寒九の雨 (五)




 普段は気にも留めていなかったが、こうして雪が積もれば、滑らぬよう、ついつい力が籠もる足先に、実はこの五条の橋は、緩やかな婉曲を成しているのだと知る。
だがそんな事を改めて思う自分を笑う前に、今総司の思考の全ては、瞳に刻まれたひとつの像に奪われていた。

――不審な人影に気付いたのは、田坂の診療所を辞し、門を潜った直後の事だった。
其れは若い男だったが、総司が往来に出た時には、既に足早に立ち去ろうとしていた。
しかしその後ろ姿には、すぐさま其れが、通りすがりを装った偽りであると分かるような、不自然さが有った。
男は、確かに田坂の診療所を探っていた。

そのまま相手に気付かれ無いよう、一定の距離を保ちつつ、五条の通りを少しばかり西へ行くと、男は今度は北へと折れた。
「・・曲がったな」
が、不意に消えた姿は、総司を焦らせ、一瞬が足が急ぎかけたが、其れを諌め制するように発せられたのは、構える風も無い、淡々とした声だった。
此処までの道程、互いに然も無い会話に終始して来たが、八郎も、彼(か)の人物に気付いていた事は承知していた。
それゆえ、咄嗟に傍らを見上げた総司だったが、傘の下の横顔は微動だにしない。
「脇さんと、関係する人だろうか・・」
ぽつりと呟いた声音が、まだ確信にまで至らない心許なさに揺れていた。
「でなきゃ、この寒さの中、あんな処をうろついている物好きなど居るまいさ」
だが八郎のいらえは、どうでも良さそうな口ぶりが、艶とは凡そかけ離れた、この道行の不満を隠すでもない。
「けれど脇さんが田坂さんの処に居る事を、何故あの人は知っていたのだろう」
「あいつが、襲った奴等とも、通じているからだろうよ」
或いはと思いはしたが、それにしても、あまりに当然の事のように云い切る八郎に、見開かれた深い色の瞳が、精神の強靭さと叡智の両方を、深く印象づける端正な横顔を凝視した。
だがそんな総司の動揺を他所に、止まる事の無い足は、やがて同じように角を北へ曲がり、そして追う姿は、まだ然程距離を置か無い先に在った。
それが束の間の安堵を、総司に齎せる。

「・・あの男、腕は脇さんと五分五分と云う処か。俺が親玉なら、もう少し出来る奴を刺客に向ける。あれは損得抜きに、脇さんの身を案じて来た奴だ。だが案じながらも、それを表向きに出来ない、・・まぁ、そんな処だろう」
再び捉えた背に視線を止めながら、語る言葉は辛辣だが、其処に含むものは無い。
しかし即ち其れは、八郎の、己の推量への自信の表れでもあった。
「ならば脇さんは、元の仲間に襲われたと云う事なのだろうか・・」
が、断言とも取れる物言いに返す総司の声は、まだ自らの思考を纏め切れず、その迷いを残してか、力無い。
「俺には分からん」
そして其れに戻ったいらえは呆気なく短いものだったが、しかしその言葉の、一体どれ程が本当なのかを推し量れず、総司は無言で八郎から視線を離した。

――確かに。
先を行く男からは、警戒しなければならないような殺気は感じられなかった。
だがだからこそ、相手の意図を読み取れず、其れが総司を戸惑わせていた。


 幸いな事に、今北へと上っている道は、突き当たる四条通りまで神社仏閣が連なり、参詣する者達で人の通りが途絶える事は無い。
しかも商いをする店が軒を並べている訳では無いから、ひしめき合うと云う程でもあらず、見失う事無く人をつけるには良い具合と云えた。
が、其れとて長く続けば、流石に相手も気付かない訳は無い。
「そろそろ、潮時か・・」
低く呟いた八郎の声は、そのような気など全く持ち合わせていないだろう想い人に、如何にこの詮索を諦めさせるかを思案し、早憂鬱げだった。
「八郎さんっ」
だがそんな傍らの心裡など知る由も無く、先を行く姿だけを追っていた総司の瞳が見開かれ、細い線を描く唇が短い声を上げた。
其れに、八郎は軽く頷いただけだったが、同じように前に向けられていた双眸が、微かに細められた。

