冬 陽 (七) 意識がはっきりと覚醒するより先に、無意識に動かした手の不自由な感覚が、総司を現(うつつ)に戻した。 「・・・・気がついたらしい」 聞き覚えのある声がどこからかした。 だが薄ぼんやりとした灯りの中に、その影は映し出されない。 下に触る冷たい感触は、どうやら畳のようだった。 視界に入るもので推し量る限りでは、家屋の中の室という造りを呈している。 旅籠というのでもなさそうだった。 それならば多少の人の気配は感じるはずだ。 だがそう言うものは全く無い。 今居るのは、瀬口と自分だけのようだった。 どこかの空家なのだろうか・・・ 先程聞えた声の在り処を知ろうとして、身体を動かした途端に鳩尾に鈍い痛みが走った。 呻くまでも無かったが、知らない内に顔を歪めたのだろう。 「まだ暫くは動かぬ方がいい」 すぐに叉後ろから声が掛かった。 「・・・瀬口・・さん・・?」 静かな、そしてゆっくりとした口調には聞き覚えがある。 多分そうであろう主の存在を、視界の中で確かめられぬまま総司は呟いた。 後ろ手に、手首を縛られているのはすぐに分かった。 横臥したまま返すこともできぬ身体を思えば、多分膝も足首もそうなっているのだろう。 自分が囚われている様子を探ろうと、いま少し意識をはっきりさせる為に無理に息を吸い込んだとき、それを押し返すように小さな咳が零れ落ちた。 身動きできぬままの姿勢で咽るような咳を遣り過ごそうにも、縄で拘束された胸は上下することすら許されない。 押さえ込まれた事を抗うように、突然喉の奥から込み上げるものがあった。 それをどうにか呑み込んで一度は鎮めたが、総司は次に己の身体を襲うであろう不吉な予感に震えた。 幾たびかの経験から得た、遣る瀬無い勘だった。 勘を確信に変える間も与えず、寸部の違(たが)いもなく、それは瞬時にやってきた。 もう押し戻す力は身体には無い。 否、無理に堪えようとすれば、この状況にあって壊れた肺腑から溢れ出た血は逆流し、喉を塞ぎ息を止めるだろう。 一瞬の躊躇の後、総司は大きく背を波打たせ、自ら堪えていたものの堰を切った。 「大丈夫かっ」 瀬口の鋭い声が掛かった。 だが少しでも楽にしてくれようと、咄嗟に手を伸ばし背を摩ってくれる行為は、総司の唇から流れ落ち顎を伝わる朱の色を止めるのに、何の役にも立たなかった。 「・・・大丈夫です」 どの位の時を経たのか、漸く微かに言葉に出来たのは、咳も治まり、大きく荒いでいた息がようよう鎮まってからだった。 喀血は思った程酷くはなかったようだった。 息苦しさと胸の痛みは治まらないが、幸いな事にいつも直後に襲われる、目の眩むような感覚は無かった。 現に自分はこうしてはっきりと意識を保ち、瀬口の憂慮を慰撫することができる。 それが総司に余裕を与えた。 「大丈夫ですから・・」 言い終えぬうちに、背後で瀬口が動く気配がした。 それを追う気力は流石に無く、とりあえず今我が身を苛むものをやりすごそうと目を瞑りかけた時に、ふいに胸の辺りが自由になった。 解かれたのは上半身の縄だけだったらしいが、それでも二の腕と肘を解放されればずいぶんと姿勢が楽になる。 胸に食い込んでいた戒めから解放され、総司は大きく息をついた。 「手荒な事をしてすまぬ」 後ろから支えられて身体を起こされ、初めて瞳に映すことのできた瀬口の面に苦渋の翳りがある。 だがこの理不尽な状況に何と応えて良いものか、総司は言葉を選びかねて黙した。 閉じられた唇に滲む朱の色を、瀬口は己の懐から取り出した懐紙で拭った。 されるがままになりながら当てられた紙のそれは、決して触りの良いものではなかったが、瀬口の気遣いが総司の胸に温かかった。 「飲むことができるか?」 口元近くに持ってこられた湯呑みの中身は、思いもよらず塩の水だった。 「血止めになる、嫌だろうが飲んだ方がいい」 塩水を唇に当てられると、口の中に残ってた血の匂いが一気に湧き返り総司は顔を背けた。 