寒九の雨 (四)




「大寒と云われりゃ、この寒さにも腹を括る他ねぇが、凍えるのまでは真っ平だぜ」
玄関脇で傘を差そうとしていた丁度その時、永倉の隊が巡察から戻って来た。
それを迎える形になった総司が労いの言葉を掛けるよりも早く、歯切れの良い江戸言葉が、ぼやきをひとつ、天に向けて打っちゃった。
「永倉さんは、寒いのが嫌いだから」
渋面を作り、手甲を外しているその永倉を、総司の可笑しそうな声が揶揄する。
「この寒さを好いているなんぞと云う物好きな野郎がいたら、褒めてやるぜ」
が、収まらない不満は、益々調子を乱暴にする。


 確かに此処暫く、天道がまともに顔を見せた日は無く、不意に陽が射したかと思えば、それは又直ぐに鉛色の雲に隠れてしまう一刻日和か、或いは終日、視界の中の情景を白一色に籠もらせる雪になるか、そのどちらかだった。

 脇が襲われた翌日、偶然にも土方と一緒に見舞う形になってから、早四日が経とうとしていた。
その帰り道に告げられた衝撃的な事実は、総司の裡で大きな杞憂となっていたが、新撰組が疑惑を持ち探索中の一件と、脇が関わりを持つのであれば流石に勝手に動く訳にも行かず、焦れる時だけが悪戯に過ぎて行った。
そうして今、診察を受けに行くと云う、漸くやって来た理由付けのもとに、総司は田坂の診療所へ向かう処だった。
――あの時、脇は堅い意志で、偽りを貫き通した。
そしてそれは、今日も同じなのだろうか。
或いは心を解く兆しを見せてくれるのだろうか。
土方は、新撰組の追う件と脇自身の関係については、まだ分からないと云った。
ならば結んだ縁(えにし)が、かの人にとっても自分にとっても、吉兆であって欲しいとの願いが、総司の裡を覆う。


「お前、何処に行く?」
が、脇に事寄せて、束の間、思考を他所に奪われていた総司を我に返したのは、肩の雪を払いながら、ふと気付いたような永倉の声だった。
「・・えっ?」
「ああ、今日は一のつく日か」
自ら問いながら、何を応える間も与えず、先にいらえに辿り着き、合点が行ったように呟いた永倉に、色の薄い唇から小さな笑い声が零れ落ちた。
「何が可笑しい」
「だって・・、永倉さん、全部ひとりで決めている」
「田坂さんの処に、行くんだろ?」
己の推量に外れはあるまいと強引に問う声に、細い線で縁取りされた面輪が、愉快そうに頷いた。
「なら、間違いはねぇだろ」
そんな邪気の無い笑い顔を向けられれば、永倉も己の癇性を認めざるを得なく、返った声には苦い笑いが籠もっていた。

「そう云や・・、田坂さんの診療所の近くで、伝吉の姿を見かけたな」
しかし埒も無い会話の続きは、総司の面輪から、一瞬の内に笑みを消し去った。
「別段、驚く事じゃねぇだろう。あいつが動くのは今に始まった事じゃねぇ。やっている仕事の中身までは分からねぇが、もしかしたら、その内に大きな捕り物があるかもしれねぇな」
まだ詳細を知る段階にまでは来てはいないが、しかし伝吉を働かせているその事が、何らかの疑惑に対し、土方が動き始めている証しだと、永倉の言葉は暗に語るものだった。
そしてその永倉の言葉を耳に素通りさせながら、伝吉の監視の対象が脇であると云う事実が、今更ながら、総司の心を重くする。

「おいっ」
だがそんな憂いに捉われ、一瞬、瞳を伏せかけた総司に、呆れとも叱咤ともつかぬ声が飛んだ。
「お前のぼんやりを見ていると、土方さんで無くとも、小言のひとつふたつ出てくるぜ」
「ぼんやりなんか・・」
「人は、それをぼんやりと云うのさ、温(ぬく)くして行って来いよ」
抗いの声など端から聞く気も無いのか、云い終えるや、永倉は上がり框を踏んだ。
が、その途端、板敷きの冷たさに、渋めた顔が更に顰められた。
そんな様を、声を堪えて笑った総司だったが、やがて其処が当り処のように、乱暴に床を鳴らして行く背が小さくなると、手にしていた傘を広げ、自らも叉、白い雪に埋もれた先へと踏み出した。





