寒九の雨 (壱) 睦月も半ば近くになれば、正月気分の抜けぬまま、浮かれた賑わいを残していた町もそれなりに落ちつきを見せ始める。 が、この頃合に降る雨は、指の先までをも凍てつかせてしまう。 せめてこれが冷たい水の礫ではなく、白い氷のそれだったら、少しは目を楽しませる事もできようにと・・・ そんな埒も無い思いに捉われながら、狭い民家の軒下に身を寄せ、一向止む気配の無い雨を恨めしげに見、小さく吐いた息が白く濁った。 姉の光へ宛て、近況を記した遅い賀状代わりの文を飛脚屋に託し、其処を出てからまだ半刻も経てはいない。 あの時、うららかな陽が降り注いでいた直ぐ後に、こんな天の戯れが待ち受けていようなどと、誰が予測した事だろう。 今借りている軒先は短く、雨露を凌ぐのに精一杯で、このまま降りが勢いを増せば濡れ鼠の体(てい)は免れない。 しかも小さな家作が幾つか続くだけのこの通りは、人の気配を全く感じさせず、その寥々(りょうりょう)とした閑寂さが、余計に寒気を身に染入らせる。 ――荷車や人が慌しく行き来する、活気と喧騒に包まれた大路を避け、敢えて細い裏通りを選んだのは、静かに零れる陽の中に、まだ微かに残る正月独特の長閑けさを感じたいが故であったなどと――。 道草の言い訳を土方が知れば、どのような小言が返ってくる事か。 否、その土方の顔を、少しも早くに見たいが為の、これが近道だったのだと・・・ 思えば耳朶まで朱に染まるような本当をきつく胸に仕舞うと、総司は喉首を反らせ、冷たい雫を降らせ続ける天を見上げた。 が、その動きが不意に止まり、同時に、前方へ向けられた深い色の瞳が、泥飛沫を上げて此方へ近づいて来る人影を映し出した刹那、一瞬の緊張が白い面輪に走った。 しかしそれは束の間の事で、無防備な程に相手に構えが無いと判じるや、総司の身からも籠められた力が抜けた。 それでも男は総司に気づく事無く、折った肘を目の上に翳し、それで雨を凌ぎながら走り来る。 そうし間際まで来て、漸く其処に先客を認めると、それまで休む事の無かった足がぴたりと止まった。 長いこと走り続けていたらしい名残りは、肩を揺らして荒く吐き出される白い息が物語り、鉛色の情景の中、其処だけが唯一色を違(たが)える。 遠目に雨宿りの場を見つけ、その勢いのままやって来たは良いが、陰になっていた総司の姿までは判じられなかったらしく、その事が男を困惑させているらしい。 「どうぞ」 その相手の戸惑いを見透かせた総司が、柔らかな物言いで身を寄せると、丁度人ひとり分の空間が出来た。 それでも躊躇いが勝るのか、男の足は中々先へ踏み出そうとはしない。 「・・あの・・、雨宿りをさせて貰える処は、ここだけなのです」 そう教えながら瞳を横に移すと、相手もそれにつられるように目線を動かし界隈の様子を探っていたが、確かに総司の云うとおり、他の軒下には、積まれた槙や樽が処狭しと並べられ、身を寄せるような場所は無い。 「それにこの雨は、まだ当分止まないと思います」 更に、諦めに傾きかけた男の心の隙を突くような邪気の無い笑みが、細い線で縁取りされた面輪に広がると、漸く男も意を決したように一歩前に進み出た。 「かたじけない」 同じ雨宿りの身、しかも他人の家の軒先を借りてのそれであったが、男は先客であった総司に対し律儀に頭(こうべ)を垂れると、遠慮がちに傍らに並び立った。 「・・・都の雨と云うものは」 自分から話題を作り出す器用を、共に持ち合わせてはいない二人だったようで、少しばかりぎこちない沈黙が続いたが、やがてそれにも居心地の悪さを覚え始めたのか、先に口を開いたのは男の方だった。 