冬 陽 (八)




先ほど渡りきった橋がどうやら加茂川に架かるものだということを、水梨浩太は段々に荒くなる息を堪えながら朧に察した。
負って間もない時の経過では塞ぎようの無い傷は、こうして一歩一歩進む度に口を開け、懐に手を遣れば巻かれた晒しの上から滑(ぬめ)るものがある。
それが朱の色をしたものであることは容易に知れる。
寝巻きにしていた薄い衣では、極寒とも言える冷気を到底凌げる筈もなく、すでに知覚というものは四肢に無い。
訳あって雄之真と潜伏していたしもた屋は、二条城が北に見える堀川の近くにあった。
例え這ってでも其処へ、雄之真の元へと辿り着かなくてはならなかった。


堀川の川原で繰り広げられた死闘で負った傷の深さを見て、雄之真は何かを決意したように、五条の田坂の診療所まで自分を運んだ。
置いて行く時に、今は俊介とも会う事はできないが、遅くとも二日の内には迎えに来ると、そう言った。
刻限は今宵だった。
が、雄之真は姿を見せなかった。
浩太の中に漠然とあった予感は、形を変えてそのまま現実になった。
別れしな、雄之真は自分に向かって、早く俊介に治してもらえ、そう言って安堵させるように笑った。
聞く者を返って不安にさせるような、潔(いさぎよ)すぎる声が今も消えずに耳に残る。

雄之真は、独りだけで敵と対峙するつもりなのだ。
だがその雄之真とて傷を負っている。
それは即ち、そのまま死の覚悟を意味する。


「・・・くそっ」
目に滲むのは思うように動かない己の体への苛立たしさか、置いて行こうとする雄之真への悔しさか・・・。
前かがみで、ついてゆかない足を気力だけで引きずるようにして進みながら、浩太は眸を見開いたまま、流れ落ちるものすらもう拭おうともしなかった。





「具合が悪いのか?」
そんなつもりはなかったが、漏らした息が苦しげに聞こえたのかもしれない。
掛けられている掻い巻きの端までやって来た瀬口に、総司は首だけを小さく振って応えた。
眠れぬ筈が無いと思っていたが、身体の不調はそれを許さなかったらしい。
いつの間にかまどろんでいたようだった。

「・・・熱いな」
そんな総司の額に手をやって、瀬口は誰に語るとも無く呟いた。
少量でも血を吐いた後は、いつもこんな風に身体の芯を熱が侵す。
それは辛抱して遣り過ごすことが出来るが、後ろで戒められている両手首と、足首に食い込む縄の痛みの方が辛い。

「俊介がいればな・・・」
誰に聞かせるともない呟きは、すぐに自嘲の苦い笑いに変わった。
「貴方にそうさせている俺が言えることでも無いが」
言いながら、脇の盆を引き寄せると、急須についであった茶を湯呑みに移し、そのまま総司の背に手を回して身体を起こした。
「潤す程度だが、飲まぬよりはましだろう」
唇から流し込まれる冷え切った茶は渋みを増しており、普段ならば到底飲める代物では無いのだろうが、それさえも熱で乾ききっていた咽喉には甘露だった。

「一息つけたか?」
「・・・すみません」
掠れた声で告げると、瀬口は再び総司を元のように横たえた。
「・・・夜が明けるのでしょうか?」
多少の余裕が戻り、改めて周りを見れば、覆っていた闇が僅かに薄れた気がする。
夜通しつけられていた行灯の灯りの照らし出す輪も、幾分外へと広がったように思える。

はっきりと意識が覚醒し、辺りの様子が昨夜よりも視界の中で鮮明になってくると、総司は首を動かして更に今自分が囚われている状況を把握しようとした。
障子では無く襖で遮られているのは、ここが建物の奥だからなのだろうか・・
外部に容易く出られる場所ではないのかもしれない。
だがその襖にしても、薄暗がりの中ですら贅を凝らしたものだと分かる。

