寒九の雨 (参) 天道が顔を覗かせたのは、結局昨日一日の事だけで、夜半から急にきつくなった冷え込みに、もしやと思った勘は外れる事無く、翌朝、外の彩りをひと色に閉じ込めていたのは、白い氷の礫(つぶて)だった。 それでも昼近くにかけて一旦止みはしたが、総司が巡察から戻る頃には、湿り気の少ない軽い雪が、風に戯れるようにして再び舞い始めていた。 「あの・・土方さんは、何処かに出かけたのでしょうか?」 報告に行った先の副長室に目当ての姿は無く、不思議に思いながらも、丁度擦れ違った隊士に聞くと、両手一杯に積んでいた書物に気を取られていたその者は、驚いたように立ち止まった。 「・・おいでには、ならないのでしょうか?」 間の抜けたと応えと云うよりも、自分の思考の範疇を超えたあまりに唐突な問いに、何といらえを返して良いのか分からないと云うのが正しいのだろう、声を掛けられた相手は、気の良さそうな顔に戸惑いを浮かべ目を瞬いた。 が、そんな反応は、居ると決め込んで行った先に、想う人の姿が無かった事の落胆と焦燥を、自ら他人に暴いてしまったようで、総司の心の臓はみるみる羞恥で高鳴る。 「いえ・・、良いのです。すみません、足を止めてしまいました」 これ以上情けない自分を晒すのが居たたまれず、まだ其処を動けずにいる相手にぎこちなく詫びると、少しばかり乱暴な挙措で、総司は踵を返した。 廊下に組まれた木は、大気に籠もる水気を吸って膨らみ、天道の熱に焼かれて縮む。 そして今、その湿り気は、凍てる棘となり、踏みしめるたび、骨の髄まで震えさせえるような冷たさを、足の裏に走らせる。 それでも薄闇の筒の先に、ぽっかりと視界が開けたような玄関の向こうに降る雪は、幾分鎮まりかけ、田坂の診療所に着くまでには止むかもしれないと、ささやかな希望に総司の歩みは早まる。 更にその事が、脇逸平の怪我の回復への、明るい兆しに繋がるのではと・・・ 天候の変わり具合のひとつひとつを、そんな風に結びつける自分の愚かしさを、土方が聞いたらどんな顔をするだろうかと、ふと思い浮かべかけた笑みが、しかし途中で止まった。 昨夜、脇の一件で不機嫌を見せた土方だったが、あれから何か難しい仕事が入ったのか、その後局長室に籠もったきり、結局朝を迎えても話をする暇(いとま)すら無かった。 そして巡察から戻り、叉も顔を見る事の出来なかった擦れ違いは、云い様の無い寂莫感となり、今総司の胸の裡を空しくしている。 だがそれにも増して心を重く縛るのは、脇の話題が、既に土方との他愛も無い遣り取りの中で交わせるものでは無いと云う事実だった。 脇の名を出すことをひどく憚られる感が、土方の態度には確かにあった。 しかしながらその二つの思いとは別に、土方の不在は、田坂の診療所へ赴く引け目には、安堵の息をつかせる。 そんな我が身の勝手から目を逸らすように、総司はまだ白いものを散らせる天を仰いだが、やがて手にしていた傘を差すと、粉雪が地に降りる道の先へと踏み出した。 吐いた息が白く濁る束の間も許さず、肌を刺す風は、瞬く間に其れを空(くう)へと霧散させ、透けた気が、再び辺りの景色を鮮やかに浮き立たせる。 だがその寒気の中にあって、北山からいずる水は、舞い降りる雪を包むようにして、凍てもせず流れを止めない。 そんな自然の大らかさ、靭(つよ)さに、ある種の憧憬と羨望を抱きながら、総司は五条の橋を足早に過ぎ行く。 昨日田坂の診療所に、傷を負った脇を運び込んだのが、丁度今時分だった。 あれから脇は、目覚めたのだろうか。 