寒九の雨 (七)




 町を、靄の中に沈ませるように、音も無く降っていた雨は、僅かばかりの時を経て、地に叩きつけるかの如き激しいものとなった。
その雨音が織り成す奇妙な静寂の中、ひとりは無言を盾にいらえを拒み、ひとりは無言を矛にいらえを迫る。
だがふたつの沈黙の重なり目を、脇のついた小さな息が、はらりと紙が舞うように、静かに剥した。

「・・・隠しきれるものでは無いと、思ってはいましたが・・」
強いられた緊張を、ゆっくりと解きほぐしながら向けられた声は柔らかく、苦い笑いすら含んでいた。
「確かに、私がここに居るのを岡島が知っている事を、沖田さんがおかしいと思われるのは当然でしょう。何故なら、其れはあいつも襲った側の人間であるとの、証にも繋がるからです」
「では・・」
憂える心のまま、先を質しかけた総司に、一瞬、視線を逸らす事で、脇は、是とも非ともつかぬいらえを返した。

「私は上洛に先がけて、お奉行に、お会いしたい旨をしたためた文を送っていました。そして返事の文の中で指示のあった場で待っていたのは、沖田さんもご覧になった通り、差し向けられた刺客達でした。しかし襲った者達の中に、岡島の姿はありませんでした。ですが私はその事に安堵するよりも、私が襲われたその事を知った岡島が、あいつ自身、今まで無理矢理目を背けようとしていたお奉行への疑惑を、改めて直視せざるを得なくなり、ひとり暴走してしまう事を恐れました」
「疑惑・・?」
脇の語り口は静かだったが、繰り出された言葉は、益々総司を混乱させる。
「そうです、疑惑です。先刻申し上げた通り、国元の土壌は、決して恵まれているとは云えません。それがこの時勢の混乱の中で、藩が存続する為には、それなりの備えが必要と読んだご重臣方のご意見で、近年年貢の取立てが、年を追うごとに厳しいものになって行ったのです。ところが年貢を課される村々は、度重なる飢饉で、既に疲弊の限界を越えており、私の父は、その窮状をお奉行に訴え続けていました。しかしその内に父は、もしや搾取した米の大方が、藩に上納されていないのでは云う、疑念を持つようになったのです」
「・・・もしかしたら、それは郡奉行が」
脇の話を、息を詰めるようにして聞いていた総司の唇から零れ落ちた呟きが、途中で止まった。
それは仮にも一藩の郡奉行を預かっていた者の悪事を、憶測だけで云い切る事への躊躇いだった。
「そうです、父はお奉行の不正に気づいたのです」
だが返った声は、その遠慮を払拭するかのように、明瞭なものだった。

「父の疑念は、調べを進める内に確信にまで至りました。そして父と同じように疑念を持ち、その蟠(わだかまり)りを解け無いながらも、しかし岡島は、全ての財は、藩でも幕府でも無く民の為に在ると云う、お奉行の説く思想に傾倒して行きました。やがてあいつは、揺れる自分の心に目を瞑り、お奉行と共に藩を脱したのです」
「脇さんのお父上は、お亡くなりになったと聞きました。もしかしたら、その事とも関わりが・・」
複雑な経緯を聞きながら、ふと湧いたもうひとつの疑惑に、問う総司の声が硬くなった。
「父が亡くなったのは、事故でした。・・・昨年の夏が終わる頃、嵐で川が増水し、土手が決壊する恐れが出たのです。そうなれば、収穫間近の稲は根こそぎ駄目になります。その日も父は激しい雨の中、奉行所の者や各村の村役達と、土手の盛土の弱い部分を見まわっていました。その途中、足を滑らせ川に呑まれたのです。少しでも油断をすれば己の身すら危うい暴風雨、探すには限りがありました。・・・そして雨が止んだ翌日、水の引いた川の浅瀬で見つけられた父は、無言で家に戻って来たのです」
語られる調子は、言葉の孕む惨酷さとは裏腹に、まるで作り物の過去を振り返るかのように、淡々としたものだった。
しかしその事が、どのような言葉を駆使しても、形にして伝える事が出来ない脇の無念を物語っていた。

