冬 陽 (九) 徐々に朝の営みを始める外の気配の中に、耳を澄まさなくとも何処かの寺社の鐘の音が、室の中まで聞えてきた。 その音が、瀬口の口から明るみになってゆく衝撃的な真実に、ただ愕然としていた総司の心の隙を縫って、俄かに別の思いを過ぎらせた。 差し込む陽の明るさからして、告げているのは六ツ位だろうか・・・。 少し乾いた、それでいて丸く感じる鐘の音は確かにどこかで聞いたことがある。 それはいつも聞くともなしに、耳に入って来たものと似ていて・・・ そこまで思って、その音に導かれるように総司が顔を上げた。 「此処は・・・壬生?」 「壬生・・という地名なのだろうか、地理に疎くて分からぬが・・・。すでに隠す必要もあるまい。此処は六角獄舎に近い場所だ」 だとしたらやはり聞こえてくるのは、京に上ってきたときから慣れ親しんだ壬生寺の鐘の音だ。 「そう言えば新撰組は、初め壬生という処に屯所を置いていたそうだな」 それが江戸で急いで入れた知識なのか、逆に問いかけるような瀬口の物言いだった。 「今屯所を置いている西本願寺も、此処からはそう遠くはないと聞いている。一番に気を付けねばならない新撰組と、目と鼻の先に潜むのもなかなか度胸がいる」 低く漏れた苦笑は、だがすぐに消えた。 「六角獄舎を襲う輩達を待ち伏せするのに良いと・・・此処をあてがわれた」 瀬口の語りは、否が応でも総司を現実に引き戻す。 それが懐かしい地だと、余韻に浸っている間はなかった。 「内野は今度は俺への要求の見返りに、家禄を元に戻し、藩の剣術指南役への推挙を持ち出した。そして俺はそれを呑んだ」 「瀬口さん・・・」 瀬口という人間を短い間に知って、そんな事がある筈がないと、総司は強く頭(かぶり)をふった。 「丁度その前に、己の身に巣食う病と寿命を知った。俺は漸く俊介に詫びる事ができるのだと、この機会を天の僥倖を受け止めた」 総司を見る瀬口の顔に、悲愴な色はない。 「勤皇や攘夷・・そういう思想がどうのという事は俺には分からんが、己の思う道の本懐を遂げる為に失くす命ならば納得もできよう。だが兵馬さんのように、内野の姦計に踊らされて命を捨てた人間の無念というものは、一体どればかりのものか・・・」 それが己の罪とでもするように、一瞬視線を宙に据えた瀬口の口調がふいに乱れた。 「・・・それでは瀬口さんは」 逸る鼓動を鎮めながら、総司は半ば予期した事柄を、それでも否と応えを求めて問わずにはいられなかった。 「そう、全てが動き出す前に、内野の企てを藩内に暴く。その上で尚、川瀬奪取に動きたい奴がいればそうすればいい・・・だが、みすみす他人の出世の捨て駒となる必要はなかろう。・・・せめてそれだけは教えてやりたい」 「そんなのは一人じゃ無理だっ」 声を限りに叫んでも、瀬口の決意を翻すに何の役にも立たない事は分かっている。 だがどんな言葉でも良かった。 総司は今、あらゆる手段を使っても瀬口を思い止まらせたかった。 「そうだな、きっと無理だろう。だから巻き添えは要らん」 「新撰組に・・・、新撰組なら瀬口さんを助けることができるっ」 それが最後の希(のぞみ)の綱のように、総司は瀬口に向かって身を捩り近づこうとした。 「貴方の気持ちは嬉しい・・・だがそれも受ける訳には行かん」 「何故っ」 必死に起き上がろうとする総司を、瀬口の手が押し留めた。 「貴方には誰か想う人がいるか?」 ふいに掛けられた問いに、総司が瀬口への抗いを止めた。 「人が生きるにはそれぞれの事情があるだろう。一生のうちで己よりも大切な伴侶を見つけられた人間は、幸いなのかもしれない。だがそうでなくとも、人は生まれたからには必ず己の為だけではなく、誰かの為に生きている。泣いて、笑って、悔しがったり嬉しがったり・・・そういう感情は全て自分以外の人間がもたらしてくれるものだ」 瀬口が何を言わんとしているのかが分からず、総司はただその顔を見上げた。 「己を弱くするのも、強くするのも全ては自分以外の者への感情からだ。・・・馬鹿な事に、俺はそんな些細な事すら今まで気付かなかった」 声音には、そんな自分を心底厭う響きが篭められていた。 