田坂のもとならば何も案ずる事は無いのだと信じつつも、目指す場へ向かう足は自ずと早くなる。 やがて五条通りを右へ折れ小さな路地に入ると、格子で目隠しされた間口の狭い民家が続く。そしてその先に見慣れた黒い門を見つけると、白雪に、焦れるように標(しるべ)を刻んでいた足が、更に勢いづいた。 「いや、沖田はんやおへんか。こないに寒い日に出歩いたらあきまへん」 案内を乞う声に、おっとりと応えて出てきたキヨは、玄関先に佇む華奢な姿を見止めると目を丸くし、そして次には、夕間暮れの冷たさの中をやって来た無謀を責めるように、大仰に眉をひそめた。 だが総司はその声すら届かないのか、玄関の三和土(たたき)の一点に視線を釘付けたまま、身じろぎしない。 その様子に気付いたキヨも総司の見詰める先を目で追ったが、すぐに其れが何であるのかを察すると、ふくよかな頬に笑みを浮かべた。 「なんやこっちに用事があったとかで、先程見えはって、今、若せんせいとお話をされてますわ」 湿り気を含んだ鼻緒が重そうに八の字を描いている下駄は、もう台にしている桐の色が枯れている。 だが一度気に入ればとことん使う土方の気質は、先日もこの下駄の鼻緒を自分で挿げ替えていた。 「さぁ、早よう、おあがりやす。脇はんも朝方には目ぇが覚めはって、もう心配はあらへんて、若せんせも云うてはりましたわ」 脇と、その名が出た途端、土方との、思いも掛けない遭遇に戸惑いに揺れていた瞳が、弾かれたようにキヨへ向けられた。 「脇さん、本当に大丈夫なのでしょうか?」 「若せんせが、そないに云うてはるんやから、間違いはおへん」 まるで総司の杞憂を消し去るかのように、確乎として云い切るや、キヨは少しばかり胸を反らせた。 「あの・・、脇さんに、会う事は出来ますか?」 「勿論ですわ。そや、土方はんは若せんせとお話中ですよって、沖田はん、先に脇はんのお顔を見たらどうですやろ」 「良いのでしょうか?」 土方の下駄を見つけた時、あからさまな狼狽を隠せなかった心は、その動揺も消し去れぬ内に、直ぐに又、胸の裡にわだかまる憂慮をぶつけて来る。 「かましまへん」 その不器用な一途をいとおしむように笑いながら頷くと、キヨは丸みがかった背を向け、先に立って歩き始めた。 「脇はん、お目覚めですやろか?」 冷たい廊下に膝をつき伺う声は、囁くように柔らかい。 その言葉が終わるか終わらぬ内に、中から微かな衣擦れの音が聞こえると、キヨは傍らに立つ総司を見上げ、小さな笑みを浮かべた。 「・・はい、起きています」 やがていらえが戻るや、ほな、と、ふっくらとした甲の先にある指が、静かに障子を開いた。 「ご気分は、どないですやろ?」 「おかげ様でもうすっかり・・。見ず知らずの方に、このようなご迷惑をお掛けし、本当に申し訳の無い事です」 音もさせずに敷居を跨いだ総司の存在を、枕屏風より目線を低くしている脇はまだ知らず、真摯な謝罪の念を強くする言葉が、朴訥な物言いでキヨに向けられた。 「そないな事は気にせんと、ゆっくり養生せなあきまへん。うちの若せんせの腕の良さは、誰もが認めてくれはります。せやから大舟に乗ったつもりで、すっかり治るまで此処におって下さい・・・あ、そやっった」 相手の憂慮を取り去ろうとの配慮が、つい田坂の自慢に代わり、大事を忘れかけたキヨだったが、ふと見遣った障子際に、会話に加わる切欠を見つけられず、遠慮がちに佇んでいる総司に気付くと、慌てて又脇に視線を戻した。 「脇はん、沖田はんが、お見舞いに来てくれはりましたえ」 「・・沖田・・殿?」 始め脇は、それが誰の事か思い当たらなかったようで、小さな声が、訝しげに聞いた名を繰り返した。 