冬 陽 (六) これから外せない用事があるので、急いで屯所に戻らねばならないという土方と、浩太を見舞いたいと言い出した総司は田坂の診療所で別れることになった。 一緒に戻らない自分に土方は少しばかり不満そうだったが、敢えてそれを見ぬ振りをして、総司は玄関まで送った。 「いい加減に機嫌を直せ」 想い人のいつもと違う様子がどうにも心に残るようで、玄関の敷居を跨ぐ前に土方が総司を振り返った。 「・・・機嫌など、悪くはありません」 だが応える声は、言い当てられて正直に狼狽を隠せなかった。 「黙っていたことを、まだ怒っているのか?」 些か諦めに似た溜息をつきながら、土方はこうなると頑なまでに口を閉ざしてしまう総司の顔を見た。 そんな土方の眼差しに合って、総司は慌てて視線を逸らせた。 胸にわだかまるのは、知らされていなかったことではなく、土方の全てを知り尽くしても、尚貪欲に縛り付けておきたい、己の中にある醜い部分を垣間見てしまったからだった。 だがそれを土方に告げることはできない。 「田坂さんに類が及ばなければ・・それでいいのです」 思い切って土方に笑いかけた顔が、微かに憂いを残していた。 そんな想い人の心の裡にあるものが何なのか、自分が黙っていた事への責めだけではないものを感じつつも、時が経てばいずれ分かることと信じ、土方はそれ以上の詮索を止めた。 「遅くならないうちに帰って来い」 「分かっています」 応えた声音は、もういつもと変わらぬ屈託の無いものになっていた。 総司を案内してくれたキヨが去ると、水梨浩太は横にしていた体を不自由そうにしながらも何とか起こした。 「どうか横になっていて下さい」 「・・・いえ、もう痛みもそれ程無いのです」 慌てて止めようとした総司の手を静かに外すと、まだ色は戻っていない精悍な顔に、水梨浩太は照れたような笑いを浮かべた。 そうしていると運び込まれた当初に感じたものよりも、余程に人懐っこい印象を与える。 その笑顔につられて、総司も肩に入っていた力を抜いた。 「貴方さまにはどうにもお世話になってしまい、申し訳のないことです」 「頭を上げて下さい・・私は何もしてはいないのです。全部田坂さんが・・」 実直そうに頭を下げた男に、総司は戸惑って応えを返した。 田坂を手伝うつもりが自分は何の役にも立たずに、それどころか眠ってしまい、気付いた時には夜も明けようとしていた。 思い返しただけで顔が紅くなる。 「いえ、私を運んでくれた貴方さまのことは良く覚えています」 思いもかけぬ方面への礼だったことに、総司は伏せかけていた顔を上げた。 あれだけの傷を負い、ほとんど意識は無いと思っていた浩太は、薄暗闇の中で自分の顔かたちを覚えていたのだろうか。 だとしたらこの目の前の男は、尋常では無い強靭な精神力の持ち主なのかもしれない。 否、或いはそこまでして他人を警戒しなければならない理由が何かあったとしたら・・・。 総司は迷わず後者の憶測に合点がいった。 「・・・あの」 「何でしょうか?」 浩太の様子に構えるものはない。 「瀬口さんと言う人はどうしているのでしょう」 一瞬躊躇った後、総司が思い切ったように口を開いた。 「はぐれてしまいました」 呆気にとられる程、浩太は少しの動揺も見せずにすぐに応えを返した。 「・・・はぐれた?」 「雄之真様の供をして京に来たその日に、些細な喧嘩に巻き込まれてしまいました。町方の役人達に絡まれればとんだ厄介事になります。共に騒動の喧騒に紛れて身を隠そうとしたのですが・・・情ないことに私は油断し、こうして傷を負ってしまいました」 「それではそのまま?」 浩太は険しい顔で頷いた。 「雄之真様とは、もしもはぐれたら五条にあるこの俊介様の家で落ち合うことにしたのですが・・・未だ」 流石に瀬口の身を憂慮して、浩太の声が低くなった。 膳所藩が瀬口雄之真を、すでに病死している人間だと言っている事実を、この浩太は知らないのだろうか。 