寒九の雨 (六) 荒々しく上下する薄い胸の、その動きを妨げぬよう、僅かに隙を作りはしたが、しかし愛しい者から離れる事を厭い、組伏したままの姿勢で、土方は総司の額に浮いた汗を己の唇で拭った。 それでも蒼紫の細い血管(ちくだ)を透かせた瞼は、開かれようとはしない。 だがそうなれば、中々に治まり見せない忙(せわ)しい息は、共に悦楽の淵に溺れたその代償では無く、重ねた肌の奥に潜む宿痾が為せる所業なのではと、一瞬脳裏を過った懸念が、みるみる土方の裡を暗雲で覆う。 が、総司は総司なりに、突然止まった動きに異変を察したのか、苦しげに閉じていた瞼を僅かに開いた。 そして見下している顔(かんばせ)に、憂慮の色が浮かんでいるのを捉えるや、力なく弛緩していた細い腕が大儀そうに上がり、そのまま土方の首筋へと回された。 案ずるなと・・・ 今はまだ言葉では伝えられない思いを、せめてそんな仕草に託そうとする想い人の意地らしさに、土方は、抱く腕に力を籠める事で応えた。 暫しそうして、温もりを分かち合うだけの静寂の時にいたが、やがて色の薄い唇が微かに動いた。 「・・脇さんは・・」 しかし昂ぶり、昇り詰め、そして惑溺に沈んだ身の火照りをようよう鎮めながら、最初に零れ落ちたのは、土方にとって、何とも艶の無い一言だった。 「お前の中には、それしか無いのか」 翳した手指で前髪をかき上げてやれば、白い額にはまだうっすらと、激しい情事の名残の汗が滲んでいる。 昼間、嫉妬と云う厄介な代物(しろもの)に、為す術も無く振り回わされたと云うのに、こうして滾るまま、愛しい身に自らを刻み込めば、この者は違(たが)いも無く己のものなのだと、其れは自分でも呆れる程他愛無く、土方の裡で自信と余裕に摩り替わった。 ところが再び聞きたくも無い名を聞かされれば、又も、えも云えぬ不快な感情が漣(さざなみ)立つ。 結局の処、想い人の一言で、こうも心乱されるのは己の方だったのかと、自嘲した笑いは声にはならず、方頬を苦く歪めただけで終わった。 だがそんな胸の裡など知る筈も無く、土方を見上げる総司の瞳は戸惑いに揺れる。 「脇逸平は、新撰組が今関わっている一件とは、直接の接点は無い」 その途端、硬いばかりだった面持ちに、正直に安堵の色が過ぎった。 しかし愛しい者が自分以外の輩(やから)を心底案ずる様を目の当たりにすれば、其れは土方にとって、やはり愉快なものでは無い。 「が、其れは今現在に関してと云う事だ。脇と云う人物が京に来、そして国元の豊岡藩と、どのような事情があるのかは、まだ探索中だ」 少々意地の悪い物言いは、そんな癇症の表れだった。 時を繋ぐ間も与えず、一瞬一瞬でこうも変わり行く感情と、其れを抑えようともしない己には半ば開き直りながら、細い面輪の線を指でゆっくりなぞると、紡がれかけた言葉を封じるかのように、土方は静かに唇を下ろした。 しかしその刹那、伏せた総司の瞼が、微かに、悦楽の余韻を享受する動きとは違った歪みを見せた。 そして次の瞬間、眉根は苦しげに寄せられ、幾つかの小さな息の痞えが震える唇から押し出されるや、其れは瞬く間に激しい咳の重なりとなった。 「総司っ」 咄嗟に起こした身を胸の内に囲い、呼びかけても、返るいらえは切なげな咳の繰り返しでしか無い。 丸められた薄い背は、ただ几帳面な隆起を繰り返す。 其れを擦るこの掌が、今総司を苛んでいる辛苦の、どれ程も取り去ってやる事は出来ないのだと知りつつ、しかし土方は動きを止める事が出来ない。 否、止めたその瞬間、絹糸よりも細い息の緒が、ふつりと途絶えてしまいそうな戦慄が、土方を恐怖させていた。 