「或るしもたやを十日程借り受けた。どこかの大店がその出店に使っていたようだが、今は空家になっている。・・・・貴方には残念だろうが誰も来ない」
総司の様子に気付いて、先回りするように瀬口が苦笑した。
「誰がこんな処を・・?」
京に着いて僅か数日の瀬口が自力で見つけるとは思えない。
その時ふと、土方が田坂に言っていた事が思い起こされた。
膳所藩では瀬口はすでに鬼籍の人となっているのだと・・・・。
そこまで考えて、総司の脳裏を一瞬の過ぎったものがあった。
もしかしたらこれらは全て膳所藩の用意したもので、瀬口はやはり何か藩の密命を帯びているのではないのだろうか。
だがそれにしては、瀬口一人だけというのが不可解だった。


「・・・やはり来たか」
そんな総司の思考を遮るように、瀬口が突然立ち上がった。
「浩太が来たようだ。仕様の無い奴だ」
見上げる総司に、言葉とは裏腹に上から見下ろす眼差しが柔らかかった。
「・・・浩太・・さん?」
「来るなという俺の言葉は聞かなかったようだな」
歪面を作りながらも、瀬口の声音はあくまでも穏やかだった。

総司が全身の神経を研ぎ澄ませてその気配に集中する間も無く、聞き取れない程に微かな物音が遠くでした。
やがて待つ者達の耳に、確かというにはおよそかけ離れた、覚束ない足音が段々に近づいてきた。
それが浩太である事を確信し、総司も瀬口も一言も発しない沈黙の中を、力任せに襖を開け放つ無遠慮な音が響いた。


水梨浩太は立っているのが漸くのように、肩で荒い息を繰り返しながら、目の前にいる瀬口を睨みつけた。
「・・何故・・・私を、連れて行くとは仰ってくれませぬ・・」
浩太はともすれば崩れ落ちそうになる体を、やっと支えている。
だがその双眸に宿す光は激しく強い。
身に着けているものの前が、まだ明けやらぬ夜の名残を残した暗さの中で、広く朱に染まっているのが分かる。

「浩太はもういい。そろそろ前を向いて生きる道を歩け」
そこにいる人間に返すのは不釣合いな程、静かな瀬口の口調だった。
「何をっ・・・」
限界を遥かに超えた浩太の体が、瀬口に詰め寄ろうとしたが敵わず、逆にそれが切欠となって力尽きたように揺らいだ。
「浩太さんっ」
大きな影が畳の上に崩れるのに、総司は思わず声を上げた。
だが瀬口は無言のまま、ゆっくりと浩太に近寄ると片膝をついた。
「黙って来たのか・・・そうだろうな。だがお前のお陰で俺は又ひとつ、俊介に言われる文句が増えた」
告げる声は、微かな笑いさえ含んでいた。

「・・雄之真さま、お一人で行かれると言われるのならば・・どうかここで、・・・ここで浩太の腹掻っ捌いた屍を越えて行かれませ・・」
冷気の中にあって、顔中から汗を滴らせ、絶え絶えの息すら邪魔のように、浩太は唯一手にしていた長刀を立て、それに縋りやっと体を起こしている。
「・・・お父上の新左様に助けて頂いたその時に、我が身に残された寿命は雄之真様を御守りすると、そう決めております・・・雄之真さまが・・・浩太を要らぬと言うのならば・・すでにこの身は無きも同じ・・浩太の寿命も尽きます」
「馬鹿をいうな、誰がそのような事を望んでいる。父上も今の浩太の言葉をあの世で嘆かれている」
「・・・いえ、旦那様は雄之真様のことこそ、お怒りになっておられます」
「さても、この親不幸者をか?」
低い笑い声を忍ばせながら、瀬口は浩太の脇に体を入れると、肩を貸して壁際まで移動させ、其処にもたらせるようにして座らせた。

「浩太、もう昔に捉われるのはやめろ。お前が天から貰った寿命はお前のものだ。誰のものでもない・・・お前自身が好きなように使え」
着けているものの前を肌蹴け、開ききった傷を改めながら語りかける言葉は、淡々と紡がれながらも、どこか否と拒むことを許さぬ強さを秘めていた。
「・・・雄之真様は・・・私が要らぬと・・仰いますか」
傷の痛みからか、無理を重ねすぎた疲労からか、すでに浩太の意識は半ば失われつつあるようだった。