 男が足を止めたのは、丁度寺の土塀が途切れ、ひとつ路地を挟んだ北側に建つ屋敷の前だった。
建て方からして、どうやら何処か商家の寮らしかったが、その敷地の広さから推しても、かなりの財力を持つ者の屋敷と察せられた。
やがて男は、黒塗りの門の前で差していた傘を畳むと、その横の小さな潜り戸から身を滑らせるようにして中へ消えた。


「・・誰の家だろう」
ぽつりと漏れた声と共に、総司の面輪が、あり得る筈が無いと知りながら、それでも返るいらえに万にひとつの希(のぞみ)を託すかのように、八郎に向けられた。
「土方さんに、聞いてみる事だな」
が、思いも掛けない言葉に、見詰める瞳が瞠られた。
だが八郎は応えず、目線だけを動かし、今自分達が歩いてきた道の彼方へ、総司の其れを促した。
直後に、教えられた先へ向けられた瞳も、此方にやって来る、商人風の形(なり)をした一人の男の影を映し出した。
 
 背負った荷ごと蓑で身を覆った男は、笠の下の顔を俯き加減にし、その容貌までは分からない。
しかし其れは、総司にとって、見紛う事無く知った者の姿だった。
雪で足元が滑りやすい中を、上手に均整を取りながら、一定の速度を保ちつつ近づいて来るその者は、八郎と総司の直前まで来ても歩を緩める事無く傍らを通り過ぎた。
が、その寸座、瞬くにも及ばない一瞬、男は、そうする事で礼に代えるかのように、総司へと視線を流した。
そして総司も又、それに応じて瞳を伏せた。
 そのまま、総司は身じろぎもせず、息を詰めるようにし、朴訥な剣豪であり、山崎と並び新撰組で重きを成す有能な観察方吉村貫一郎が去り行く気配を、背中だけで追っていた。

――幾つもの糸は、どんな風に絡み合い縺れ合い、そして散らばったそれぞれの端は何処にあるのか・・・
まるで自分の立っているその場すら分からない、深い霧中に放り出されたように思考は混迷を増す。
「総司っ」
だが其れを強引に中断させたのは、八郎の強い声だった。
「入るぞ」
「・・え?」
「あそこの店だ」
前方へ顎をしゃくり指す調子には、独り沈黙の砦に籠もってしまった主への苛立ちがあった。
が、その怒りの真意が分からず、総司は八郎の云われるままに視線を移した。
 教えられた其処には、どうやら料理屋らしいが、一見しただけでは仕舞屋(しもたや)にすら思える鄙(ひな)びた風情の店がある。
八郎は其処に入ると云うのだろうが、吉村の姿を見たばかりの後でもあり、流石に総司にも戸惑いが勝る。
「でも・・」
「この寮が誰の持ち物か、その位は教えるだろうよ」
しかし八郎には吉村の事も、その後ろにある土方の存在も然したるものでは無いらしく、最後まで云い終えぬ内に向けた背は、くだんの店へと歩き出していた。
そしてその後を、一瞬の間を置いて、躊躇いを捨てた足が追い始めた。





「四条通りにある、三門(みかど)屋と云う商家の寮だと云う事だ」
云いながら、十分に暖の取られている室の中に、外からの冷気を忍ばせまいと、襖を合わせた後ろ手の動きが素早かった。
「三門屋?」
聞いた事の無い名に、深い色の瞳が八郎を見上げた。
「摂津の、三田(さんた)藩を知っているか?」
今度は即座に頷いた総司だったが、目鼻のひとつひとつを造る線の細さが、色を透けさせてしまったような膚の白さと相俟って、時折、ひどく脆いもののように映り、八郎の胸の裡を落ち着かなくさせる。
それがこうして硬質な面持ちでいれば、尚更にその感は増す。
「その三田藩の御用を預かる店で、武器弾薬を取り扱っているらしい」
が、不意に湧いた憂慮を払拭するかのように、八郎は乱暴な所作で胡坐を組むと、用足しを装い聞き出して来た事柄を教えた。
「・・・では先程の人は、豊岡藩と繋がりのある人では無かったのですか?」
だが総司は、八郎の裡に射した翳りなど知る由も無く、又も遠くなった手がかりへの階(きざはし)に、呆然と言葉を紡いだ。
「さてどんなものやら。・・土方さんなら、知っていようが」
意地の悪い言い方だと承知しつつ、やおら視線を戻して見れば、やはり此方を見詰めている面輪は硬い。
「が、聞きたくは無いのだろう?」
その様を視界の端に捉えながら、妬心と云う二文字を、柔らかな声音にくるみ問う己の稚気に、八郎は苦笑せざるを得ない。
「聞く事はできる。けれど・・」
それを揶揄と捉えたか、凝視している瞳のその奥に、強気の色が湛えられた。
「けれど?」
「・・仕事の邪魔は出来ない」
不意に弱くなった語尾が、新撰組と云う組織を超えて、土方その人の邪魔になりたくは無いのだと、切ない心情を訴えていた。
「まぁいいさ。だがあの男を追って、俺達が三門屋の存在を知った事は、どのみち土方さんの耳には入る。俺はこれ以上見たくも無い仏頂面に付き合わされるのは御免だね」
苦い声で嘯いた横顔が、これ見よがしに歪められた。