「真実を聞かされた時から、俺は天の仕打ちを呪い、父親の愚かさを憎み、そして内野を恨むだけに生きてきた。最早この世に期するものなど何もなく、捨てた生涯と信じていた筈のこの俺が、己の寿命を知った時、こともあろうに衝撃を受けている自分を知って愕然とした。先を限られて、初めて俺は自分が生きることを望んでいたのだと分かった」 「・・・誰も同じです」 応えたのは、総司の心の奥底に潜む、何を纏うもの無い真実の心だった。 もしも自分が将来(さき)を憂えることなく、土方の後ろをいつも行くのだと何の疑いも持たず信じ、日々を送ることができるのなら・・・。 心に浮かんではすぐに目を瞑り遣り過ごす、愚かな思考の繰り返しを、総司は今も飽くこと無く続けている。 「こんな間際になって初めて知るとは・・・人と云うのはどうしようないものだな」 瞳を伏せた総司に、瀬口の声が柔らかだった。 「こんな事になるまで、ずっと正面を向く事を避けていた。だから自分の事しか見えなかった」 「自分のことしか・・?」 「浩太は全ての責は自分にあると、己を捨てて俺に尽くしてきてくれた。そして俺も浩太の事を思い遣っていたのだと思っていた。だがそれは違った。俺は自分の都合しか考えてはいなかった。」 先ほど身体を起こそうとした時に、それを止めた瀬口の手がまだ肩にある。 そこから、語る人の温もりが伝わる。 「けれど浩太さんは、瀬口さんの思うような事は望んでいない・・・いつも瀬口さんの傍で、一緒にいたいと・・」 「それは浩太の本当の生き方ではない。もっと早くにお前など要らぬと言えば、浩太は自分の行くべき道を見つけることができただろうに・・・俺は心の何処かで浩太がこうしているのを当たり前だと思っていたのだろうな・・・傲慢な人間だった」 静かながら、他に否とは言わせぬような強い口調だった。 「俺といれば浩太はずっと昔の柵(しがらみ)から抜け出すことができない。・・・浩太はもう十分に尽くしてくれた。これ以上命まで粗末にする必要は無い」 「違うっ」 言葉の終わりに重ねるように発せられたのは、何もかもかなぐり捨てた総司の心の悲鳴だった。 「違う・・・。今の瀬口さんこそ傲慢だ」 瀬口を睨みつけるようにしながら瞳が滲むのは、誰に当たるともない総司の激昂がさせたものだった。 それはどんなに抗っても、いつか共に歩むのを止めねばならぬ日を迎える者の、悔しさだったのかもしれない。 「浩太さんの気持ちはそんなに簡単なものじゃない。きっと瀬口さんにそうされたら、今度は浩太さんが正面を向いて歩く事などできなくなる。瀬口さんは残される人間の苦しさを知ってはいない。勝手に決めて・・勝手に浩太さんを置いてゆこうとしている・・」 声が震えるのが分かった。 が、もう隠す事もできない。 瞳から堪えようの無い冷たいものが頬に伝わる。 それも戒められている身では、拭うことも許されない。 土方が置いてゆかねばならぬのが先か、自分が土方を置いてゆかねばならぬのが先か・・・ それを思えば気が狂いそうに怯える心と、総司はいつも背中合わせにいる。 深手をおして瀬口の処までやって来た浩太は、あるいはそれで命を落すかもやしれぬ危険など考えもしなかっただろう。 否、それこそが浩太の本望だったに違いない。 「私が浩太さんなら・・・きっと先に逝こうとする瀬口さんを恨む。浩太さんはとっくに自分で瀬口さんに着いて行くのだと決めていた」 流れるものをみっともないと思う余裕は無い。 ただ必死に瀬口に説いているのは、浩太に重ね合わせた己の土方への気持ちだと、総司は気付いてはいなかった。 息を詰めて黙したまま語らない瀬口の応えを待っているその時、横臥していた浩太が低く呻いた。 それは意識の覚醒というには及ばず、無意識の内に漏れたものだったらしい。 だが瀬口は総司に縫いとめたままだった視線を、浩太に移した。 暫くそうしていて、やがてゆっくりと又総司に正面を向けた。 「・・・確かに、貴方の言うとおりなのかもしれんな。浩太は浩太の意志で今まで俺についてきてくれたのだろう。幾年も幾年も、同じように季節を迎え、送ってきた。