春ざれ (参)
一足早く、新緑を包み込んだような芳しさが、湯呑みから香り立つ。 「ねぇ…、宗次郎ちゃん」
視線を湯呑みに落としながらの小さな呟きに、桜を見ていた面輪がゆっくり振り向いた。
が、松風は顔を上げない。
上げずに、悪戯するように湯呑の中の茶を揺らし、もう一度口を開いた。
「宗次郎ちゃんには、誰か好いた人がいるの?」
何気ない一言だった。
だがその寸座、放れ雲に遮られた春の陽が、明るく照らしていた地に一点影を刻んだかのような、間の悪い沈黙が起こった。
「あら、ごめんなさい。変なこと聞いちゃったかしら。いやだわ、あたしったら、とんだ野暮」
が、すぐにその気まずさを取り戻したのは、朗らかな笑い声だった。
「いえっ…、私こそ…。急にだったから、少し驚いてしまいました」
慌てて返ったいらえが、ぎこちない。
鎮まらぬ動揺を隠そうとするその必死さが、哀れな程に痛々しかった。
松風の中に、もしや…、との思い思いが渦を巻く。
「…でも、好いた人などいません」
しかし続いて聞こえて来た声に、宗次郎を見ると、其処に、柔らかな笑い顔があった。
「えっ?」
「いないのです」
口辺に笑みを残したまま、宗次郎は桜に視線を戻した。
が、背を向け掛けたその一瞬、ふと瞳を過った翳りを、絵師の目は見逃さなかった。
「そうなの…。好いた惚れたはの初恋は、まだこれからなのねぇ」
語りかけながら見詰めている細い項(うなじ)から横顔の線が硬い。
それは今の宗次郎の心そのもののように、松風には思える。
やはり、少年は恋をしていた。
だがそれはまだ片恋のままでいる。
相手は八郎では無い。
しかも宗次郎は、己の恋を誰かに知られる事を恐れ怯えている。
少年の恋は、密やかで苦しい。
可哀想な事を聞いてしまったと、松風の心がちくりと痛む。
そんな思いに捉われた隙だった。
「松風さんは、好いた方はいなかったのですか?」
桜を見ていた面輪が、くるりと松風に向けられた。
突然話を振られ、松風は、口に含みかけた茶を慌てて呑み込んだ。
「あたし?」
咽るのを抑え、とんとんと胸を叩きながら聞き返した声に、曇りの無い瞳が頷いた。
「宗次郎ちゃんも、案外、意地の悪い事を聞くのねぇ」
「だって、同じ事を、さっき松風さんは私に聞きました」
そのお返しだとばかりに、声は悪戯げに笑っていた。
「…恋ねぇ。そりゃ、あたしは惚れっぽいから、好いた人間は数知れないわよ。とんでもないけれど、両の手足じゃ足らない位。けどいつも振られっぱなし。ひとつも成就した試しが無いんだから、いっそ大したもんよ。尤も上手く行っていりゃ、こんな処で飯炊き爺さんと二人でいる事も無いんだけどね。今頃は好いた相手と幸せに暮らしているわ」
丸い体と丸い顔。
全ての造作が丸い中、それだけが意外に繊細な指を口元に当てると、松風は笑った。
その声に湿っぽさは無く、軽妙な口調が、宗次郎に、松風との垣根を外して行く。
「けどね…」
下がり具合の丸い目が、ふと宗次郎から桜に移された。
「あたしは自分の恋を失くしても、この世の終わりみたいに悲嘆にくれたり、死んでしまいたい程哀しいと思った事が無かったの。…どうしてかしらね。もちろん、本当に惚れ込んでいたのよ。でももしかしたらそれは、恋に恋しているだけで、まだ本当の恋にまでなっていなかったのかもね」
語尾が呟くようになった。
それはもしかしたら、松風の、自分自身への問いかけなのかもしれないと、宗次郎は松風を見詰めた。
「少しだけ、話をしてもいいかしら?」
柔らかに細められた目を向けられ、宗次郎は黙って頷いた。
「昔の事なんだけれどね…。あたしには、血を分けたも同然の兄弟子がいたの…、あ、あたし、小さい頃は守田座にいたのよ。叔父が守田座の座元をやっていていてね、こう見えても名子役」
「守田座に?」
「そう。あたしの居た頃、守田の守(もり)は、まだまもる守じゃなくて、木が三つの森。小屋も猿若町じゃなくて木挽町にあったの。でも森田座は内緒が苦しくて、かつての河原崎屋に助けて貰ってどうにか芝居を打てる有様だった。それがお上の采配で、芝居小屋は全て猿若町に移る時に、森の下に田んぼじゃ日蔭になって実らないのも当然だって事で、守ると云う字に変えて、今じゃ守田座。当て字にして当たりゃ、世間さまに苦労なんて無いわよ」
