冬 陽 (五) 土方の強い視線を受けて頷いたものの、総司はそれでも暫くは瞳を伏せたままだった。 田坂の過去を知らぬ筈の土方に真実をどう伝えてよいものか、そのことが総司を逡巡させていた。 が、見つめる土方の眸はその一瞬の戸惑いすら許さない。 総司は諦めに似た吐息をひとつ漏らした。 「・・・昨夜帰ることができなかったのは、田坂さんの知人の方がひどい怪我をして」 漸くぽつりぽつりと語り始めた想い人の心をまだ躊躇わせるものが何であるのか、土方には容易に察することができた。 「それは田坂さんが膳所藩と関係があった頃の人間なのか?田坂さんの兄があのような事件を起こす前、まだ杉浦俊介と名乗っていた頃の・・・」 田坂の過去を知っていると告げる思いがけない言葉に、総司が弾かれたように顔を上げ土方を見た。 「・・・土方さんは」 「伊庭からおおよそのことは聞いている」 脱力したように、総司の肩から力が抜けた。 「知っていたのですか」 大きく瞳を見開いている総司に、土方が黙って頷いた。 だがその事件が、田坂の兄が弟への苦しい恋慕の末に起こしたものだと、本当の理由までは知らないだろう。 そしてそれは他人である自分の口から土方に話すべきものではない。 総司は咄嗟にそう判断した。 「怪我をされた方は、田坂さんが江戸にいる頃のお知り合いでした」 今はまだ、あるがままの出来事だけしか話すことができない。 「では杉浦と云う名の頃のか?」 土方の目を見て総司が頷いた。 「だがそれでは江戸にいる筈の人物が、何故京にまで来て怪我など?」 土方のぶつけて来る疑問は、例え片鱗でも嘘を許さぬように鋭い。 「それが・・・」 「どんな隠し事もしないと、そう約束をしていたな」 言って良いものかどうなのか、迷う総司に土方の声音が厳しかった。 だがその眼差しは包み込むように深い。 それが総司に躊躇いの全てを捨てさせた。 「田坂さんにも分からないのです」 「分からない?」 「怪我をした人は田坂さんの江戸にいた頃の親友の、瀬口雄之真という人の家に仕えていた人で・・」 「・・・瀬口。・・・昨日お前が伊庭に聞いていた人物だな?」 土方がまだ記憶に新しいその名を、手繰るように問うた。 「そうです。八郎さんが知っていたとういうその人です」 「ではその瀬口という人物はどうしたのだ?怪我人と一緒ではなかったのか?」 「怪我をした人は・・・浩太さんと言う人で、浩太さんは瀬口さんと離れてしまったのだと、そう言っていました。それで田坂さんの処へ自分だけが来たのだと・・・。田坂さんもずっと前に江戸で会ったきりということで、驚いていました」 「・・・お前が言っていることが本当ならば、少し変ではないか?」 「変?・・・私はもう何も隠してはいません」 少しばかり不満のように抗う総司に、土方が低く笑った。 「お前を疑っているわけではない」 「けれど・・・」 「勿論田坂さんをもだ」 「では何故?」 「その人物が尋ねてくる事が、田坂さんには予想外だったのだな」 「田坂さんに嘘を言っている様子はありませんでした」 「分かっている。田坂さんにとってその二人は江戸に居る筈で、まさか京の自分を訪ねて来ようとは思いもしなかったのだろう。が、その怪我人・・浩太と言ったか。その浩太は慣れぬ土地で、しかも暗くなって田坂さんの診療所を探し当ててきた。一度も尋ねて来たことが無いという其処に・・・」 「・・・どういう事です」 総司の瞳の奥に揺れるものがあった。 土方の含むものが分からず、ともすれば暗い予感に思いが傾くのを止められない。 「・・・事前に、田坂さんの診療所に幾度か足を運んでいたのだろう。それも田坂さんにも、或いはキヨさんにも、誰にも分からぬように」 自分を離れて宙に据えられた土方の視線の先に、一体何が見えているのか・・・ 総司はざわめく胸の裡をもう鎮めようがなかった。 暫くそんな落ち着かない思いに捉われていたとき、遠くから人の足音が聞こえてきた。 それはこの室には関係がないものだったらしくすぐに消え去ったが、威嚇された小動物が咄嗟に全部の神経を鋭く張り巡らせるように、総司は瞬時に身を固くした。 そんな想い人の様子に、土方が諦めともつかぬ苦笑を漏らした。 「お前はいつまで待ったら俺を安堵させてくれるのだ」 「・・・安堵?」 