春ざれ  (壱)





「何もね、あたしは描かないって云っているんじゃないんだ、そこのところを誤解しないでくださいよ。
版元さん達は簡単に云いますけどね、一枚絵を描くには、そりゃ膨大な…、そうさね、富士のお山が、
どぉーんと爆ぜるような勢いがいるのよ」
「不吉な事を云わないで下さいよ」
 両国広小路に店を構える版元岩佐屋の若旦那伊助は、のっぺりと凹凸の無い顔を、臆病そうに顰めた。
「例えですよ、たとえ。でも良い絵を描くのには、その位、体中の血が沸き滾るような衝撃が無ければ
駄目って事。分かっちゃいないんだから」
「そんな衝撃なぞ、私らには皆目見当もつきませんよ」
「あたりまえよ、あんたなんかに分かってたまりますか。一緒にされちゃ困ります」
 あからさまに嘲(あざけた)た視線が、伊助を刺した。

 ――神田大傳馬の絵師、琴場松風(きんばしょうふう)の家に腰を据えて早一刻。
 出された茶はとうに冷たくなっている。
 伊助の目的は、遅遅として進まない草双紙の催促だった。
 元々松風は気分屋である。が、人気はある。
 絵も達者だが、構図から雰囲気を醸し出すのがずば抜けて上手く、刷る絵刷る絵、間違い無く売れる。
 だから他の版元に引き抜かれる事を警戒し、岩佐屋の主人源五郎は手を替え品を替え、松風のご機嫌を損ねぬよう気を使ってきた。
しかし松風の気まぐれは桁が外れていて、遂に己の手に負えなくなった源五郎は、
倅の伊助に、「商いは辛抱」とそれらしく説くや、てい良く松風を押しつけてしまった。
 そうして。
 親の魂胆に逆らう度量も無い息子の、今日が三度目の来訪だった。


「描きたくなるような絵の材料を探して来いと云っても、伊助さんじゃぁねぇ…」
 これみよがしの溜息が、大仰に漏れた。
 それを受け、伊助の眉根が寄った。
「私で悪うございましたね。じゃぁその、先生を突き動かす、富士のお山がどぉーんと爆ぜるような衝撃ってのは、
どうすりゃ見つかるんです?ここにあるって教えてくれりゃ何としても持って帰りますよ、私だって岩佐屋の若主です」
 伊助も若い。しかも御苦労なしの坊ちゃん育ちだから、こうなると商売よりも我儘が先に出る。それまで気弱だった物言いまで、開き直ったように不貞腐れた。曲げた顔には自棄(やけ)と云う文字がくっきり浮き出ている。
が、その寸座、気のない素振りだった松風の目が鋭く光った。更にこの一瞬を待っていたかのように、小太りの体が、敷いていた座布団を舞いあげる素早さでいざり、伊助に詰め寄った。

「池のほとりで見たのよっ」
 目を白黒させる間も無い、いきなりの言葉に、伊助の体が仰け反った。更に湯呑を持つ手首を握られ自由を奪われた寸座、伊助の本能が激しく半鐘を鳴らした。しかし時すでに遅く、腕を取った松風は、逃すものかとばかりに力を籠める。
「…見たって…一体、何をです…?」
 どうにか体勢を整え、かき集めの唾で喉を潤し、乾いた声で問い返すのが精一杯だった。
「あたしを、こう、どぉーんとつき動かした、描きたいものよっ」
「池って…、上野の、弁天さんの池ですか?」
「他にどこがあるっているのよ」
 松風は伊助の困惑など歯牙にもかけていない。
「桜を見に来たんじゃないわね。立ち止まる事は無かったから」
「…はぁ」
 くっつきそうに顔を近づけて畳み掛ける松風に、伊助の頬が引きつる。
「どこかにお遣いに行った帰りだったのかもしれない。脇目もふらずって云う風だったから。お遣いの途中で道草くってはいけないと思ったのかしらね。でも時々は惜しそうに、桜を見上げるの。それが又いじらしさと可憐さと両方でね、胸が、こう…きゅんと痛むような姿だったの」
 どうやらその時の光景は微に入り細に入り、松風の脳裏に刻まれているらしく、丸く小さな目が生気を帯びて輝いている。
「きっと桜も自分を見て欲しかったに違いないわ。…丁度鳴った風に、ざぁっと花を散らして、その子を花吹雪で包み込もうとしたの」
 視線を遠くにおいての夢見るような語りは、とどまる処を知らない。
 だがそんな様子は、伊助に我を取り戻す余裕を与えた。
「ははぁ、漸く分かりましたよ」
 己が手首を握り締めている指を、ひとつひとつ剥がすように外すと、伊助は、したりとばかりの笑みを浮かべた。
「詰まる処、先生はその娘さんにぞっこん惚れ込んでしまったって訳だ。で、まずはその娘さんを描かない事にゃ、他の絵は描く気が起こらない、と…」
「男の子よ」
「…男…?」
「そう、どっかのお侍さんの子」
 にべもないいらえに、せっかく浮かべた笑いが、寸の間も待たず引っ込んだ。
「あんたの云う通り、あたしは今他のものを描く気が無いの。だからあの子を探して頂戴」
 見つけ出さなければ、お前の責任だとばかりの物言いだった。
 しかも。
「あの子を描けなきゃ、あたしは筆を折ります」
 今度こそ、伊助の顔から血の気が引いた。