この唯一無二の者を、我が身から奪おうとしているのは、最早人の世のものではない。 総司の身に業病を宿した天こそが、土方にとって憎悪しなければならない敵だった。 やがて、千波万波が押し寄せる如く、間断無く続いた咳も、どうにか鎮まりを見せるや、苦しさの堪え処のように、土方の腕を掴んでいた総司の指からふと力が抜け、其れがはらりと剥がれ落ちた。 そうして薄っすらと覗いた瞳が土方を映し出すと、乱れた息に乗せて、乾いた唇が震えた。 「・・・かん・・くの・・あめと・・」 途切れ途切れの言葉は、ひどく声が掠れて聞き取りにくい。 しかしまだ辛いばかりであろう身で、何かを伝えようとしているその意志を支えているものが、己の憂いを解こうとする総司の必死だと知った刹那、土方の胸の裡を、いとおしさを凌駕した切なさが覆う。 「かんくの、あめ?」 ――死ぬなと。 今、咆哮にも似た叫びを上げ、天に地に、人に向け、猛り狂いたい想いを堪え、土方は先を促す。 「・・・初めてあったとき・・、脇さんが、・・教えてくれたのです・・吉兆だからと・・」 「寒九の雨の事か?」 低い笑い声に、総司の面輪にも、嬉しそうな笑みが広がった。 「お前があいつと会ったのが、寒の入りから数えて九日目か・・」 激しい感情の迸りを抑えた声が、まだそう時を経てはいない過去を遡る。 その思考を邪魔せぬよう、小さく頷いた面輪には、しかし土方が、即座に言葉の持つ意味合いを理解し得た事への、驚きがあった。 「俺の家は百姓だ、その位の事は知っているさ」 不思議そうに見上げる瞳を、見下ろす双眸が、今はもう遠い記憶の棲家でしか無い昔を懐古するように、細められた。 そしてその言葉を耳にするや、深い色の瞳にも、同じように穏やかな色が湛えられた。 「・・寒の入りから九日目に降る雨は、豊作への吉兆なのだと、脇さんが教えてくれたのです。あの時脇さんは、本当にそうなる事を望んでいる、真剣な目をしていた・・」 その時、民の為に、己の力の限りを尽くそうとしている、脇と云う人間の、素の部分に触れたと思ったのだと。 そしてそんな飾り気の無い力強さが、強烈な印象となって、自分の心に残ったのだと。 敢えて土方には告げず、総司は、氷雨の向こうを見据えていた、真摯な眼差しを思い起こした。 「・・きっと、吉兆になる」 同じ言の葉を、二回。 二度目の其れは一度目よりも確かに、そして揺るぎ無い強さで、総司は云い切った。 「吉兆でも豊作でも良いが、俺はこれ以上、お前に振り回されるのは御免だ」 気を緩めた途端、愛しい者の云い分へ、済し崩しに傾いて行きそうな弱味を悟らせまいと、殊更不機嫌を装った物言いに、総司が小さく笑った。 「せいぜい、そうなる事を祈っていろ」 云い終えざま、立ち上がった長身は、夜着を羽織ると手早く帯を締めた。 「白湯を取ってくる」 その動きに応じ、慌てて身を起こしかけた総司を、土方は視線だけで押し止めた。 襖の向こうへ消えた土方の気配を、総司は息を詰め、五感を鋭くして追っていたが、やがて其れも掴めぬ程に遠くなると、そこまでが力の限りだったように、床の上に伏した。 手を当てた胸の奥から、背に、肩に、錐で揉まれるような痛みが走る。 その苦しさを紛らわせるように、仰臥していた身を横にした途端、治まったと思った咳が再び零れ落ちた。 其れは先程に比べれば大したものでは無かったが、しかし咽るようにして、幾つか外に押し出した途端、喉の奥から込み上げて来た異物感に、総司は咄嗟に夜具の端を掴んだ。 