「要らぬ」
瀬口の口から切り捨てるように発せられた言葉に、浩太は目を瞑った。
固唾を呑んでこの主従のやり取りを聞いていた総司には、その様が、浩太が今ある現(うつつ)の全てを己から遮断したもののように思えた。
だが次の瞬間、浩太の唇から呻きともつかぬ短い声が発せられた。
咄嗟にそちらに顔を向けた総司の視界に、瀬口の拳を鳩尾に当てたまま、ゆっくりと前のめりに倒れ行く浩太の大きな体があった。

「・・・これ以上余分な力を使わせる訳にはゆかぬ。だがこんな荒療治では、今度こそ俺は俊介に怒られるだろうな」
瞳を見開いている総司に掛けた瀬口の声に、どこか哀しい響きが籠もっていた。
そのまま視線を動かして浩太に向けた眼差しが、心底慕わしい者を見るように優しかった。



「・・・・瀬口さん」
どこから持って来たのか、或いは斬り合いによる負傷を予想して用意されていたものか、浩太の体に新しい晒しを巻き付け、一応の止血を施していた背に、総司が遠慮がちに声を掛けた。
「これを、浩太さんに・・・」
無言で振り向いた瀬口に、総司が身を捩りながら、掛けられていた掻い巻きをずらして告げた。

傷からの熱は浩太の体の全てを侵している筈だった。
夢にあっても呻吟しているであろう浩太を、せめて温めてやりたかった。
「有り難いが、それは貴方が使っていてくれれば良い」
そんな総司の思いを察したのか、見返す眸が和んだ。
「私はもう大丈夫です」
「そうとも思えんが・・」
勝気な瞳に見上げられて、瀬口が苦笑した。

「ほんとうにもう寒い事などありません」
何とか掻い巻きから抜き出ると、一瞬にして凍てついた空気が襲った。
それは今まで温もりの中にあった総司を責め立てるように容赦なく苛み、寒冷の差について行けない身体は、すぐに胸の奥から咳を込み上げさせた。
最初に吸い込んだ冷気が悪かったのか、咳は総司の薄い背をその度に跳ね上がらせる程に酷いものになった。
「言わないことではない」
息も止まると思うような激しい咳の中で、背を摩ってくれる瀬口に応えを返す余裕などあろうはずも無く、総司の視界が苦しい涙で滲んだ。

「・・・すみま・・せん」
やっと鎮まりつつある咳の合間から、ようよう繋げた言葉に瀬口は首を振った。
「無理をするな」
聞く者を安堵させるような、低く穏やかな声だった。
それに心配は要らないと更に応えようと身体を動かした刹那、総司の口から漏れたのは微かな呻き声だった。
「どうした?」
返事をすることも侭ならず、錐でもまれるような胸の鋭痛を堪える為に、きつく唇を噛み締めても、額には冷たい汗が次々に浮く。
「胸が痛むのか?」
何とか小さく首を振るだけで違うと応えても、瀬口は騙されないようだった。
摩ってくれていた手の温もりが背から離れたと思った途端に、抱きかかえられるようにして上半身を起こされた。
「少し苦くて飲みにくいだろうが、丸薬だから喉を過ぎるまでの辛抱だ」
有無を言わせず口に含まされたものは、確かに吐き出してしまいたいほどに苦かった。
思わず口から外に出そうとしたが、それは許されず、すぐに冷えた茶が無理矢理流し込まれた。

「良薬は口に苦し・・と昔から言うが、確かにこれは効く」
喉を通りすぎ、さらに奥に収まっても、口の中一杯に不快な苦さが残る。
「・・・何の・・薬なの・・です」
「痛み止めだ。強い薬だそうで、取り敢えずは楽になれる」
辛そうに顔を歪めながら、荒い息のまま尋ねる総司に瀬口が応えた。
その時突然、痛みと言う言葉が総司に記憶の片鱗を呼び起こさせ、脳裏に瀬口が傷を負っているという事実が蘇った。

