寒九の雨 (弐) 天道が一番高い処にあるこの頃合、大路に人は多い。 しかも此処四条の橋の東端には、通りを境にして南北の芝居小屋が建ち、丁度今がその幕間なのか、一服を求め外に出て来た人々で、道はひとかたならぬ混み様だった。 その雑踏の中を、総司は、正面から来る者を除け、前を行く者を追い越しながら、忘れ得ぬ姿を求めて走り続ける。 そして直ぐ後ろを、苦い面持ちの八郎が追う。 やがてどうにか人の群れが途切れる処まで来た時には、其処はもう東大路通に出る直前で、目の前には祇園社の鳥居の朱が、空(くう)の青を貫くようにして、その偉容を誇示していた。 通せんぼうされてしまった道を、探す人が折れたのは、右か左か――。 その姿を、僅かの間に見失ってしまった痛恨に、唇を噛み締め握る手に、思わず力が籠もる。 「迷惑は掛けないと、云った傍(そば)からいい加減にしろ」 焦燥に我を失くし、視線を落ち着かなくさせていた総司だったが、突然掛かった声と共に、鷲掴まれた肩の痛みに、漸く後ろの八郎を振り返った。 「でも脇さんは追われていた、だから早く見つけないとっ・・」 が、総司は八郎の叱咤の中にある憤りすら気づかず、必死の相で詰め寄る。 脇逸平の姿を見つけた時、同時に、総司の瞳はかの者を追う、幾人かの影も捉えた。 脇は追われていた。 だがその事は、総司を激しい焦燥へと駆り立てた。 最初に会ったその時に、剣士としての総司の観察眼は、脇と云う人物の剣の技量を、忌憚無く読み取っていた。 それは、決して優れたものでは無かった。 否、十人並みにも足り無いと云い切って良かった。 だからこそ、一刻も早く脇を見つけねばならなかった。 「脇?そいつが豊岡藩との繋がりか」 頷く、その一瞬すらもどかしげに、総司の視線はせわしなく辺りを探る。 「脇と云う輩がどんな奴かは知らんが、追われていたのならば、左だ。尤も追う方に正当な理由があれば別だが、今の処あそこが・・・、」 一度言葉を切り、目線だけを動かして八郎が示した先には、祇園町会所があった。 「静かだと云う事は、追っている奴らが、公にしたくない事情を抱えている証だろう。ならば、お上の目のつく処からは距離を置きたいと思うのが、自然の理(ことわり)だろう・・・、おいっ、落ち着けっ」 言葉が終わるのを待てず、左へと走り出そうとした総司の腕を、咄嗟に掴んだ八郎の手の強さが、当ての無い動きを厳しく諌めた。 「闇雲に探しても無駄だ。まだ昼日中、この辺りは人通りも多い。それに会所の近くでは、奴らも事を起こす度量は無かろうよ」 「では脇さんは・・・、」 「脇と云う奴が土地勘の無い人間ならば、追う立場としては、人気の無い方角へ追い詰めようとするだろうな」 二の腕を掴まれたまま、八郎の云う北へと目をやる総司の面輪が、焦れる心をそのまま映したしたように強張った。 「この直ぐ北側には膳所藩の京都藩邸の他に、ふたつみっつ、何処ぞの藩邸があった筈だ。それらの屋敷の前で、白刃の音を響かせるとも考えられない。だとしたら、川・・・、鴨川か」 今自分たちの立つ地理を脳裏に描き、更に追う者達の心理を熟慮した上での推量は、それを言葉にする事で、更に確しかなものにするかのように低く呟かれたが、その寸座、動きを封じられていた総司が、渾身の力で八郎の手を振り解き走り出した。 そして今度は八郎もそれを止める事無く、先を行く背と距離が出来るその前に、砂埃の舞う地を蹴っていた。 川上から川下へと吹き荒ぶ冬の颪は、身に纏いつくかのように逆巻き、行く手を阻む。 そうして全てを、後へ後ろへと追いやる向かい風の中を、どれ程走り続けた事か――。 じき川原に出ようとする寸座、一瞬起こった風のあまりの激しさに、つと足を止め、折った肘で砂塵を防いだ総司だったが、再び瞼を開いた時、映し出された光景に、瞳は大きく見開かれた。 「・・あれか」 更に。 何時の間にか後ろに来ていた八郎の声の険しさが、今視界が捉えている状況が、如何に厳しい局面にあるかを物語っていた。 ――取り囲んでいるのは、浪人とおぼしき形(なり)の男が三人。 そして川を背に逃げ道を塞がれ、じりじりと追い詰められているのは、違(たが)いも無く、脇逸平その人だった。 しかも脇の左肩あたりが、みるみる紅の色に染まって行くのが、遠目にも分かる。 それが刀傷だと、そう判じた瞬間、止まっていた総司の足が、一瞬にも足りぬ俊敏さで川原に向かい走り出した。 「脇さんっ」 叫び声は風が散らし、言葉は形にならなかったかもしれない。 だがその刹那、今正に止めを刺さんと構えていた男達が振り返った。 そしてその中の一人、抜き身を下げていた男が、総司と八郎を迎え撃つべく正面に立ちはだかろうとしたが、しかし意外にも、一番後ろに控えていた、やや年長と見受けられる者が其れを制した。 しかも目線で何やら命じると、其れが合図だったのか、三人の刺客達は二歩三歩後ずさり、やがて総司達と十分な距離を置くと、素早く身を翻し、川上へ向かい散り始めた。 だが総司は其れを追わず、脇逸平の元へ足を走らせる。 「脇さんっ」 片膝をつき、鞘も抜いていない刀を支えにし、それでどうにか脇は半身を起こしていたが、耳元で呼ぶ声に、微かに面を上げようとした。 が、それも最後の気丈だったのか、紅く染まった指先が刀から滑り落ちると、通り抜ける風に煽られるようにして、ゆっくりと川原に崩れ落ちた。 「沖田はん、えろうすみませんけど、この水、替えてきてくれませんやろか?」 盥を差し出しながら、いつもよりずっとおっとりとしたキヨの調子は、もしや待っていろと云い渡された場に居たたまれず、遂には、脇が治療を施されている室の近くまでやって来てしまった、自分の硬さを解く配慮なのではと気づいた途端、総司の頬に鮮やかな朱の色が刷かれた。 ――あれから傷を負った脇を、八郎と二人で此処五条にある田坂の診療所へ運び込んだ時には、天道は既に西へと傾き始め、肌を刺す風は、凍てる氷の刃の如き冷たさを孕んでいた。 駕籠に乗せる直前まで、名を呼べば、脇は僅かに反応を示そうとしたが、四条からそう遠く無いこの診療所に着いた時には、気は完全に逸していた。 八郎が、己の袖を千切って一応の止血をしてあったが、斬られた箇所が、肩から胸の真上までと云う、比較的肉が薄く血管が近い位置だった所為か、傷の深さにも関わらず結構な出血を見ていた。 が、田坂は眉ひとつ動かすでもなく、玄関の框に横にさせた怪我人の傷の具合を丹念に見ていたが、やがて大方の状況を把握すると、八郎の肩を借り、男二人の力で脇を奥の治療室へと運び込んだ。 しかしその寸座、一瞬だけあらぬ方角へと視線を移した田坂が、ただひたすらに怪我を見詰めている硬い横顔を見るや、憂鬱と諦めの交差する小さな息をついたのを、脇に気を取られていた総司は知らない。 「あのお侍はんやったら、大事おへんわ。傷は浅ぉ無いけど、命に関わるもんと違うて、若せんせいは云うてはります」 渡された盥を持ったまま、未だ廊下に足を止め、閉め切った障子から視線を動かさぬ総司を見るキヨのふくよかな頬に、柔らかな笑みが広がった。 「途中で気付かれはったんやけど、若せんせいが傷を縫ってはる間、呻き声ひとつ漏らさへんでしたわ。えらい辛抱強いお方ですなぁ。お手伝いの伊庭はんも、何や拍子抜けしてしもうたみたいですわ」 その縫合も、もうそろそろ終える頃だろうと、キヨの口調はどこまでものんびりと、屈託が無い。 この診療所にやって来る患者達は、何も本道の分野の者ばかりとは限らない。 市井に生きる者達は、昼夜を問わず此処の若い医師を頼り、そして時には、大の男ですら目を背けたくなるような、酷い傷を負った怪我人も運び込まれて来る。 それらの者達の治療に当る田坂を、陰になり日なたになり支えて来たキヨから見れば、脇の刀傷の縫合など、ありふれた日常のひとつに過ぎないのかもしれない。 そしてそれを思えば、そのキヨを前に、あまりに落ち着きの無い様を見せていた自分が、総司には羞恥に耐えかねる程に情けない。 