「沖田殿・・」 だが記憶を手繰る作業はそう時を要せず、二度目を呟いた時、それが同じ軒を借りて雨を凌ぎ、そして何より、昨日自分を助けてくれたあの若者の事だと判じるや、突然、掛けていた布団を跳ね除け、勢いのまま起き上がろうとした。 が、それは形にはならず、低い呻き声と共に、前に傾いだ身が、くの字に折れ曲がった。 「あきまへんっ」 「動いたら、駄目ですっ」 キヨと、総司。 怪我人の無謀な行動を嗜めたのは、二人同時だった。 が、断固と厳しいキヨの其れが、総司の声を呑み込むように圧した。 「すみません、私が驚かせてしまったから・・」 まだ眉根を寄せ、目を閉じ痛みに堪えている脇に掛けた総司の声が、狼狽で上ずる。 「・・いえ、大した事は無いのです。元々せっかちに出来ている人間が、それを忘れてしまったようです」 漸く薄く目を開き、硬い面持ちで覗き込んでいる総司に最初に向けられたのは、己の身を案じてくれる相手への慰撫と、衒いの無い笑い顔だった。 だが其れが偽りだとは、額に浮かんだ冷たい汗が物語る。 その様を無言で見詰めている、深い色の瞳に揺れる憂いを消し去るかのように、脇は再び口を開いた。 「又こうしてお会い出来るとは・・、しかも私を助けて下さったのが貴方だったとは、何と礼を云って良いのか、言葉も見つかりません」 襲われてから今の状況に至るまでの経緯は田坂が教えたものらしく、総司を見上げ、息を継ぎながらゆっくりと語る声には、嘘偽りの無い、直截な感謝だけがあった。 「・・申し訳ない」 「私は脇さんの、京での唯一の知り人です。だからこうなるのは、当たり前の事なのです」 一言、唸る様にして漏らし心底辛そうに眸を伏せた脇に、雨宿りの際の、他愛も無い会話を持ち出した総司の声が笑っていた。 「沖田はんが、脇はんの、たったひとりのお知り合い・・、ほな脇はんは、沖田はんに、たんと我侭云わなあきまへんわ。そないですやろ、脇はん?」 何処までを信じたのかは分からぬが、漸く二人の関係に合点が行ったと、満足げに頷くキヨに質されれば、脇も苦笑せざるを得ない。 「あの・・」 だが一瞬和んだその時を待っていたかのように、今度は総司の唇が動いた。 「あの時襲った浪人風の人達が誰なのか、脇さんには心当たりが無いのでしょうか?」 仰臥している脇の、衿の隙から覗く白い晒につと視線を落として問う調子が、その事に触れるにはまだ遠慮が勝るのか、少々ぎこちなかった。 「私にも、分からないのです」 しかし総司を見上げ返ったいらえは、まるで始めから用意されていたかのように、少しも淀み無く脇の口を滑り出た。 「・・・分からない?」 半ば予測はしていたものの、こうもはっきり否と聞かされれば、細い線の面輪にも隠せぬ戸惑いが浮かぶ。 「分からないのです。・・京の地を踏んだのは初めてだと、あの時沖田さんにお話したのは嘘ではありません。それ故、先ほど沖田さんが云ってくれたとおり、私には貴方の他、この地での知り人はいません。襲った者達は、そんな私を直ぐに田舎者と見破ったのでしょう、あらぬ因縁をつけ、金の無心をして来ました。そして気付いた時には、人気の無い川原へ追い詰められていました。・・・後は、沖田さんが見られたとおりです。本当に情けない事です」 最後は自嘲ともつかぬ薄い笑みを浮かべ、語り終えるや視線を逸らしてしまった脇だったが、しかしその頑なさが、総司には、胸に秘める真実を堅く守ろうとする者の必死にしか映らない。 「でもっ・・」 其処を諦めきれず、思わず詰め寄ろうとしたその寸座――。 