そして一瞬の間も置かず、口腔に鉄錆の匂いが広がり、口元を覆った右の手の平が、生温かな感触で湿った。 汗で額に張り付いた前髪の間から、ゆっくりと瞳を開け、骨ばった手指を開くと、其処にあったのは、夜目にも鮮やかな朱の色だった。 が、その禍々しい兆しを凝視していたのはそう長い時では無く、総司は覚束ない身を叱るように床の上に端座すると、夜着の裏で手を拭い、そうして右の掌を、爪が食い込む程に強く握り閉めた。 ――じき、土方が戻ってくる。 だから何事もなかったかのように、待っていなければならない。 まだ、・・・まだ、土方の傍らにいたいと。 否、いつの時も絶えて離れる事無く傍らに在りたいと、叶う筈の無い希(のぞみ)を願う自分を笑ったつもりが、唇は途中で歪み、そんな事すら思い通りにはならない。 「・・ばかだ」 独り語りの呟きに、返るいらえは無い。 だが小さく声にしたその刹那、ふと、冷たい雨を吉兆なのだと教えてくれた脇の笑い顔が、脳裏を過ぎった。 過酷な天候が、光明への導(しるべ)となるならば、もしやこの願いも天に聞き届けられる日がやって来るのだろうか・・・ だが総司はきつく瞳を閉じると、頑是無い云い伝えにすら一条の光を見出し縋りつこうとする、自分の弱さを打ち捨てた。 それは天の戯れだったのか、それとも脇と出会ったあの日以来、今年二度目の氷雨が見せる、気まぐれな偶(たま)さかだったのか――。 が、そんな事を思う暇(いとま)も無く、総司は差していた傘に先駆ける勢いで、視線の先を行く背に向かい、走り始めていた。 雨とは云え、往来脇にある不動尊は今日が初不動らしく、周囲には赤い幟も立ち、結構な賑わいを見せている。 その人垣を縫いながら、足の早い後姿を見失わないよう追いかけるのは、中々に至難の業で、遂に総司は傘を畳むと、身ひとつになり、雨の中を駆け出した。 「・・あのっ」 不意に掛けられた声に、始め相手は、まさか自分の事とは思わなかったらしく、足を止めようとはしなかった。 「待って下さい」 だが二度目の声に、今度は其れが自分に掛けられたものだと知るや、一瞬躊躇したものの、漸く立ち止まり振り向いた。 「脇さんの、ご友人でしょうか?」 追った距離は然程のものでは無かったが、相手を捉えた昂りが、総司の声を滑らせる。 だがあまりに唐突な問いかけに、総司を見る顔が、一瞬の内に強張った。 が、総司は敢えて其れを無視した。 「先日、脇さんが療養されている診療所の前で、貴方の姿をお見かけしました」 続けられる言葉に、やはり男は応えない。 あたかも意志の強そうな太い眉と、そしてその下に、其れとは対極を為すような、普段は人懐こい印象を与えるのであろう丸い輪郭の目が、今は鋭い警戒の色を沈め、総司を見詰める。 「人違いだと云われるのならば、それでも構いません。・・けれど」 尚も無言を貫く相手に、独り語りは続く。 「けれどもしも、貴方が脇さんの事をご心配していらっしゃるのならば、そのご懸念は無用です」 ――いらえを返さぬ相手に、自分は何処まで語り続けようとしているのか。 それは総司自身にも見えない行方だったが、しかし終(つい)の言葉を探そうとは思わなかった。 つい先日、目の前の相手は、道を行く風を装い、田坂の診療所を伺っていた。 その行動の底にあるものは、脇を案じる心に違い無かった。 そして脇も又、この人物に会いたがっている。 何故と問われて応えられえるものではない。 だがあの瞬間から、それは総司の裡に確信としてある。 