「そうだったのですか」
ふんと鼻をならした松風らしい辛辣な意見に、宗次郎が笑った。
芝居小屋の名前はともかく、猿若町は、宗次郎にとって、切っても切れない大事な縁のある町だった。
だから町の名を聞いた途端、宗次郎の裡で松風は、一足飛びに近しい人になった。
だが松風は、そんな宗次郎の事情など知る由もない。
話を続けるべく、唇を湿らせた。
「話しがそれちゃったけれど、その兄弟子、そりゃあ綺麗な人でね。いずれ後の世にも名を残す名女形になるだろうと、誰もが思っていたわ。姿形も綺麗だけれど、舞台に品があってね、そんじょそこらの女形など束になっても敵うものじゃなかった。身内の贔屓目を差っ引いても、吉原にだって、あんな品の良い花魁はいないわよ」
置いてきた忘れ物を探すように、松風は緩やかな口調で昔語りを紡ぐ。
「だからさ、他の小屋からの引き抜きの声も多くて、叔父なんざいつも目を光らせていたわ。でもあたしには分かっていた。兄弟子はどんな好条件を出されても、決して余所へは行かないって…」
「何故です?」
深い色の瞳が、松風を凝視する。
その奥に忍びやかに揺れるものがある。
小年の恋心は、その理由に秘められた機微を敏感に察し、自分の胸に抱くものと重ね合わせたのかもしれない。
「恋よ」
「…恋」
儚い呟きだった。
それは予想していたにも関わらず、いざ心の裡を云い当てられ、うろたえているかのようだった。
そんな一途さを、松風は楽しげに見詰めている。
「そう、恋。兄弟子には、同じ守田座に好き合った人がいたの」
「その相手の方も、役者さんだったのですか?」
「そうよ。相手は当時、傾いた守田座を一人でしょって立っていた、光五郎。舞台に立てば千両役者だったけれど、それだけじゃ無くて色々に才覚のある人でね。俳諧を嗜んだり本を読んだり…。役者風情がと嘲笑われても、熱心に師匠の元に通って、その全部を芸の肥やしにしてしまうような、芝居莫迦だった」
過ぎた日々を遠くから見詰めるように、松風は少しだけ目を細めた。
「その光五郎兄さんが、兄弟子を相手にすると、もうこの世のものとは思えないほど綺麗な二人でねぇ…あたしなんか、ちょっと怖い気がした位」
「どうしてでしょう?」
「何故かしらねぇ。…たぶん、綺麗すぎて儚い思いが先に立っちゃったのかもしれないわ。ほら、満開の桜を見る時、ふっと寂しさを感じない?桜は散るから綺麗なんて嘘、綺麗だから散るのよ。綺麗なままの自分を、人の目に焼き付けて置いて欲しい…。美しく生まれたものが背中合わせに持つ矜持と、哀しい性(さが)よね。それと似たような感情を、二人に感じたのかもしれないわね」
思いもよらない松風の繊細な心が、柔らかな口調のままに、宗次郎の裡に沁み入る。
そんな心地良さに誘われるように庭の桜に目を移せば、今が盛りの花は、春の陽を弾き白く煌めいている。
だが豪奢とも思えるその姿は、確かに、ある種の寂寞感をも覚えさせる。
それが松風の云う儚さなのかと、宗次郎は思う。
「ある日ね」
声に視線を戻せば、松風は同じように桜に視線を遣っていた。
「その光五郎兄さんが、自分で書いた筋書きを演じたいと、座元に云いだしたの」
「松風さんの叔父さんと云う?」
「そう、叔父。でも叔父は即座に駄目だって怒ったの」
「何故…?」
「それは光五郎兄さんの他には誰も舞台に上がらない、一人芝居だったからよ」
「松風さんの兄弟子の方も…ですか?」
「そうなの、誰もいない一人だけの舞台。賑やか好きな江戸っ子には当たりゃしないって、叔父はその場で、光五郎兄さんの本を放り投げたわ」
「どんなお芝居だったのですか?」
「あら、興味がある?」
嬉しげな声が問う。
それに細い頤が、遠慮がちに頷いた。
「勇猛な武将である男が戦を終えた時、紅い血を浴びた鎧に、はらはらと舞う白いものがあったの。ふと見上げると、其処は満開の桜の木の下だった。その時は、花弁を降らせる桜へ、自分への労わりかと笑うだけだけで、武将はその場を後にしたの。でもその後何年も戦を繰り返したある春、武将は、あの時の桜を無償に見たくなったの。漸く見つけた桜は、幾星霜を経ても変わらず、ひっそりと森の中にあり、同じように白い花弁を散らしていた。その姿を見て、武将は、自分が得てきた栄華も、いつかはこの花のように終(つい)を迎えるのだと思い、初めて、桜の木の下で泪を流すと云う物語」