我を忘れかけた挙措を諌めるかのように、廊下を渡って来る人の気配に、深い色の瞳が咄嗟に障子を見遣った。 「先客が、いたようだな」 白い紙の帳(とばり)が開くと、先に姿を見せた田坂が、見上げる面輪にある狼狽の色を目ざとく見つけ、揶揄するような笑いを向けた。 が、からかいの言葉すら届かぬのか、総司の瞳は、その後ろに控える長身の主を捉えて瞬きもしない。 しかし土方は微動だにせず、中の脇だけを見下ろしている。 だが冷然と構えるその横顔こそが、今土方が、自分に対して激しく憤っている証しなのだと、凝視している総司は知っている。 否、知っているからこそ、唇は、まるで呪縛されたかのように、言葉を紡ぐ術を失くす。 「せんせ、早よう閉めておくれやす。そないに開けてはったら、せっかく温まった気ぃが逃げてしまいます。脇はんや、沖田はんが風邪を引いたらえらいことですわ」 その、招かざる客が作り出した気まずい沈黙を、たった一言で見事に払拭したのは、柔らかく咎める物言いに隠して総司を庇う、キヨの丸い声だった。 そうなればさしもの土方も、この婦人の言葉には逆えないらしく、田坂に続き敷居を跨ぐや早々に障子の桟を合わせた。 「脇さん、新撰組の副長さんが、少しばかり話を聞きたいと云う事だが、傷の痛みに差し障りの無い程度に、応えてやってくれるかい?」 怪我人の枕元に座り込んだ田坂の口ぶりには、成り行きを楽しむような、何処か面白げな笑いが含まれていた。 それは今猛烈な勢いで胸の裡に渦巻いている怒りを、眉ひとつ動かさず、何事も無いように封じ込めておかねばならない、隣に座った恋敵への揶揄に他ならなかった。 だがそうと知って、ちらりと横を垣間見れば、その怒りの矛先である総司は、気の毒な程に硬い面持ちで土方を見詰めている。 恋敵への痛快さは、そのまま想い人への憐憫につながる。 そうなれば、己の担いだ天秤棒はどちらに傾くのか――。 「が、無理はしなくていい。疲れたと思ったら、其処で打ち切って欲しい」 いらえは後者と、疾うに答えは見つかっている事に、結局の処、自分も恋敵も、惚れたが故の弱みに翻弄され続ける愚か者かと自嘲しながら掛けた声が、早患者を診る医師の其れに戻っていた。 「大丈夫です、動かさなければ、もう痛みもありません」 そんな周りの者達の心の綾など知る由も無く、括り枕の上から田坂を捉えた脇の視線が、そのままゆっくりと土方へ移された。 「新撰組副長、土方歳三と云う。貴公が襲われた場所が、新撰組の持ち場故、少々伺いたい」 見詰める相手の双眸に、隠せぬ硬さがあるのを知りながら、それをほぐす気遣いを見せるでも無く、むしろ更に緊張を強くさせるような、冷淡な口調だった。 「何なりと」 が、その土方の言葉を受けて脇の面に浮かんだのは、ぎこちないながらも、小さな笑みだった。 「この田坂医師から大まかな事は聞いたが、貴公の名が、脇逸平殿、そして但馬豊岡藩藩士と云うのは間違い無いだろうか」 「相違ありません」 「では京には、藩命で来られたのか」 「いえ、藩とは全く関わりの無い事。あくまで私個人の所用で来ました。上洛したのは、これが初めてです」 いらえは束の間も置かず、そして少しもつかえる事無く返る。 しかしそれは又、そうする事で、心の裡を読ませまいとする精一杯の術なのだと、土方の双眸に捉えられながら静かな相を崩さない脇の横顔を、総司も又、息を詰めるようにして見つめている。 「では襲った者に、心当たりは?」 「ありません。賑やかな通りで、通りすがりに因縁を付けられ、あのような事になりました。