 つい先日まで七分も行くかと思われた桜は、もう満開に近い。
 陽のあたる木などは、そろそろ散り始め、柔らかな緑の葉を吹き始めている。その淡い花弁が肩にかかるのを、伊助は鬱陶しげに振り払った。

「人の気も知らないで、春だ、花だと、世間はお気楽なもんだよ」
 はらりはらりと風に舞う花弁に当たった所で、置かれた状況が好転する訳では無い。それでも伊助には、自分ばかりが置いてけぼりのこの長閑さが気に食わない。
「だいたい何処の誰とも分からない子を探せってのが無理なんだ。しかも相手はお武家さんの子だって云うじゃないか。版元や絵師が頭を下げてどうこうなる問題じゃないんだよ。そこの処を分かっていて無茶を云うんだ、あの先生は」
 止まらない文句に、すれ違った者が訝しげな視線を投げかけた。その視線に合って漸く口を噤むと、伊助は決まり悪そうに足を速めた。が、その足が幾くらも行かない内に止まった。
 白く霞むような陽春を劈いて響く甲高い声と、時折混じる野太い声。伊助は己の頬が引きつるのが分かった。
 佐久間町辺りまで来て道を尋ねようと思っていたが、その心配は杞憂だった。江戸でも屈指と云われる心形刀流の伊庭道場は、向こうからその在り処を教えてくれた。
 近づくたび、幾重にも合わさる竹刀の音が、雁字搦めに身を縛る。そんな錯覚に、竦んだ足が顫(ふる)えた。
「やっとうの道場なんざ、これきりご免ですよ」
 ついた溜息の重さが、そのまま、心の裡だった。



 通された部屋は、中庭に向け開け放たれていている。
 茶を持って来てくれたのは門弟らしかった。客が町人であっても、無骨なもてなしに侮る様子が無いのは、ここの主の躾なのだろうと、それだけは伊助も感じ入った。が、何にせよ、旗元の、しかも道場主の家などさっさと退散したい。落ち着かなく視線を動かしていると、重なった障子に、ふと影が差した。
「俺に用ってのは、あんたかい?」
 驚いて見上げた視線の先に、思ったよりもずっと若い、端正な顔が笑っていた。



「…ふぅん」
 伊助の話を聞き終わると、伊庭道場の前主の長子、八郎秀穎は眸を細めた。
「松風って絵描きの、名前だけは知っているよ」
「左様でございましたかっ」
 伊助の声が逸った。

 稽古の途中だったらしく、八郎は道着のままである。だがその姿に、咽るような若い伊吹がある。
 聡明そうな額。綺麗に筋の通った高い鼻梁と、引き締まった口元は、若鷹のような峻厳さと秀麗さが同居している。造りだけ見れば近づき難い感すら与えるが、優しく涼しげな目元がその部分を補っている。
さぞや女にもてるだろうと、やっかむ気持ちもないでは無いが、八郎は見た目よりもずっと気さくな若者だった。
 年は十七だと云う。が、五つも年下の八郎に、伊助はともすれば気圧されそうになる。これが持って生まれた品格と云うものかと、改めて、伊助は思った。

「見た事はねぇが、良い絵を描くと云う評判を聞いた」
「…そう、そうなのですっ」
 ぼんやりから戻され、伊助は慌てた。
「琴場松風と云えば、刷る絵刷る絵、端から売れ切れてしまうと云う、当代一の売れっ子。その松風がっ…」
「宗次郎を描きたいと云うのかぇ?」
「そのとおりっ」
「そいつは、無理だな」
「…無理…?」
 間髪を置かずに返ったいらえに、勢い込んで前に出かかった身が止まった。 
「あんたと松風には気の毒だが、あいつはその場で断るだろうよ」
 続けて聞こえてきた無残な言葉に、伊助はへたりと座り込んだ。