想い人の一途は、八郎の裡を、嫉妬と云う猛々しい情念の焔(ほむら)で舐め尽くす。
その当り処のように、指に挟んだ杯を一息にあおった途端、疾うに冷めていた筈の其れは、思いの外の熱さとなり、周囲の臓器を焼き尽くすかの如く身の内を滑った。
いっそこの熱の滾るまま、愛しい者を搦め取る事が出来るのならば――。

「三田藩・・・。その藩も、豊岡藩を調べている事と、関係があるのだろうか・・」
が、その迸りかけた情欲を、遠慮がちに漏れた声が寸での処で止めた。
「あるから、あの寮を見張らせていたんだろうよ」
裡に火玉を抱え、それに焦がれながら返すいらえは素気無い。
「三田藩三万六千石。今の藩主は九鬼隆義殿。・・前藩主の急逝と世継がいなかった事もあり、この京の北に位置する丹波綾部藩九鬼家から、養子に行ったらしい」
そして淡々と続ける語り口は、ともすれば失いかける己と背中合わせの、両刃の剣だった。
だが総司は、あまり聞きなれない小藩の事情を、此処まで知る八郎の知識が不思議だったようで、向けられた両の瞳は、次の言葉を待って瞬きもしない。
やがてその生真面目に負けたかのように、空になった杯をつまらなそうに遊ばせていた八郎が、漸く正面から総司を捉えた。

「去年の秋頃か・・。この藩の事が、話題になったのさ」
「話題?」
「藩が貯蔵している甲冑武具を手放すと云う事だった」
「手放すって・・、けれどそんな事をしたら・・」
武士の象徴であるべき甲冑武具を手放すと云う事は、武士そのものを否定する事に通じると総司は云いたかったらしく、途切れた言葉の先に出来た沈黙は、裡に織り成される批難と疑念を口にするを、憚るが故のものだった。
「売った金で、最新式の銃を買うとの事だった」
だが八郎は、総司の持った蟠(わだかま)りには触れず、当時大層な評判になったのであろう事件の顛末を、気負う風も無く語る。
「銃を?」
「最新式のスナイドル銃を三百五十丁、・・横浜商人を通して買い入れると云う事で、其れを率先した三田藩藩主の九鬼隆義と云う名に、誰もが好奇の目を向けた。しかも購入した銃を、その殿さんは、今度は五十石以上の藩士全部に買わせたと云うのだから、当座はその話で持ちきりだった。藩士の中には金の工面が出来きず、夜逃げ同様、藩を脱した奴もいたそうだ」
「どうしてそんなにまでして・・」
やや声を硬くしての疑問は、最新式の銃を、何故今三田藩が必要とするのかを、当節の世情と重ね、総司なりに危惧したものだった。
「こう云う時期だ、当然幕府も警戒はしたさ。が、藩自体に不穏な動きは見つからなかった。それに九鬼と云う殿さんは、藩内では西洋好きで有名だと云う事だし、砲術も又三田藩のお家芸だったらしい。そうなれば幕府とて、一藩の事情にそれ以上の介入は出来まい」
「けれどその銃、最新式となれば、ずいぶん高いのではないでしょうか」
「一丁三十六両、それが三百五十だ」
「三十六両・・」
思わず反復した呟きには、正直な驚きがあった。