「冬でも風情があるものと思っていましたが、こうして身を震わせる冷たさだけは、何処の雨も同じようです」 「お国元は、京から遠いのですか?」 初めての相手に幾分踏み込んだ問いかと迷いはしたが、しかしその遠慮を押したのは、強か雨に濡れている質素な羽織袴も、精悍な造りの浅黒い横顔に見え隠れする、少々の疲労の色も、全てが、自分達が江戸から京へ上ってきた三年前を思い起こさずにはいられない、総司の感傷がさせたものだった。 「いえ、距離にすればそう遠いものではありません。但馬の、豊岡と云う処です。海と山に挟まれた小さな藩ですが、今頃降るものは、大方が白い雪と決まっています。それ故、こんな風に今日雨に合った事は、吉兆だと思えなくも無いのですが・・」 そんな総司の胸の裡など知る由も無く、云い終えるや天を見上げた顔には、もう屈託の無い笑いが浮かんでいた。 「・・・吉兆?」 だが不意の言葉の意味を判じかねた唇からは、謎解きに迷う心許ない呟きが漏れた。 「これは・・」 不思議そうな声と瞳に見詰められ、いつの間にか会話を先走らせていた事に気づいた男の顔が、羞恥と狼狽の両方に染まった。 「寒九の雨・・、と云うのをご存知だろうか?」 少々硬い声は、その照れくささの裏返しなのだろう。 それが証に、男の口調が生真面目に引き締まった。 その、様々に変わる相手の表情を両の瞳で捉えながら、総司は微かに首を振った。 「寒の入りから九日目に雨が降ればその年は豊作だと、そんな云い伝えがあるのです」 「寒の入り・・・」 教える声に呼応し、ぽつりと返したいらえには、仕舞った記憶にしこる何かに心捉われたような、覚束なさがあった。 「今年の寒の入りは、正月六日。そうして数えれば、丁度今日が九日目」 だが総司の裡に蔓延る、その釈然としない正体を一刀で断ち切るかのように、強く云い切った男の顔には、それが単なる云い伝えでも、吉と出たことへの悦びが素直に滲んでいた。 「そう云えば、今年の寒の入りには、京では雪が降ったのです」 が、その瞬間、相手の言葉のひとつが、総司自身にも手繰っていた記憶の端を掴ませ、応えた声が弾んだ。 ――剛で鳴らす兵(つわもの)どもとて、都の底冷えには勝てぬらしく、火鉢を抱え込んだ永倉が、まだ寒の入りだとうんざり漏らした愚痴に、笑って相手をしたのは確かに年が明けて六日目。 朝一番に目にした光景は、ただただ白一色に覆われた寒い一日だった。 「そうなのですか。国元でも、京の冬は酷く冷えるのだと云っていた者がいました」 白い歯を見せて笑う顔には、己を語るにもう何の躊躇いも無い。 そして飾り気の無いその様は、乾いた地を潤す慈雨にも似て、総司の裡に心地よく染み込む。 「これから、ご藩邸に行かれるのですか?」 相手にとって、この京が目的の地なのか、それともまだ先への通過点であるのか、短い言葉の遣り取りの中で其処までは判じ得なかったが、総司は無意識の内に、それを前者だと決め付けていた。 それは京が初めてと云う地理に疎い人間が、わざわざ大路を避け、こんな小路にやって来る事の不可解さを、総司なりについた推量だった。 「いえ・・」 が、深い思惑も無いまま向けた問いは、意外にも相手を狼狽させたようで、歯切れの悪いいらえが短く返った。 その思いもかけぬ変化を、不審げに見上げた深い色の瞳と出会うと、男は更に戸惑う自分を隠すかのように視線を逸らせた。 「・・すみません」 しかし直ぐに己の不調法を詫びる声が後を追いかけると、天に向けられかけていた双眸が、驚いたように戻された。 そして硬い表情で此方を見詰めている面輪を捉えるや、今度は男の方が慌てて幾度か瞬きしたが、やがてふと口元を緩めると、まるで春陽を思わせるような耀い笑いが、浅黒い顔一面に広がった。 