金欲しさの、物取りでしょう」 語られる経緯は、つい先程総司が聞いたものと寸分も違わない。 だが今、同じ其れを二度聞いた時、総司の裡で、この偽りに包まなければならない真実こそが、脇の上洛の理由であり、そしてそれは豊岡藩と繋がる、何か大きな事情を有するものであると、朧げでしかなかった勘が、確信へと形を変えた。 「最近の京は何かと落ち着かず、確かにそう云う無頼の輩も多い。が、我々の持ち場での出来事ならば、どのような些細な出来事も、一応の事情は聞いて置かねばならぬ。臥せている処を悪かったが、勘弁して欲しい」 「いえ、私の方こそ・・、其処にいる沖田さんには・・」 形ばかりではあったが、詫びの言葉と共に土方の頭(こうべ)が下げられると、脇も慌てて応じかけた。 が、その声が躊躇うように、途中で止まった。 「私も、新撰組の者です」 云い掛けて噤まれた疑問を、相手の胸中を察した総司が先回りして応えた。 「・・そうでしたか」 土方が現れ、大方そうでは無いかと判じていたのか、総司の立場を知った脇が、改めて笑みを向けた。 だがその、躊躇いから笑みに変わる寸座、見止めるにも難しい一瞬だったが、新撰組と名を口にした瞬間、脇の双眸に、再び緊張にも似た硬さが走ったのを、総司は見逃さなかった。 しかし敢えてそれに知らぬ振りをしたのは、その事を土方の鋭い洞察から隠すが故だった。 「貴公の身は、この田坂医師に預けた故、傷が癒えるまでゆっくりと養生されるが良い」 そんな総司の心裡を知ってか知らずか、土方が脇へ掛けた言葉は、相手の体への労わりに終始していた。 だがその裏に隠された本来の目的が、もしやこの診療所に脇を留め置くことにあるのではと、ふと其処に思いを馳せた瞳が、筋の通った鼻梁が、研ぎ澄まされた冷淡さを印象づける怜悧な横顔を、咄嗟に振り仰いだ。 「いえ、そのようにご迷惑を掛ける訳には行きません」 しかし脇自身は土方の言葉を真正面から受け取ったようで、急(せ)いた声がこれ以上かける厄介を拒む。 「傷口が塞がるまでに十日、怪我で失くした体力を戻すまでに・・そうだな、更に十日。都合二十日と云うところか」 が、其処に割り込むようにして、それまで聞くに徹していた田坂が、患者の焦燥を制すると云うよりも、あくまで医師として弾き出した数字を淡々と並べた。 「貧乏医者の家で、昼は患者の声で煩く、到底居心地が良いとは云い難いだろうが、少なくとも・・」 脇の困惑ぶりを目にしながらも、そんな事には頓着なさそうに語り続ける田坂だったが、つと言葉を仕舞うと、面白げに土方に視線を遣った。 「此処で大人しく養生をしなければ、どうやらこの人は、あんたを新撰組に引き取る算段らしい」 語尾に含まれた笑いは、困惑を露にしている脇に向けてでは無く、今の言葉で土方がどのような反応を示すのか、その事を楽しんでいる風だった。 「土方さんっ」 が、それを聞き顔を強張らせた脇よりも早く、驚きの声を上げたのは総司だった。 「襲った浪人者達は、貴公に顔を見られている。それ故、又狙うかもやしれん。ならば、そ奴等を捕縛するまで新撰組で養生したら如何かと、先程この田坂医師に相談してみた処、気配りも届かぬ煩いだけの男所帯では、治る傷も治らなくなると断られた」 呆然と見る総司の、戸惑いと懸念の視線を受けても、土方は露程も表情を変えず、端整な横顔は苦笑まじりに、無言で見上げる脇にからくりを解いた。 「折角やって来た都。すぐにでも動きたい心に焦りは募りますが、これも天の定めと受け入れる他無いのでしょう。