 土地によって貨幣の価値を米に換算する基準は違うが、当時米一石(俵にして二俵半)が約一両として計るに、スナイドル銃の三十六両と云うのは、米俵にすれば九十俵の価値があると云えた。
一両あれば夫婦子供四人で約一月の生活が出来ると云われる昨今、三田藩藩士が一丁の銃の為に出費せざるを得なかった金は莫大と云えた。

「三田藩について、俺が知る限りでの知識はこの位だ。が、豊岡藩と三田藩と云うこのふたつの藩を、新撰組がどう云う事情で追っているのかまでは知らん」
後は土方に聞けと、物憂げに呟いた八郎の声を、総司は、掴みかけては遠のく光の糸端が、又も幻に変わってしまったような喪失感の中で聞いていた。





 人ひとりが居なくなった、ただそれだけで、こんなにも殺風景な顔を見せる室の、その変わり身の早さを詰(なじ)るように、手にした杯をあおる早さが上がる。
幾ら賑わいの時を外しているとは云え、小料理屋と云うには首を傾げるあまりの人気の無さが、物音を押し殺したような閑寂さに輪を掛けてる。
それもその筈で、寺町の一角にひっそりと建つこの料理屋は、色事を絶ち、修行に精進せねばならない僧侶達が、憂き身を窶(やつ)して情欲に溺れる、この世の禁忌だった。


 もう四半刻も前になろうか。
想い人は、付き合わせ、費やさせてしまった時の長さに気付くと、気の毒になる程うろたえ詫びた。
そして其れを、今更と、面倒げに笑い揶揄したのは自分だった。
だがあの時、この店の本来の家業が出会茶屋なのだと、笑った声のまま教えたならば、深い色の瞳は、どのような狼狽を見せてくれたものか。
そして交わされる言葉の裏で、お前を欲する己を、必死に抑していたのだと告げたのならば・・・
そんな事に思いを馳せる意地の悪さを、方頬だけを歪めて苦笑した八郎の胸の裡に、ふと、まるで淀みの無い流れに、無造作に投げ込まれた小石が作る水輪のように、近しい昔が蘇った。
それはまだ総司の土方への想いが、片恋でしかなかった頃の事だった。

 吐いた血の、朱に染まった羽織を偶(たま)さか見つけた自分に、その事を誰にも秘してくれと、総司は懇願した。
あの時総司は、苛烈なまでに激しい色を瞳に沈め、今一度抱かれる事を条件に持ち出してまで、土方の傍らに在ろうとした。
が、その切なる願いを退け、胸に抱く想いの丈を土方に告げよと、其れが出来なければ共に江戸に帰る事を、自分は総司に契らせた。
そうして、自分は諦める筈だった。
だが人の心とは、否、己の心とは、何と思うが侭にならないものか。
捨てる筈の恋情は、そう決めた瞬間から、総司の、心も身体も全てが欲しいと、この世ばかりでは物足りない、あの世も更に次の世も果てる事無く、この腕(かいな)に抱いていたいと、天をも舐め尽くす勢いで燃え盛った。
そして其れは、今も自分を翻弄し続ける。

 尽きる事を知らない業の深さに諦めの息をつきつつ軽く首を振ると、八郎はおもむろに立ち上がり、格子窓の障子を、指ひとつ分だけ開けた。
その途端、ひんやりとした冷気が頬をなぶったが、しかし其れに膚を縮ませるよりも早く、切れの長い双眸に、鋭い色が走った。

 道を隔てた向かい側には、総司と追って来た男の消えた屋敷がある。
今八郎の視界の中で、その門の脇にある潜り戸が再び開き、そして中から出てきたのは、くだんの男と、そしてもう一人、これは様子から察し、どうやら男の上の位に在る者らしかった。
だが朧げながらその者の顔貌(かおかたち)を判じた寸座、引き締まった口元が僅かに動いた。
「・・神代」
低く、重く漏れた声音は、意識の外で作られたものらしく、その証に、全ての神経が、視線の先の一点に集められてしまったかのように、八郎は身じろぎもしない。
そのまま、二人は屋敷を出て北へ上る。
すぐ先には、四条通りがある。
そしてその後を、案の定、先程の、商人に姿を変えた新撰組の探索方が追う。
追われる者と、追う者。
その両者の後姿を、八郎は壁に背を預け暫し無言で見ていたが、やがて全ての影が消え去ると、ゆっくりと障子を閉めた。