それにしても浩太の話を聞いていれば、今朝土方が言っていた事柄が現実味を持って蘇る。 土方は雄之真と浩太が田坂の家を探し当てておきながら、それを隠していたと言っていた。 確かに上ってきたばかりの不案内な土地で、いきなり知るはずも無い田坂の家を落ち合い場所に決める筈が無い。 だがその疑惑を今むやみに言葉にすれば、余計に収拾のつかない混乱を招きそうで、総司はそれ以上この話題に触れるのを避けた。 「浩太さんは田坂さんとは昔からのお知り合いなのですね」 敢えて話題を他に持ってゆくように笑いかけた総司に、浩太の顔も綻んだ。 「昔からの・・・と言われるのならばそうかもしれません。ですが雄之真様も私も俊介様とお会いするのは本当に久しぶりのことなのです。いえ・・・雄之真様はまだお会いできてはいませんが」 語尾に主の安否を懸念する憂いがあった。 「田坂さんは瀬口さんと剣術でも良い相手だったのでしょうか?」 浩太の胸にあるものを取り除き様が無いが、せめて紛らわせるように総司は明るい口調で問うた。 だがこの問い掛けの先には、己も剣を握る者としての、尽きない興味があったのかもしれない。 「互角・・・と私などは見ておりました。ですが雄之真様は、いつか俊介様は自分よりも遥かに上を行く技量の持ち主だと、常々そう言っておりました」 「田坂さんが・・?」 瞳を一杯に見開いて、驚いた様子を隠しもしない総司に、初めて浩太が声を出して笑った。 が、それが傷に触わったようで、微かに顔を歪めた。 「俊介様にあのような不幸が訪れねば・・・」 それをものともせずに、更に先を言いかけた浩太が、改めて気付いたように総司を見て口を噤んだ。 「大方の事は田坂さんから聞いています。田坂さんのお父上の事も、兄上の事も・・何故京に来たのかも・・・」 今そう告げることが、浩太の気持ちを安らげる唯一の術だと総司は判断した。 だが言葉を掛けながら、田坂の過去を他人に話す事を躊躇する浩太に、総司は密かに胸をなでおろしていた。 それは浩太にとって、田坂が慕わしい大切な存在だという事を意味している。 浩太と瀬口雄之真に何があろうと、少なくともこの二人は田坂の敵ではない、それはある種総司の確信のようなものでもあった。 「そうでしたか、貴方さまは何もかもご存知でしたか」 浩太も又、総司の思いが同じ在り処にあったことに、安堵したようだった。 「私は沖田といいます。どうかそう呼んで下さい」 「これは・・・・、私こそ名乗る事を忘れていました。私は水梨浩太と言います」 笑った顔が、初めてそこに陽が射したような明るさを伴った。 その後他愛も無い雑談に時を費やし、あまり長く居ては病人を疲れさせると、総司が浩太の室を辞したのは、土方と別れてかれこれ半刻は経とうとしていた。 浩太は自分が傷を負い田坂の処にやって来たその経緯(いきさつ)を、些細な喧嘩に巻き込まれ、大よその場所だけは知っていたお陰でどうやら辿り着けたのだと、終始それに徹する事で終わらせた。 それが偽りだと知りながらも、総司も敢えて問い質す事はしなかった。 「沖田はん、いやお帰りにならはるんどすか?」 歩いていた廊下と並行に連なる障子が突然開いて、キヨが顔を出した。 手には白い晒(さらし)を山ほど抱えている。患者の傷に施すものなのだろう。 「・・・すみません。長居をしてしまって」 「そないなこと構ましまへんわ。けど一緒に晩御飯食べてゆかはったらええのに。キヨが腕を振るいますよって」 「それは嬉しいのですが、今日は帰らないと土方さんにそれこそ叱られます」 「土方はんは怒らせておけばよろし」 断言するようなキヨの口調に総司が笑った。 「残念だけれど、叉今度ご馳走になります」 このままキヨの勢いに呑まれたら、今晩も又泊まってゆけと言われそうだった。 「沖田はんは素直すぎますのや。けどまぁ仕方がありまへんなぁ。沖田はんが叱られはったらキヨも切のうおす」 まだ楽しそうな会話の中にいる二人に、遠くで田坂のキヨを呼ぶ声が聞こえた。 