黒曜の瞳は、不思議そうに土方を見る。 「いっそお前は俺のものなのだと、そう誰にも知らしめれば、俺は少しは余裕というものを持つことができるものを」 だがそうしたところで、所詮一時も総司を離してはおけぬ己を土方は知っている。 想えば想うほど、愛しければ愛しいほど、恋情は業火のように燃えあがり、焔は鎮まる処を知らない。 気を緩めた途端に、総司がこの腕を難なくすり抜けて行きそうな予感に怯える自分を、土方は近頃持て余している。 「そんなこと・・、できる筈がない」 まるで自分自身に刻み込むように強く言いながらも瞳が作った翳は、他の誰かに渡すのならば共に修羅に堕としてしまいたいとまで想いを募らせながら、将来(さき)の限られた自分が土方の足を引っ張る事だけは許されないと、相反する二つの真実に揺れる総司の心の綾が織り成したものだった。 「・・・できるわけがない。そんなこと・・」 ぎこちなく笑みを作って今一度返した応えの全部が終わらぬうちに、ふいに重なった土方の唇がその先の言葉を摘み取った。 「今朝はこうしてお前を怒らせるのは二度目だな」 解放された唇を今度こそ固く閉じ、強い視線で見つめる総司に土方が笑った。 「もう行きます」 怒って告げた筈の瞳が、奥で微かに揺れていた。 もっと他の言葉で咎めたい。 必死に留めているこの想いを、どうして容易く溢れ出させてしまうようなことをするのかと、せめて恨みの一言をぶつけたい。 けれどこのまま土方の腕の中にいれば、きっと自分はそれすら敵わず、此処を離れられなくなる。 「本当に行きます」 そんな自分の甘えを叱咤して、総司は土方から身を捩ると素早く立ち上がった。 「田坂さんの処に行くのなら、俺も一緒に行く」 引かれる後ろ髪を断ち切るように、襖の桟に手を掛けようとした寸座、思わぬ言葉に振り返った総司に向けた土方の顔からは、もう先ほどの笑みは消えていた。 「行くのだろう?」 夜具の上に胡坐をかいて見上げる双眸が、真実だけを求める厳しさを宿していた。 先の先まで見透かされて、狼狽するのはいつも自分だった。 小さく吐息するように、総司は頷いた。 すでに隠しようの無い事と思えば、後の気がかりはあの浩太という怪我人と田坂との係わりだけだった。 「行きます」 はっきりと返した応えは田坂の処へということなのか、それとも土方の温もりの残るこの室からということなのか・・・・ 総司は己の心裡で、そのどちらともつかぬ思いに戸惑いながら、またひとつ冷たさの深い廊下に出ると、静かに襖を閉めた。 「直に正月が来るのか・・」 往来を忙しげに行く人々やら、けたたましく土埃を巻き上げて走り抜ける大八車を見ながら、誰に言うでも無く、まるで他人事のように呟いた土方の言葉に、横を一緒に歩く総司が小さな声を立てて笑った。 「何がおかしい?」 「だって、そんなことを今頃言うのは土方さんくらいだ」 「誰だって思うだろう」 「そう言う事ではないのだけれど・・」 「では何だ」 まだおかしそうに笑う想い人の横顔が、穏やかな冬の陽射しを映して明るい。 こうして二人でのんびりと道を歩くことなど、どれほどぶりのことなのか。 或いは自分は近藤の不在を守るという責に、思った以上に神経を昂ぶらせていたのかもしれない。 その間、勘の良い総司はそれを機敏に察し、自分に負担を掛けまいとずいぶんと寂しい思いをしていたのだろう。 それを思えば憐憫と、いとおしさだけが胸に迫る。 「田坂さんの知人の怪我の具合はどんなだ」 僅かに揺らされたその感傷から目を逸らせて、土方が問うた。 「田坂さんはもう大丈夫だと言っていたけれど・・・」 「深かったのだな」 「・・・多分」 総司は精悍な顔を蒼白にして眠りについていた浩太を思い出した。 今日は少しは話をすることができるのだろうか。 「土方さんは・・・、浩太さんが遠藤さんの事と繋がりがあると思っているのですか?」 並んで歩きながら会話の続きの様に、土方が同道すると言ったときから胸にある疑惑を、総司は何の飾りもつけずに単刀直入に聞いた。 躊躇いを捨てさせ背を押したのは、穏やかな昼下りの陽の明るさだったのかもしれない。 「無いとは思わん。・・・・が、それはお前自身もそう思っているのだろう?」 