「すみません、すぐに替えてきます」 そんな自分を叱り付け、慌てて踵を返そうとした寸座、小さく跳ねた水が、飛沫を立て、盥の水に幾重にも輪を広げた。 が、急(せ)いて井戸へ行きかけた総司だったが、不意にその動きが止まり、次の瞬間、振り向いた瞳はキヨを通り越し、更に先の障子へ釘付けになった。 「キヨ、これも頼む」 暮れ初(そ)みから晩方へ、そろそろ灯明が頼りになるこの頃合、止んだ風の代わりに冴え冴えと大気を澄ませるものは、触れるもの全てを凍てさせてしまうような冷気だと云うのに、田坂の額には薄っすらと汗が滲んでいる。 それを拭いもせず差し出す手には、紅く染まった晒が握られていた。 「田坂さんっ・・」 その田坂に詰め寄るようにして近づき、室の中へ視線を移した総司の瞳が、油紙の敷かれた床に、青い顔をして横たわる脇逸平の姿を映し出した。 「出血は多かったが、傷そのものは大事無い。が、怪我と云うものは、その後気をつけて様子を見ていないと、傷口から余病を併発する事が間々ある。暫く動かす事は出来ないな」 怪我の程度を説明している自分の声は、果たして今、薄い背を見せているこの者に、届いているのか否か――。 堅く目を閉じている脇に視線を止めたまま、身じろぎもしない総司に、田坂は、この怪我人が運び込まれて来た時と同じ、遣る瀬無い息を今一度ついた。 「人の体てのも、医者に掛かっちゃ女子(おなご)の裁縫と変わらぬものだな」 その田坂の憂鬱を見透かせたか、怪我人の近くに座していた八郎が、掛けていた襷を器用に外しながら嘯いた。 「生憎と、出番を作ってやれずに悪かったな」 「滅法腕の良い医者と、桁外れに辛抱強い患者じゃ、それも仕方が無いだろうよ」 縫合の途中で目を覚ました怪我人が暴れる事を懸念し、助っ人を申し出たものの、それが杞憂に終わった事への安堵は、苦笑まじりの軽易な皮肉にすり替わる。 だがそんな二人の遣り取りすら意識の外に置いて、総司は硬い面持ちのまま、脇の傍らに座した。 今昏々と眠る血の気の無い顔の主は、縫合の最中も、呻き声ひとつ漏らす事は無かったとキヨは云った。 確かに、脇逸平の浅黒い肌の上に刻まれている造作のひとつひとつには、その言葉を具現するかのような強さがあった。 しかしそれは兵(つわもの)の荒々しい精悍さと云うよりは、地に息吹く草木にも似た土臭い靭(つよ)さのように、総司には思える。 そしてその事は、初めて会った時に脇が見せた、其処だけが、不意に陽が射したような衒いの無い笑い顔を、総司の裡に彷彿させた。 「脇・・、とか云っていたが、この人、豊岡藩の侍か?」 が、束の間、時の流れを遡っていた総司を、八郎の声が、強引に現へ引き戻した。 「・・昨日、初めて会った時に、脇さんと云う名と、国元が豊岡だと教えて貰ったのです」 「昨日?」 その説明も終わらぬうちに、高い位置から発せられた訝しげな声は、今度は田坂のものだった。 「所用の帰りに、突然に雨に降られてしまったのです。それで民家の軒先を借りて雨宿りをしていたら、同じように雨を凌ぐ先を探していた脇さんと、偶さか一緒になったのです」 「偶然の雨宿りが、一夜空けて巡り合えば、もう知己か」 呆れる方が莫迦莫迦しいと云わんばかりの八郎の声が、田坂の後を引き継いだ。 「けれどっ・・」 「けれども何も、違いは無かろう」 「例えその場限りの縁と思った人でも、次に会った時に追われている姿を目の当たりにすれば、誰だって助けようとするのは当たりまえだ」 「面倒を嫌う人間の方が、世の中には多いのさ」 いつに無い八郎の容赦の無さは、最早どんなに諌めた処で、踏み込んでしまった道を、決して後戻りする事は無い想い人への、それがせめてもの当り処だった。 そしてその辛辣な意見に異を唱えようにも、こうして現実にかけてしまっている迷惑を思えば、それも沈黙に仕舞いこむ他無い歯痒さに、総司は膝の上の指を掌に包み込んだ。 「それにしてもこの御仁、着ているものの上からは分からないが、思いの外頑健な体をしているな。