「お父上が、本当にご自身で足を滑らせたのだと云う、その証はあったのでしょうか?」
「ありません。そして同時に、お奉行が年貢米を我が物としていたと云う証しも又、父の死により無くなりました。ですがお奉行にしてみれば、父の跡を継いだ私が京に来たのは、不正を解き明かす為だと思うのが、当たり前でしょう。年貢の横領、父の死への疑惑。・・・どれをとっても私と云う存在は、お奉行にとって、目障り以外の何ものでも無いのです。尤も私を襲った事は、計らずも自らの不正を認める結果になってしまった訳ですが・・・。お奉行も今頃は、早々に私の息の根を止めねばと、躍起になっている事でしょう」
珍しく自嘲めいた笑いと共に、脇は一瞬遠くに視線を投げかけたが、直ぐにそれを総司へ戻した。
「しかしお奉行が藩を脱してしまった今、父が暴こうとしていた疑惑は、既に私にとって、我が身を賭してと云う程の大事では無いのです。それよりも私は、極限まで追い詰められている村々の者達を、こうしている間にも救わねばならない。それには岡島の助けが、どうしても必要なのです。お奉行が私を襲い、不正が事実だと確信した岡島の一本気が、お奉行を問い詰め、岡島自身の身を危うくする前に、私はあいつを護らなければならないのです」
裡に抱える焦燥そのものの如く、たたみかけるように語る調子は、確かに脇の上洛の目的、経緯を包み隠さず明らかにしていた。
しかしその脇を見詰めながら、総司の胸の裡を慌しく駆け巡るのは、今ひとつ、真実を見定め切れない戸惑いだった。

――脇は真実を語り、そして、真実を偽った。
疲弊しきった民の窮状を救う為に、岡島と云う人間を連れ戻す。
その事に、偽りは無いだろう。
だが其れは、核たる真実を隠す為の盾に過ぎない。
ならば脇が更に胸の奥に秘するものこそが、本来の上洛の目的なのか。
そしてそれは、今新撰組が、否、土方が追う何かと、関わり合うものなのか。

絡み合い、一度は解(ほつ)れかけ、又複雑に絡み・・・
握り締める糸の端の、もうひとつの端の在り処を見つけられず、脇を凝視する深い色の瞳が揺らいだ。






「総司、留守だって?」
声と同時に、突然、敷居を滑った障子は、柱にぶつかり音を立てる云う粗相だけは免れたものの、続けられた横柄な物言いは、己の無作法を悪いとも思っていないらしい。
「用が無いのなら帰れ」
だが背を向けたままの土方も又、応じはしたが、振り向く気配は一向に無い。
が、要らぬ客と、あからさまな態度も八郎には頓着無いらしく、火鉢の傍らまで来ると、相手の苛立ちを煽るかのように、ゆっくり腰を下ろした。
「三門屋の寮で、面白いものは見つかったかえ」
嘯く声に、土方の関心が動いたのを、向けた背で感じはしたが、八郎はそれ以上先を進めない。
後は相手に喋らせる番だと、そう云わんばかりの強気な無言だった。
「筋向いの、出会い茶屋の二階から寮を見ていた、酔狂な奴がいたらしい」
「新撰組もこの寒空の下、大儀な事だねぇ」
火箸を手繰ったその寸座、僅かに舞った灰に片方の眸を細めながら、五日前の光景が八郎の脳裏を横切る。

あの時。
脇逸平を探っていた人物に、総司は神経の全てを注いでいた。
それに自分の癇症は逆撫でられ、苛立つ心は、時折、敢えて無愛想な沈黙を作り出した。
が、そんな悋気など知る筈も無く、想い人は、巻きこんでしまった事が不機嫌に触れたのだと戸惑い、先に帰れと告げた時には、心底すまなそうに詫びた。
だがいざ帰ろうとする姿を目の当たりにすれば、今度は其処に待つ恋敵への、新たな妬心に火が点いた。
襖が閉じられるまで――。
一度も総司に視線を送らなかったのは、己の稚気をうんざりと呆れながら、それでも譲る事の出来ない、愚かな矜持だった。


