懐かしい昔を見るように細められた。

「俺の家にあんなことがなければ、雄之真とは今も良い親友でいられただろう」
淡々と語る田坂の声には、既にその過去に対する感傷は無い。
それが総司の胸を少しだけ軽くする。

「そういえば、雄之真の事は伊庭さんも知っているかもしれない」
「八郎さんが?」
突然出てきたその名に、総司が驚いたように田坂を見た。
「雄之真の家はやはり俺の家と同じ、膳所藩の江戸藩邸詰めだった。そして雄之真の伯父は藩の剣術指南役をやっていた。その家と養子縁組をする事になっていた雄之真は、伯父儀と縁があった御徒町の伊庭軍兵衛殿の道場にも幾度か行ったことがある筈だ」
「・・・八郎さんはまだ小さな頃に、田坂さんを見たことがあると言っていた」
「覚えていたのか」
田坂の顔に懐古しているとも、照れ隠しだとも判じかねる苦笑が広がった。
「覚えていた・・って。それでは田坂さんも八郎さんの事を?」
「いや、俺は直接は会ってはいない。だが確かに一度まだ元服前だったが父親に連れられて伊庭道場に行き、軍兵衛殿と立ち合って頂いた事がある。その時に姿を見られていたのだろう」

京で初めてできたと思っていたものが、遥か昔に江戸で結ばれていた縁(えにし)であった事に、総司は何とも言いようの無い人の世の不思議さを覚えずにはいられなかった。


「そんなに驚く程のものではないだろう。大体剣の世界などと言うものは案外に狭い。まして同じ土地に居れば尚更限られる」
まだそんな思考に捉われているように、どこかぼんやりとしている総司を見て田坂が笑った。
「けれど私は田坂さんを知らなかった」
「そうだな。だが君を知ったお陰で、又伊庭さんとも縁を結べた」
昨夜からの緊張で今ひとつ厳しさを消しきれなかった田坂の表情に、やっといつもの静かな穏やかさが戻った。

「・・・田坂さんの親友のその瀬口さんと言う人は、八郎さんとも立ち合った事があるのかな」
昔話の先をねだるような、総司の屈託の無い問い掛けだった。
「それは無いだろう。雄之真が伊庭道場に行っていた頃は、まだ伊庭さんは幼かった筈だ。それに伊庭さんが長ずる頃には・・・」
だが応えた田坂の言葉が、そこで躊躇するように止まった。
総司もキヨも、その先を促せずにただ黙している。
二人の心の中には、江戸に居た頃の田坂については、迂闊に聞いてはいけないという思いが常に何処かにある。

「瀬口の父親が些細な事から人を傷つけた。瀬口家は膳所藩でも古い家柄だったが、それが理由で父親は半年の蟄居、禄高は半分に減らされ、瀬口自身も養子縁組の話が壊れた。丁度俺の家があんなになる前の年だった」
その二人の思いを察したのか、田坂が迷いを捨てたように言葉を繋げた。
「・・・人を傷つけた?」
「そうだ、傷つけた・・・しかしその時、瀬口の父親はそうせざるを得なかった」
が、そこまで続けることが限界と云うように、田坂はそれ以上はいくら待っても語らず、理由を明かそうとはしなかった。

「ほな、若せんせいはこの浩太はん言うお人とも、ずぅっとお会いしてはらしまへんのどすか?」
会話が途切れるのを憂えるように、言葉を続けたのはキヨだった。

「いや、一度だけ・・・あれはもう五、六年も前になるのだろうか。江戸に帰った事があっただろう?」
「・・ああ、杉浦のお家のお母はんがお亡くなりになられはって」
キヨは少し痛ましそうな顔をした。
「実の親ではないが、俺を十五の歳まで育ててくれた。父親と兄の死後に里に戻っていたが、心労が重なったのかずっと寝込んでいて、亡くなったとの知らせを受けて江戸に行った時に雄之真と浩太に再会した」
「・・・雄之真さんのお父上は?」
総司は遠慮がちに、過(よ)ぎった疑問を言葉にした。
田坂に言うように瀬口という人間の家にそのような事情があったとすれば、すでに家は雄之真が継いでいたのだろうか・・・。
「瀬口の父親はその後雄之真に家禄を継がせて隠居したが、間もなく病死したらしい」
言いながら、田坂がまだ目覚める気配を見せず、精悍な面を青くして昏々と眠る怪我人を見た。


だが、何故その雄之真が今京にいるのか、浩太はどうしてこんな大怪我を負ったのか・・・。
そして田坂の胸の裡に、何かその理由を知るものがあるのか・・。
思えば尽きない疑問を、総司は言葉にできずに押し殺したまま、田坂の端正な横顔を見つめていた。