この分ならば、傷の回復も早いだろう」 そんな総司の胸中など知らぬように、怪我人の傍らに座しながら語る田坂の目は、もう医師としての的確な観察に終始していた。 「だが剣術の方は、あまり得手ではないらしい。だから何処かのお節介焼きも、焦ったんだろうよ」 その推測に応じるかのように、苛立ちを揶揄にくるんだ八郎の視線が、総司に向けられた。 「・・昨日会った時、脇さんは、直ぐ近くに来るまで私の存在に気付かなかった。それに傍らにいる時も、隙だらけだった」 その勘の鈍さが、剣を握る者にとっては致命的な欠点になるのだと総司は云いたいのだろうが、しかしそれに触れる事は、武士と云う立場にある者への屈辱であると、自ら言葉を戒めた深い色の瞳が、躊躇いがちに伏せられた。 「剣で鍛えたと云うよりも、野良仕事や、重い荷を負う者に似た体付きと云った方が、的を得ている気もするが・・。侍と云えど、扶持だけで生計を立てられる御時世ではあるまい?まして小さな藩の下級武士ならば、畑仕事に重きを置いた処で、何の不思議も無いさ」 田坂の言葉は、武家社会の現状を容赦なく無く突く。 「だが襲う奴がいると云うからには、どうやらこの御仁の上洛の目的も、あまり穏やかなものでは無さそうだな」 更に総司の胸に広がる懸念を端的に言い当てた八郎の声が、すっかり夕間暮れ染まりつつある室内の侘しさと相俟って、どうにも物憂げだった。 ――結局ところ、脇を田坂の元へ預け、総司が屯所に戻った時には、もう宵闇が辺りを包みこんでいた。 診療所を辞すまで、脇は一度も目覚める事が無かった。 どんなに頑健な体躯を持つ者でも、あれだけの出血を見れば、相当な体力の消耗を強いられるのは免れず、今夜ばかりはこのまま眠り続けるだろうと云うのが、田坂の所見だった。 が、それとて、そうとでも云い切らなければ、いつまで経っても動こうとはしない総司を諦めさせる策だとは、八郎だけが知る田坂の胸中だった。 そして同時に、既に後手に回っていると承知しながら、何とか想い人を厄介ごとから引き離そうとしている焦燥も又、同じ想いを抱くが故に透けて見える煩悶だった。 鼻梁の高さが、峻厳さをより印象づける端正な横顔を見ながら、恋敵の苛立ちを分からなくも無く、八郎は苦く笑った。 だが田坂と八郎の裡に、そんな感情の綾などあった事など知らずして、今土方を前に端坐している総司の面持ちは、見ている方が気の毒になる程に硬い。 「昨日軒下で肩を並べた人間が、二度目に会えば旧知の間柄になり、挙句の果てに帰りはこの時刻か」 土方の物言いは、言葉の厳しさの割には、いつもと変わらぬ素っ気無いものであったが、それはこの室に居座ったまま一向出て行く気配を見せぬ自分への、土方の意地だと思えば、八郎の胸に愉快を越した笑いがこみ上げる。 恋敵と云う、どう転んでも気に入らぬ輩と出て行った想い人の帰りを、苛立ちを募らせながら待たざるを得なかった時の長さは、この男の妬心を怒気にまで変えた筈だった。 が、それを見せるのは、土方の矜持が許さないのだろう。 それでもその土方の癇症に、抗う言葉ひとつ見つけられず項垂れている、細い項に宿るいじらしさを目の当たりにすれば、今度は此方が嫉妬に焦れる。 「豊岡の御仁だとよ、その脇とやら」 そんな己の勝手に苦笑しつつ、殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ八郎の声が、重い沈黙の帳を開いた。 「それがどうした」 案の定、要らぬ相手の横槍に、間髪を置かずに返った声は、不機嫌そのものだった。 「何だ、知っていたのかえ」 つまらなそうにしながらも、しかし相手の顔を正面から見据える双眸には、不敵とも思える笑いがある。 それは其処までの事柄は、土方にとっては疾うに調べが済んでいる事と、八郎自身が承知している証でもあった。 「だが安心する事だな、脇と云う奴は、どうやらあんたの危惧しているような立場の人間じゃないらしい」 が、不意を突くように続けられた言葉に、ほんの一瞬、冷徹な顔(かんばせ)が、険しい警戒の色を走らせた。 そして同時に総司も又、驚きに見開いた瞳を八郎に向けた。 