「気休めだがそれでも飲まぬよりはましだろう。あとで俊介に文句を言われるのも困るしな」 田坂の名を聞いて、総司が視線を瀬口に移した。 「貴方には申し訳の無い事だと思っている。だが今しばらくこうしていて貰わねばならぬ。何も危害を加えるつもりはない」 「・・・それにしては・・、乱暴な足の留め方です」 「どうにも人間ががさつに出来ているようですまない」 まだ頬に血の通う色は戻らぬが、それでも薄く浮かべた笑みに、瀬口も声には出さずに苦笑した。 そのまま、今度は有無を言わせず流し込まれた塩水は、残り血で乾いた口腔から喉を伝わり、全部を飲み終えたとき総司は大きく息をついた。 それを見届けると、瀬口は今一度総司を静かに横たえた。 「・・・縄を解いては貰えないのでしょうか」 「二日だけ辛抱してほしい」 「ふつか・・・?」 「新撰組に手出しをされては些か困る」 「私は人質ですか?」 「そう言うことだ。こんな事はしたくはなかったが、どうやら切羽詰ってきた」 瀬口の物言いには、己の成している事への自嘲があった。 総司の脳裏に、別れしな自分の様子を持て余して困惑していた土方の顔が浮かんだ。 帰らない自分を、今頃土方は案じているだろう。 それを思えば、ただ心配を掛けるだけの自分の情なさが、遣る瀬無く胸を覆う。 「どこか苦しいところが?」 ふいに寡黙になった総司に掛かった瀬口の声は、真から案じてくれているものだった。 だが瞳を伏せたまま、総司は黙って首を振った。 油断し捕われ、挙句の果てに自分が他人に一番見せたくない醜態までをも晒してしまった。 それも総司の心を頑なにする。 「・・・こんなことには慣れています」 困ったように見る眸に微かに笑って返した応えが、瀬口への慰めなのか、せめてもの強がりなのか、総司にも分からなかった。 「俊介の診立ては良いのだろうか」 一瞬流れた気まずい沈黙を振り払うように、瀬口が尋ねた。 「信じています」 間髪をおかず、瀬口を見上げて総司が応えた。 「あいつは良い患者に恵まれたようだな」 瀬口の言葉には親友を揶揄しながらも、大切な人間を誉められた嬉しさが滲んでいた。 本当にそれを喜んでいるのだろう、総司に向けた双眸が柔らかく和んでいた。 「田坂さんは瀬口さんの事を案じています」 そんな瀬口に触れて、総司の言葉にももう何の飾りもなかった。 「あいつはそういう奴だ。今度も遠くで息災な姿を見て、俺が京に来た事など知られぬ内に終わる筈が、浩太の事でとんだ迷惑を掛けてしまった」 浮かべた笑いは、唯一それを悔いているように苦いものだった。 「・・・会うつもりで・・田坂さんの処に行ったのではないのですか?」 総司にとっては半ば予期し、半ば意外な事実だった。 土方は地理に不案内な浩太が傷を負いながらも、訪れた事の無い田坂の診療所に来た事自体、すでに二人が幾度か足を運んで場所を承知していた筈だと言っていた。 そしてそれを裏付けるように、今瀬口は田坂には会うつもりは無く、姿を見に行っただけだと告げた。 「あいつの姿を、一目見ることができればそれで良かった。・・・それ以上はもう望むべくもない」 「・・・どういうことです」 呟くように漏らした語尾から、瀬口が思っている事柄をおぼろげに察し、総司はそれを確かめる為に強く問い質した。 が、問い掛けながら自分が辿り着いた予想に、今総司は愕然としている。 もしも自分の思った事が外れていなかったら・・・・ 否、多分それは十中八九当たっているのだろう。 瀬口は死ぬつもりなのだ。 不吉な憶測を否と拒んでくれる応えを待つ身には、僅かな時も果てなく続くように長い。 「・・・・俊介の兄に、貴方は良く似ている」 凍りついたような瞳で、瞬きもせずに自分を見ている総司への応えを、そんな言葉で瀬口は返した。 