言い当てられて、総司は向けていた視線を外した。 確かにそうだった。 遠藤の事があった翌日にあの浩太の怪我だ。 しかも二人とも膳所藩の人間だ。 結びつけぬ方が不自然だった。 が、総司の思いはもうひとつ別のところにある。 確かに田坂は何も知らぬ様子だった。 だが遠藤の件も、浩太の件も、果てはまだ姿を現さない瀬口雄之真も、全ては田坂と関係してくる。 それが田坂の災いとなることを、総司は憂慮している。 過去の傷がまだ決して癒えてはいないだろう人間を、再び無遠慮にその渦中に引き戻そうとするのが運命(さだめ)というのなら、総司は今それを采配する神仏にすら憤りを覚える。 土方が何と田坂に告げようとしているのか、或いは問おうとしているのか、総司はまだ知らない。 だがそれは新撰組副長としてのものに、相違はないだろう。 土方の立場も仕事も十分に承知し、誰よりも分かっているつもりの自分の心に、それでもわだかまるものがある。 できるのならば、もう田坂をそっとしておいて欲しかった。 「取り合えず今日の処は俺は挨拶に行くだけだ」 そんな総司の思惑を察するように、土方が前を向いたまま告げた。 「・・挨拶?」 突然異な事を言われて、総司が不思議そうに土方を見上げた。 「お前が一年世話になったと言う暮れの挨拶だ」 ちらりと横の総司に目を遣っただけで、土方は真正面から忙しげに来る人間とぶつかるのを避ける為に、すぐに視線を前に戻した。 暫く告げられた言葉の意図が分からず、総司は立ち止まりぼんやりとその後姿を見つめていたが、やがてそれが自分の懸念への土方の精一杯の配慮だと分かると、慌てて地を蹴った。 早く追いつかなければ広い背は、人混みに紛れて見失ってしまう。 土方は自分の田坂への気持ちを分かってくれた。 遂に走り出した総司の胸に、土方の優しさが肌を刺す冬の風など感じぬ程に暖かかった。 年の瀬の診療所はやはり混みあっていた。 門の外にまで溢れる患者を見て、流石に土方も玄関の挨拶だけで済ませようとしたが、キヨはそれを許さず、その問答の気配に顔を出した田坂の勧めもあって、結局二人は奥の座敷で待たされることになった。 「沖田はんにはおとついの夜、えろうお世話になってしもうたんです。せやから朝帰りしはった沖田はんを、土方はんは叱からはったりはせんでしたやろなぁ」 茶を持ってきたキヨが、含むように笑って土方を見た。 「さて、そのように役に立つ奴だとも思いませんが、返ってご迷惑をお掛けしただけではないのでしょうか」 土方の言葉を聞きながら、大方その通りだった自分に総司は思わず顔を伏せた。 「そないなことありませんぇ。えろう助かりましたわ。怪我人をせんせいと一緒に運んでくれはったり」 キヨはまだ笑い顔を崩さない。 だが浩太の事を土方に隠しもしないその様子が、総司の胸にあるものを軽くした。 田坂もキヨも、やはり何も関係が無いのだ。 「二人で怪我人を運ぶとは・・それほど重い怪我だったのですか?」 土方の声にも探るような響は無い。 「へえ。その晩は心配どしたけど、それでもお陰さんで今朝は起き上がって、ご膳も召し上がらる位にお元気にならはって・・・せんせいも江戸の頃の大切なお知り合いとかで、えろうほっとされてますわ」 「江戸の頃の?」 「何や幼馴染のお方のお家にいらした方とか・・」 キヨも総司が居るときに、田坂が話したあれ以上の事はまだ聞いていないらしい。 が、それはそのまま田坂に言いたくない何かがあるのか、或いはそれ以上秘めることがないのか・・・そのどちらかは分からない。 ただ今はそれが後者であることを、総司は願った。 玄関の方からまた診察を乞う人間の声が聞こえた。 「いや、すっかり腰を落ち着けてしもうて・・・又せんせいに叱られますわ」 キヨが笑いながら立ち上がり、軽口をたたいた。 「キヨのおしゃべりには慣れている」 その言葉尻をとって、後ろから掛かった声は田坂のものだった。 「いや、せんせい、患者はんどないしはりました?」 目を丸くするキヨに、田坂が苦笑した。 「キヨを呼びに来た。とてもひとりではさばき切れない」 「はいはい、今行きますよって」 廊下に立ったまま、先にキヨの出てゆくのを見送くって、一緒に診療に戻ると思っていた田坂が意外に室に足を踏み入れた。 