「もういいよ」
繰り返される呼吸から、膚を通して伝わる異質な音のひとつも聴き逃さぬよう、極限まで聴覚を研ぎ澄ませていた田坂の声が、緊張の時の仕舞いを告げるや、総司の唇から小さな息が漏れた。
「悪いとは云わないが、あまり良いとも云えない」
だがその後を追うように掛けられたのは、束の間の安堵も与えぬ、厳しい言葉だった。
「けれど風邪も引いていないし、胸だって痛くない」
それに異を唱える声には譲らぬ頑なさがあったが、しかし袖に腕を通す振りをし逸らせてしまった視線が、偽りに揺れる心を露わにしていた。
「風邪を引いた、胸が痛いと、そうなってからでは遅いのさ。ここ少し様子を見るが、今より悪くなるようだったら、休養が必要だと近藤さんに伝えねばならない。今度は・・、そうだな、五日後だ」
「私ばかりが、そんな勝手は云えない」
「では新撰組を抜ける他無いな」
弾かれたように上げられた面輪がみるみる強張るのを見ても、若い医師の情が傾くことは無い。
「新撰組にいたいのならば、こちらの云い分は聞いてもらう。君とてそれが為に、渋々此処にも通って来ているのだろう?」
「・・渋々だなんて」
幾分和らいだ田坂の口調に、揶揄があるのを察した総司の声が、今度は其れへの不満を訴える。
「まぁそれはどちらでもいいが・・、五日後と云うのは、君にも都合の良い事情の筈だぜ」
そう告げるや苦笑したその意図が分からず、不思議そうな色を湛えた瞳が、立ち上がった長身の主を見上げた。
「どこぞの煩い人に文句も云わせず、気になる人間に会いに来る、十分な大義名分が立つだろう?感謝しろよ」
笑いながら告げる田坂の言葉の先にあるものが、脇の存在と、そして其れに関わる事を良しとしない土方を指しているのだと――。
漸く気付いた途端、自分の心裡など疾うに見透かされていた羞恥に、蒼が勝った白い膚が耳朶まで朱に染まった。

「・・・脇さんに、会えるかな」
そんな面映さを隠し、殊更ぶっきら棒を意識した物言いだったが、慣れぬ仕業は声をぎこちなくするばかりで、それが益々総司には情けない。
「駄目だと云った処で、そう簡単には諦めはしないだろう?」
「脇さんの具合が悪ければ、今日は止めにする」
「嘘を云え」
「嘘じゃない」
「俺は別に嘘でも構わんがな。ところでその脇さんだが、もう簡単な身の回りの事位は自分で出来る程になった。やはり思ったよりも、回復が早い。見舞うに差し障りは無い」
「では今からでも構わないかな?」
そうと知れば、先程までの頑固など疾うに忘れたように、少しも早くに会いたいと、逸る心を隠そうともしない瞳に見詰められ、田坂の口から、呆れともつかない、いらえ代わりの吐息が返った。





 灰に埋もれた熾火は、ちろちろと紅い舌で鉄瓶を舐め、底に蔓延した熱は、透けた水を白濁色に変え、細い口から空(くう)へ押し出し散らせる。
そうして湿り気を含んだ白い障子紙は、気持ち弛みを帯びているかのように思える。
が、それが得も云えぬ柔らかさを醸し出し、さながら、枯れた枝の間を縫って落ちる冬の陽だまりにも似て、殺風景な室の中を優しげなものにしていた。

「こんなに休んでしまったのは生まれて始めての事なので、どうにも落ち着きません」
その中にあって、脇逸平は床の上に端座し、屈託の無い笑い顔を見せた。
傷を負ってから五日目、幾分面窶れはしたものの、それすら若い精悍さに変えてしまうような明るい声だった。
それは樹木が地に深く根を下ろし、年輪を刻み、空に向かって枝を張る、生命の強かさにも似ていた。
しかしその脇の持つ強さは、総司の裡に、羨望と憧憬を齎さずにはいられない。