「あ、引き止めてしまって・・キヨさん、早く田坂さんの処に行かないと・・」 「若せんせいも勝手に苛々してたらよろしいおすのや。忙しゅうて、てんてこ舞いゆうても師走はどこにも行ってはくれへん」 憎まれ口をたたきながらも、キヨは声のした方が気がかりらしく、ふくよかな体を向けかけた。 「沖田はん、帰るんやったらどこぞに寄り道なんかせんと、早ようにお帰りにならんといけませんえ。日が暮れるのはあっという間やし、風も冷とうなりますからなぁ」 「はい」 声に堪えきれないような笑いを含んだ総司の素直な返事にキヨは満足そうに頷くと、又掛かった田坂の声に返事を返しながら、今度こそ慌てて背を向けた。。 いつの間にか庭の潅木の陰が、廊下の裾から出ている縁のすぐ下まで、細長く伸びていた。 師走と言うものは日暮れまで急かせるものなのかと、総司はそんな風流に一瞬浸った自分の可笑しさを、声に出さずに小さく笑った。 いつもは五条の通りに出て、加茂川を過ぎてから南へ下り屯所へと戻る道を、総司は田坂の診療所を出るとすぐに、今日は川を渡る前に七条まで出ようとしていた。 しかもわざと込み入った細い路地を選んで歩く足も、いつもよりはずっと遅い。 付けられている・・・というよりも、すでにその人物は田坂の家を出てくる自分を待っていたとしか言いようの無い程に、無防備に気配を消そうともしない。 水を渡ってくる特有の吹きさらしの風が頬に当たり、もう川原が近いのだと思わせる、人通りがすっかり途絶えた処にまで来ると、総司はふいに足を止めくるりと後ろを振り返った。 「瀬口さんですね」 「もっと早くに声を掛けられるかと思ったが・・・」 ゆっくりとひと言ひと言確かめるように語り掛けた総司に、後ろの人物は殺気の欠片すら感じさせず、むしろ頬に穏やかな笑みを浮かべて応えた。 「人影は少ない方が良いと思いました」 「気を遣って頂いた訳か」 つられて笑う総司の言葉に、瀬口雄之真が今度こそ破顔した。 決して人当たりが良い風貌だとは思えない。 むしろ滲み出る剛毅な厳しさは、場合によっては対する者に威圧感すら感じさせるだろう。 が、今総司に向ける笑い顔には、驚く程気構えるものが無い。 「お聞きになりたいのは、浩太さんの事でしょうか?」 そんな雄之真に臆する事無く、総司は思っていた事をそのまま問いかけた。 「ずいぶんと率直なご質問だ」 「いろいろ見えない事ばかりで・・・、できればこれ以上混乱させたくは無いのです」 浮かんでいた笑みが消え、すぐにそれに代わって黒曜石の深い色に似た瞳に、真摯な色が湛えられた。 「混乱させる・・・とは、俊介の事を言われるか」 総司は黙って頷いた。 遠藤の横死から始まるこの度の件は、総司にとってまだひとつも解かれるものが無い。 むしろ覆い始めている霧は、ただ濃く重くなって行くだけだった。 そして全ての事柄が、否応無しに田坂に係わってくる事だとしたら、何としてもそれを防がなくてはならないと、総司は思っている。 だが瀬口雄之真は何を語らずとも、言葉の奥底にある憂慮を分かってくれたようだった。 「俊介には迷惑を掛けられん」 強く言い切った声音には、総司に応えるというよりも、むしろ己に言い聞かせるような響きがあった。 「ですが田坂さんは、自分の意志と関係なく、その渦中に引きずり込まれようとしている」 「中々に手厳しい意見だ」 「貴方がそうしているのだとは思いません。ただ・・・」 「ただ?」 一瞬瞳を伏せかけた総司の軽い逡巡を気付きながら、敢えて瀬口はその先を促した。 それは総司と云う人間を探る、瀬口雄之真という男の賭けでもあった。 「もう田坂さんを過去に引き戻して欲しくはないのです」 田坂の為に、怒りともつかぬ感情を直截にぶつけて来る若者に、瀬口は目を細めた。 射していた冬の陽がふいに翳った。 よく晴れ渡った空にあった天道が、行く先を定めぬように流れて来た雪雲に隠れたのだろう。 