「お待たせして申し訳ありません。もう少しで終わると思うので」 「いやこちらこそ、お忙しい所にお邪魔して申し訳ないと思っていたのです。今日は別段用事があって来た訳ではありません。そろそろお暇(いとま)しようかと思っていました」 土方の申し出に、田坂は少し考えるように黙したが、やがて静かに切り出した。 「実は土方さんに伺いたい事があるのです。もしもご迷惑でなければ今しばらくお待ち頂けないでしょうか」 「聞きたいこととは?」 「もう沖田君から聞いてご存知かとは思いますが、先日の夜当家に怪我をして現れた水梨浩太という人間のことで。いや、本当にお伺いしたいのはその浩太の主、瀬口雄之真という男の事です」 「お役に立てるかどうかは分かりませんが、当方で知っていることはお話ししましょう」 思いもかけない二人の会話に、大きく見開いた瞳をそのまま土方に向け、言うべき言葉もわからず、ただひとり驚いているのは総司だった。 「申し訳ない」 田坂はそれだけを言うと、またすぐに患者を診る為に戻って行った。 「土方さんっ」 呼んだ声が悲鳴のようだった。 「瀬口さんとういう人のことを、新撰組は知っていたのですか?」 「落ち着け。順番に話す」 土方は詰め寄らんばかりに急(せ)いて問う総司を嗜めた。 「遠藤主計の事を調べている内に、あの件の前日、遠藤が膳所藩江戸詰の藩士、瀬口雄之真を出迎える為に粟田口まで行っているのが分かった」 「迎えに・・?」 「この時点で遠藤主計は紛れもなく膳所藩士だったことが分かった」 「けれどその翌日ここに遠藤さんが来た時には、田坂さんにそんな話はきっと一言も・・・」 もしもしていたら田坂はあの日、五条まで一緒に歩いていた時に自分にそんな話をした筈だ。 懐かしい友との嬉しい邂逅を、殊更隠す必要も無い。 「しなかったようだな。田坂さんには」 言いながら土方が前に置かれた湯呑を取り上げた。 中の茶はすでに人を温めるほどの熱さを持ってはいなかったが、喉を潤すには十分だった。 「遠藤さんだって昔から田坂さんの事を知っているのならば、その親友だった瀬口さんが京に来た事を伝えてもいいはずです。・・・いえ、言わない方がおかしい」 土方が最後の一滴まで飲み終えるのをもどかしそうに見ながら、総司は思った疑惑を口にした。 「そう、おかしいな。だから遠藤は斬られるようなことになったのだろう」 どこか一点に視線を置いて考えるように、ゆっくりと話す土方を見る総司の瞳が翳った。 「・・・では土方さんは」 「斬ったのは瀬口雄之真ではない」 総司の懸念を否定し、土方が先回りして言い切った。 「何故分かるのです」 追いつかない自分の思考に焦れて、珍しく総司が早口だった。 「確かめさせた伊庭によれば、瀬口雄之真は間違ってもあんな斬り方はしないそうだ」 「ではあの時八郎さんが土方さんの部屋にいたのは・・・」 「昔の話でも幾度か竹刀を合わせた人間ならば、太刀筋の記憶の片鱗くらいは残っているだろう」 何もかもが自分の思惑を、とおに過ぎ去って展開していたのだとういう事実に、総司は沈黙した。 自分には何も知らされていなかった。 土方の仕事に関して口を挟むつもりは毛頭無い。 自分はそれを邪魔する存在だけにはなりたくないと、常に心に刻み己を律してきた。 だが独り取り残されて行かれたような、この寂しさは何なのだろう。 自分の知らない土方は嫌だった。 いつのまにか自分は土方の全てを知っていたいと願い、縛り付けておきたいと思う程に、欲の強い人間になっていたのだろうか・・・。 総司は己の心の奥底に、暗く湿って潜むものに行き着いて愕然とした。 こんな醜い心の持ち主である自分を、今土方だけには見られたくはなかった。 両の手で顔を覆ってしまいたい衝動を、総司は辛うじて堪えた。 「怒るな。隠しておいた訳ではない」 急に黙りこんでしまった想い人の、本当の心裡を知るはずもなく土方が苦笑した。 「・・・怒ってなどいません。ただ・・」 「ただ?」 言いよどんで、一瞬その先を止めたがすぐにまた言葉を続けた。 「何でもありません」 向けた顔に笑みを乗せたつもりが、土方の困ったような表情に合ってすぐに瞳を伏せた。 心の乱れを隠すように慌てて湯呑に手を伸ばし、一気に流し込んだ冷たくなった茶が苦く喉を伝わった。 