――この身を苛む宿痾が、天の定めたものならば、それに抗うつもりは無い。
だがそう思いつつも、心の何処かで常に足掻いている自分を、総司は最近になって知るようになった。
否、それは土方が想いを受け入れてくれたその時から、幸いと引き換えに、始まったのかもしれない。
土方を失いたくは無いと、傍らに在り続けたいと願うが故、怯えると云う事を知った自分から、もう目を背ける事は出来なかった。

「けれど今無理をしては、傷が塞がらなくなってしまいます」
そんな己の不甲斐なさを打ち捨てるかのように、殊更明るい声音が、相手の勇み足を笑った。
「いつも自分が聞かされている台詞を他人に云うのは、これで結構愉快なものだろう?」
「田坂さんっ・・」
が、直ぐに打たれた半畳に、総司が慌てて後ろを顧みた。
「ところで脇さんは、剣術の方も、そうとう行ける口だろう?」
が、田坂は抗議の声に耳を貸すでも無く、既に視線は脇へと向けていた。
「いえ、私は剣術の方は、からきし駄目な人間で・・」
決まり悪そうに苦笑した脇だったが、その脇を見詰める総司の脳裏に、この人物と初めて会った時の事が思い起こされた。

 それが慣れ親しんだ一部の者を除いて、人の気配を感じた瞬間、意識よりも先に身が構えの体勢を取るのは、剣を遣う者の性(さが)と云って良かった。
しかし脇に限って云えば、総司の剣士としての勘は、まだ相手の顔貌(かおかたち)も分からぬかなり早い時期に、その緊張を解いて良いと教えた。
其れは即ち、既にその段階で、相手の力量を判じ得てしまったからだとも云えた。
しかし田坂も八郎も、脇の体つきに関しては、力仕事で鍛えたものであると推量した。
そして総司も又、夏の名残を今に引き摺る日焼けした面に、白い歯を見せて笑う本人を目の前にし、その感は拭えない。
強靭な筋肉と、其れに不釣合いな剣の技量。
今の田坂の問いは、その両極面を持つ脇に対する、興と探り以外の何ものでもなかった。

「傷の塞がり方が早いのは、余程体に力がある所為で、それでてっきりそう思ったのだが・・、では何か他に?」
更に話の成り行きを、巧みに己の側へと誘(いざな)う田坂の問いに、総司も沈黙の中でいらえを待つ。
「私の仕事は、中見役と云うものでした」
「・・中見役?」
一度は土方の口から聞いた言葉ではあるが、自分の知識の範疇を超えた仕事が、一体どのようなものかを掴みきれず、呟いた総司の声が心許なかった。
「そうです。中見役とは、郡奉行の下で、田畑の作物の成長具合を見回り、各村の庄屋は元より、百姓達との折衝や相談に当る仕事です」
「だが中見役と云うのは、奉行所内での仕事もあるのだろう?脇さんを見ている限り、屋根の下で、一日の大半を終えているようには見えないが・・」
頭の中で、少しずつ想像を具現化しようと試みていた総司の後ろから、突然投げかけられた田坂の疑問は、脇の仕事に対し、ある程度の知識を有しているからこそ質せるものであった。
「確かに・・。中見役には、奉行所内でも仕事も多くあります。ですが昨年父の跡を継ぎ、お役目を頂戴した私には、紙と言葉だけでは民の本当の事情が分かりません。それを埋めるには、自分の足で地を踏み、目で見て回り現実を捉えるのが一番なのです。・・もしこの体に他人の其れよりも力が有ると云うのならば、日々歩き回っているお陰でしょう」
少々照れ臭そうに笑った顔には屈託が無い。
「しかしそれでは、寝る暇も無いだろう」
机上での仕事と実務の合間に、更に己の勉学の為に村々や田畑を回るとなれば、休息を求めるなど無理な相談と云えた。
そんな相手の気真面目さを問う田坂の口調に、半ば呆れともつかぬ吐息が混じる。
「仰る通りです。ですが一日・・、いえ一年の過ぎる早さが、私には恨めしい。それ程に、今の私は無力なのです」
言葉にした無念をそのまま映したように、脇の面が翳った。
が、その刹那、総司の裡に、冷たい雨を、吉兆なのだと教えた笑い顔が不意に蘇った。