「で、あれから寮を出た奴は、何処ぞに用だったのだえ」
その罪滅ぼしでもあるまいが、到底聞き出せずにいるだろう想い人に代わってやり、問う調子は物憂い。
「知りたければ、当人達に聞け」
相変わらず振り向く事はしなかったが、返したいらえに込めた皮肉には、八郎に対し、明らかな有利があった。
「・・確か。あんたの処の人間が後をつけて行ったのは、総司が気にしていた人物と、もうひとり、これは確か豊岡藩の元郡奉行、神代卯之助」
「お前も、良い暇つぶしが出来たな」
まだ近藤とて知らないであろう極秘裏は、火鉢の上に掌を被せ暖を取っている八郎と、文机に向かったまま筆を止めない土方の、背中と背中で、まるで世間話のように交わされる。

「神代と云う輩、良く知っていたな。これも暇の功名か?」
「さてね。・・奴がまだ豊岡藩の郡奉行だった頃、桑名藩士の知人を所司代屋敷に訪ねて来たとかで、通すがらにちらりと姿を見た事がある」
「米でも売りに来たか」
「米なら食う気も起こるが、その人物に押しつけていたのは、生憎、旨くもなさそうな飛び道具さ」
記憶の片隅に、塵のように残っていた一瞬の光景が、まさか今頃厄介の火種になろうとは思わず、その因果に、八郎の面が苦々しく歪められた。
「で、押しつけられた方はどうした」
其れを知ってか知らずか、さして興も無さそうな相槌が、先を急がせる。
「神代と云う奴、何処かの薬売りよりは商(あきない)上手だったらしい。まんまと相手の懐に短筒を納めさせた」
「結構な事だな」
揶揄混じりのいらえに返す土方の口ぶりは、些かも動じる風が無い。

「神代の魂胆は、贈った奴を懐柔する事だった。最初の内は、奴もそんな顔など一切見せず、深くなった縁を盾に、言葉の端々から幕府の動きを探っていたらしい。が、貰った物は、高価な短筒だ。人間欲が絡めば、隙も出来る。内密にしなければならない話を、つい口を滑らせた事もあったろうさ。無論、豊岡藩郡奉行と云う立場も、安堵感を大きくした事だろう。しかしそうこうする内に、神代が豊岡藩を脱藩し、倒幕思想を持つ者達と大っぴらに接点を持つようになった。其処に来て漸くその者も、己が利用されていたと気付き、嘗て喋った些細な話が、重大な顛末を迎える事になりかねないと、色を失くした。だが時は既に遅く、結局そいつは己の責を取り、腹を切った。・・・無論、桑名藩は表向き、病死として片付けている」
「腹に直に食わせる刀の味なら、尚更旨くは無かっただろうさ」
突き放すように云いながら、土方はまだ筆を止めようとはしない。
だがこうした、一見興も無さそうな素振りの裏で、今耳にした事柄を切欠に、類稀なこの策士の思考が、正に怒涛の勢いで動き始めているのを、八郎は知っている。
「神代は豊岡藩を出る際に、己に傾倒する取り巻きを幾人か連れて出たらしい。その宿舎が、三門屋の寮と云う事か・・」
「大層な、ご身分だな」
疾うに承知している事柄への相槌は、どうでも良さそうに返る。
しかしその三門屋の寮を新撰組が探っていたと云う事は、三田藩の何かに生まれている疑惑に、元豊岡藩郡奉行の神代が、其れに大きく関わっていると見て、間違いは無い筈だった。
何より。
肯定も否定もしない土方の態度が、八郎の推量を是と認めていた。