浩太は俺にとっていつの間にか無くてはならない人間になっていた・・・」 「だったら・・・」 「だからこそ、連れてはゆけない。浩太には生きて欲しい。・・・さっき貴方に想う人がいるかと問い掛けたとき、悪いが微かに揺れた表情でそうだと知った。・・・貴方は正直な人だな」 見つめる眸が、ふと和んだ。 「だがそんな貴方だから、俺の思いは分かって貰えるのではないか?己の為に大事な人間の将来を邪魔する事は、何を失ってもできないのだと。そうなる事をどれほど恐れているか・・・病を抱えながら先を見ている貴方だからこそ、知っている筈だ」 総司の黒曜の瞳が、弾かれたように瀬口を捉え揺らいだ。 「俺の気持ちを分かって欲しいなどとは言わん。例え独りよがりと後で浩太に恨まれてもいい。だが浩太の生涯まで俺が摘み取る訳には行かんのだ。・・・今はもう我が身よりも大事な人間故にな」 瞬きも忘れたように凝視する総司に笑いかけようとして、瀬口がまた顔を顰(しか)めた。 「瀬口さんっ」 「・・・全くもって病には勝てぬとは良く言ったもの」 右の脇腹に手をあてたまま暫くは苦しそうにしていたが、それでも瀬口は総司を慰撫するように、途中で止めていた笑みを浮かべると、懐から取り出した黄色い油紙にくるまれた小さな包みから先ほどの丸薬を取り出した。 「さっき貴方に与えた薬はこれと同じ、俺の痛み止めさ。良く効くだろう?」 苦く笑った声が、まだ苦痛を堪えて低かった。 「・・・こいつのお陰でどうにか此処まで来られた。だがあともう少しだ・・」 言い終わらぬ内に口の中に丸薬をほうり入れ、湯呑みに残っていた冷えた茶を一気に飲み干すと、瀬口は漸く深い息をついた。 「昨夜は眠ることなど出来なかっただろう・・・。少し眠るといい。大事な患者をさらって来た挙句病を悪くさせてしまったら、俊介に怒られるどころでは済まないだろう」 労わるように、ずれた掻い巻きを掛けなおしてくれる手を見ながら、言わねばならない事が纏まらず、心についてゆかない思考に総司は焦れた。 だが瀬口はそんな総司の瞳に合って、尚それを強く拒むように立ち上がると、そのまま室の中を横切り浩太の眠る近くの壁に凭れて座り込んだ。 「俺も休む。すまないがもう少しそのままで辛抱してくれ」 詫びの言葉は、縄で拘束された身を案じているものだった。 応えを返す間もなく、瀬口は両の瞼を閉じてしまった。 深く疲労の刻まれた青い顔は、襖の桟と桟の間から零れる朝の陽の中で幾分窶れて見え、その険しさが総司にこれ以上の言葉を掛ける事を躊躇わせた。 いくら見ていても開かぬ瞼に、諦めたように小さく吐息すると、総司は無理とは承知で後ろの手指を少しだけ動かしてみた。 二重三重にうたれた縄は容易に外れる筈もなく、返って深く手首に食い込んだ。 皮膚を破る痛みに、一瞬漏らしそうな声を唇を噛んで耐えた途端、先ほどまで苛んでいた胸の痛みが、今の身体の動きを切欠に又総司を襲った。 肺腑を裂くような痛みは、瞬間息を止めねばならぬ程強い。 額には冷たい汗が滲む。 だがどんなことをしても、この戒めを解き、走らねばならぬところがある。 そして雄之真を止めなければならない。 総司はきつく合わさった両手首を動かそうとする所作を、決して止めようとはしなかった。 店仕舞いをしようかと屋台を畳んでいた蕎麦屋やら、遊び帰りの酔人やら・・・ 大路ですれ違う者全てに水梨浩太の人相体格を言い、それらしき人物を見かけなかったかと聞きながら、五条から堀川まで互いに別の道を辿ってきたが、結局何の手がかりも得られず、八郎と田坂はすでに辺りが明るくなりつつある川原に佇んでいる。 二人とも微かに漏れる息だけが白く濁る。 師走の冷気の中を、夜を徹して探し回り、結局一条の光すら掴めず徒労に終わった脱力感は大きい。 「何故、堀川・・・などと言ったのだろうな」 八郎のふいの呟きに、川を見ていた田坂が振り向いた。 「膳所藩の藩邸とはずいぶん離れている。初めて京に来る人間が、何の連脈も無い堀川を何故気に止めたのだろう。膳所藩の人間ならば、まずは藩邸に近い加茂川を目安に覚えるだろうに」 八郎から繰り出される言葉の更に先を待って、田坂は黙したままでいる。 