それはその人間の素の表情を、洗いざらい晒したような飾り気の無いものだったが、だからこそ、そうであって欲しいと祈る真摯な思いを強く印象づけた。
あの時天を見上げ、寒九の雨だと呟いた若い中見役の心は、稲を植え育む者達の先が幸いであるようにとの、切なる願いだったのだと、今更ながらに真実を知った総司の瞳が脇に向けられた。

「ではその大切な時を割いて京に来たのは、やはり仕事と関係のある事なのだろうか?確か、藩命では無いと聞いたが・・」
だがその総司の心裡など知らずして、田坂の声は明瞭な韻を踏み、相手に逡巡の間を与えず次の問いを仕掛ける。
そして不器用な朴訥さは、其れをかわす術を知らず、一瞬、脇は言葉を詰まらせた。
「・・・京には、国元では手に入らない、稲作に関する書物を探しにやって来ました」
それでもぎこちない笑みと共にいらえは戻ったが、狼狽を露にした声が、偽りを如実に物語っていた。
「確かに、今京には煩わしい程に人が溢れ返っている。が、同時にそう云う人間達が、日々新しい知識を持ち込んで来る。江戸に無くとも、此処には有る物が見つかるかもしれないな」
いつの間にか胡坐をかき腕を組んでいた田坂だったが、それが崩れた行儀の悪さに通じないのは、無防備そのもののようでありながら、その実、何処にも見つける事の出来ない隙の無さの所為だった。
そしてその事は、脇の役務への知識が、もしや江戸に封印して来た田坂の来し方で培われたものと繋がるのではと・・・。
ふと湧いた懸念は、総司の裡で瞬く間に膨らみ、そして確信へと至る。
「どうした?」
が、そんな事に思いを馳せていたなどと知る筈も無く、掛かった声が訝しげだった。
「・・・すみません、何でも無いのです」
田坂の、脇への問いに潜ませていた鋭さを、まさか当人の過去へ結びつけていたなどとは告げられず、詫びる声がつい硬くなった。
「何を考えていたのかは知らんが・・、今日の処はこの位にして君もそろそろ帰らないと、煩い人の堪忍袋の緒が又切れ掛かるぞ」
苦笑混じりの揶揄に抗おうとした寸座、室の外に、ふと感じた人の気配に、総司の唇が咄嗟に動きを止めた。

其れが伝吉のもので有る事は、直ぐに知れた。
そして同時に、土方にとって、脇はまだ疑わしき者であるのだと――。
改めて刻み込まねばならない現実に、暗澹とした思いが胸の裡を塞ぐのを禁じ得無いまま、総司は、一瞬の内に消えてしまった気配から、漸く意識を切り離した。

「脇さん、炭が足りなくなったら呼んでくれ」
だがその総司の憂慮を払拭するかのように、勢いつけて、田坂が立ち上がった。
「すみません、又来ます」
そして突然傍らに出来た大きな影に促された総司も、慌てて脇に一礼すると、片膝を立てた。
 その二人に深く頭(こうべ)を下げ、律儀な礼を返した脇だったが、何処か落ち着かぬ様子に見えたのは、先程、上洛の目的に触れられた動揺の名残なのだとは、容易に察せられた。
――揺れる先にある、真実を知りたいと思う駄々を叱りながら、総司は静かに障子を合わせた。





 奥行きのある建物の、外廊下の板張りは、身の芯まで縮み上がらせるように冷たい。
だがそんな事など微塵も感じていないのか、広い背の主は、脛の長さと同じ歩幅でずんずん先を行く。