「瀬口さん・・・・傷は?」
「大丈夫だ、もう痛みも無い・・・元々かすり傷のようなものだ。遠藤主計・・・もう知っているだろうが、あの人物が俺たちと藩との繋ぎの役目をしていた。が、どうやら敵に付けられていて、三人でいる処を襲われた。その時の傷だ。・・・遠藤は助けることができなかったが」
今一度楽な姿勢を取らせる為に、まだ落ち着かない息をしている身体を横たえてやりながら、総司の憂慮を慰撫するように告げた瀬口が、無意識に己の右の脇腹に手を遣った。
それを見ていた総司の裡に、釈然としない何かが湧きあがった。


初めて会った時に、分かるか分からないか位の微妙なものだったが、瀬口は左の肩を僅かに落としていた。
それが妙に気になり、やがて傷を負っているのではと云う懸念に行き当たった。
が、今の瀬口はその肩口ではなく、何の関係も無い筈の右の脇腹を摩っている。
人と言うものは本能で、弱った場所があればつい庇うように掌を当てる。
或いはそれは常人には知られぬ、病を得てから自分の裡に培われた勘なのかもしれなかった。
だが総司は確信した。

「瀬口さん・・・怪我の他に、どこか具合が悪いのではないのですか?」
躊躇い無く問うた声が、微かに硬かった。
それまで総司の様子に気付かずにいた瀬口が、ゆっくりと顔を向けた。
視線を止めたそこに、見上げてくる黒曜石の深い色に似た瞳があった。
それが真摯な色を宿して、僅かな偽りさえも見逃すまいと微塵も揺るがない。


その瞳を瀬口は暫し黙って見ていたが、やがて諦めともつかぬ息を静かに漏らした。

「・・・貴方は、本当に兵馬殿に似ているな」
耳に伝わる声音は、枯れた野に染入る慈雨のように優しいものだった。
思いもかけぬ応えへの戸惑いは、今度は総司の方にもたらされた。
「私と俊介が悪さをすると、必ずそうして怖い目で二人を見た」
何と応えて良いのかそれすら分からず、瞬きも止めてただ見つめてくる総司に、瀬口が揶揄するように笑いかけた。
「が、決して怒っているのではなく、きっと哀しかったのだろうな。俊介を愛しいあまりに・・」
「・・・田坂さんのお兄さんのことを」
「何もかも」
知っていると、敢えて続ける言葉は、共に田坂という人間を案じる者の間には不要なものだった。
「昔の事だ・・・。だがその昔に囚われて、愚かな道を選んだ挙句、こうして気付くに遅すぎる己に臍(ほぞ)を噛んでいる人間がここにいる」

夜は完全にその帳(とばり)を開けたのだろう。
ひっそりと静まっていた外の気配が、まだ声にも音にも聞こえぬが、それでも少しずつ朝の活気に満ちて来ているのが分かる。



「・・・浩太はこれの父の代から当家に仕えてくれていた」
言いながら見遣った、浩太を捉える視線が和んだ。
「俊介とは父同士が懇意で、物心つく頃にはすでに同い年の兄弟のように過ごしていた。共に親も呆れる程の乱暴者だったが、唯一頭の上がらぬのが兵馬さんだった。あまり丈夫では無い兵馬さんは外に出ることも少なく、ひっそりと静かに書物を読んでいる事が多かった。だが俺達はそんな兵馬さんに構って欲しくて、わざと困らせるような事ばかりをしていた。どんなに邪魔をされても、粗暴者達を笑って許すだけの兵馬さんに、一番に詫びてうな垂れるのは、いつも巻き添えを食らった浩太だった」
今は手の届かない昔を懐古する独り語りは、淡々と紡がれる。

「そんな俺たちもそろそろ元服かと、そういう時に浩太の許婚者(いいなずけ)が自害した」
「・・・自害?」
緩やかに流れる刻(とき)に、ふいに堰したように漏れた言葉に、総司の瞳が驚愕に見開かれた。