駆け足で往く歳を追う喧騒が届かぬような静けさの中で、ただ吹き抜ける風が頬を凍てつかせる程に冷たい。 「・・・浩太は何か言いましたか」 「何も・・・。瀬口さんと京に来てすぐに些細な喧嘩に巻き込まれて怪我をしてしまったのだと・・。それで瀬口さんとも離れ離れになってしまったと、そう言われました。けれどそれだけで無い事は私にも分かります」 総司は一旦そこで黙し、続けようとしていたその次の言葉を、果たして言って良いものかどうか胸の裡で自問したが、今一度瀬口雄之真を見ると思い切ったように口を開いた。 「遠藤さんをご存知でしょうか。・・・いえ、知っている筈です」 偽る応えを許さぬ強さが、総司の声にあった。 「遠藤主計・・・膳所藩の人間だった、つい先日までは」 「・・・やはり。何もかも知っていたのですね」 総司の中に、外れて欲しかった確信を言い当てられた落胆が重く広がる。 「俊介には全く関係の無いこと。だがもし万が一にも災いが俊介にも及ぶような気配を見せたのなら、私はこの身を以ってそれを阻害する・・・こうして初めて言葉を交わした人間が何を言うのかと貴方は言うだろうが」 瀬口の応えは激しいとも思える決意とは裏腹に、気負う事無く、むしろ淡々としていた。 「必ず?・・ですが、その保証はどこにあるのです」 信じても良い人間だと思った。 だが敢えて総司が問い詰めたのは、胸の裡を覆う不安の方が遥かに大きな所為だった。 空手形でもいい、少しでも沢山の約束が、今田坂の為に欲しかった。 「保証というのならば、私を信じて貰う他はない」 総司の挑むような強い視線を受けて、少しも逸らす事無く瀬口の声はやはり静かだった。 息を詰めるような沈黙の中で、やがて小さく吐息したのは総司が先だった。 「信じなければならないのでしょう・・・きっと。田坂さんならそうする筈だ」 瀬口に笑いかけた総司の頬に、後ろから吹きつける風が、束ねた髪の幾筋かを前に浚い乱れさせた。 「俊介は、京で良い友人を持った」 瀬口の言葉には、自分と同じ思いを持つ者への慕わしさがあった。 それは田坂の今を喜んでいる瀬口の、紛れも無い真実の言葉だと総司も知ることはできた。 瀬口にとって、否、田坂にとっても互いは、未だ変わる事の無い親友なのだろう。 「浩太さんは無事です。傷は浅くはありませんでしたが、もう心配はいりません。瀬口さんの事を案じていました」 総司は漸く話題を本来のものに戻した。 もうこれ以上警戒をする必要は無いと、遠回りした末に下した判断だった。 瀬口の眼差しが、今までとは違う緩やかさに変わった。 きっと無事と信じつつも、離れて後ずっと浩太ことだけを気がかりにしていたのだろう。 「かたじけない。それだけを聞けばもう貴方にご迷惑を掛ける訳には行かない」 「・・・・けれど、相手はそうは思ってはくれていないようです」 総司は戸惑ったような笑みを瀬口に向けた。 自分たちを取り巻き始めた人影に気づいたのは、瀬口と話し始めてすぐのことだった。 人数は案外に多いかもしれない。 総司は全ての神経を集めて、気配でそれを数えようとした。 「申し訳ないが、巻き込む事になってしまったようだ・・・。血の気だけは多いが道理の分からぬ者達ゆえ・・」 瀬口の声音が憤りを含んで忌々しげだった。 が、その表情に感情の起伏がもたらすものとは異なる歪みが一瞬走ったのを、総司は見逃さなかった。 「瀬口さん・・、もしかしたらどこか怪我をなさっているのですか?」 それは錯覚とも、その人間の癖とも思える程微かな兆しだったが、ともすれば先ほどから左肩が落ち具合になる瀬口の様子を訝しげに見ていた総司には、すぐに確信に変わった。 「・・・流石は新撰組の沖田殿。なかなかに鋭い。が、ご心配頂くような大した傷では無い」 瀬口の低い苦笑と共に漏れた言葉に、総司の瞳が見開かれた。 「お名前だけは、存じていた」 その様子を見て、瀬口が愉快そうに笑った。 「どうか怒らないで頂きたい。