「田坂さんの・・・亡くなられたという兄上のことでしょうか?」 田坂の親友と言うこの人間ならば、全てを知っているだろうと思ってはみても、それでも総司はその兄を話題にすることを躊躇った。 「そう、杉浦兵馬殿と言われた。穏やかで、もの静かな良く出来た人だった」 「それでは私とは似ていない」 「さて、貴方の中身は知らぬが」 殊更明るく言い切った総司に瀬口も低く笑ったが、すぐにその面は何かを思って厳しく締まった。 「兵馬さんにも、杉浦の伯父上にも・・・、そして俊介にも詫びてすむことではないが・・・」 「・・・詫びる?」 「いや、昔のこと・・・とうに過ぎたこと」 瀬口の呟きはほんの一瞬、過去へと意識が捕われ、我知らず漏れたものだったらしい。 それが証拠に総司の訝しげな視線に応える言葉に、つい見せてしまった己の失態を悔いているような、微かな逡巡があった。 「それよりももう休んだ方がいい。ちゃんと布団を敷いて身体を楽にさせてやりたいが、今はこれで辛抱して欲しい」 言い置いて立ち上がり、室の隅にあった掻い巻きを取ってくると、総司の顎のあたりまでそれを掛け、自分はそのまま刀を抱いて壁に凭れた。 きっとたった一枚しか無いそれを自分に譲り、瀬口自身は着ているものだけで夜の冷気を防ぐつもりなのだろう。 自分の問い掛けに何ひとつの応えも返さず、むしろ全てを遮断するに会話を切り上げた瀬口に、総司は諦めの息をついた。 「生憎下が畳では暖も取れまいが・・それでも無いよりはましだろう」 「贅沢な人質です」 「大切な人質だからな」 冗談とも本当ともつかぬ言葉に、総司が小さな笑い声を立てた。 いつものように喀血の後の軽い発熱に、背筋に悪寒が走り始めたのを感じていた。 時折は気が遠くなるような感覚が襲う。 それでも胸に掛かる心地よい重みと暖かさが、総司には血を吐いた自分を労わってくれる瀬口の、掛け値ない思いやりのように思えた。 だが温もりはそのまま人肌の恋しさにもつながる。 土方はどうしているだろう・・・・。 自分の事を案じ、苛立ちの時を過ごしているのだろうか・・・。 一度その方向に思いを馳せれば、会いたい人間への切なさだけが胸に込み上げる。 「どうした?どこか苦しいのか?」 急に沈み込んだ総司の様子に、瀬口の顔が憂色を漂わせている。 「・・・何でもありません。今何刻くらいなのでしょうか」 「そろそろ八つを聞く頃だと思うが・・」 「やつ・・」 最後の記憶にあるのは夕暮れの情景だった。 あれからすっかり日は沈み、外はもう深閑と夜の闇に包まれているのだろう。 「私がこんな事になっている事はもう・・」 「新撰組には伝わっている筈だ」 囚われている事を知れば、土方の心痛は現実のものとして、更に深くなっているだろう。 総司は固く目を瞑った。 弱気になりかけた自分を叱るように再び瞳を開いた時、ふいに過(よ)ぎる疑問があった。 「瀬口さん・・・」 掛けた声に、どうでも分からぬと言う風な戸惑いがあった。 「何か?」 「私を拘束していると新撰組に伝えることは、逆に浩太さんの身柄を囚えられることになる」 総司の瞳に宿った勝気な色に、瀬口が苦笑した。 「浩太のことはもういい」 「もういい・・って・・・、どういう事なのです」 思い掛けない応えに、総司の方が狼狽した。 「浩太はもう十分に苦しい思いをしてきた。これ以上俺と一緒にいて過去を引きずる生涯を送る必要は無い」 瀬口の口調はむしろ淡々として、だがそれがこの男の堅い決意の裏返しのようにも聞える。 「浩太が無事と知れば案ずる事はひとつも無い。・・・浩太を俊介の元にやったのは正しかったらしい。あいつは確かに腕の良い医者になったようだ」 最後は総司にではなく、そこにいる筈の無い田坂に向かって語りかけるように、瀬口は穏やかに目を細めた。 「瀬口さんは・・・」 一度ははぐらかされた、予感というには重過ぎる確信に再び襲われ、しかし総司はそれを最後まで言葉にできずに途中で口を閉ざした。 