このような田舎者ひとりの為に、皆さんにはご迷惑をお掛けし、心苦しい限りです」 脇は暫し土方に視線を止めていたが、やがて観念したかのように静かに笑って告げると、眸を伏せ、それを礼に代えた。 ――土方の脳裏で何が算段され、どのように動きだしているのか。 そしてそれが、脇とどのような繋がりを見せるものなのか。 今はその輪郭すら見定められ無い靄(もや)の中で、総司は言葉も無く、目を瞑ってしまった脇から視線を逸らすと、其れを傍らの土方へと向けた。 来る時には、あれ程急(せ)いて渡った橋を、帰りに二人で渡る時は、いっそ果てなどなければ良いと願う自分に呆れながらも、土方を追う足は、主の心を映し動きを鈍くする。 田坂の診療所で顔を合わせた時から、土方が怒っている事は知っている。 だがそれが何故なのかが分からず、見えない土方の心は総司を不安にする。 それでもこうして二人で歩くのは、年が明けてから初めてだった。 そんな埒も無い事にはすぐさま応えられる自分を恥じ、総司は見つめていた広い背から、慌てて視線を逸らせた。 が、それを察した訳ではあるまいが、前を行く土方の足がつと止まり、傘の中から後ろを振り返った。 「何をしているっ、さっさと歩け、風邪を引いても知らんぞっ」 何故傍に来ないのだと、本当を偽り掛けた声が、焦れる心そのままに大きくなり、深い色の瞳を驚きに見張らせた。 まるで童の癇癪にも足らぬこの稚気が、想い人を、一時たりとも己の掌中から離す事の出来ない勝手だとは、土方も重々承知している。 だがこの者に限っては、どんな理屈も辛抱も効かぬ自分である事をも又、それ以上に承知している。 何時の間にか開いてしまった僅かな距離を、慌てて駆けてくるその様をいとおしいと思いながら、しかしそれを渋面に隠す他出来ない己に諦観の息をつくと、土方は、再び元の歩幅で歩き始めた。 「・・脇さん、疲れさせてしまったようだけれど、大丈夫だったかな」 しかしその心裡を知らずして、総司は土方と会話の切欠を持てた事がただただ嬉しいようで、斜め後ろから掛けた声が、相手の不機嫌など頓着無く弾む。 「伝吉をつけている」 が、背中を向けたまま返ったいらえは、総司の面輪を一瞬のうちに強張らせた。 「脇逸平、但馬豊岡藩で、郡奉行の配下に付く中見役だ」 そして更に続けられた言葉は、見開いた瞳を凍てつかせた。 ――たった一両日の間に、土方が其処まで脇の身辺を調べ上げ、尚且つ伝吉を付けると云うのには、必ずや何か理由があっての事だった。 だが僅かの接触ではあったが、総司には、あの脇が、新撰組が警戒しなければならない、或いは捕らえなければならないような人物とは思えない。 むしろ朴訥とした不器用な人柄は、氷雨を、寒九の雨なのだと教えてくれた時の笑い顔と相俟って、今も胸の裡に温(ぬく)い風を呼び起こす。 「脇本人については、今の段階では、新撰組の敵となる相手か否かは分からん。上洛の事情についても不明だ。が、豊岡藩の一部については、目下新撰組が探索している」 返す言葉の見つからない総司の心中を見透かせたように、土方が足を止め、振り向いた。 「脇に対して、お前がどのような印象を抱こうが、それは勝手だ。だが結果的に、良しとしてした事が、裏目に出る事もある。それだけは、覚悟しておけ」 だからこそ、今はまだ脇と深く関わる事を避けさせたかったのだと。 そうなれば、辛い思いをするのはお前なのだと。 それを憂え、焦れるからこそ、怒りしかぶつけられなかったのだと・・・ 呆然と立ち尽くす総司を、暫し見据えていた土方だったが、やがて胸に逆巻くあらゆる思いを封じ込めるかのように、乱暴に踵を返した。 |