「脇さんは、ご無事です」 一瞬の内に巡った思いを、短い一言に籠めた寸座、男の顔に、初めて警戒とは違う色が走った。 安堵と、それは云い切って良いものだった。 そのまま、暫し男は、傘も差さずに立ち尽くしている総司を凝視していたが、やがて其れが今己に出来る精一杯の感謝の証しであるかのように、深く頭(こうべ)を垂れた。 そうしてゆっくり面を上げると、今度は、それ以上場に留まる事を厭うように、慌しい所作で踵を返した。 だがその態度の変容こそが、今この人間の置かれている立場の複雑さを物語っているのだと、総司には判じられた。 煙る雨が視界を邪魔する中、急速に小さくなりつつある背が、遂に人垣に呑まれて見えなくなると、漸く総司も手にあった傘を差し直し、ぬかるんだ道の先へと踏み出した。 「俺は悪くする為に、五日と日を限った訳じゃないぜ」 「若せんせ、そないな小言を云うてはる間に、もっと火を熾しておくれやす」 怒りに任せ、次々に発せられる田坂の言葉に、一言も返せないでいる総司を見かねたのか、当座の着替えを持って来たキヨが、敷居を跨ぐなり、火箸を操る手の疎(おろそ)かさなになっている様を咎めた。 「新撰組は刀の使い方よりも、まず傘の差し方を教える方が先らしいな」 ぞんざいに胡坐を組み、炭に息を吹きかけている背には、まだぶつけ足り無い憤りがある。 「・・すみません」 其の後姿に向かって掛けられた声が、気の毒な程に萎れる。 が、そんな殊勝を見せつけられれば、ぶつけかけた怒りが立ち往生するのも、田坂にとっては忌々しい。 半端に足止めされた癇性の当たり処のように、荒々しく火箸を握り直した途端走った、思いも掛けぬ熱さに、端正な顔が苦々しく歪められた。 「濡れた着物は衣桁に掛けておけば、じき乾きますやろ。若せんせいは、その間に沖田はんの診察を・・・」 借りた着物の中で、身が浮くのが落ち着かないらしい総司の様子を目で笑いながら、田坂がどんな風に臍を曲げ怒ろうが、そんな事は頓着無いようなキヨの丸い声が、しかし不意に止んだ。 玄関の方から、人の声らしきものが聞こえてくる。 それも一人二人では無いらしい。 「・・どなたはんですやろ」 「俺が行く」 立ち上がろうとしたキヨを制した時には、既に田坂は、障子の際までやって来ていた。 その紙の砦を素早く開くと、がなり立てるような騒がしさが、一挙に室に雪崩れ込んで来る。 「今行くっ」 乱暴な客はどうやら患者らしかったが、廊下に踏み出し応える田坂の声は、其れを一喝しても尚荒っぽかった。 「若せんせいも、あれで中々短気な処がありますのや。けどきつう云ってしまった後には、いっつもその短気を後悔しますのや。それやったら最初から起こさんようにすればええのに、それが出来へんから困ったもんですわ」 何を言葉にして良いのか探しあぐね、まだ沈黙から出る事の出来ない総司を慰撫するように、先回りしたキヨの声が柔らかい。 「でも田坂さんが怒るのは当たり前だから・・。大人しく叱られています」 向けられた好意に浮かべた笑みはぎこちないが、それでも硬いばかりだった面輪が、幾分和らいだ。 そして更にそれを包み込むかのように、豊かな二重の顎を引いてキヨが頷いた時、今度は田坂の声が、そのキヨを呼んだ。 「患者はん、手がかかるんやろか・・」 漏れた呟きには、こんな日常には慣れた響きがあった。 だがふっくらとした身が腰を上げるよりも早く、当の田坂の方が先に、大股で廊下を渡って来た。 「キヨ、診療室を片付けてくれ」 「いや、どないしはりました?」 「役座者だが、近くの往来で喧嘩の挙句、怪我をしたらしい。