「行灯の灯を消そう・・・・明るくては休めまい」 そんな様子を承知の上で、更に応えを返すことを強く拒むように瀬口は立ち上がると、瞬きもせずに見上げている総司の横を無言で通り抜け、油に浮いていた焔に静かに息を吹きかけた。 突然襲った闇は、又しても瀬口の心も姿も、全てを総司から隠し、終いを掴み損ねた無言の静寂(しじま)だけが辺りを支配した。 「田坂さんの処で、すでにつけられていたのか・・・」 先ほどから厳しい顔を崩さない土方に、伊庭八郎は念を押すように問うた。 「・・・多分な」 応えた声が苛立ちと憤りを堪えて、唸るように低い。 あの時総司が拘ったのは、自分には何も知らされていなかった事への不満だけでは無いと感じながらも、それを最後まで聞いてやることなく先に帰って来てしまった。 その後囚われた想い人の身を思えば、後悔だけが激しく己を責め立てる。 「総司は無事なのか」 それを一番に聞きたかったのだろう。 土方から深夜の連絡を受け、すぐにこの屯所にやって来た八郎の声に、いつもの余裕が無かった。 「無事だ」 強く断言したのは、そう信じることだけしか土方には選ぶ道がなかったからだった。 「相手は瀬口雄之真か」 八郎の問いに、土方が頷いた。 「隠しもしない」 「名乗っている訳か・・・」 「二日の後には必ず返すと言っている」 「信じているのか」 「信じる他あるまい」 それが瀬口雄之真という人間に対するものか、それともとっくに捨てた筈の神仏に対するものなのか・・・今は縋れるもの全てに腕を伸ばしたい土方だった。 「だが瀬口も、浩太という人間がこちらの手中にあると言う事は知っている筈だろう」 八郎の言葉は最後の希(のぞみ)を繋ぐように、急(せ)いた口調で告げられた。 「水梨浩太という者、当方の預かり知らぬ者・・・そう書いてあった」 「見捨てると言うのか・・・」 危ういまでに脆い糸を、目の前で断ち切られた焦燥が、八郎に思わず身を乗り出させた。 「それが真実だとは思わん。だが総司を拘束することによって、互いの駆け引きの均衡は作られた」 「どんな無理を言って来た」 忌々しげに、吐き捨てるような八郎の声だった。 「二日・・・新撰組は何が起ころうと動くなと」 「動くな?」 「何をやろうとしているのか分からん、何が起きるのかもまだ予測もつかない。だが確実に二日の内に何かが起きる」 宙を見据えた土方の目が、その先にあるものを睨みつけるように細められた。 「・・・相手は膳所藩か」 土方は口を閉じたまま、首だけを横に振った。 「表向きは違うだろう。藩としての問題ならば、新撰組だけに動くなという要求は突きつけまい」 「では内部の事情か」 「多分・・・関わりがあるとすれば、その後も探索を続けている遠藤主計から繋がる事だ」 外の風が強いのだろう。 声が漏れるのを危ぶみきっちりと閉めたつもりの襖の、ほんの僅かな隙から入り込む風が、灯した火を時折横に揺らす。 「伊庭、お前を呼んだのは頼まれて欲しい事があったからだ」 宙に据えられていた土方の双眸が、まっすぐに八郎に向けられた。 「水梨浩太の身を捉えていて欲しい」 言葉は、今まで八郎に語って聞かせた時すら惜しむかのように、性急に告げられた。 「田坂さんの処で見張れと言うのか?」 土方は顎を引くだけで頷いた。 「新撰組は表向き二日の間、動く気配を見せられない」 「人質の確保か・・・」 八郎の呟きは、それが田坂に類が及ぶ事を一瞬懸念した風だった。 「・・・相手が、総司の病の事を言って来た」 土方の顔が最も苦しい処に触れて歪んだ。 「瀬口がか・・」 腕を組んで考えるようにしていた八郎が、弾かれたように顔を上げた。 「それ故手荒な真似をしたくはないと」 語尾は唸り声になり、地を這うようにくぐもった。 「このとおりだ」 低く頭を下げる土方を、八郎は暫し黙って見つめている。 