「俺たちは田坂さんの処から、五条と七条に分かれて水梨浩太の足取りを手繰ってきた」 それは京の道に疎い筈であるという事と、更に深夜であったという条件を重ね合わせ、浩太はきっと少しでも広く、分かりやすい道を行ったであろうという憶測から生まれた結果だった。 「それは間違ってはいないと思うが」 それにあの傷を負っての道程だ。 浩太は目的地まで辿りつく事に必死で、道を選ぶ余裕など無かった筈だ。 それ故、田坂の声にも弱気は無い。 「多分な。だが敢えて堀川と言うからには、二人には何か根拠があった筈だ」 「・・・根拠?」 「例えば其処が、自分たちの目的を達する為に都合の良い場所であるとか」 腕を組んだ八郎の横顔に、昇ってきた朝日が当たる。 目映い光はまだ何の澱みも無く、強い色で辺り全ての像を浮き上がらせる。 「堀川の近くであの二人に関係があるもの・・・」 「いや、膳所藩に関係があるものと断定していいいだろう。二人が藩の何らかの事情により上洛してきた事は、もう隠しようもない事実だ」 「六角獄舎か」 すでにそこに思考はまとまっていたのであろう、躊躇いの無い田坂の応えだった。 「今膳所藩の京での急所と言えば其処しか無いだろう・・・川瀬太宰に係わることだ」 声の主に視線を移した八郎も、是と言わずともそれを確信している口調だった。 膳所藩の勤皇攘夷思想の中心的人物川瀬太宰は、今六角獄舎に囚われの身となっている。 揺れる膳所藩内で、若い急進派の者達が川瀬奪取に動こうとしても何の不思議も無い。 その六角獄舎は四条の通りと堀川との交差する地点よりも、更にもう少し北西に行った処に位置する。 地理に不案内な者にとって川などの自然な地形は、建物よりもずっと目安になるだろう。 瀬口雄之真と水梨浩太の二人が川瀬奪取を目論む当の本人なのか、あるいはそれを阻もうとしている立場なのか、そのどちらかは分からない。 だが例えどちらにせよ、六角獄舎を狙うのならば、近くに潜伏していると考えて間違いはないだろう。 今八郎と田坂のいる堀川の川原は、五条通りに近い位置にある。 六角獄舎は遠く無い。 「六角獄舎の近くで堀川沿いというのならば場所は限られる」 やっと掴みかけた僥倖を、八郎は決して逃さまいとするように、鋭い双眸を川の上流へと向けた。 「堀川よりも西なのか、それとも東なのか・・」 場所を川の西か東かに限定できれば、更に探す範囲は狭くなる。 田坂はそれを考えている風だった。 「川は襲う方には大きな邪魔になる。・・・が、阻む方には堅い要塞になる」 「阻む方だ」 瞬時に返った応えが、自信に満ちていた。 「もしも雄之真が襲う方だとしたら、例え深手を負っているとは言え、浩太を俺の処に寄越すことなどしない。まして自分の巻き添えにするのを拒んだ。あいつは一人で川瀬奪取の為に急襲する者達を阻もうとしている。が、それは藩の為ではない」 それは田坂の確信だった。 「どういうことだ・・」 胸にすでにある暗い予感を、敢えて言葉に出し現実の形とする為に、田坂はゆっくりと八郎に視線を向けた。 「・・・詳しい理由は分からん。だが雄之真が藩の為に阻もうとするのならば、浩太を連れてゆく。そのつもりならば密命を貫く為に、共に命を賭すことに迷いは無い筈だ。が、雄之真はそうはせず、浩太を生かそうとしている。・・・ひとつ分かることは、雄之真は浩太を俺に託し、自分は死ぬつもりだ」 水面を覆っていた川霧が、いつの間にか晴れてきている。 それだけ水よりも地表の熱が上がったのだろうか・・・ それとも俄かに吹き始めた北風が浚っていったのだろうか・・・ だがそのどちらも、限られた刻(とき)が、否応無しに経過していると、二人に告げるのに十分だった。 「この川の西側で、更に六角獄舎を観察できるところだ」 八郎の決断は早かった。 言うが早いか、足は川上に向かって地を蹴り、それに一瞬の間もあけずに田坂が追った。 往く年を惜しみ常より賑わう師走と言えど、極寒の季節の早朝、流石に往来に人影はまだ無い。 