脇逸平と、其れを襲った者達。
更に三田藩に繋がる商家の寮に潜む、豊岡藩と関わりを持つ者達。
否、元豊岡藩郡奉行、神代卯之助――。
が、脇に刺客を向けたのが神代の差し金ならば、その事情は分からずとも、少なくとも脇は、新撰組の疑うべき相手では無い。
 脇が襲われた日、掛けた鎌を素気無く払った土方だったが、まさかこんな処で図星を刈られようとは、流石に思いはしなかったろう。
それは確かに愉快に相違ないが、悋気がかました当てずっぽうが、とんだ処で瓢箪の駒になろうとは、八郎自身苦笑せざるを得ない。
しかしそうなればなったで、又ひとつ、免れないだろう厄介事が八郎の胸を塞ぐ。

――土方の邪魔にはなりたくないと、そう云った総司の言葉は本心に相違無い。
それでも想い人は、脇逸平と云う人物に難が降りかかるのならば、それを助けようとするだろう。
土方と脇との板ばさみの中で、葛藤を繰り返しながらも、きっとそうするだろう。
そして何よりも、いつの間にか其れに引き摺り込まれてしまっているらしい己を自嘲する低い含み笑いが、室を司る静謐を邪魔した。
「・・困ったものさ」

 風が出てきたのか、木枠の中で小さく音を立てる障子窓に向けた横顔が、その行く末を思い、憂鬱な翳りを作った。






 手燭の灯が闇を割いて作る、その導(しるべ)を頼りに進める歩が、次第に緩慢になる。
行く先には、土方の室がある。

 あれから八郎と別れ、屯所に戻っても、土方と言葉を交わす機会は無かった。
だが今日の出来事は、吉村から既に土方の耳に入っている筈だった。
田坂の診療所からの帰り道、脇に関わるなと、暗に土方は告げた。
その禁を敢えて犯した自分の行動が、怒りを免れるわけが無い。
叱責はどんな言葉となり、どのような態度となり、ぶつけられるのか――。
其れを思えば、先へ進める足は、情けない程正直に躊躇い鈍る。
しかしともすれば踏みとどまりそうになる自分を叱咤すると、今度はその弱気を払拭するかのように、総司は歩みを早くした。


「・・土方さん」
廊下に零れる灯りは主の在室を教えるが、掛けた声に、いらえは戻らない。
だが相手の、そのつれなさが、皮肉な事に、怯む総司の心を奮い立たせた。
「入ります」
許しを得ずして障子を開けても、広い背は振り向かず、筆を走らせている手も休める様子は無い。
そうなれば先走った勢いだけが、行き場を失い取り残される。
開けた障子はそのままに、足は敷居際で縫い止められてしまったかのように動けない。
それでも土方は、此方を見ようとはしない。
向けられた背が、総司には、惨めな自分を映し出す鏡のように思える。
そして気まずく過ぎ行く無言の時が、益々情けなさに拍車をかける。
「さっさと閉めろ」
が、その弱気に負け、瞳を伏せかけた瀬戸際を、まるで見計らっていたかのように低い声が命じた。
「障子だっ」
更に苛立つ声に、弾かれたように総司の面輪が上げられたのと、ゆっくりと振り向いた土方の視線が絡み合うのが同時だった。

 返す言葉も忘れ、慌てて桟と桟を合せ、そして今度は其れとは対照的におずおずと端座した挙措が、その直前まで総司の心を揺るがせいてた、感情の起伏の大きさを物語る。
が、そんな事には頓着無いように、すいと伸びた土方の指の先が細い頤に触れた瞬間、薄い身が強張った。

「伊庭と、いたそうだな」
吉村からの報告は確実に土方の耳に届いていたらしく、問う調子には、沈黙に逃げるのを許さない厳しさがあった。
「三門屋の寮の前で見たと、聞いた」
指を離さず、土方にしては珍しく執拗な物言いだった。
「・・田坂さんの処からの帰り際、診療所を探っている人影を見つけたのです。・・其れで八郎さんと追って行ったら、あの寮に辿り着いたのです」
「其れから、どうした?」
語り口は静かではあったが、しかし決して逸らさぬ双眸は、ゆっくりと総司を追い詰めて行く。
「その前にある料理屋に八郎さんと入って、其処で建物は三門屋と云う店の持ち物で、其処は三田藩の御用を預っていると・・」
そう教えて貰ったのだと告げる筈の言葉の最後は、しかし不意に翳った視界と、そして突然唇を塞いだ何かに遮られ、形になる事は無かった。