「何を謝るのです?」 「貴方が不快になるような事を、聞いてしまいました」 「不快になど、少しもなってはいませんが」 「・・でも」 「それは貴方の誤解です」 総司に向けられた眼差しには、自らの言葉が齎してしまった結果を悔い、その気遣いで必死になっている者への労わりと、そして少しばかり、それを揶揄するような柔らかさがあった。 「藩の命で来たのでは無いのです。それ故、寝所は自分で探さねばなりません」 そうして続ける声には、いつのまにか面に浮かべている笑み同様の余裕すらあった。 「申し遅れましたが、私は脇逸平と云います。此度の上洛はあくまで私用の上でのこと。ですから藩を頼る事は出来ませんが、その分、生涯に一度きりの贅沢を楽しむつもりです」 脇と、己の名を告げた相手に見詰められ、総司の唇が慌てて動いた。 「すみません、私の方こそ失礼をしました。沖田、沖田総司と云います」 急(せ)いた名乗りは、言葉を滑らせ声を上ずらせる。 そんな自分を恥じるように、それまで血管(ちくだ)すら透けさせてしまいそうに色を失くしていた白い頬が、微かに上気した。 「沖田さん・・、と云うのですか。私にとって、貴方が京での初めての知己です。叉何処かでお会いできる僥倖があれば良いが・・」 そう告げる声音は、しかしその偶(たま)さかの希(のぞみ)は叶えられる事は無いのだと、何故かそんな風に総司には聞こえた。 それを怪訝と思い傍らの脇を振り仰いだ時、既にその双眸は、冷たい雫を降らせている厚い雨雲へと向けられていた。 だが煙る雨の向こうを見る横顔に、それまでの穏やかさを一変させる、ある種峻厳とも思える色が一瞬走ったのを、深い色の瞳は見逃さなかった。 そしてそれを眼(まなこ)に刻んだ寸座、胸の裡に重く沈んだ何かを、ふと不吉な予兆に置き換えた自分を、総司は即座に打ち捨てた。 「・・・じき、止むでしょう」 やがて前に視線を据えたまま漏れた静かな呟きが、軒を叩く雨の音に紛れた。 雨宿りが早かったお陰か、そう酷くは濡れなかったものの、それでも湿り気を帯びた着物をいつまでも纏っているのは、気持ちの良いものでは無い。 取りあえず袴だけは替えたいと、紐に手をやった寸座、しかし人の気配に気づいた指は、俄かに動きを止めた。 そのままゆっくりと振り向いたものの、気配はまだ遠い。 だがそれが誰のものであるのか分かるが故に、升目に区切られた白い紙を見詰める心の臓は否が上にも昂ぶる。 やがて伺いの声も掛からず障子が開けられ、姿を見せたのは、やはり土方その人だった。 「遅い帰りだったな」 敷居を跨いだ土方は、動きを止めたままの総司の様子など意に介する風も無く、後ろ手で、少々乱暴に桟と桟を合わせた。 「濡れたのか」 あまり機嫌の良いとも思えぬ物言いに、戸惑いを露にした面輪が微かに横に振られた。 「・・直ぐに雨宿りする処を見つけられたから」 だから濡れはしなかったのだと言い訳する声が、不機嫌の理由を探しあぐねて心許ない。 「さっさと着替えろ」 が、そんな総司の心の揺れなど知らぬ風情で返ったいらえは素っ気無く、しかも云い終えるや土方は、かいた胡坐の片膝を支えに頬杖と云う体(てい)を作っており、見下ろす者と見上げる者の視線の位置は、一瞬の間に逆転していた。 更に総司を捉える双眸は、射抜くように凝視し微動だにしない。 その荒々しい行動に暫し躊躇していた総司だったが、やがて無言の責めに負けたかのように後ろを向けると、一旦離した袴の紐に再び指を絡めた。 「伊庭が来た」 縛りつけられるような強い視線を背中に受け、緩慢な動きで紐を解いていた指が、不意に発せられた一言で止まった。 「・・・八郎さんが?」 