「浩太は俺よりも三つ上、その許婚者は三和と云い、浩太と同い年で十七になったばかりの美しい女性(にょしょう)だった」
「・・・どうして」
「当時藩の江戸詰重臣内野左佐衛門の息子が、三和に目をつけた。・・・出来の悪い奴で、気をつけてはいたが、ある日使いに一人で遠縁まで出かけた帰りを待ち伏せされ乱暴された。戻らぬ三和を皆で探し、道の脇にあった粗末な小屋の中で、苦しさから乱れぬように両膝を縄で縛り、喉元に短刀を突き刺し息絶えた姿を最初に見つけたのは浩太だった。亡骸の横にあった遺書に目を通し、逆上した浩太が内野の息子を襲ったのは、その僅か半刻後だ」
「浩太さんが・・・」
視線を移した先に眠る浩太は、今は何を闇の中で見ているのか・・・・
総司の胸に耐え難い痛ましさが走る。

「後先も見ずに相手の屋敷に討ち入った浩太は、内野の息子に一太刀浴びせたところで取り押さえられた。相手の傷は大したものではなかったが、本来ならば浩太はそこで手打ちになる筈だった。浩太とて無論それを覚悟の行動だった。が、そうにはならず、浩太は今こうしてここにいる」
「・・・どういうことです」
瀬口の言葉には、何か重く含むものがあった。

「・・・相手にも面子があったのだろう。出来の悪い息子の不始末から生じた事件が明るみになれば、出世を目の前にしていた己の立場とて危うい。だが浩太の身分では、事を上手く誤魔化すには低すぎた。それ故表向き、些細な議論が白熱し、若年者の言い分に腹を立てた俺の父が、つい内野の息子に手を掛けてしまった出来事と、そのように取り繕う事になった。父も幼い頃から息子のように接して来た浩太が可愛いかった。浩太の命を助ける為に、相手の言い分を呑む事は選択の余地ではなかった」
「前に田坂さんが、瀬口さんのお父上が人を傷つけてその咎を受けられたと・・そう言っていた事がありました・・・けれど、それでは浩太さんの身代わりに、瀬口さんのお父上は・・・?」

田坂はその真実をきっと知っていた筈だ。
だが一人の使用人の為に罪を被るのは愚かな事だとは思わぬ瀬口の父の心を知り、真実を己の胸の奥深くに仕舞い込み、生涯に渡り誰にも告げまいと田坂は決めたのだろう。
それが田坂の、瀬口雄之真とその父、又は水梨浩太との絆の強さのように、総司には思えた。

「身代わり・・・というのか。だが父でなくとも、俺とて同じ事をしただろう。咎としては軽いものだったが、それでもこの事件によって家禄は半減、そして俺の養子縁組が壊れた。座敷牢の中で全てを知った時、浩太はいつの間にか隠し持っていた脇差で、責を負い腹を切ろうとした。それを拳を振り上げ、泣きながら怒り止めたのはこの俺だ。・・・俺にとって浩太は、俊介や兵馬さんと同じように大切な人間だった。だから誰かが欠けることは信じられなかった。・・・が、不幸と見えて、そう思えていた頃が幸いだったのかもしれん」
雄之真の面に一瞬浮かんだ翳に、総司はこれから語られる真実の重さを予感し、戒められている身体に緊張が走った。


「内野の本当の謀(はかりごと)を知ったのは、全てが鎮まったかに思えたその一年後だった」
敢えて何の感情も織り入れる事無く、事実だけを語っていた瀬口の口調が初めて揺らいだ。
「これからの話は、父が余命無い臨床にあるときに、初めて俺に打ち明けた事だが・・・」
一度息を吸い込む為に、瀬口は言葉を止めた。

「事件も一段落を見たかと思えたある日、父は内野左佐衛門に呼び出された。そこで俊介の兄、杉浦兵馬を陥れよとの密命を受けた」
「・・・田坂さんのお兄さんをっ?」
「当時藩の若い者達が勤皇討幕思想を掲げ急速に走る、その中心に近い存在に兵馬さんはいた」
総司の驚愕による悲鳴とも付かぬ短い叫びをも聞かぬように、瀬口はまだ真実の語らいを続ける。
それは封印してきた過去の全てを、まるで自分に残す隈なく赤裸々に語ることで、田坂に伝えよと言っている瀬口の遺言のようにも総司には思えた。