食事をとる者や、朝の稽古を終えて井戸端で汗を流す者の喧騒で、屯所内は活気づいていた。
その光景を横目でみながら、総司は副長室に向かう足を急がせていた。
結局昨夜は無断で抜け出した上に、まさかの怪我人もあって田坂の処に泊まってしまった。
土方はきっと怒っているだろう。
その事を考えれば心は重いが、それよりも一時も早く顔を見たいとの思いが勝る。
あと僅かで副長室という処まで来て、ふいに足が止まった。

土方の室から聞こえるのは、確かに違えるはずの無い八郎の声だ。
二日続けて八郎が屯所にやって来ている事に、総司は何故か自分でも訳の分からない不安に駆りたてられた。
そしてそれはそのまま、否が応にも遠藤の横死を田坂に結び付けずにはいられない。


「戻ってきたのなら、さっさと入って来たらどうだ」
突然掛ったいつもよりも低い土方の声に、一瞬びくりと身体が動いた。
確かに土方は自分に不満を持って怒っている。
それが総司を躊躇わせたが、そこを動かない訳にはゆかない。
やっと歩を進めて障子を開け放った室の入り口に立つと、土方も八郎もこちらを向いていた。

「無断で抜け出した上に、外泊か?お前にしては上出来だな」
八郎の声が笑いを含んでいた。
総司は何も言えない。
ただ伏目がちにして、敷居をまたげずにいる。
「座れ」
土方が自分の前を指差した。

「・・・・勝手をして、すみませんでした」
おずおずとそこに座ると、総司は小さいながらもはっきりと聞こえる声で詫びた。
「俺は先日の件は田坂さんとは関係が無いと、そう言った筈だ」
「・・でも」
「お前は俺を信じられないのか」
「そんなことはない」
弾かれたように伏せていた瞳を上げて、総司は首を振った。
「だったら何故首を突っ込むなという俺の言葉に逆らう」
「逆らっている訳ではありません・・・ただ」
「ただ田坂さんを心配せずにはいられなかった・・・そういう事なのだろう?」
言いよどんだ総司に、横から八郎が言葉を挟んだ。
それが助け舟を出しているのか、面白がっているのか分からない口調だった。

「まあ、お前のお節介は今に始まったことでも無いとは言え・・・、あんたも苦労するね」
八郎が総司ではなく、土方を見て揶揄するように笑った。
「お節介だなんて・・」
「節介には変わりは無いだろう」
八郎の言い分に流石に不満気な総司を、土方が低く諌めて吐息した。

「ほら見ろ。誰もそう思うさ。で、田坂さんは遠藤という人間を膳所藩では知らぬと言っている事を知っていたのかえ」
「伊庭っ」
八郎の総司への問いかけを、土方が苛立たしげに遮った。
「もう隠す必要もあるまい。だいたい総司はその事を知らせに行ったのだろう?」
だが笑いながら向けられた双眸には、これから総司の口から語られる言葉、動く表情ひとつを見落とさず、何かを読み取ろうとする厳しいものがあった。


「・・田坂さんは知りませんでした」
言って良いものかどうなのか一瞬躊躇したが、総司はありのままを土方と八郎に告げた。
「知らなかったか・・・」
八郎が何事かを考えるように、腕を組んで呟いた。
「田坂さんは遠藤さんの事は小川屋さんから聞いて初めて知ったのだと。それで遠藤さんという人は膳所藩では知らないと言っていると話したら、驚いて・・・」
「田坂さんは、驚いたのか?」
問うたのはそれまで黙していた土方だった。
「田坂さんの処に来ていた一昨日は、遠藤さんは確かに膳所藩の藩士だったから」

「決まりだな」
八郎が組んでいた腕を解いて、殊更気負いも無く言い切った。
「・・・決まりって?」
「膳所藩が何かを隠そうとしているってことさ」
「何を隠そうとしているのです」
「それが分からないから・・」
八郎は土方に顔を向けた。
「この人はこんなに仏頂面を崩せないのだろうよ」
「お前のように人間が気楽にできていないだけだ」
苦りきった顔のまま、土方が忌々しげに言い捨てた。