土方はひとつ白い息をつくと、内から堅く閂(かんぬき)を掛けてある、静まり返った大店(おおたな)の脇の木戸を叩いた。 「どなたはんですやろ・・」 中からはすぐに人の動く気配がし、掛かった声はとんだ時刻の来客を警戒しているようだった。 「土方という者だ・・・小川屋左衛門殿に取り次いで貰いたい」 「・・・へえ」 それでもまだどうしたものか、中の者は思案している様子だったが、やがて足音は奥へと消えて行った。 再び取り残された静寂(しじま)の中で、ひとり待つこの一時が、土方には焦れる。 座したまま夜明けを待ち、明けるや否ややって来た小川屋で、一体何が解決すると言うのか・・・ だが例え何も分からずとも、自分は此処に足を運ばずにはいられなかった。 二日は待てない。 否、待たない。 囚われたまま呻吟の中にいるであろう想い人の姿を思えば、胸に起こるのは何もできない己への激しい苛立ちだけだった。 思わず唇を噛み締めたとき、微かに聞えてきた足音に、土方の全部の神経が縫いとめられた。 小川屋左衛門は声を掛けて土方と確かめることもせず、すぐに内から戸を開け招き入れた。 京で商いをしている小川屋にとって、新撰組副長としての土方は無論知っている。 だが時折総司と連れ立って顔を見せていたこの人物は、どちらかと言えば慕わしい存在だった。 「お待たせしてしもうて・・・はようお入りやしておくれやす」 起き掛けのものとは思えぬ張りのある声に、無礼を詫びるように少しばかり頭を下げると、土方は潜り戸の中に身を滑らせた。 「すんません、えろうお恥ずかしい状態で」 小川屋は一番奥の室に土方を案内すると、朝の支度で落ち着かない家内を恐縮して言った。 「いや、こんな早朝に押しかけたのは此方が悪い。だがどうしても聞きたい事があって来た」 今日の土方の物言いには、相手に先を急(せ)かせるような強引さがあった。 こんな事は土方という人間を知ってから、小川屋には初めての事だった。 「私に聞きたいこととは・・遠藤さまのことですやろか?」 土方がこんなに朝早くにここに来るのは、それ以外思い当たらない。 「左様。遠藤主計の身元の手がかりは、この店の在り処を記した紙の切れ端だった。だがそれが遠藤が持っていたものとは、俺にはどうしても思えない」 「何故ですやろか?」 「遠藤主計ならば、わざわざ紙に書くなどと煩わしいことをせずとも、此処の場所は知っている。・・・あの紙の書かれ様は、知らない人間がここに来る為の道順を丁寧に印したものだった」 土方が記憶の断片にある紙の様子を、今一度脳裏に蘇らせるように目を細めた。 「流石は土方さま・・・そう言うたら怒らはりますか?」 その様子に、小川屋はふくよかな頬を緩めた。 「ではやはり・・」 「あの地図は私が書いて、さるお人にお渡したものです」 「瀬口雄之真・・・か」 土方の声が上ずった。 それを隠しもしない目の前の男に、小川屋左衛門は更に目を和ませ大きく頷いた。 「お言葉のとおりでございます。あれは以前江戸に私が参った折に、お世話をして貰うた瀬口さまに、京に上らはる機会がありましたら、是非小川屋に寄って欲しいと、お渡ししたものです・・・よう、覚えています」 「では、瀬口雄之真は此処に?」 小川屋は黙って首を横に振った。 「お待ちしておりますのや。いつ来てくれはるのやろかと・・。せやけどその兆しは一向に・・」 「・・・そうか」 漏れた言葉に籠もるのは、落胆と絶望だった。 小川屋が嘘を付いているとは思えない。 だがこのまま疑う事を止めれば、本当に希(のぞみ)の糸は断たれてしまう・・・それが土方に、更なる言葉を言わせしめた。 「では遠藤主計を斬ったのは、瀬口雄之真かもしれぬな」 それが違っているという事は、すでに傷口を検(あらた)めた八郎が否と断言している。 百も承知で言わねばならぬ土方の切羽詰まった必死さが、無理な会話を続けさせた。 「それは違います。遠藤さまの遺骸を見せて貰うた時に、あんまりの惨(むご)さに、私は思わず目を瞑ってしまいました。・・瀬口さまならあんな酷い斬り方はされません・・私のような素人目から見ても、あれはまるで剣術も何も知らん人間が、無茶苦茶に斬らはったものと分かります。