一息に語り終えた松風の横顔を、宗次郎は黙って見詰めている。
その額に掛かる髪を、柔らかな風が揺らす。
「…まさしく、盛者必衰の理を成す、なんて話なんだけどさ、派手な舞台じゃないから、誰もが失敗に終わると思うのは当然だったの。それにね、確かに表舞台は光五郎一人だったのだけれど、もう一人、どうしても三味線を弾く人間が必要でね。それは科白を極端に抑えている武将の心を代弁するから、光五郎兄さんと阿吽の呼吸を必要とするような人間で、しかも舞台は生き物だから、卓越した技術を必要としたの。でもそんな三味線弾き、見つかる筈もないと思っていたら…。名乗り出た人間がいたのよっ」
「それは、松風さんの兄弟子さんだったのでは?」
「当たりよ、宗次郎ちゃん、勘がいいわっ」
いらえの声が弾む。
それにつられて、宗次郎の面輪にも、嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「兄弟子は長唄、三味線、笛…、そう云う裏方の芸の鍛練も怠らない人でね。好いた人間に置いて行かれまいと、やはり芸を磨いていたのね。その中でも三味線は玄人はだしだったの。でも本業じゃないから、舞台で裏方を務めるとなれば話は別。それでも光五郎兄さんの横で細い指を突いて、座元に下げた頭を上げず、この芝居をやらせて欲しいって、必死に頼んでいたっけ。その二人の後ろ姿は、今でも目に焼き付いているわ」
「それで出来たのですか?お二人の芝居…」
一人芝居と云わず、二人のと言葉になったのは、そうあって欲しいと願う宗次郎の恋心が云わせたものなのだった。
だが其処まで、少年の稚(おさな)さは気づいていない。
無防備に零れ落ちてしまった素直な感情に、松風は微笑した。
「出来たの。最後には叔父も渋々承知してね。尤も、あそこで二人で座を出られちゃ目も当てられないから仕様がないわ。でも叔父は、十日限りと云う期限を切って、それで客が入らなければ打ち切りって約束をつけたの」
「…十日」
「そう、十日。案の定、初日は惨憺たる入りでね。座の皆は、こりゃ十日はおろか、三日で打ち切りだなんて噂したわ。でも光五郎兄さんの気迫は凄かった。そしてそれを裏から支える兄弟子の三味線は、武将の心を揺らす無常と哀切を、言葉以上に聴く者に伝えてね…、あたしは身顫いがする程だった。それがお客さんにも伝わったのね、初日より二日目、三日目…、気がつけば約束の十日目には満員御礼の幕を下げる位だったの」
「では大成功だったのですね?」
自分の事のような喜びと安堵が胸を覆うのは、松風の語りの中の二人が、宗次郎にとって、いつの間にか他人ではなくなっていたからだった。
「そう、興業としては大成功だったわ。でも光五郎兄さんは、約束どおり十日でこの芝居を打ち切ったの」
「なぜ…」
「自分の為に三味線を引き続けていた、兄弟子の為よ」
瞬きもせず見詰める瞳に、松風は笑いかけた。
「兄弟子の指は、皮膚が剥けて血が滲み、そりゃ酷い有様だった。当の本人はそんな事はおくびにも出さず、涼しい顔をしていたから誰も気づかなかったけれど、光五郎兄さんだけは分かっていたのね」
「その後は…?元のように、二人で舞台に立ったのですか?」
「…ううん」
松風は笑みを浮かべたまま、小さく首を振った。
その笑みに、初めて憂いと云うもの滲んだ。
「光五郎兄さん、死んじゃったのよ」
さらりと告げられた言葉に、深い色の瞳が、不思議な事を聞いたかのように松風を見た。
「舞台が終わって、ひと月もしないうち。今のような桜の頃…流行り病でさ。それこそ、あっと云う間。哀しいよりも信じられなくて、皆、泪だって出て来やしない」
「…そんな」
「誰もが、そんなと思ったわ。でも本当なの」
「では松風さんの兄弟子さんは…」
「皆が呆然としている中、兄弟子は、目を開こうとはしない光五郎を、ただただじっと見詰めていたっけ…泣きもせずにね。元々芯の強い人だったけど、好いた人間の亡骸を前に泪ひとつ零さない兄弟子に、あたしは腹が立って腹が立って…初めて刃向かった。光五郎兄さんが亡くなって二日した日の夜、兄弟子を小屋の裏の桜の木の下に連れて行くと、どうして辛抱するんだと責めたの」