「そう云えば・・・」
己の指す一手が、碁盤に置かれた相手の石をさてどのように動かすのか、それを楽しむかのように、殊更ゆっくりと、八郎は話を続ける。
「先般三田藩が、五十石取り以上の藩士に、強制的にスナイドル銃を買わせたと云うのが話題になったが、どの藩も裏じゃ借財に走りまわっている当節、大したものさ」
炙(あぶ)る手を少しばかり上にして、ちらりと視界の端で捉えた横顔には、まだ何の変化も無い。
其処にあるのは、新撰組副長としての、ふてぶてしいまでに強気な面構えだった。
「が、買わせられる方はたまらんだろうよ、一丁三十六両だ」
「ならば酔狂ついでに、お前が買ってやれ」
「そうしたいところだが、生憎、俺より先に金を貸し、代わりに恩を売った奴がいた」
火箸で重なり合う炭を上げ、火の熾り具合を確かめているうしろで、一瞬、土方が此方を見る気配を感じた方頬が、微かに緩められた。
「神代の件、何処まで調べた」
前置きも無く、あまりに唐突と云えば唐突な問いだったが、しかしそれは、八郎の言葉の行く先が、何処へ向けられているかを承知した上での、土方の先回りだった。
「調べるのは、あんたの仕事だろう?」
が、八郎の平坦な声には、土方の変容に、早己の優勢を見定め、面白がる響きが混じる。
かいた胡坐のまま身を回し、先に正面を向けたのは、そんな余裕の表れに他ならなかった。
「三田藩の奴らに金を融通したのは、神代だろうさ」
だが土方も又、己の劣勢を認める気は無いらしく、漸く筆を置くと振り向きざま、核心だけを突いたいらえを返した。
「三田藩の殿さんは、賢君とも、ただの新しもの好きだとも云われている。だがそれに振り回される方はたまったものでは無い。スナイドル銃一丁、買えと云われても、金は無い。そんな隙をついたのが、神代だ。奴は親交のあった三田藩の人間を通し、短筒一丁に振り回されていた者達に、気前よく金を貸した。そして貸す代わりに、下手な思想を吹聴し、己の懐に抱き入れた。そうして金で雁字搦めにした連中に取り巻かれ、今じゃ一端(いっぱし)の志士気取りだ。奴は粘る糸を張り巡らせ、獲物を待つ蜘蛛だったのさ。・・・新撰組は、神代が、これ以上金の力で成り上がる事を警戒している」

忌々しげな表情を見せるでも無く、淡々と、経緯だけを説く土方の声には抑揚と云うものが無い。
其れは逆手に取れば、今語った一件は、既に誰に知れても良いと云う事だった。
しかしこうして表があると云う事は、同時に、隠さなければならない裏も存在すると云う証でもある。
其れが今、新撰組が、三田藩、そして神代卯之助を追わねばならない、本来の理由なのだろう。
更に其処に、予定外に絡んで来たのが、脇一平。

「その田舎志士、稲を見回る代わりに、都じゃ何をしようとしているのやら」
まだ解決へは遠い道程を揶揄するように、微かに笑いを含んだ声が、細めた双眸に潜む鋭い光と共に、土方へ向けられた。


「ところで・・」
ひとつ息を置いて緩めた声に、今度は土方の面が、これみよがしに顰められた。
「総司なら、田坂さんの処だ」
「まだ聞いちゃいないよ」
「先に応えてやった、礼を云え」

――今日が一のつく日でも無いのに、総司が田坂の元へ出向いた訳を教えろと、その事を問う唯それだけの為に、八郎が自分の処に足を運んで来たのは明白だった。
三田藩と豊岡藩、そして神代卯之助にまで話が及んだのは、伊庭八郎と云う男の、単なる気儘に過ぎない。
が、それとて総司がこの一件に関わっていなければ、例えどの藩が何を起こしどう潰れようが、八郎には何の興味も無いだろう。
そう思えば、土方の裡に起こるのは、無償な腹立たしさと、その核を成す悋気だけだった。

「先日行った時に、急な患者とかで慌しかったそうだ。それで今日に繰り延べになった。分かったら帰れ」
ぞんざいに向けた背が、殊更無愛想に、居座る客を追い出しに掛かる。
「・・急な患者、ねぇ」
だがそんな事は歯牙にもかけず、己の手繰る火箸の先を映す八郎の双眸には、どうにも釈然としない憂鬱な色が籠もる。
「非番を良いことに、又余計な事に首を突っ込んでいるのだろうさ」
が、その八郎の心中を機敏に感じ取ったのか、今度は然して間を置かず、皮肉ないらえが返った。
だが其れこそが、背中の男の存在に、極限まで堪えている土方の妬心だった。