総司がどういう過程で瀬口と接触を持ち、連れ去られたのかは定かではない。 だがそう易々と敵の手に陥るとは想像できない。 だとしたら・・・ 振り払おうと思えばそれを嘲笑うように八郎の胸に重く圧し掛かかるのは、総司の身体に何らかの異変が起こったという、不吉な推測だった。 躊躇っている暇は無かった。 今は唯一人、想う人間のためだけに、全てを切り捨てねばならなかった。 「俺は動く」 やがて静かに土方の耳に届いた声には、それを邪魔するものは、例え何であれ許さないという強い響きがあった。 顔を上げた土方を、八郎は真正面から見据えた。 「総司を探す。だが俺は俺の意志で総司を探すと決めた。新撰組のことは知らぬ」 立ち上がった八郎に、土方は目を閉じたまま応えを返さない。 「伊庭」 襖に手を掛けた八郎の後ろから、漸く土方の声が聞こえた。 いつの間にか目は開けられ、座したままの鋭い双眸が八郎を捉えていた。 「総司は俺が見つける、必ずな」 挑む視線は一寸たりとも逸れる事無く、八郎を射ている。 「どちらが先か、それも一興」 八郎の方頬に一瞬浮かんだ不敵ともつかぬ笑みはすぐに消え、背を向けるともう振り向きもせず、開いた襖が後ろ手で音無く閉められた。 ひとり残された、凍てつくような冷気の中で、土方は身じろぎしない。 視線だけを動かしたその先に、油紙で巻かれた瀬口雄之真からの書状があった。 そして八郎には告げなかった事実がそこにある。 書状と共に附されていたのは、血を拭ったあとの懐紙だった。 果たしてそれが何を意味するものなのか、土方には瞬時に察せられた。 瀬口雄之真は総司の状態を克明に綴ってきた。 そして懐紙の朱の色は、斬られて噴き出したものではなく、内から溢れ出たものであると知るのは、残酷な程容易いことだった。 「畜生っ」 押し殺しても敵わず、獣の咆哮に似た低い叫びは、体中からあらゆる負の感情を押し出すように発せられた。 田坂の診療所は真夜中とも言えるこの時刻にあって、流石に物音一つせずに静まり返っていた。 だが無礼を省みている暇は八郎に無かった。 堅く閉じられた門の脇に小さな潜り戸がある。 そこに急患が家人を起すのに使う為にか、木の叩き棒が吊るされていた。 迷わずそれを打って待っていると、暫くして玄関を開ける気配がした。 「夜分に申し訳ない、伊庭です」 内から声が掛けられる前に、八郎の固く厳しい声が闇を震わせた。 端座したまま、田坂はじっと動かない。 ただ目だけが、一点に据えられるようにして瞬きもしない。 どうすれば良いのか考えている風でもあり、八郎から知らされた事実に愕然と、まだ言葉を無くしている風でもあった。 そしてそれは多分後者なのだと八郎は確信した。 「瀬口雄之真の行方の手がかりは、今ここにいる筈の水梨浩太にしか分からない」 八郎の口調は焦れて早い。 「瀬口は二日待てと新撰組に言ってきている。それが何を意味するのか、果たして何が起きようとしているのか、それすら今は掴みきれていない。だが瀬口を信じる他に無いと、悠長に構えて動かぬ暇は俺には無い。・・・水梨浩太に合わせて欲しい」 らしからぬ性急な要求は、八郎の苛立つ心裡を現していた。 「・・・ひとつ疑問がある」 それまで何かを堪えるように、沈黙の中にいた田坂がやっと口を開いた。 「何故雄之真は沖田君を人質にしたのだろう・・・。そんなことをすれば浩太がこちらにとっても切り札になることは十分に承知の筈が」 「瀬口は水梨浩太の身は預かり知らぬことと、そう言い切っている」 「何をっ・・・」 田坂の声は憤りにも似て、言葉は短く放たれた。 驚愕に見開かれた双眸は、八郎が突きつけた現実を到底受け入れる事はできぬと拒んでいる。 「瀬口は決して水梨浩太を見捨てた訳ではない」 言葉の上面(うわつら)だけの事実を、八郎は否定した。 