肩の骨が外れているだけで、本人が騒ぐ程大した事は無い。が、恰幅だけは良いから、骨を入れる時に暴れられると厄介だ」 「ほな壊されたら困るもんは、除けとかなあきまへんなぁ」 怪我を負った者は、今頃は激しい痛みに油汗を浮かべているのだろうが、淡々と経緯を語る田坂も、そしておっとりと応えるキヨにも、然程急を要している風は無い。 だが如何に役座者の自業自得と云えど、この二人のやり取りを目の当たりにすれば、総司には、待たされている怪我人が気の毒に思えてくる。 見上げる瞳に、知らず知らず咎める色が宿っていたらしく、その視線に気付いた田坂が苦笑した。 「少々掛かるかもしれないな。だがどうせ脇さんの処に行きたかったのだろう?」 総司を見下ろしながらの物言いは、批難を逆手に取っての揶揄に他ならない。 「・・そんな事は」 無いと云いかけた抗いの言葉が、口籠もるように中途で止まった。 先程の出来事を、脇に伝えなければならなかった。 あの人物が脇を案じていたと、どうしても伝えなければならない思いを急(せ)かせつつ、しかし反面、その事はまだ自分の胸だけに秘さねばならないと、そう思わせる何かが、総司の唇を噤ませた。 「そんな事でも、どんな事でもいいが・・、君にとって、幸いには違い無いだろう?」 怪我人の大仰な喚(わめ)き声のする方に視線を向け、厄介そうに眉根を寄せた田坂に胸の裡を悟られぬよう、総司は沈黙を深くした。 十分に暖気の巡っている室には、火鉢の横に、幾らかの炭と、そして鉄瓶に足す為の水が入った、水差しが置かれている。 人の手を煩わせる事を嫌い、あまり自分からものを頼むと云う事の無い脇が、遠慮無く療養できるよう、これもキヨの配慮なのだろう。 そしてその心に応えるかのように、脇の面からも翳が消え、それと入れ替わりに、膚は再び生への息吹に満ち始めているのが、雨の所為で明るいとは云い難い室の中にあっても分かる。 その、自分とは遠くかけ離れた靭さ逞しさに、総司は一瞬だけ瞳を細めた。 「もう動くにも、不自由はしないのです」 そんな総司の思いなど知る筈も無く、脇の声は、こうして厄介をかけている事への、苦しい胸の裡を隠せない。 「でも云う事を聞いておかないと、田坂さんは容赦が無いから・・」 言葉にある含み笑いに、脇の面にも、つられるような笑みが浮かんだ。 「田坂先生は、嘗ては武士だったのでしょうか?」 が、その気の緩みがさせたのか、かねてより気になっていたらしい懸念が、遠慮がちに総司に向けられた。 「・・お父上が膳所藩に席があったと、以前聞いた事があります。けれどあまり詳しい事は、私も知らないのです」 「そうなのですか。・・時折、私のする話の途中で打たれる相槌や問いが、あまりに的確なので、もしや以前にそのようなお役目に携わる機会があった方なのかと、つまらぬ推量をしていまいました。勘弁して下さい」 己の勘違いを詫びる声は、しかしそれ程自責の念に駆られている訳では無いらしい。 それが証しに、浮かべられた笑みはそのままにある。 「脇さん・・」 だが相手の心が開きかけたその階(きざはし)を掴まんと、総司の声が急(せ)いた。 無言のまま次を待つ脇の面は、まだ和らぎの時に在る。 其れを欺(あざむ)く事に後ろめたさを覚えながら、総司は、此れから自ら語る言葉で、どのような真実を得られるのか、その僅かの変化を逃さないよう、両の瞳で脇を捉えた。 「先日、脇さんを見舞って帰る時、この診療所を探っている人影を見つけました」 何を伝えようとしているのか、言葉の意図を判じかねた双眸が、少しだけ細められた。 