「・・・八郎さん」
声を掛けながら総司は土方の顔をちらりと見たが、それもほんの一瞬のことで、すぐに八郎に視線を戻した。
「何だえ」
「瀬口・・瀬口雄之真という人を知っていますか?」
「知っているよ」
あまりにあっさりと返って来た応えに、今度は総司の方が瞳を見開いた。
「俺に聞いたお前がそんなに驚いてどうする」
次の言葉を何と繰り出して良いのか分からぬ風に狼狽している総司の様子に、八郎が堪えきれずに低い笑い声を漏らした。
「それより何故お前はそんな事を聞く?」
「田坂さんが・・・」
「ああ、あの人なら瀬口雄之真のことは良く知っている筈だ」
「その人間がどうした?」
土方が、訝しげに横から問うた。
「田坂さんの古いご友人で・・その人なら伊庭道場にも何度か行った事がある筈だからと・・・昨夜キヨさんと三人でいる時に、田坂さんから偶然そんな話が出たのです。それでもしかしたら八郎さんが覚えているかと思ったのです」
総司は土方に向かって、微かに笑みを浮かべた。

その瀬口雄之真と行動を共にしていた水梨浩太が重傷を負って、そのために田坂の処で一晩過ごしたとはまだ言えなかった。
否、言ってはならぬという何かが、総司に咄嗟の嘘をつかせた。


「瀬口雄之真という人は、本来ならば膳所藩の剣術指南役になっていた筈の人間さ」
八郎の言葉は、田坂が言っていたことを証明していた。
「筈・・、とういのでは、そうならなかったということか」
土方が鋭く八郎の言葉尻をとった。
「そう、ならなかった。いや、なることができなかった」
「どういうことだ」
「瀬口家に何か不始末があったらしい。それで剣術指南役をしていた伯父という人の家との養子縁組も壊れたと聞いている。が、俺も詳しくは知らん。まだ十かそこらの餓鬼だったしな。・・・ただ」
八郎が僅かに遠い目をした。

「あるいはそれが幸いかもしれないと、死んだ親爺が言っていたことがある」
「・・・幸い?」
聞き返した土方の声が、不審そうに沈んだ。
「瀬口さんはまだ元服もする前だったが、人柄は朴訥、剣は剛毅、そんな風な人の形がすでに表に出来ていた。不器用なほどに真っ直ぐな人だった。そういう人間は政事(まつりごと)に身をおけば苦労が目に見える。親爺はその事を言っていたのだろう」


瀬口雄之真を直接知る八郎の言葉は、あの実直そうな浩太の主人という人間像を、総司の中により鮮明に作り出す。
浩太は今も辛い痛みの中で、主人の行方を案じているのだろう。
その事を思えば、少しも早くに会わせてやりたい。
だがそれ以上に今は、田坂の親友であったという人間の行方を、掛け値無く憂える自分がいた。





「・・・怒っているのですか・・・田坂さんの処に行った事を・・でも・・」
下に組み伏されながら躊躇いがちに掛けた声を、土方の唇がそれ以上言わせぬように塞いだ。

勝手な行動を許さないという戒めは、言葉ではなく唇への蹂躙によって伝えられた。
息をも継がせぬ長さに、苦しげに眉根を寄せてもまだ自由は貰えず、総司は土方の首筋に絡めた腕に許しを乞うように力を籠めた。
気が遠くなるかと思われた瞬間をまるで見計らっていたように、ようやく唇が解放された。
忙(せわ)しい息を漏らし、瞳を閉じたまま肩を上下させている想い人の額に乱れる幾筋かの髪を、土方は今度は静かに指でかきあげた。


「・・・怒っているさ」
低く耳に届く声は、言葉とは裏腹にひどく優しかった。
瞳をひらくと、驚くほど近くに土方のそれがあった。
「・・・どうしてこいつは俺の言うことを聞かないのだと、応えをくれるもの全てに聞いて回りたい程だ」
含むように笑う眸の奥には、だが微かに揺れるものがあった。
「いっそ縛り付けて、傍らからどこにもやらないようにできれば、俺は少しは安堵できるのかもしれんな」
「どこにも行かないのに・・・」
やっと形にしてみても、言葉はただ薄く平たいものになってしまう。
自分は土方の傍を離れないのだと、否、いつか置いてゆかれるのを怯え、そのことを思えば息が止まりそうに苦しいのだと、今在る心を伝える術が見つからず総司は焦れた。

「小さな頃からずっと追っていたのに・・」
土方の肩口に顔を埋め、温もりを逃さぬように隙無く肌を合わせた。
「・・・土方さんはちっとも気付いてくれなかった」
咎める声はその日々を懐古しているのではなく、むしろ刻まれて来た独り孤独な時をまだ忘れず恐れるように小さかった。
土方は応えず、愛しい者が紡ぎだす切ない心の裡を、その先を促すことなく待っている。

「やっと気付いて貰えたと思ったら・・」
「思ったら?」
ほんの一瞬総司は言葉を止めたが、やがて伏せていた顔を上げて土方を捉えた黒曜石に似た深い色の瞳に、心なしか宿る露があった。