訳あって知らねばならなかった」 「それは・・・」 「俊介とは無縁のこと」 総司の憂慮を一息で払拭するように、瀬口が先に応えた。 「沖田さん、貴方の腕は噂に聞いている。そして多分その通りだという事も、こうして貴方と居ればすぐに分かる事。が、迷惑を掛ける訳にはゆかない。奴等は私だけが狙いだ。どうか逃れて欲しい」 「それは私が係わる事が迷惑だということでしょうか?」 「左様。この件、瀬口雄之真のみが知らねばならぬこと」 総司に向けた双眸が、強い意志に裏づけされ、介入を許さぬと告げていた。 肌に触れる風がいつの間にか冷さを通り越して、触るもの全てを凍らせるような厳しいものになっていた。 傷は多分浩太と同じ時に負ったものだろう。 瀬口はこうして対峙している今も、どこにも構えを見せずごく自然体でいる。 が、だからと言って踏み込もうとすれば、きっとそうはさせない。 瀬口に後を付けられ始めてから、隙というものが僅かにも見出せなかった。 この目の前の人間が、並外れた剣の技量の持ち主であることを、総司は瞬時に悟っていた。 その瀬口に傷を負わせるほど、敵は強かったのか、若しくは捌ききれぬ程人数が多かったのか・・・或いは遠藤か、深手を負った浩太を庇うのに気を取られたか・・多分一番最後だったのだろうと総司は思った。 だがそれについての詮索は、直ぐに断ち切らなければならなかった。 何であれ傷を負った瀬口が、一人で多数の敵に囲まれるのは危険すぎる。 今はこの状況を如何に打破するかだけを考えねばならなかった。 総司は一瞬にして思考を巡らせると、躊躇う事無く己の出した結論に従った。 「瀬口さん、私について来て下さい」 囲んでいる人間たちの殺気は先ほどよりもずっと強い。 いつ仕掛けてきても不思議ではない。 そんな時にあって、総司が突然に何を言い出したのかその意図を計りかね、瀬口は沈黙した。 「逃げるのです」 「何を馬鹿なっ」 間髪をおかない応えから迸った声にあったものは憤りだった。 「一緒に来て頂けないのならば、浩太さんは新撰組が預かります」 睨みつけるようにして言いながらも、これが総司の精一杯の嘘と虚勢だった。 今の瀬口で戦える筈が無かった。 人数が多ければ傷を負っている瀬口には早く限界が来る。 自分ひとりで闘うのならばまだしも、そんな瀬口を庇って大人数を相手にするには分が悪すぎる。 そして何より、総司には自分が、或いは田坂がこれから係わろうといている事柄の全容が、全く見えていないという不安があった。 それがすべて分かるまで、田坂に類が及ばないと見届けられるまで、自分はこの瀬口を守りきらなければならないと、それが総司の唯一の結論だった。 「言う事を聞いて頂けますね」 すでに一刻の猶予もできなかった。 総司は物言わぬ瀬口の意志を無視すると、右の腕を掴んだ。 僅かに躊躇う素振りを見せはしたが、以外にも瀬口はそれ以上は抗わなかった。 この鋭利なまでに研ぎ澄まされた感覚を持つ男には、総司の懸念は通じたらしい。 瀬口自身にも、まだここで倒される訳にはゆかないという事情があるのだろう。 「川原に下り、そのまま走り抜けます」 短く告げた時には、総司は瀬口を伴って走り出していた。 背中で一瞬の隙を突かれたどよめきが、すぐに後を追う殺気と足音に変わった。 それに振り向きもせず、そのまま滑るように土手を下り、荒涼と風が吹きすさぶ川原を、総司と瀬口はただひたすらに川上に向かって走り続けた。 土地勘は総司にあったようだった。 どの位走り続けたのか、追ってくる足音がまばらになり、やがて気配すら感じなくなったのに気づく余裕を持てた時には、賑やかな人の声も川原の上から聞こえてきていた。 垂直に、行く手だけに向けていた視線を少し上げると、そのすぐ先に川に掛かる大橋がある。 どうやら五条に架かる橋らしかった。 それを視界に入れて、総司は漸く足を止めた。 体ひとつ開けた距離を、全く崩す事無く後ろに続いて走っていた瀬口もそれに合わせた。 