「背丈はそう高くありませんでしたが、しっかりとした体の造りの持ち主でした。そしてその人は四条通りに近い、三門屋と云う商家の寮へ入って行きました。 ・・・三門屋と云うのは、三田藩の御用を預かる、武具を扱う店だそうです。ですがその人が、何処の誰とまでは分かりませんでした」 少しずつ核心に迫り行く語りは、その代償のように、脇の面から、表情と云うものを削り取って行く。 ほんの僅かに視線を逸らせた其れだけで、即座に気の負けを晒すような張り詰めた緊迫感の中にあって、総司は己を鼓舞し、言葉を繰り出す。 「そして今日、私は再びその人の姿を見つけ、声を掛けました」 その寸座、脇の面に驚愕の色が走ったのがありありと分かったが、其れを凝視している総司の面輪の方が、遥かに強張った。 「私が何を聞いても、相手の方は応えてはくれませんでした。けれど脇さんは無事ですと伝えた時、その方は確かに安堵され、それから私に向かって深く頭(こうべ)を下げられました。そしてその挙措を見ながら私は、その方が、脇さんを頼むと、そう願っているかのように思えました」 一瞬でも語りを止めてしまえば、其処で脇の心までも閉ざされてしまうのではと・・・ ともすれば弱さに傾きかける自分を叱咤し、一気に語り終えた時、脇は暫し無言のまま総司を見ていたが、やがて硬かった面持ちに、小さな変化が起こった。 それは口元に浮かべられかけた、ぎこちない笑みから始まろうとしたが、上手いこと広がらないと分かると、今度は作り笑いひとつも出来ない己の不器用を自嘲するかのような、苦い笑いとなった。 だが其れは初めて総司が触れる、脇逸平の核(さね)の部分だった。 「沖田さん、貴方には大切な仲間がいるだろうか」 「・・仲間?」 突然、筋から外れた話は、其れまで緊張を強いられて来た総司を戸惑わせるのに、十分だった。 訝しげな声が、その行き先を思案するかのように、小さく反復した。 「そうです、仲間です。・・・沖田さんが今日会ったのは、岡島新吉と云う、私の仲間です」 「では豊岡藩の?」 「岡島は、本来は私の仕事を補佐する役目の者です。ですが私は、亡き父の後を継いでから、ふたつ歳下ではありましたが、仕事では先輩になる岡島から様々な事を学び、どうにか今日までやって来ることが出来ました。いえ、あいつがいなければ、疾うにこのお役目の重さに押し潰されていた事でしょう」 話から察するに、岡島新吉と云う人物は豊岡藩の藩士であり、更に脇とは上下関係にある者なのだと判じられた。 が、脇はその垣根を越え、敢えて仲間と云う云い方をした。 それは脇にとって岡島が、肩を並べ、共に歩むべき者である事を物語っていた。 「岡島と私は、その年の田植えから刈り取りまで、郷を回り百姓達の言葉に耳を傾け、稲の成育に心血を注いで来ました。国元は秋も終わりになれば白いものがちらつき、それを合図のように、長い雪の季節がやって来ます。寒冷地の多くの藩がそうであるように、土の色が見えるのは、ごく限られています。しかも豊岡は盆地故か、霧に覆われやすく、それが農作物に被害を与える事が多々あるのです」 総司に視線を向けながら、しかし脇の見ている先にあるのは、今も冬ざれの景色の中に閉じ込められている故郷の厳しさなのか、清清しい一重の目が、ほんの少しだけ細められた。 「米だけではありません。土が凍れば何もかもが育たなく、民は餓え、生きるに力弱い者から死んで行きます。私がお役についたその年は、稀に見る飢饉でした。