そして呪縛からの開放の一端をようやっと掴んだ面輪が、それを逃すまいと慌てて振り返った。 「暫く此方にいるそうだ、明日又来ると、お前に伝えろと云って帰った」 「では上様も京に?」 「相変わらず、暇だけは持ち合わせているらしい」 聞いた事には応えず、吐き捨てるかのように苦々しく言い放つ土方の渋面を見ながら、先ほどからの不機嫌の原因は、もしや八郎にあるのではと。 其処まで思った寸座、総司の心の臓がどくりと高鳴った。 ――後ろから、まるで息をも止めてしまうかのように、寸分の隙も与えず、雁字搦めにこの身を縛る視線は、もしや土方の、八郎への妬心が成せるものならば。 自分の為に、土方が嫉妬に身を焦がしてくれているのならば・・・ 想いに想いを重ねたその瞬間、肌があぶく立つような震えが総司を襲い、そしてそれは瞬く間に、蒼が勝った白い頬を朱に染めた。 だがあまりに激しく自分の裡に逆巻いたこの昂ぶりを、悦びと云う感情に置き換えるには、総司の知識は稚なすぎ、又それに満足する程には、胸に滾る想いの丈は深すぎた。 「どうした」 が、そんな変化を機敏に察した土方が、訝しげに問うた。 「・・・何でもない」 急(せ)いて背中を向け、応えた声がひどく上ずる。 少しでも気を許した途端、動揺を知られてしまいそうな胸の裡を、隠して告げる言葉の調子は落ち着きがなく、紐を解き始めた手指の動きはぎこちない。 自分の動きのひとうひとつがこんなにも不自然なのを、後ろで見ている土方はもう察しているのだろうか――。 「雨宿りに借りた軒先で、一緒になった人がいるのです」 心の本当を、強引に割り込ませた独り語りに封じた物言いは、先程よりもずっと硬い。 「豊岡藩の人だと、云っていたけれど・・」 それでも、そんな不器用な術しか見つけられない自分が、総司には情けなかった。 「豊岡藩?」 が、それまで黙したままだった土方が、意外にもその一言にだけ反応を見せた。 己の狼狽の隠れ蓑が、思いもかけない方向に走ったのに戸惑った総司が、面輪だけを振り向いて土方を見遣った。 だが土方は、既に半帖程先の一点に視線を落とし、何事か思索に耽り始めている。 そしてその土方を見る深い色の瞳が、微かに揺れた。 元治元年六月五日。 三条木屋町の旅籠池田屋に集結していた浪士を新撰組が襲撃し、その名を洛中内外に知らしめたのは、一年半前の事だった。 その際捕縛し、後に六角獄舎で斬首となった者の中に、今井三郎右衛門と云う但馬豊岡藩の藩士もいた。 元々豊岡藩は一万五千石と云う禄高ながら、藩費遊学制度を設け江戸に優秀な師弟を送り勉学に励ませるなど、人材育成に力を入れ、藩の富国強兵に努めてきた。 しかしそうなればなったで、混沌が渦巻くこの時勢、外の風に触れる機会を得た者達が、様々な思想に傾倒し、或いは揺れ動くのは、無理からぬ事であった。 事実、豊岡藩の中でも、藩主京極高厚とそれを取り巻く上層部は幕府よりであったが、この今井三郎右衛門を始めとし、藩の下層部には勤皇攘夷へ走り出す者も多かった。 そしてそう云う他藩の事情を、土方の耳目は常に神経を鋭くし、一早く情報として得ている。 ――豊岡藩と、新撰組。 どのような理由で、今土方はこの藩に気を止めているのか・・・ その理由までは判じられずとも、少なくとも新撰組が、かの藩と関わりを持とうとしている事だけは確かだった。 それは黙考にある端整な顔(かんばせ)が、いつの間にか怜悧を極める新撰組副長のそれに変わっている事が何よりの証だと、総司に教えていた。 「・・脇さんと云うのです、雨宿りが一緒になった、その人。京へは初めて来て、知り人もいないのだと云っていた」 語りかける声が不意に勢いづいたのは、束の間ではあったが、狭い軒下で穏やかな時を共有した相手を庇おうとする心がさせた、総司自身にも気づかぬ焦りだった。 