「そのような思想が藩内に蔓延(はびこ)り、幕府に知れることを恐れた重臣たちは、一気にあぶり出し消滅させようと企んだ」
「・・・罠?」
自分で呟いた声が掠れたのが分かった。
「そう、罠だった。兵馬さん達はあの事件の直後、江戸家老となった内野左佐衛門を討つ事を画策していたが、その日を決めかねていた。そこを藩は狙った。一両日中に藩内における勤皇討幕思想の一掃を謀るとの話を、杉浦家と懇意だった俺の父が兵馬さんに伝え、それに焦って一気に行動に及ぶのを返り討ちにすると云う罠を仕掛けた」
「・・そんな」
「内野はもしもこの件を承諾せねば瀬口家を取り潰すと父を脅した。一度は浩太の為に捨てた家だったが、いざその様になれば、世間の風は思ったよりも冷たく、事件の後様々に襲う苦労に耐え切れず、母は病床に付いていた。日々弱り行く母の姿を見せつけられ、現実の辛さ厳しさを身を持って知るようになっていた父は、これ以上家族に辛酸の日々を送らせる事を躊躇った。そして何より取り潰しになれば、浩太は今度こそ我が身を責め、果てるだろうと・・・そう苦悩した」
如何なる時も静かなる水のようだった瀬口の顔が、初めて苦渋に歪んだ。

「・・・それでは」
一言一句を聞き漏らすまいと、全ての神経を瀬口に向けていた総司の声が震えた。
「父は・・・父として、良夫としての道を選び、人としての信頼を捨てた」

最後のひと言を言い終えて、瀬口は一度目を瞑った。
深く息を吸い込み、一切の感情を捨てなければ、きっと瀬口はこの真実を言葉にできなかったのだろう。
吐く息の長さが、その苦しさを物語っていた。


「父が兵馬さんへ藩の計画を語ったその夜、急進派の若い者達八名による江戸家老襲撃は、取り巻いたその何十倍もの藩士達により阻まれ、あっけない程に短く終わった・・・後は、貴方が知ってのとおりだ」
漸く瞼を開けた瀬口の視線が、総司を真っ直ぐに捉えた。
総司は言葉も無く、瞳を見開いたままでその瀬口を見ている。

「俺はその真実を父に聞かされた時、臨終が迫り苦しい息を繰り返す父に、何の応えを返してやることもできなかった。父が憎かった。兵馬さんと杉浦さんを殺し、俊介の将来をも奪った父を持った事を己の恥と、ただ憎かった。・・・・そして、俊介には二度と会えぬと、そう思った」
「田坂さんは瀬口さんのお父上を恨むような人では無い」
果たしてこの真実を聞いた時、田坂が一瞬でも瀬口の父を恨まぬとは限らない。
それでも総司は今瀬口に掛ける言葉が、他に見つからなかった。
「・・・貴方にそう言わせる俊介と言う人間を、親友と呼べる事は俺の唯一の誇りだな」
決して自嘲するのではなく、瀬口の言葉は心の底から語られたように、総司を見る双眸に苦渋の色はもう無かった。。

が、すぐにその表情は、瀬口の体の中を襲った何かによって、険しく歪められた。
咄嗟に回された手は、やはり右の脇腹に触れている。

「瀬口さんっ」
「・・・大したことではない」
総司の短い叫びに、瀬口がまだ苛む痛みを堪えながら笑いかけた。
「やはりどこか・・・」
「先ほど察っせられて、貴方には隠しとおせぬと観念をした。それ故恥を忍んでこうして過去を語ってきた」
「では・・・」
「俺の臓腑に厄介な腫瘍(できもの)が出来ているらしい。・・・助かる手だては最早無いらしいが、これも寿命と思えばそれまでのこと」
総司の瞳が、底の無い絶望の淵に浚われたかのように凍りついた。

「このことは浩太も知らん。自分以外の人間に話したのは貴方が初めてだ」
「田坂さんなら・・・田坂さんならきっと・・・」
総司は奪われている自由を忘れたように、瀬口に近寄ろうと身を捩り足掻いた。
「自分の体は自分が一番に分かる・・・そうではないか?」
向けられた問い掛けは、決して同意を強いる口調ではなかった。
だがそれは胸に業病を抱える総司にこそ通じる、天に先を見限られた者が、理不尽を憤る諦めにも似た心の叫びだった。