 田坂の診療所へ、たった五日置いて又行くのだと総司から聞いた途端、土方が眉を顰めたその理由は、脇逸平の一件に関する事ばかりでは無かった。
否、それよりもすぐさま案じなければならなかったのは、総司の内に巣食う宿痾だった。
何か危惧しなければならない状態があるのかと、キヨが馳走してくれる菓子の約束を、嬉しそうに語る面輪を問い詰めるのは簡単だった。
だが総司は頑固なまでに、本当を告げはしないだろう。
どのみち田坂に直接問うしか無いと諦めていた同じ事を、八郎も瞬時に思ったらしい。

「伊庭、俺は忙しい」
その苛立ちが、居れば忌々しさだけが募る相手にぶつけられる。
「見りゃ分かるよ」
だが恋敵の心裡を見透かせたように、戻るいらえも遠慮が無い。
それでもここらが潮時と判じたか、八郎がゆっくりと腰を上げた。
「邪魔したな」

 一言、言い終えぬ内に軽い音を立てて障子が合わさり、そしてその気配が遠く消え去っても、土方の背が振り向くことは無かった。






 田坂の診療所は、五条の通りを東へと進み、東大路通りに出る少し手前を、今度は南に折れて直ぐの処にある。
五条通りから続く緩い下り坂の路地を挟んで並ぶ家々は、どれも京の町家に良く見られる、奥が長く間口が狭い造りになっている。
その中にあって、田坂家だけは黒い門と、其れに続く築地塀の長さが、他家よりも広い敷地を有しているのが分かる。
が、それでも町の風情を邪魔しないのは、周囲に溶け込むように在る、落ち着いた佇まいの所為なのだろう。
そしてそんな情景は、何かしら不安の種を抱え、この診療所の門をくぐる人々にも安堵を覚えさせるに違い無かった。
現に今も、道を隔てて対を為している、民家と民家の間に身を潜ませながら、診療所を見詰めている総司の胸の裡をも、人肌に似た温もりで包み込む。

 人ひとりが横になって入るのが漸くの狭い隙に滑り込み、板塀に背を齎せ向ける視線の先には、玄関へと続く門とは別に、診療所のもうひとつの出入り口である、くぐり戸がある。
田坂とキヨに礼を云い、帰ると見せかけ此処に隠れて、もうどの位の時が経つのか。
先ほど八ツ半の鐘の音が、粛々と降る雨の中で、いつもよりも鈍く響き渡ったのを、ぼんやり聞いてからも、既に四半刻は過ぎている筈だった。
口元まで持って行き、白い息を吹きかけた手はかじかみ、感じるのは、凍てついて千切れそうな痛みだけだった。
それでも総司の視線は、小さなくぐり戸に向けられたまま、逸らされる事は無い。
――其処に、脇逸平が現れる筈だった。

確かな証しがある訳では無かった。
だが必ず脇は姿を見せると、それは総司とって、信念にも似た思いだった。
岡島の一件を伝えたあの時、既に脇は、かの人物に会いに行くと決めていた。
裡に滾る、憤怒、激しさ、希(のぞみ)・・、そう云う一切を、それまでの経緯を淡々と語る声に隠しながら、脇の双眸にあったのは、郡奉行の目を逃れ、己の安否を案じて来た岡島の姿であったのだろう。
だから今度は脇が、岡島に会いに行く。

が、そう信じ、合わせた両の指に視線を落した途端、切ない程に慕わしい人の広い背が、総司の脳裏を横切った。

田坂の処へ行くと短く告げた時、土方は、一瞬訝しげに眉根を寄せた。
其れに、ともすれば瞳を逸らせそうになった弱気を、笑い顔でくるんで隠した自分だった。
だがまだ十日を経てはいない診療所への来訪が、何を意味するのか・・・
出来の悪い偽りを見破られる事を怯え、慌てて向けた背を、土方の視線は、射抜くかのように貫いた。
 叉、土方に要らぬ心配をかけてしまったと、芯まで凍てつかせる寒さよりも、恋慕する人を案じさせるばかりの情け無い我が身が、総司にはやり切れなかった。
だがそんな己への嫌悪に堪え切れず、俯きかけた面輪が、突然上げられた。
そして次の瞬間、それまでの緩慢さが嘘のような鋭さで、瞳は田坂の屋敷に向けられた。
しかし総司の視線が捉えたのは、先ほどから凝視していたくぐり戸では無く、五間ばかり北側にある、表門の方だった。
しかも其処から出てきた人の姿が誰であるのかを判じた寸座、唇は、ほんの僅かに開いたものの、白い喉が上下しただけで、声は息と共に飲み込まれた。