だが土方はいらえを返えさず暫し無言でいたが、やがてそれにも飽きたかのように、徐(おもむろ)に立ち上がった。 「土方さん・・」 「着替えろと、云った筈だぞ」 応えた声はもう不機嫌な其れではなかったが、云い終えぬ内に見せた背には、声を掛ける事を躊躇させる厳しさがあった。 内と外を隔つ白い紙の砦が音も立てずに閉じられ、去って行く姿を影だけにし、そしてそれすら視界から消えてしまうと、総司は土方の座していたすぐ際まで来、膝をついた。 触れれば、冷たいばかりの井草は、其処だけが人の温もりを手の平に伝える。 せめてそれを枷にして、今にも土方の背を追って駆け出しかねない自分を、総司は必死に律していた。 脈打つ血潮の激しさが、そのまま火照りとなった膚の上を、ゆっくりと這う指の優しさも、唇の滑らかさも、内に灼熱の火玉を囲った身には、最早辛い責め苦にしかならない。 一度悦楽の淵を漂いまだ間もない身体は、その余韻も覚めやらぬ内に、ほんの微かに触れられただけで、又も貪欲に更なる熱を求め始めた。 そんな己の浅ましさを恥じながらも、薄く開かれた瞳は濡れ、焦らされ続ける切なさを訴える。 だが土方は総司の願いに応える事無く、指と唇だけで、時に荒々しく、時に緩慢に、抗う肢体を執拗に犯して行く。 「・・ひじかた・・さん・・」 やがて抗いは懇願へ、懇願は切願へ、そして哀願へと移り行き、荒い息の下からようよう紡いだ声が掠れ、上に重なる土方の背に立てた爪が、昇り詰める最後の堪えどころのように喰い込んだ。 もとより、翻弄され続けた身に余裕などある筈も無く、これが限りと、左右に分かたれた下肢に震えが走った瞬間、不意に背が浮いた心許なさに、閉じられていた瞳が薄っすらと開いた。 しかし何が起こったのかを知る術は無く、次に総司を襲ったのは、下から身を裂かれるような激しい痛みだった。 だがその切なさよりも、背後から犯されるが故に、土方その人の存在を眼(まなこ)に映す事の出来ない焦燥が、総司を不安に堕としめる。 「・・ひじかたさん・・」 そんな弱気を堪える事が出来ず、思わず声が零れ落ちた時、人肌の温もりが、包み込むようにして背を覆った。 「ここにいる・・」 己の膝の上に乗せた身の、両の肩をいだき耳朶に触れ囁く声は、先程、意地の限りをしていた者の其れとは到底思えぬ程に優しい。 その瞬間、腕(かいな)の砦に捉われていた背がびくりと仰け反り、今までの所業を責めるかのように、内に潜む土方に絡みついた。 そして時を同じくして、責め続ける男の面に満足の色が走ったのを、羞恥の際に追いやられ、堅く瞼を閉じている総司は知らない。 この唇から、自分を求め、請い、欲っする声を聞くまで――。 どれ程の辛抱を強いた事か、想い人は何も知らない。 ここまで堪えさせるお前の方が、余程に残酷なのだと。 憎くも愛しくも、瞬時の内に形を変える、恋情と云う名の魔物に囚われているのは自分の方かと、今更ながらに惚れた弱みの代償の大きさを思い、土方の端正な顔(かんばせ)が自嘲の苦い笑いを浮かべた。 が、もう堪え処を失くした男の勢いは、そんな思考とは関係なく、手加減も容赦も忘れたように、愛しい者の内に己を刻み始める。 そうして甘美と云う仕置きは、時を止め、情炎の焔が燃え盛るままに、互いを欲し貪り続ける。 やがて闇に白い喉首を突き出し、四肢の先まで強張らせていた身が、一瞬の硬直の後終(つい)を迎えると、胸を折るようにして土方の腕の中に崩れ落ちた。 その瞬間、土方自身も又、支える身に覆い被さり、猛り狂う己の熱を迸らせた。 そして、室に満ちる全ての気が死んだ。 