 ――松風が、唯一くれた手がかり。
 それが、目の前で腕を組んでしまった伊庭八郎だった。
 松風の云うには…。
 少年は、声を掛ける間もなく雑踏に紛れ込んでしまった。
 慌てた松風が探しているその時、宗次郎と、良く透る声が聞こえた。
 思わずその方に目を遣ると、くだんの少年の姿が飛び込んできた。
 呼び止められたのは、少年だったのだ。
 立ち止った少年に、これは少年よりもう少し年上かと思う、姿の良い若者が歩み寄とうとしていた。
 無論、松風も急いで駆け寄ろうとした。ところが、たまたま花見に来ていた贔屓客の一人に声を掛けられてしまった。苛立ちながらも、ほろ酔い気分の相手に愛想笑いを返したのは、ほんの一瞬の事だった。だがその一瞬の間に、二人の姿は消えていた。
 呆然と突っ立っていた松風に、贔屓客は、若者の方は神田にある伊庭道場の跡取りだと教えてくれた。
 その瞬間、松風は、少年の姿を描かせて欲しいと云う希(のぞみ)を、岩佐屋を使い、あの伊庭と云う若者を通して伝えようと決めた。
 始めに岩佐屋を通そうと決めたのは、伊庭家が旗本だからだ。
 一介の町絵師よりも、名の通った版元が話を持って行く方がまだ失礼が無いと松風は踏んだ。岩佐屋が駄目なら最後は自分が出向く覚悟は決めていたが、それは最後の手段だった。とにかく、どうしてもあの少年を描かなければ、自分の絵描きとしての生涯に悔いが残る。
 束の間にも足らぬ間に、恐ろしい勢いで松風は頭を働かせた。
 
 そう云う訳で、有難くも無い白羽の矢を立てられた伊助は、今又蒼白な顔で此処にいる。



「若さま…」
「何だぇ?」
 半泣きのような情けない声に、八郎は庭に遣っていた視線を戻した。
「これ、この通りです」
 伊助は拝むように、下げた頭より高く両手を合わせた。
「俺は仏じゃないぜ」
「これだけ困っている人間を、仏さまなら放っておきませんよ」
「そりゃ、生憎だったな。伊庭は神田明神の氏子だ」
「この際、神さまだって仏さまだって同じですよっ」
「そう怒るな」
 落胆が過ぎて開き直ってしまった伊助を、八郎は愉快そうに見つめた。が、そのまま、何かを考えるように押し黙ってしまった。だがそれはほんの僅かな事で、やがて正面から伊助を見つめた。その口元に、悪戯を見つけたような含み笑いがある。
「岩佐屋、この話、手を貸してやってもいいぜ」
「へっ…?」
 不意に云われ、伊助が八郎を見上げた。顔に、喜色と警戒が同居している。
「が、ひとつ、条件がある」
「条件…とは?」
 八郎は伊助に身を寄せると、低く耳打ちした。
 そうして又元のように座りなおすや、何事も無かったかのように湯呑に手を伸ばした。その間、当の伊助すら現(うつつ)の出来事だったのかと訝しるような、素早い身ごなしだった。だが八郎の声は確かに耳に残っている。
 旨そうに茶を飲み干す喉が、しなやかに上下する。
 それを見ながら、伊助はまだ呆然としている。
「難しい事じゃぁなかろう?」
 黙ったままの相手へ、いらえを促す声に屈託は無い。
「…ですが…、松風さんが、何と云うか…」
 気分屋の絵師がまず第一に大切なのは、己の欲求を押し通す事である。例え相手が大名であろうが旗本であろうが、気に要らない仕事は容赦なく断る。
 伊助は、父親が胃の腑の薬を手放せなかったのを思い出した。
「それじゃ、この話は諦めるんだな」
 が、そんな胸の裡を知らずして、目の前の若者は何事でもないようにさらりと云ってのける。
 なまじ端整な顔立ちだけに、それが何とも酷に聞こえる。
「そんなっ…」
 思わず出た声が、縋った藁を離すまいと必死だった。
「あんたはただ伝えりゃいいのさ。あとは松風の決める事だ」
 その藁の先で、切れ長の双眸が、憎らしい程清々しく笑った。





春ざれ(弐)







短 編