「長く待たせてしまい、申し訳ありません」 田坂が現れたのは、そんな気まずい二人の沈黙にも、そろそろ限界が来ようかと言う頃だった。 「いや、忙しい事を承知で来た我々が悪い」 田坂の出現で、総司のどことなく沈んだ様子を持て余していた土方も、胸の裡で些か安堵の息をついた。 つんぼ桟敷に置かれて怒るというのならば合点もゆくが、総司の表情はそれとも又違ったものだった。 だが想い人が一体何を考えているのか、それを気掛りにしながらも、土方は田坂に当初の目的を語らねばならなかった。 「田坂さんの処に一昨日の夜来た怪我人・・・」 「水梨浩太のことですか」 すぐに返って来た躊躇いの無い応えが、田坂の親友の安否を思う心を現していた。 「そう、その水梨という人物の主、膳所藩藩士瀬口雄之真ですが、膳所藩京都藩邸用人によると上洛した筈は無いと言っている」 「では瀬口は私用で?」 「いや、そうではない。瀬口雄之真はすでに昨年病死したと言い切った」 「馬鹿な・・・」 田坂の声が憤りに掠れた。 総司も弾かれたように顔を上げ、土方を凝視した。 水梨浩太は確かに瀬口雄之真とはぐれてしまったと言っていた。 あれだけの怪我を負い、偽りを言う余裕はなかった筈だ。 それにも増してあの実直そうな浩太の眸は嘘をついていたものとは、総司には到底思えない。 「新撰組は遠藤主計が斬られる前に最後に会ったのが田坂さんと判断し、その前の足取りを追ったところが、貴方の処に来る前日に、遠藤が上洛してくる瀬口雄之真を粟田口まで迎えに出ねばならないと言っていた事を突き止めた」 「遠藤さんは誰にそのような事を漏らしていたのですか」 「薬種問屋の小川屋です。持病の胃の疼痛を鎮める薬を求めて行った先での世間話だったようだが・・・。小川屋は田坂さんもすでに承知のとおり、膳所藩の御用商人をしている。一度所用があって江戸に下った際に膳所藩邸にも挨拶に行ったそうだ。その折に瀬口雄之真を知ったと言っている」 「小川屋が・・?」 田坂にとって初めて聞く事実だった。 だが考えてみれば小川屋とは自分が膳所藩を離れて、京に来てからの付き合いだ。 その後藩に残っていた瀬口と何らかの縁があっても不思議ではない。 「上からの言付で小川屋の世話を瀬口雄之真がしたらしい。江戸の町を案内してもらったと、小川屋が懐かしそうに言っていた」 互いに胸にある疑惑を問い応える中で、ふと緊張の緩む話題だった。 あの雄之真の朴訥として剛毅な気性と、小川屋の穏やかな人柄は案外に合ったのかもしれない。 もしかしたらその時に、或いは自分の話題が出たのかもしれぬと思うのは、田坂の過去への懐古が成せる業だった。 「小川屋の言うことは本当だった」 土方の声はそんな田坂の感傷を容赦なく現(うつつ)に連れ戻す。 「では遠藤さんは雄之真を迎えに出ていたのですか?」 「それらしき三人を粟田口で見たものが沢山いた。ここにいる怪我人・・・水梨浩太と言われたか・・、ずいぶんと大柄な体で目だつ存在だったらしい」 土方の片頬に苦笑ともつかぬ笑みが浮かんだが、それはすぐに消された。 「だが瀬口雄之真を尋ねて行った膳所藩の応えは先程のとおりだった。おまけに遠藤主計も当藩とは関係の無い人間と言い張る」 「膳所藩が何かを隠していると?」 「いや、隠しているというのはすでに当てはまらない」 「どういういことだろうか」 「膳所藩は最早隠しきれぬ何かを知って、その前に藩とは無縁の事と、全てを切り離そうとしている。そしてそれはこれから起ころうとしている」 「土方さんっ・・」 それまで黙っていた総司が、不安の色を隠しもせずに短くその名を呼んだ。 その渦中に田坂を巻き込もうとする何かが動き始めている。 それが総司の胸の裡を、残す隙も無くみるみる暗く覆い始めた。 土方はそんな想い人の蒼い顔を、ただ無言で見てる。 「土方さん・・・、雄之真は藩の画策していることをすべてを承知で、京に上ってきたのだと思う。が、私はどんなことがあっても瀬口雄之真という男を信じている」 揺ぎ無い信念を秘めて、田坂の静かな、しかし断固とした声音だった。 いつのまにか吹き始めた北風が、閉じられた室に入り込めぬのを不満のように、障子の桟をかたかたと鳴らした。 事件簿の部屋 冬陽(六) |