「松風さんが?」
「そうよ、辛い時は泣けばいいんだって。あたし達は体裁ばかり繕うお侍さんじゃないんだからって詰め寄ったの。そうしたら、泣けないんだよって、兄弟子は云うの。満開の桜を見上げながら、どうやら光五郎が魂を持って行っちゃったらしいよって笑ったの。その時の笑い顔は、忘れろって云われても忘れられない。苦しいのとも違う、哀しいのとも違う、胸が切なく締め付けられるような、見た事も無い綺麗な笑い顔だった。…心から人を好いて好いて好いてしまうと、そうなってしまうのかと、あたしはぼんやり思ったわ」
「…心から、人を好く」
「でもやっぱりあたしは得心できなかった。好いていた人を失くして、哀しく無い筈が無いじゃないって、尚も喰ってかかったら、兄弟子は、しょうがないだろう、光五郎はあの世にあたしを連れてっちまったんだからって…、やっぱり微笑むだけだった。その時だったわ、夜風に揺れた桜の枝が撓り、白い花弁の吹雪が兄弟子を包み込んだの。その渦の真ん中で、兄弟子は愛おしげに目を細めると云ったの。…ほら、光五郎が来たって…」
その一瞬の、恍惚とした表情は今も眸の中に鮮明にあるのだと、松風は宗次郎へ視線を戻しながら、寂しげに笑った。
「その時はあたしも、本当に好き合った仲なら、そう云う事もあるのかもしれないと、それ以上の言葉は出なかった。でもね、今は少し違う」
「違う…?」
「そう、違うの。兄弟子は、やっぱり哀しかったんだと思う。ただ哀しすぎて、心が空っぽになって、それでそうとでも思わなければ堪えられなかったのだと思うの。そんな風にして足を踏ん張っていなければ、きっと光五郎兄さんの後を追ってしまうに違いないと分かっていたんだと、今になれば思えるの。残されて宙ぶらりんになっちまった心をどうしてくれるのかと、一言でも恨みを声にした途端、兄弟子は自分が狂っちまうのを承知していたのかもしれない」
宗次郎は、松風を見詰めている。
哀しい恋の語りを、一言一句聞き逃さぬように、瞬きもしない。
「人は生きて行く間には、誰かに恋をするわ。でも生涯を、一人の人間に縛られ終えるような、そんな恋に巡り合えた兄弟子は、不器用な生き方だけれど、幸せなのかもしれない」
「生涯を縛られる…恋…?」
「そう、宗次郎ちゃんにも、いつかそう云う人が現れると良いわね」
柔らかな視線に見詰められ、深い色の瞳の下に、つと淡い翳が差した。
薄い瞼が一瞬、瞬いたせいだった。
裡を過った憂いにも似た感情を悟られまいと、宗次郎はゆっくり縁から離れた。
歩み始めた先に、桜の木がある。
土を鷲掴むように張る根を見せる木は、思いの外樹齢を重ねているのかもしれない。
花は花に重なり、一筋の木漏れ日すら通さない。
華厳の中に、寂とした影が落ちている。
その下に、宗次郎は佇んだ。
「…生涯を、…縛られる恋…」
言葉は、花に埋もれさせるかのように、唇の微かな動きだけで呟やかれた。
伸ばした指の先に、半分にも満たない綻びの花が触れた。
上の花に陽を遮られ日蔭になった此処は、まだ花開くに間があるのだろう。
花弁は、ひんやりと湿り気を帯びている。
だがその感触が優しい。
眩(まばゆ)い光華を白い花が遮った桜の下は、其処だけが現と切り離されたかのようで、その錯覚が宗次郎を大胆にさせる。
胸を切なく締め付けるもの。
密やかな想い。
その苦しみから逃れるように、宗次郎は桜に問いかける。
いつか土方は気づいてくれるのだろうか…。
気づいて、応えてくれるのだろうか。
この恋心に――。
風がそよいだ。
それは微かに枝を揺らしただけだったが、花弁は己の行き先を知っているのか自ら宙に浮き、やがて羽をたたむように、宗次郎の肩に舞い降りた。
忍ぶように視線を動かせば、遠くの松風は、縁に紙を広げ絵筆を動かし始めている。
昨日の続きを仕上げるつもりか、此方を気にする気配は無い。
安堵と共に今一度見上げた桜は、宗次郎がそうするのを待っていたかのように、今度は先ほどよりも数多(あまた)の花弁を舞わせた。
「…土方さん」
花の誘いに負けた唇が、花弁を食(は)むのを恐れるかのように、恋しい人の名を呼んだ。
春ざれ(四)
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