「どう云う事だ」 相手の意図と、そして何を何処まで知っているかを、いらえのひとつで、瞬時に推し量ろうとする声は低い。 「考えの無い奴等とは違うと、教えてやっているのさ」 「何を云いたい」 「調べる手間を、省いてやっているんだぜ」 「有り難くも無い」 相手の胸中を探ろうと眸を細める者と、そしてそれを然も無い風を装い阻む者の言葉のやりとりは、共に譲らぬ駆引きに終始する。 「脇さんを襲った人達、・・寄せ集めの浪人のようだったけれど、でもあれはそんなんじゃなかった・・」 だがその二人が括った緊張の縄手を解いたのは、記憶の襞を丹念に辿り、漸くひとつの確信に行き着いたかのような、小さな呟きだった。 「お前も少しは人を見る目が出来たようだな」 やがて瞳を上げた総司は、八郎の揶揄すら届かぬように、一番いらえを返して欲しい者に視線を向けた。 そしてそのまま瞬きもせずに、土方の動きを待つ。 「脇逸平を襲った奴等は、確かに、寄せ集めの浪人なんかじゃなかったさ」 だがそんな健気を見守ってやれる程、己の懐は深くは無いと苦く笑う八郎の悋気が、想い人の希(のぞみ)に意地をする。 「何故分かる」 そしてこれも又、返すべきいらえの行方を捻じ曲げられた怒りを、一際険しくした双眸に籠めて、土方が八郎をちらりと見遣った。 「奴等、えらく行儀が良かった。少なくとも、金で釣られて出来た横の繋がりでは無い。強いて云えば、直前まで何処かの藩に仕官していた、その上下関係がまだ生きている・・・、そう云う感をさせた」 「上下関係?」 「そうだ、上下関係だ。縦割りの繋がりならば、何処かの藩の奴等と想像するのが妥当だろう。・・存外、豊岡藩の連中辺りかもしれんな」 言葉の結びを、唇の端を歪めた仕草で仕舞いにしたのは、土方と云うこの策士がさてどう出るのか・・・ それを一興とする、八郎の、恋敵への挑発でもあった。 「豊岡藩・・?だとしたら、脇さんは自分の藩の人間に襲われた事になる」 だがその思惑を見事に外し、落ち着きの無い声で先を続けたのは総司だった。 「そうしなければならない事情が、あちらさんにも、あったんだろうよ」 己の当て推量を、まさか土方の悋気を煽る為とも云えず、そうなればいらえを返す声にも、早面倒が先立つ。 「でもそうならば、襲った中には、もしかしたら見知った顔もいたかもしれない。脇さんが目覚めれば・・」 「総司っ」 まるで胸の裡にわだかまる疑念を、一気に迸らせるかのように語りだした総司を、突然、土方の低く鋭い声が遮った。 「お前はもういい」 更に土方は、顎をしゃくるだけの仕草で、室を出て行くよう促した。 そのあまりの強引さに、細い線で丹念に造作された面輪が硬く強張り、勝気な色を宿した瞳が土方に向けられたが、射竦める視線はそれ以上に鋭く、抗いを許さない。 そうして重い沈黙に閉ざされた時は僅かではあったが、やがて無言の行に耐えかねたように、総司は小さく頭(こうべ)を垂れると、緩慢な動きで立ち上った。 が、障子の桟に触れた刹那、一瞬未練に引かれるように振り返る素振りを見せたが、それは形にはならず、後ろを向けたままの薄い背は、静かに室を出て行った。 「あんたも、大概には意地の悪い人間だね」 最後まで振り返らなかった姿を、まだ網膜から消さず、其処に想い人がいるかのように白い紙を見詰める八郎の声が、つまらなそうに枯れる。 「お前が余計な事を云わなければ、俺とて良い人間でいられるさ」 が、それに応える土方の調子も、もう苛立ちを隠しはしない。 「俺は本当しか云わないよ。尤も・・・」 その怒りの様を、己の勝ちと受け止めた八郎が、ゆっくりと土方に視線を移した。 「新撰組と豊岡藩の相性までは、知った事じゃない」 相手の面に走る、どんな些細な変化をも見逃すまいと細めた双眸が笑ってた。 「相性はいいさ、少なくとも、お前よりはな」 だが土方のそれは、既に感情と云う代物(しろもの)をとっくに仕舞い、抑揚の無い低い声だけが、八郎の仕掛けた戯れの罠をくぐった。 |