情ない事に見ている内に何や胃が痛うなって・・・」 そこまで言って小川屋がふと言葉を止めた。 「・・・胃が痛い・・」 何かを思い出すように、今一度呟いた小川屋左衛門の思考を妨げ無いようにしながらも、焦れて待つ時は長い。 「そう言わはったら・・・」 「何か言っていたのか、遠藤が」 急き込んで問う土方に、小川屋は気弱な笑みを浮かべた。 「何のお役にも立ちはせえへん思いますが・・・。遠藤さまがあの日此処に寄らはったのは、薬を所望しての事でした。遠藤さまのお顔はよう知っていましたが、この店に薬を求めて来はったのは初めての事でした」 「初めて?」 「はい。それも薬を名指しされはって」 「それはおかしいな。名を告げて薬を求める位ならば、行きつけの店か医者がある筈だ」 「そうですのや。それでつい私も怪訝んそうな顔をしてしもうたんですやろうなぁ・・・それを見た遠藤さまが慌てはって、歩いている途中に急に具合が悪くなったので、一時応急に欲しい・・そう言わはりました」 「応急に?」 「はい。言われた薬は強い痛め止めでした」 「・・・痛み止め?遠藤は何か持病があったのだろうか」 「胃の癪・・や言わはりましたが、嘘です」 「嘘?」 小川屋は断片だけだった記憶が、土方との会話の中で克明に戻ってきたのか、頷いた時にはその目は先ほどよりもずっと自信に溢れていた。 「あれはもっと酷い痛みを止める・・・そう、時には毒になる位に強い薬です。それ故、普通ならば、医師に掛かってはるとか・・そういう人でなければ知らん筈です」 「だが遠藤はあくまで自分の胃の癪にと言い張ったのか」 「はい。最近は若い者が無茶を承知で事を起こそうとするから骨が折れて、それでご自分の胃もなかなか良うならんのだと・・。ですが生憎うちの店ではその薬を置いてはいまへん。そう言うたら遠藤さまはえらい困った風で」 「そんなに遠藤は辛そうだったのか?」 「いいえ、それがちっとも。それでおかしいなあと思いながらも、同じ薬種問屋で四条大宮に懇意にしている店があります。そこならある筈やと申し上げましたら、四条大宮ならば、その近くだから行って貰えばいいと、妙な言い回しをされました。・・・つい漏らさはったんですやろうなぁ。まるで独り言のように、ご自分で言って頷いてはりました。その時、ああ、やはり薬は遠藤さまで無いお方が必要とされてるんや、私はそう思いました」 「四条大宮・・・・そこが近くだと、遠藤はそう言ったのかっ」 土方の勢いに、小川屋がたじろいだ。 「はい、確かにそう言わはりました。それで私は少し心配になってしもうたのんです。せやさかい、よう覚えてます」 「心配とは、薬を必要としているのが瀬口雄之真だと思ったからか・・」 小川屋は豊かな顎を引いて頷いた。 「遠藤さまはあの時、これから粟田口まで瀬口さまをお迎えに行かなならんと言わはれました。私にはお懐かしいお名前です。聞き違えることなどあらしまへん。川原に落ちていたという、私が差し上げた店の地図の切れ端をみた時に、これを持って上洛なさった瀬口さまは、何か私の店で薬がお入用だったんやないかと・・すぐにそう思いました」 「それでは小川屋はその時薬を必要としたのは瀬口雄之真と確信し、そして遠藤は四条大宮にある店は近いから行って貰えばいいと、そう言ったのだな」 遠藤は、瀬口に直接行かせれば良いと判断したのだろう。 それは遠藤が潜伏している場所が、四条大宮に近い場所であると言うことを、示唆している言葉でもあった。 そして総司は其処にいる。 四条大宮といえば、西本願寺の敷地の一部に屯所を構える新撰組からもそう離れてはいない。 少し手を伸ばせば掴めてしまいそうな、ほんの僅かな距離の先に総司が囚らえられているとしたら、なす術なく過ぎ去った時が歯ぎしりする程悔しい。 「小川屋、朝から悪かった。礼を言う」 小川屋左衛門が顔を上げたときには、土方はとっくに立ち上がり、背を向けようとしていた。 一時も惜しむように視界の中から消え行くその後姿を、小川屋もまた複雑な思いで見ていた。 事件簿の部屋 冬陽(十) |