「田坂さんは、意地が悪い」
室を辞す間際に見た脇の硬い横顔が脳裏から離れず、漸く追いついて掛けた声には、咎めるような響きがあった。
「今更だろう、そんな事は。だがそのお陰で、脇さんについて、多少は知る事が出来ただろう?」
が、非難の声など気に止める風も無く、淡々と返ったいらえは確かにその通りであり、総司から次の言葉を奪う。
「・・にしても、あの人も大変だな」
「大変・・?」
不意に変わった話の筋が、今度は総司に戸惑いを与える。
「脇さん、歳は二十五と聞いたが、その年で跡目を継ぐには遅い感もある。が、如何せん、父親が急死しての、突然のお役目だろう?だとしたら、確かに己の足で田畑を歩き百姓達の声に耳を貸し、身を以って学ばなければ経験の浅さは埋まらないだろうな」
「中見役と云うのは、そんなに大変な仕事なのですか?」
「中見役そのものは、郡奉行の下に位置し、藩によっては目付の役職をも兼任する。無論、自分の下にも、郷目付けなどの配下を持つ。要するに机上と実地との中間に位置する役職だが、だからこその気苦労もある。が、それを大変にするかしないかは、その人間の気質次第だろう。だがあの人は、楽をして仕事の出来る器用さを、持ち合わせてはいない。自ら苦労や面倒を買って出る人だろう。・・多分、国元でも上と下、更に藩と民との間で東奔西走しているのだろうな」
脇と云う人間への感想を、不器用と、敢えてその一言で片付けず、振り向いた田坂の双眸が笑っていた。
そして向けられた眼差しには、そんな相手の気質を蔑むものは何処にも無く、慕わしげな柔らかさだけがあった。
その、和んだ気に乗せられたか、総司の面輪にもつられるような笑みが浮かんだ。
「田坂さんは、どうしてそんなに脇さんの仕事に詳しいのですか?」
穏やかな空気は、先程から総司の胸にあったもうひとつの疑問をも、ごく自然に唇から滑らせる。
「俺に厄介な節介を持ち込んで来る叔父貴が、その昔、国元で郡奉行と云う役目を勤めた事があったのさ」
「・・叔父・・貴?」
不思議そうな呟きが、高い鼻梁が、英知と端整を按配良く印象づける顔に、苦笑を浮かべさせた。
「本当の叔父では無い。俺の実の父の知己で、今は膳所藩の国家老をしている。・・郡奉行だった時代は、そうだな、俺がまだ十にも満たない頃だった。その後直ぐに勘定方へと変わったから、ほんの僅かな間の事だったが・・。父は江戸詰めで、俺も江戸を離れた事が無かったから、たまに来ると聞かせてくれる国元の話が面白かった」
だから中見役と云う仕事にも、多少の知識があったのだと語る田坂の双眸が、遠い昔を懐かしむかのように、白ひと色に覆われた庭へと向けられた。
だがその田坂を見詰めながら、総司は掛ける言葉を失くしていた。

――嘗て膳所藩で先を嘱望されていた父を持つ田坂は、天の戯れと云うにはあまりに残酷すぎる定めにより、全てを失い京へ逃れて来た。
其れを思えば、田坂にとって、膳所藩との関係を口にするのは、避けたい事柄の筈だった。
他人の心裡に刻まれた傷に、無遠慮に触れてしまった浅はかな自分を、総司は責めずにいられない。

「どんな事情があって、あの人が京に来たのかは分からないが・・」
が、ふと漏れた独り語りのような低い声に、総司の瞳が上げられ、庭に視線を止(とど)めている横顔を見遣った。
そしてその、向けられた眼差しに応じるかのように、田坂の双眸も又総司へ戻された。
「どうやら君の考えている事は、当っているらしいな」
突然の言葉は、一瞬総司を惑わせたが、直ぐにそれが、脇への疑惑を否定するものだと判じるや、深い色の瞳が驚きに見開かれた。
「・・多分、其れは土方さんも既に承知している筈だ。だがあの人はあの人なりに、どうしても脇さんを見張らなければならない、何かの事情があるのだろう」
しかも更なる憶測は、既に総司の思考の範疇を大きく放れたもので、驚愕に揺れる瞳は、ただただ田坂を凝視する。
「面倒な手順など踏まず、狙った獲物に直に爪を立てる事が出来れば、土方さんも余計な神経を使わずとも済むものをな」
「狙った獲物とは、豊岡藩の事なのでしょうか・・」
最後の韻に、含むような笑いが忍んだ事すら気付かず、丹念な線で描かれた唇が、硬さを残したまま漸く動いた。
「さて・・・」
恋敵を揶揄したつもりが、そんな事は露ほども知らぬ想い人は、生真面目な面持ちでいらえを待つ。
だがあまりに真摯な瞳に見詰められれば、今度は要らぬ妬心が田坂を煽ぐ。
「其処までは、俺にも分からん」
燻る火を灰に埋もれさせるにも似て、素っ気無い程に淡々とした声が、この話題の仕舞いを告げた。