「今度は失くすのではないのかと・・・いつもいつもそんな事を考える」
俄かな感情の迸りが、一気に箍(たが)を外してしまったように、総司の精神をも脆くしたようだった。
「土方さんに想いを知ってもらえてから、私はどんどん弱い人間になってゆく・・」
微かに笑った頬に、今この腕の中にある時が過ぎ行くのすら惜しむように、ひとつ露が滑り落ちた。
それを乱暴に手の甲で拭いながら、まだ総司は続ける。
「・・・毎日が不安でたまらない。・・気が狂いそうに不安で」
「どうしたらお前の不安は消える?」

背に回した手でなぞれば、着ているものの上からも骨のひとつひとつを確かめることができる感触の頼りなさこそ、己を恐怖させるものであると言うのに、総司もまた自分が離れてゆく幻影に怯えている。
これほどまでに愛しいと、弛まぬほどにきつく結ばれた絆なのだと、互いに想って限りないのに、まだ不安の中を抜けきらないのは、あまりに強く求めすぎているからなのだろうか。


「・・・総司、俺もどこにも行かない」
やはり伝える言葉は想いの欠片にも成らない。
土方は自嘲するように笑った。
「言葉とは、確かに不便なものだな」
「・・・追うことには慣れている」
それを揶揄するように総司の唇が、声にはせずに笑みの形を作った。
「皮肉か?」
「・・何の?」
黒曜の瞳が邪気無く見上げた。

「お前をずっと独りにしておいたことへのさ」
ゆっくりと降りてきた唇を、これから導かれる忘我の淵への誘(いざな)いのように、総司は静かに瞳を閉じて受け止めた。
肌蹴られた胸元から忍び込んだ手が脇から腰へと、掌すべてで包み込むようにして流れるように滑り、もう隠すこともできない露な欲情の兆しに触れられたとき、哀しい程に小さく声を上げて身を捩った。


眦を濡らし零れ落ちるのは、隈なく身体中に与えられる土方の熱い想いを受け止められる悦びからなのか、或いは幸せだからこそ、いつかこれを失うことへの慄きからなのか・・・・

そんなことを思う間もなく、次第に追い詰められる身体は、切ない吐息を漏らすだけがやっとで、やがて肌は仄かに上気し、薄闇の中で白い喉が仰け反った。





規則正しい息遣いを刻む土方の眠りを妨げぬように、抱いてくれていた腕をそっと外して起き上がると、総司は慌てて夜具の脇にあった羽織を肩からひっかけた。
その気配に気付いたのか、土方が目を開いた。

「・・・あ、すみません」
起こしてしまったことを詫びようと、息すら殺すようにして小さな声を掛けたとき、腕を掴まれてまた夜具の中に引き戻された。
「起きなければ・・・・」
ささやかな抗いは容易く封じられ、すぐに唇が塞がれた。

総司の躊躇いが悦びとなりそして戸惑いに変わるぎりぎりの長さの抱擁を、土方は憎らしいほどに知っている。
漸く解放されて、睨みつけるように見上げる瞳の下に息づく濡れた唇が、微かに朱くひどく扇情的だった。

「もうみんな起き始める」
だがそんな思惑など想い人は残酷なほど知らず、視線を止めている唇から紡ぎだされた言葉は、咎めるように土方への批難を隠しもしなかった。
「だからどうした」
胸の裡で苦く笑っている自分を知れば、きっと総司は本気で怒り出すだろう。
だが総司は気配だけで、その心を敏感に察したようだった。
土方を映す瞳が、少しだけ憤りの色を湛えている。


「・・・すまなかった」
抱きかかえる薄い背の主の耳朶に触れるように囁くと、そのまま今一度腕に力を籠めた。
「からかわれるのは嫌いだ」
抗議の声は小さかった。
「分かっている・・・が、俺も隠し事は嫌いだ」
項(うなじ)に流れる乱れ髪を指で掬ってやりながら、土方は次の言葉を躊躇い無く口にした。

「隠しごと・・?」
広い胸に伏せようとした顔を上げて、総司が訝しげに問うた。
だがその瞳の奥が微かに翳ったのを、土方は決して見逃さなかった。

「隠し事は許さない」
動揺を露にする総司の視線を逸らさせず、土方は更に問い詰める。
「ひとつも、許さない」
一瞬たじろぎ離れようとした腕を、土方は戒めるように掴み引いた。
「田坂さんのところで何があった」
その双眸が、嘘を許さぬ厳しさを秘めて総司を射抜いた。


「話せるな?総司」

土方の声は決して怒りのそれではない。
むしろ自分が包み隠さず語る事を信じて疑わないように強い。

見据えられたまま、総司が諦めたようにゆっくりと頷いた。









         事件簿の部屋     冬陽(五)