「田坂さん、瀬口は貴方に水梨浩太の身を任せたのだ」 「・・・では雄之真はやはり」 田坂の先ほどの衝撃は、その先を読んでいたものだった。 瀬口と浩太の、主従の関係を超えて結ばれた信頼の絆を知っている者ならば、見殺しにするとさえ受け取れかねないこの一文に籠められた、その裏にある真意を読み取ることは容易すぎることだった。 「そう、瀬口の本来の希(のぞみ)は、己の死に水梨浩太を巻き添えにしないことだ。だから貴方に託した。瀬口雄之真という男がどのような人間なのか、貴方なら知っている筈だ。瀬口はこれから起こる・・・いや、起こす何かで死ぬつもりだ」 田坂の胸の裡を読み取って、八郎は更にその先を続けた。 夜になって強くなった風が、閉め切った雨戸を乱暴に叩く。 それは時折うねるように建物全体を揺るがし、人の心の中にも、その勢いのまま吹き荒(すさ)ぶ。 「総司の身体には異変が起きている。最早躊躇はできない」 田坂の苦悩を見ながら、敢えて逡巡を断ち切らせるような、八郎の強い口調だった。 「一刻も早く総司を見つけ出さねばならない」 だが八郎の断言するような物言いは、瀬口自身をも救う事を、同時に意味していた。 「水梨浩太に会いたい」 今一度強く望んだ言葉は、今度は拒むことを許さなかった。 「分かった」 立ちあがったのは田坂が先だった。 水梨浩太の休んでいる筈の室の手前まで来て、ふいに田坂の足が止まった。 が、次の瞬間には、両腕を水平に伸ばして白い障子を左右に開け放っていた。 勢いのまま柱に叩きつけられた障子の桟が、乾いた大きな音を出して理不尽な乱暴を咎めた。 反対側にある雨戸がひとつ外され、そこに更に深い闇への入り口があった。 「・・・どこへ行った」 田坂の手にしている蜀台の灯影は、朧にも人の姿を映し出さない。 その横から滑るようにして室に入り込むと、八郎は素早く屈んで夜具に手を当てた。 「まだ温い」 見上げた眸が鋭かった。 「近くにいる筈だ」 浩太の負った傷が与える体への負担と、疎い筈の京の地理、それも目印となるものが全て闇にある今この時刻・・・それらを迅速に計算した田坂の判断だった。 「先生、どないしはったんです」 騒ぎが聞えたのか、キヨが駆けつけて来た。 「伊庭はんも・・・」 「キヨ、浩太がいない。どこか変わったところがなかったか」 目を丸くしているキヨに、たたみ掛けるような田坂の口調だった。 「浩太はん・・・いらはらへん・・・って」 まだ全部を把握しきれていないキヨは、吃驚したように漸く室の中を見回した。 「・・・どこ行かはったんやろ・・あないな体で・・」 「何か言っていなかったか。何でもいい。浩太に変わった処は無かったか」 田坂の必死の形相に、キヨは目を瞑って思考を集中させているようだった。 「・・・・ひるま・・」 焦がれるように待っている田坂と八郎に、記憶の欠片を繋ぎ合わせる作業に没頭していたキヨが呟いた。 「昼間どうした」 「そういえば昼間、ここから堀川は近いのか・・そう聞かはりましたわ」 「堀川?」 「へぇ。この近くの加茂川と同じように北から南へ流れる川がもう一つあったけれど、名前を忘れた言わはって・・・うちが堀川やろか言うたら、思い出したように、ああそうやて言わはりました。それでそこは此処から遠いのか・・言わはって・・。けったいな事聞かはる、思いましたわ。けどそのことが、えろう気になるご様子でしたわ」 キヨの記憶は語るうちに鮮明になってきたようだった。 言葉の最後は確信に満ちていた。 「遠藤主計の遺骸が見つかったのも堀川だった」 八郎の声がようやく何かを掴みかけて、逸(はや)った。 「伊庭さん、堀川だっ」 堀川のどこなのか、探す当てなど皆無だった。 だがあの川の湧きいずる源から、やがて海と交わるその終焉まで、全てを探しても見つけねばならぬものに、田坂も、八郎も共に走り出した。 事件簿の部屋 冬陽(八) |