春ざれ (弐)
「まぁ、まぁ、良くお越し下さいました。いえね、本当を云えば、岩佐屋さんにお願いした時には、
半ば諦めていたのでございますよ。何しろ伊庭さまは大身のお旗本、岩佐屋さんも頼りにはなりません。
ですからこの身を張ってお願いにあがる覚悟は端からできておりました。 …それがこうして御快諾頂けるとは…。まるで夢のようでございますよ」
琴場松風は、大仰な身振り手振りで、己の僥倖をまくし立てた。その勢いに、宗次郎は圧倒されている。 ちらりと横の八郎を垣間見れば、これは松風の言葉に、機嫌良く頷いている。
更に視線を遠くに辿ると、その斜め後ろ、座敷の端、庭に近いところで、岩佐屋の若旦那伊助だけが、
どうにも渋い面持ちで端坐している。
八郎が、試衛館に来たのは一昨日の事だった。
いつもふらりと遣って来、宗次郎相手に好き勝手に振舞って帰るのだが、その日は違った。
主の周斎に用があると云う。訝しながらも、宗次郎は周斎の部屋に、八郎を通した。
が、四半刻もしただろうか、今度は宗次郎が周斎に呼ばれた。
周斎は宗次郎の顔を見るなり、明日から二日の間、傳馬町の絵師琴場松風の処へ、八郎の供をするようにと告げた。
その口調はごく気楽なものだった。
二人の、代わる代わるの説明によれば――。
松風が版元岩佐屋を使い、どうしても八郎を描きたいと願い出たのが二日前。
無論断ったが、松風は諦めず、今度は自分の贔屓筋の、然る大名家を通して懇願して来た。
そうなれば、事は八郎だけの問題では済まなくなる。
相手にも面子(めんつ)と云うものがある。伊庭家としても、無碍に断る訳には行かない。
そんな事情が有って、渋々承知したものの、何もせず、ただ姿を描かせている時は長い。
しかも見られている事を意識すれば、表情とてぎこちなくなろう。
そこで思案の末、宗次郎と一緒ならばと、八郎は閃いた。
二人で談笑していれば、時の過ぎるのも苦にはならないだろうし、何より、いつもどおりの自然な自分でいられると、八郎は云う。 その申し出に、周斎は心良く応じた。
そんな経緯を経、今宗次郎は、松風の家の客間に端座している。
松風の家は、大店の寮を買い取り、手を加え瀟洒に造り直したと云う。
近くには、四方に堀と塀を巡らせた傳馬町の牢屋敷がある。
そう云う環境を忌み嫌うのか、辺りに家はまばらだった。
それでも天道はわけ隔てなく地を照らし、人気の薄い静寂が、明るい春の陽と相俟って、穏やかな心地良さを醸し出している。
油断をすれば、眠気に誘われるような長閑さだった。
「桜餅、食べて下さいな。お口に合うかどうか分かりませんけど」
不意に、野太いが、優しい物云いの声が掛った。
慌てて瞳を上げると、松風が柔らかく目を細めている。
先程からひと言も会話に入れない自分を気遣ってくれたのだと分かり、宗次郎は項まで紅くした。
「近くの店のものなんですよ。でも塩に浸した桜の葉が丁度良い塩梅でしてね、 あたしも毎年この時期になると、それはそれは楽しみにしているんですよ」
「そういや、桜餅ってのは、江戸と上方じゃ違うらしいな」
話に弾みをつけるように、八郎が加わった。
「そうなんですよ、若さま、聞いて下さいまし」
途端、松風の口調が早くなった。
「あたしも吃驚しました。三年前の春、物見遊山で大坂へ行ったんですよ。 そうしたらまぁ、江戸の桜餅と同じようなものだって出されたのが、見た事もないへんてこりんな菓子で… 道明寺って云うらしいんですけどね。でもあたしの知っている桜餅とは似ても似つかない。 で、こりゃ、桜餅じゃありませんよって云ったら、今度は、江戸のが偽もんで、こっちのが本物の桜の季節の菓子だって云うんですよ。
江戸のが偽もんだなんて云われちゃたまったもんじゃない。あたしゃ腹が立って腹が立って、…その場で席を立って帰って来ちゃいましたよ」
「へぇ」
相槌を打った声が笑っていた。
嫌なら消せば良い記憶を几帳面に畳んで置おいて、又それを持ち出しぷいと横を向いてしまった子供のような松風の人柄を、
八郎は面白がっている。 つられて、宗次郎の、松風に対する硬さも和らいだ。
「あの…」
その親しみが、自然と声になった。
「桜餅、頂きます」
懐紙に載せた桜餅を口に入れると、塩に浸した葉の効き具合が、餡の甘さを上品に引き立てている。
口の中で、花が、ふわりと仄ひらくようだった。
「美味しい」
素直な言葉が唇から零れた。
「あら嬉しい」
途端、両手を叩かんばかりに合わせた松風は、心底嬉しそうだった。
食べ終わると、宗次郎は、庭に視線を移した。