――あの日土方から頭を下げられたのは、脇と云う人間が、今新撰組が豊岡藩を探らなければならない事情と繋がりがあるのか否か、それが分かるまで足止めをして欲しいとの依頼だった。
背中の向こうで立ち竦んでいる、総司の戸惑いと躊躇が、手に取るように分かる。
だが今は告げる事の出来ない事実を胸に封じると、田坂は、止めていた足を踏み出した。





「ほな、五日先には、豆大福を買うておきますわ。今度こそ無くならんように、しっかりと頼んでおかな」
薄暗い、氷室のような空間には凡そ似付かない柔らかな声音が、其処だけに、凍てた季節とは遠く掛け離れた温もりを与える。
「すみません、ご馳走になった上に、お土産まで頂いてしまって・・」
そしてそのキヨに詫びる総司の声が、心底恐縮していた。
「そないな事かましまへん。けどうちはどうしても、あの豆大福を、沖田はんに食べさせたいのですわ」

あれから。
脇を見舞った総司を、茶を用意したキヨが待っていた。
そしてキヨのおしゃべりに相槌を打ち笑う、その暫しの安寧の時は、裡にある重い痞えから、総司を少しずつ解き放ってくれた。
だがキヨは、客に食べさせたかった菓子を用意出来なかった事が大層不満だったらしく、先程の会話はその心残りを告げたものだった。

「ほんま、たった今、売り切れてしもうたんですわて云われた時には、えらい悔しおしたえ。せやけどこないな寒い日は、風邪引かはった患者はんで、診療所がてんてこ舞いですやろ?やっと行けたら売り切れで、うちがあんまりがっかりした顔したんで、気の毒やと思うたんですやろなぁ。あちらさんの方から、前の日に云うてくれたら、とっておきますて、云うてくれはったんですわ」
ふくよかな頬を緩めて嬉しそうに笑う顔には、何の屈託も無い。
だが世辞のひとつで得意客の機嫌を拾い、今頃は恵比寿顔をしたり顔にしているのだろう商人(あきんど)魂に、田坂が苦笑しかけた時、その視線が、つと外に向けられた。
「キヨが張り切るのは良いが・・、もうひとり、客が来たようだぜ」
誰に告げるとも無い呟きと、時を同じくして、華奢な身も又振り返っていた。


 
 重厚な玄関の三和土(たたき)からふたつ、そして上がり框から見下ろすひとつ、三者三様の視線を受けながら、黒塗りの門を潜った八郎は、土の黒と雪の白で斑(まだら)になっている道をゆっくりと歩いて来る。

「揃って、出迎えかえ」
やがて軒に入る手前まで来て足を止めると、差していた傘を畳むでも無く、端正な面が愉快げに笑った。
「いや、伊庭はん、おこしやす。伊庭はんも、脇はんのお見舞ですやろか?」
小さな偶然に、誰よりも先にいらえを返したのはキヨだった。
「そのつもりだったが・・・、さても前の見舞い客に、脇さんも疲れたろう。今日の処は止めておくのが怪我人の為か、其処の先生に聞いた方が良いだろうな」
「そう願いたいね。尤も、疲れさせたのは俺だと、誰かさんは責めるだろうがな」
唇の端に苦い笑いを浮かべ、そして下ろした視線の先で、やはり抗いの色を湛えた瞳が勝気に見上げていた。
「田坂さんが、疲れさせたのかえ?」
「意地の悪い医者だからな」

 自分に向けられている、咎めるような眼差しなど捨て置き、それどころか、更に総司の不満を煽るように、八郎に応えた田坂の声が笑っていた。









事件簿の部屋  寒九の雨(五)