年を跨いでまだ一月も経てはいないと云うのに、地を照らす天道の陽は、日一日とその強さを増し伸び行く。 それはこれから迎える眩い季節の、ほんの標(しるべ)でしかないが、何故か総司には、芽吹き、そして花が咲くその時よりも、今のこの微かな兆しを見せる時の方が、遥かに強い印象となって胸に刻まれる。 そして何よりもこの耀い陽光は、昨日の氷雨を、天のくれた吉兆だと教えてくれた人間の、衒いの無い笑い顔を思い起こさせる。 「聞いているのかえ」 だが自分の影法師に視線を落とし、いつの間にか思考に籠もっていた総司を現に戻したのは、八郎の呆れた声だった。 「・・すみません、あの・・」 「俺は聞かれた事に、応えてやっているんだぜ」 慌てて見上げた瞳に、動揺と狼狽が交差するのをちらりと見た顔(かんばせ)が、これみよがしにうんざりと渋面を作った。 「すみません・・」 再び詫びる声が、流石にそれ以上の言葉を探しあぐね、気弱にくぐもる。 「まぁ、お前のぼんやりには、もう大概には驚かないさ」 前を向いたまま、ゆっくりと腕を組み告げる物言いの意地の悪さに、深い色の瞳が、少々恨めしげに八郎を見上げた。 「豊岡藩ねぇ・・」 が、そんな不満の様など歯牙にもかけず、陽の眩しさに目を細めた横顔が続きを語り始めるや、総司の面輪にも、抗いへの諦めが浮かんだ。 「藩主の京極高厚殿は、確かに幕府への忠誠も篤いと噂されている。が、てっぺんがそうであっても、藩全部がそうであるとは限らない。中には倒幕に走る、過激な奴等もいると、これも噂に聞いた。・・中級以下の禄高の者に、その傾向が強いらしい」 「池田屋で捕らえられた浪士の中にも、豊岡藩の出身者がいたのです・・・。でもそんな風に上と下の人達が全く別の考えだったら、藩の中が二つに分かれてしまう」 「こう世の中が騒がしけりゃ、困った輩の始末に、今日び何処の藩も右往左往だろうさ。珍しい事じゃない」 「けれどそれは豊岡藩の藩士の、まだ一部の人達なのでしょう?」 「表面だって動く奴は、今の処はごく一部と云っていいだろう。まだどちらつかずの、日和見的な立場の奴等の方が多いだろう」 然して興もなさそうに話題を切り上げながら、しかしその実、八郎の胸中に去来しているものは、何故総司が、突然、縁もゆかりも無い地方の一藩に固執し始めたのか、その一点に絞られていた。 だがそれは、総司自身の身に起こった、何らかの事情に関連するものである事、尚且つ、この想い人は、既にその渦中に足を踏み入れようとしている事。 そう答えが見えているだけに、八郎の胸の裡を湧き立たせる苛立ちは、次第に激しさを増してくる。 「・・豊岡藩は・・」 「俺は飯を食いに連れ出してやったんだ、年明け早々面倒な話は御免だよ」 話を続けようとする声を、辛らつな物言いが、ぴしゃりと封じ込めた。 その語調の強さに、一瞬驚いたように、総司は傍らの主を見上げたが、直ぐに自分の懸念を解こうとするあまり、相手を忘れていた事に気づき、蒼みがかった白い面輪に朱の色が刷かれた。 「・・すみません」 「お前のその、すみませんと云う奴を、今年は幾度聞かされる事やら」 「迷惑はかけない」 「さて、どんなものか」 殊勝な申し出を揶揄する調子に、向けた瞳にも漸く勝気な色が浮かんだが、当の八郎は振り返るでも無く、前を向いたまま淡々と嘯く。 そんな様子に、小さな息をついた総司の視線が、再び前方へと戻された。 だがその刹那、視界が捉えたひとつの像に、深い色の瞳が見開かれ、同時に、まだ泥濘を残した地を、足が蹴った。 「おいっ」 諌め止める声に、薄い背が振り向く事は無く、みるみる小さくなるそれを追い、八郎も又、迎え風を切るように走り出した。 |