そこに桜の大木がある。
来た時から気になっていたが、目を遣る余裕が漸く出来た。
それに気付いたのか、松風も同じように桜を見た。
「あたしはあの桜が気に入って、ここを買ったんですよ」
「じゃぁ、この家の主は桜って訳か。当代屈指の絵師は、大した洒落者だな」
「云われてみれば、そうかしら?」
八郎の半畳に、松風は小首を傾げた。容姿に似合わぬ仕草だが、当人は大真面目らしい。 その松風に苦笑しながら、八郎は立ち上がった。
「庭に下りてもいいかえ?」
上から掛った声に松風が目を上げた時には、伸びやかな背は濡れ縁にあり、そのまま、沓脱ぎにあった草履に足を入れていた。
そう広くはない中庭だから、幾らも歩かない内に桜の木まで辿り着く。
競うように綻んだ花で、枝は重たげにたゆんでいる。
一瞬そよいだ風に幾らかの花弁が舞い、それが肩にかかった。
そんな桜のもてなしに目を細めながら、八郎は座敷に目を向けた。
「来いよ」
屈託のない声が、宗次郎を呼ぶ。
「どうぞどうぞ、あたしの桜を見て遣ってくださいまし」
どうしようか、戸惑う心を見透かせたように、松風も宗次郎を急(せ)き立てる。 いつの間にか、八郎は手招きまで始めている。 そうなれば好奇心が、遠慮の衣をあっと云う間に剥ぎ取る。
目の前の松風に形ばかりの頭を下げた次の瞬間、宗次郎の瞳は、もう桜を映し出していた。
「邪魔っ」
不意に耳元で響いた濁声に、伊助は我に返った。
慌てて見れば、すぐ間近に松風の不満げな顔があった。
途端、伊助の顔も歪んだ。心地よい陶酔から強引に覚まされたような不快感が、みるみる胸を覆う。
「あんたにそこに頑張っていられちゃ、うつつの夢も泡と弾けちまうわよ」
「苦労してあの子を探し出したのは、このあたしですよ」
「だからあんたが其処にいると、その苦労も御破算なの、あたしは早くあの子を描きたいのっ。
自分の苦労を無駄にしたくなけりゃ、さっさと、どいたどいた」
「事が成就すれば、邪魔者はとっとと去れですか?はい、分かりました、よございます。先生のお言葉には逆らいませんよ。 何しろ先生には、岩佐屋の命運を賭けていますからね」
愚痴りながらも、伊助は、名残惜しげに庭へ視線を遣った。
先程、自分を夢路に誘った光景がまだ其処にある。
一番近い枝に触れようとしている、真っ直ぐに伸ばした少年の腕は袂が落ち、細い二の腕が露わになっている。
だが枝は、届きそうで届かない高さにある。 一心に桜を見上げている横顔には、優しい姿形に似合わない悔しさが滲む。 そんな小年の様子を、幹に背をもたれ、八郎は楽しげに見ている。
満開の桜の、その下。
陽春を浴びた花が、白く辺りを霞ませる。
美しいと、一言で仕舞ってしまうには物足りない。
綺麗だと、言葉にするだけではもどかしい。
出来るのならば、過ぎゆく時を止めてしまいたい。
いっそどこかに閉じ込めてしまいたいと、願わずにはいられない。
見ていれば、うつつを離れてしまいそうな、心魅かれる光景だった。
胸の内に仕舞った儚いものが壊れるのを恐れるように、伊助はそっと立ち上がった。 途端、らしくも無くそんな思いに捉われた自分が可笑しくて、思わず苦笑が浮かんだ。 それを松風が見止めたらしい。見上げた顔が、訝しげだった。
「いえ、こっちのこと」
初めて先手を打った気分の良い声を置き土産に、伊助は足を踏み出した。
縁に出た寸座、八郎だけが、ちらりと此方を見た。宗次郎はまだ桜を見上げている。 その白い額に、悪戯するように桜が花弁を舞わせた。 どうやら花は、少年に好かれたいらしい。
「苦労したご褒美は、桜から貰いましたよ」
ひとり呟き、踵を返した足取りが軽かった。
「本当に御免なさいねぇ」
狸のような丸い目を瞬かれ、宗次郎は困惑の中で言葉を見つけられずにいる。
約束の刻限に来てみれば、八郎はまだ着いていなかった。
その内来るだろうからと、昨日の座敷に招き入れられてすぐの事だった。
不意の来客で遅れる旨、八郎が遣いを寄越したと松風が伝えに来た。
「では八郎さんは、いつ頃来るのでしょうか?」
「何でも昼過ぎになるとかで…」
首を傾げて云う声が、とぼけたように語尾を濁した。
「昼すぎ…」
が、宗次郎はその話術に捕まった。繰り返した声が、心もとなげだった。
まだ四ツの鐘すら聞いていない。おまけに昼すぎと云われても、何刻とはっきりとしている訳ではないらしい。
一日でずいぶん打ち解けたとは云え、昨日は八郎と松風との会話を楽しく聞いていれば良かった。
だがいざ松風と二人きりとなれば話は違う。