・・・飢えに苦しむ民の、あまりに無残な惨状を目の当たりにした時、私は脳天をかち割られたような衝撃を受けました。ですが自然の理(ことわり)の前に為す術も無く、現実を直視せざるを得ない悔しさを、岡島は、私などより幾度も越えて来たのです。そしてその年、私達は、寒さや霧、いえ人を苛む厳しい自然に勝つ、強い稲を作る事に着手したのです」 「・・強い、稲?」 「そうです。例えば獣が夏と冬で毛の色を変えるように、凍土には凍土にあった稲がある筈だと、そう考えたのです。そして其れを作ろうと、決意したのです」 語りは尽きる事無くむしろ勢いを増し、その真摯な眼差しは、稲の改良こそが、今脇にとって、是が非でも叶えなければならない信念なのだと、総司に教える。 「けれどそれならば・・」 「何故、岡島が直接私を訪ねて来ないか・・、と云う事でしょうか」 問うに躊躇している総司に向けられた穏やかな笑みに、ようやっと、余裕と云うものが戻った。 「私たちの上司である郡奉行は、大変才気に富んだ方でした。ですが余りある英知を、田舎の一隅で燻り終わらせるには、堪え難かったのでしょう。折しも、時勢は混沌と落ち着かなく、お奉行は、次第に他藩の思想者とも、接触を持つようになりました。そうなれば徐々にご家老、ご重臣方と意見を違える機会も多くなり、遂にご自分を慕う若い者達を連れ、藩を脱し上洛したのが半年前」 その中に岡島と云う、あの人物がいたと云うのは、それまでの経緯から推し量れば、言葉にせずとも明白だった。 「お奉行が若い者達に説いたのは、藩を支えるのは民であり、そしてその民を守るには、何処から攻められても、其れに屈っせず、独立できるだけの力を蓄えなければならない。その為には、上から押え付け、諸藩の力を削ぐ為にだけに存在する、今の幕府こそが無用、・・そう云うものでした」 だが引き続き語られる言葉の中味は、新撰組に己を置く総司にとって、決して是と頷けるものでは無かった。 「・・では、脇さんも・・」 だから京に上って上って来たのかと、問う声が喉に絡みついたように乾く。 「いえ・・、まだ役目を預かって月日の浅い私の頭の中は、今のご時世を憂えるよりも、飢饉に苦しむ者達をどうすれば救えるのか・・その事で精一杯だったのです」 その総司の心裡を見透かせたかのように、脇の方頬が緩められた。 「それにはどのようにすれば良いのか・・・、悩み続けた末辿り着いたのは、やはり強い稲を作る他ないのだとの、最初の決意でした。そしてその事を実現するには、どうしても岡島の手を借りねばなりませんでした。・・・一度脱藩した者が、再び藩に戻る事は出来ません。ですが私は自分の命を賭しても、岡島を連れ戻す覚悟なのです。もうあいつしか、民を救う事は出来ません。そしてひいてはそれが、逼迫した藩の財政の建て直しにもなるのです。・・・私は岡島を連れ帰ります。上洛したのは、その為です」 総司から視線を逸らさず、淀みの無い、だが決めた心そのもののように、脇の明瞭な物言いだった。 確かに、今脇が口にした事に、偽りは無いのだろう。 だが総司はもうひとつ、脇が胸の裡に隠す本当の真実に触れる為に唇を開いた。 「・・上洛されたのは、それだけでは無い筈です」 そして発せられた硬い声に、脇の横顔が、一瞬、緊張の膜を張った。 「脇さんがここにいる事を、何故岡島と云う人は知っているのか・・・。それは少なくとも、脇さんが襲われた事を、岡島さんが承知しているからなのでは無いのでしょうか」 ――人の心の核(さね)に踏み込む事に躊躇いを覚えながらも、深い色の瞳が、真っ直ぐに脇を捉えた。 |