声も出すことの出来ない荒い息の総司だったが、それでも後ろを振り返り瀬口に笑いかけた。 瀬口はさほど息を乱してはいない。 「・・・奴等・・諦めたか・・」 辺りを探るように一瞥して呟き終わった時には、声すら落ち着いたものだった。 「・・ひとが・・」 沢山いる処に来れば目立つ行為はできない、そう続けようとした時に、ふいに総司の喉が鳴って軽く咳き込んだ。 「どうなされた?」 応えを返すにもままならず、すぐに止まると思った咳は、思いの他間断なく続き、今度は息を吸う事すら出来なくなり、やがて前かがみに身体を折らねばならぬ程に重いものになった。 「・・・沖田さん?」 慌てて薄い背中を摩る為に手を伸ばした瀬口の声に、怪訝と不審が交差していた。 咳が止んでからもまだ喉の奥が吹く笛に似た細い音を鳴らし、額は冷たい汗を滲ませ、錐で揉まれるような胸の痛みが襲う。 瀬口を安堵させる為の応えを返す事ができたのは、自分を苛むそれらの全てが治まるのを、じっと身動きせず漸くやり過ごしてからだった。 「・・・・すみません」 たったそれだけを、まだ瞳を閉じたまま小さく告げた。 「どこか具合が悪いのではないのか?」 まだ俯いている蒼白な顔は、とても尋常とは思えない。 「・・・久しぶりに・・・こんなに走ったから・・・」 やっと開いて向けられた瞳が、まだ苦しいであろう息の下から笑いかけていた。 「俊介との縁はもしや・・・」 口に出しておきながら、瀬口はその先を言葉にするのを控えた。 多分自分の勘に間違いはないだろう。 この若者は自分の知っている杉浦俊介の友人としてではなく、京で医者となった田坂俊介と縁を結んだのだ。 だとしたら一体何がこの若者の身体を内から蝕んでいるのか・・・。 だが似合わぬ感傷に一時でも捕われた自分を、瀬口は瞬時に切り捨てた。 「急ぎましょう・・・まだ追われる身には変わりはないのです・・」 そんな瀬口の思いを知る由も無く、総司は支えられて身体を起した。 が、その寸座、鳩尾から背に向けて鈍い重さが走り抜けた。 突然昏くなった視界の中で、油断したのだと思う前に、何故という思いが総司の脳裏を過ぎる。 だが瀬口にそれを問うよりも早く、総司の意識は闇へと引きずられて行った。 身に纏うもの全てを後ろに浚うような、強い川上からの北風に揺らされる、寄る辺無い葦のような頼りない身体が、一瞬堪えようと身を立て直したのも束の間で、すぐに力なく崩れるのを、瀬口は全部が地に落ちる前に両手で受け止めた。 先ほどまで苦しげな色を浮かべていた蒼い顔は、今は静かに自分の腕の中にある。 それが穏やかな安らぎからではなく、己の理不尽な暴力によるものであれば、胸に辛いものがあったが、今は一時でも私情に流されることはできなかった。 自分に慕わしげな瞳を向けてくれた若者の不幸を僥倖とせねばならぬ今の己を、瀬口は心裡で自嘲した。 背負う為に総司の脇に手を回した時に、滑るようにずり落ちた右の手の平が無防備に開いた。 それに見るとも無く視線を遣った時に、瀬口の眸が見開かれた。 僅かだがそこに朱の色が滲んでいた。 それこそがこの若者が内に宿している業病の、紛れも無い証だとしたら・・・ そして掌に残る鮮やかな色は、隣り合わせに在る死の翳りだとしたら・・・ 一瞬閉じた瀬口の瞼の裏に、医者になった親友の顔が浮かんだ。 友が守ろうとしていたのは、紛れも無くこの危うい命の絆だった。 再び目を開けたとき、微塵も動かぬ総司の様子に心もとない不安に襲われ、眠りにある唇近くに耳を寄せ求めたのは、確かにここに未だ生のある息吹だった。 それに辛うじて触れ、やがてひとつ安堵の息をつくと、瀬口は先ほどよりもゆっくりと総司の身体を起こし、己の背に負って立ち上がった。 土手の上から人々の喧騒が聞こえてくる。 真っ向から容赦なく吹き付ける風と、背にある人肌の温もりと・・・。 そんな全てが自分とは無縁のものだと、瀬口は今一度前を見据えた。 事件簿の部屋 冬陽(七) |