口を吸われているのだと・・・、
そう気付いた時には、身は羽交い絞めにされたように強い力に絡め取られ、そのあまりの荒々しさに、総司の眉根が苦しげに寄せられた。
それは。
言葉だけでは無く、吐く息も、吸う息も、流れる血潮も、そして魂魄すら、身の内に在るあまねく一切を吸い取ろうとするかのような、貪ると云った方がはるかに相応しい所業だった。

 そうしてどれ程、辛苦と甘美が織り成す仕置きの時は続いた事か。
指ひとつ動かす事すら禁じられ、息を封じられた切なさ故か、それとも為されるままにしどけなく崩れ行く己を恥じてか、眦(まなじり)から一雫、透けたものが白い頬を滑り落ちた刹那、上を覆っていた影が僅かに離れ、其処から、暗いばかりだった視界に蜀台の灯りが差し込んだ。
そのほんの一瞬を逃さず、横へ身を倒すようにして束縛の縄手から逃れると、勝気と、そして硬質な脆さが同居した瞳が、土方を見上げた。
「・・どうして・・」
ようよう言葉にした非難に、返るいらえは無い。
土方は無言で、見詰めている。
だがその視線は、確かに感じた事があるものだった。
そしてその一瞬を思い起こした寸座、総司の裡に、全身をあぶく立たせるような熱いうねりが走った。
其れはつい先日、濡れた衣の着替えを急げと命じながら、後から、まるで射抜くかのように注がれていた、激しい視線と同じものだった。

――あの時、土方は八郎が尋ねて来たと、そう云った。
そして不機嫌の理由が、もしや八郎への妬心に由来するのではと、ふとそんな風に思った己の驕りを叱りながらも、その瞬間、激しい雷(いかずち)が身を走ったような衝撃を、今も総司は鮮明に覚えている。
其れは総司にとって、禁忌と悦びの狭間で震えた、戸惑いの時でもあった。
しかし今再び巻き起こった熱いうねりは、一度目よりも更に深く、高く、総司を混迷に陥れる。
そんな総司の動揺を見透かせたかのように、それまで黙していた土方の口元が、ゆっくりと開かれた。
「・・伊庭に、妬いた」
やがて緩やかに双眸を細め発せられた言の葉に、雫を溜めた深い色の瞳が、張り裂けんばかりに見開かれた。
そして土方は、己の一言で、如何様にも変わる愛しい者の表情を眼(まなこ)に刻みながら、総司が八郎と連れ立ってくだんの料理屋に入ったと報告を受けた時の、怒涛の如く渦巻いた嫉妬を思い起こしていた。

寮を見張る一端として、その店の事は承知していた。
表向き料理屋を装う、実の内情を聞かされた時、其処で世を欺き色情に狂う者達の哀れを、嘲りの笑いを浮かべ、蔑んだ自分だった。
吉村によれば、総司と八郎が其処に入ったのは、追っていた人物が消えた屋敷を探る為だと云う事だった。
其れに、偽りは無いのだろう。
だが尽きぬ悋気は、その真実すらも許さなかった。
人が人である限り、想う人間を飽く無く求め、欲っし、そしてそれ故の妬心に翻弄されるのは、どのような事情であろうが、どのような環境に置かれようが、いつの日もいつの時も同じなのだと。
侮蔑の笑いを投げかけ幾日も経ずして、計らずも、我が身をもって知ることになった因果に、土方は苦笑せざるを得ない。


「妬いた」
自分をこんなにも始末に負えない人間にしてしまうのは、みなお前の所為なのだと、そう教える声が、いらえを返さぬつれなさを責めていた。
だが総司は面輪を伏せたまま、沈黙から出ようとしない。
そして土方は、時折小刻みに震える薄い肩を見詰めながら、もうこうなれば、そうそう簡単には聞き分けないであろう想い人の頑なさを、さてどう解(ほど)こうか・・・

「いい加減に、顔を上げろ」
その難儀を思う憂鬱が、惚れた弱みを苛立ちの言葉にすり替えた。
              









事件簿の部屋  寒九の雨(六)