元々人見知りをする気質であったし、自分から話題を探せる程器用ではない。
気詰まりばかりが、重く心に圧し掛かる。
躊躇った後、宗次郎は瞳を上げた。
「では私も昼過ぎに来ます」
声に、ひとつ物事を決めた潔さがあった。
牛込柳町の試衛館から、ここ傳馬町まで――。
戻っても、又すぐに出直さなければならない道のりだった。
人が聞けば呆れる決断だろう。だがそれでも宗次郎にとっては、その方がずっと気が楽だった。 それにもうひとつ。 宗次郎には誰にも云えぬ希(のぞみ)があった。 それは日野に行って留守にしている土方が、もしや帰って来るのではと思う、願いにも似た、密やかな希だった。
出かける時土方は、戻るのは明日だと云った。だがそれが今日になる事を、誰が違うと云いきれよう。
土方が帰ってきたその時、一番に出迎えるのは必ず自分でありたかった。
気詰まりよりも、そちらの想いが強く宗次郎の心を動かした。
「あっ、駄目っ」
が、立ち上がりかけた宗次郎を、悲鳴のように裏返った声が止めた。
「いらした時に宗次郎ちゃんがいなきゃ、伊庭の若さまはきっと帰っちまいますよっ、だからお願い、この通り」
もう一度向き合った宗次郎を拝むように、松風は丸い手を合わせた。
「今日はね、朝早くに起きて、向島の長命寺まで買いに行って来たんですよ」
松風自ら運んで来た皿の上には、昨日よりやや小ぶりな桜餅が行儀よく並んでいる。
「たんとありますからね、お師匠さんへお土産にして頂戴ね」
「そんなにして頂いたら申し訳ありません」
「いいの、いいの。宗次郎ちゃんに食べて貰えると思ったら、あたしったら興奮して眠れ無くなっちゃってね。 夜明けが待ち遠しかったなんて、ほんと、久方ぶり」
いつのまにか、さんからちゃんへ変わっている呼び方も、宗次郎は気にならない。
浮き浮きと語る人気絵師は、普通の人間が云ったら傲慢になるだろう我儘すら憎めない、不思議な愛嬌のある男だった。
荒熱を取った湯で、ゆっくり葉が開くのを待ち湯呑に注ぐ。
それを盆に乗せて立ち上がると、松風は、濡れ縁に腰かけている宗次郎の処へやって来た。
白い陶磁の湯呑にあるのは、まろやかさが香り立つような深い碧の茶だった。
一番茶にはまだ早いが、極上のものだとは一目で知れた。
「宗次郎ちゃんが、伊庭の若さまと知り合ったのは、やっぱり、やっとうで?」
「いえ…」
何気ない問いかけだったが、意外な事に、いらえは中途で途切れた。
「あら、違うの?」
素っ頓狂な声に、どうして応えて良いものか、宗次郎は思案するように瞳を伏せた。
八郎との出会いは少々変っていた。
真夏の野試合の最中(さなか)、具合が悪くなり木陰で休んでいる処に、八郎が声を掛けてくれたのが始まりだった。
だから剣術と直接結びつけてしまうには少し違う。
が、宗次郎が瞳を伏せたのは一瞬の事で、次に松風を見た時には、衒いの無い笑い顔になっていた。
「でもそう云う事になるのかもしれません」
あの野試合が無ければ八郎との出会いは無かっただろう。
だとしたら、やはり剣術が八郎との縁を結んでくれたのだ。
そんな思いが戸惑いをふっ切り、声を明るくさせた。
「長いおつきあいなの?」
その心の変化を上手に見極めた間合いの良い問いに、しかし今度は、細い首が小さく振られた。
「初めて出会ったのは、去年の夏の事です」
「あらまぁ、そうなの?あたしはもうてっきり、幼馴染か何かと思っていたわ」
見開いた目に、正直な驚きがある。
そんな風に云われれば、宗次郎にも八郎との付き合いが、まだ一年にも満たない短さであるのが不思議な事のように思えてくる。 それ程に、宗次郎にとって、八郎は身近な存在になっていた。
「宗次郎ちゃんは、伊庭の若さまの事が好き?」
「はい」
すぐに返った声には、衒いも迷いも無い。浮かべた笑みにも、邪気と云うものは皆無だった。
「…そう」
それに笑って頷きながら、松風は、心の裡で小さな吐息をついた。
今回の件に骨を折る代わりに、思いもかけぬ条件を持ち出した若者の恋は、相手には露ほども伝わっていない。
吐息は、それに対する憐憫だった。
「早々に諦めた方が得策かもね…」
聞こえぬように呟いたつもりが、宗次郎には届いてしまったらしい。
深い色の瞳が、訝しげに松風を見詰めていた。
「あら、ごめんなさい、こっちのこと」
何をかも見透かせてしまいそうなその色に吸い込まれぬよう、松風は慌てて誤魔化しの笑いを作った。
春ざれ(参)
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