「まだ話の途中だが・・・貴方の身体は大丈夫か?」
事ここに及んで、更に自分の身を案じてくれる瀬口の思いが総司には哀しかった。
「全部聞かせて下さい」
きっと瀬口は自分を通して田坂に何かを伝えたいのだ・・・
そう総司は信じている。

「父の所業を知っても、尚藩から禄を貰い留まっていたのは浩太の為でもあった。俺が独り浪々の身になることは容易い。しかしそれをすれば又も浩太は苦しむだろう。だがそれも結局のところは我が身可愛さの、俺自身への傲慢な言い訳だったのかもしれん」
横たわる浩太に目を遣った瀬口の眸が細められた。

「ひと月前に、江戸家老の内野に呼び出された」
弾かれたように見上げた総司に、瀬口は頷いた。
「そう、あの兵馬さんを陥れた張本人だ。内野は俺に十四年前、俺の父に謀った事と同じ事をさせるつもりだった」
「何を今更・・・」
短く言い放った言葉は、内野に向けられた総司自身の怒りだった。
「今は六角獄舎に囚われている、川瀬太宰を知っていると思うが・・・」
黙って頷く総司に、瀬口の表情が和らいだ。
「幕府側には有名人かもしれんな・・・。国元で勤皇討幕派の中心的人物だった川瀬には、未だ多数の信奉者がいる。それらの若い者達を煽り、川瀬を獄から奪取させろと言うのが内野の話だった」
「でも内野という人は田坂さんのお兄さん達を・・・」
十四年前に勤皇討幕思想の一掃を謀り、今度はその逆をしようとしている内野という人間の魂胆が、総司には分からなかった。

「企てさせ、それを未遂に終わらせるのが、俺に与えられた役目だった」
話の先が見えなくなり、訝しげに見上げてくる総司に、瀬口は苦笑した。
「俺はその時又も危険な思想の芽を刈り取るのかと思った・・・が、違った」
「違った?」
「そうだ、違った。内野の本来の目的は、今回事件を起こさせ、それを俺を使って未然に防ぎ、己の手柄とすることだった」
「・・・自分の手柄」
今一度思考を整理するように、総司が呟いた。

「俊介の父を慕っていた人で、鳴滝殿と云われる方が膳所にいる。俊介を内野の手から逃れさせる為、いち早くこの京の田坂家に養子に出す算段を取り纏めた人だ。俊介とは今も行き来がある筈だ」
「では田坂さんが、時折膳所に行かれるのは・・」
「鳴滝殿に呼び出されるのだろう」
鳴滝という人間は、瀬口にとっても又慕わしい人物なのだろう。
紡がれる言葉の重さにある苦しさから、ふと抜け出たように瀬口が遠い目をした。
だがそれもほんの束の間のことだった。
「内野は今国元で、家老職の末席ながら勢いのある鳴滝殿が邪魔だった。鳴滝殿は内野が江戸で出入りの商人と手を組み、巨額の富を得ている事実を突き止めようとしていた。鳴滝殿の表裏の無い豪傑な人柄を、思想は違えても若い者達の中には慕う者も多い。その者達に不祥事を起こさせ、鳴滝殿が先導したと責任を押し付け失脚させる事を、内野は思いついたのだ。そしてその時俺は漸く気付いた。・・・・・十四年前の内野の本当の目論見は、兵馬さん達ではなく、当時自分の出世に邪魔だった俊介の父、杉浦高継殿の失脚にあったのだと」

瞠ったままの瞳を揺るがせることもせず、声も失ったかのように身じろぎしない総司に、ゆっくりと瀬口が視線を向けた。
「杉浦の伯父上も、兵馬さんも、そして俺の父も、たった一人の男の出世の為の姦計に踊らされ、苦悶の内に死んでいった」




遠くから微かに、人の声らしきものが聞てくる。
何か物売りの呼び声なのだろうか・・・
漸く外は朝の陽が全てを支配し、人々は目覚めたらしい。

だがそれすら今は心に在らず、総司は瀬口の裡にある本当の闇に触れていた。










           事件簿の部屋     冬陽(九)