 そんな驚愕を知ってか知らずか、傘の下の端正な顔(かんばせ)は、言葉を失くして立ち尽している総司へと、荒々しく泥濘を踏みしめ近づいて来る。
やがて正面まで来、漸く其処で足を止めると、田坂は、呆然と見詰めている深い色の瞳に向け、無言で顎をしゃくった。
だが促がされるまま、指し示された方向へ視線を移したものの、総司にはその意図が分からず、到底機嫌が良いとは云い難い田坂を見上げた。
「見えないようでいて、ここはくぐり戸からは丸見えだ」
「田坂さんっ・・」
「くぐり戸を見張るなら、この家の玄関の土間を借りる他無い」
更に田坂は、総司の戸惑いなど気にも止めず、くぐり戸の真正面に建つ家の玄関口まで進むと、雨に濡れ、黒光のする格子戸を叩いた。

「どなたはんですやろ」
直ぐにいらえは返ったが、柔らかな物言いも、この都では、堅い警戒の裏返しでしかない。
「申し訳無い、田坂です」
「若せんせっ」
だが寸でまで、総司と交わしていた調子とは打って変わった丁寧な田坂のおとないに、中からも、慌てて下り立って来る様子が聞き取れた。
 
 やがて古いながらも手入れの行き届いた戸が敷居を滑り、其処から顔を出したのは、鬢に白いものが目立つこの家の主だった。

「どないしはりました?」
が、その主人も、向かいの若い医師の突然の来訪には驚いたらしく、品良く、なだらかな弧を描いた一皮重の目を瞠った。
「そう掛からぬと思うが・・・、少しばかりここで雨宿りをさせて貰えないだろうか」
「そないな事はかましまへんけど・・せんせ」
笑いながら云いかけて見上げたふたつの目が、慕わしげな、それでいて少しばかり意地の悪い色を湛えた。
「いつまでもキヨはんを怒らせるような事ばかりしてはったら、大せんせいかて、あんじょう成仏できまへんえ」
「疾うに、諦めてくれているだろうさ」
「叉そないな事を云わはって・・・。ま、こないに立派なお医者はんになられはったのやから、大せんせいかて、少しは大目に見てくれますやろ」
どうやらキヨの目から隠れる為と、一人合点している主は、田坂がこの町に来た時分からその成長を見守って来たらしい。
大の男に向ける言葉の中には、生意気盛りの少年を諌めるような、温(ぬく)い響きがある。
「誰か熱いお湯(ぶ)持って来てんか?若せんせいとお客さまや。又キヨはんの目を盗んで、どこぞ悪い処に行くらしいわ」
声に笑いを忍ばせながら告げる肉の厚い背が、少しばかり高い框を上がり、家人を呼びに奥へと消えた。

「昔、よからぬ遊びに嵩じていた時、裏を回ってくぐり戸から出たつもりが、どう云う訳だか必ずキヨに気付かれた。それで追ってきたキヨが探すのを諦めるまで、良く此処で隠れさせて貰っていたのさ」
呆気にとられて佇んでいる総司に気付き、訳を語る田坂の声が、決して褒められぬ己の来し方を苦笑した。
「田坂さんが?」
「行儀の良い奴じゃなかったからな。以前にも云った筈だぜ」
「聞いた事はあるけれど・・・、でもまさかお向かいの家に隠れさせて貰ってまで、キヨさんを困らせていたのだなんて」
「だがそのお陰で、こうして役に立つ場を教えてやれるんだろう?あのくぐり戸は、ぐるりと三方を見渡せる。こちらが隠れているつもりでも、向うからは全く死角にはならないのさ」
身を持っての経験を語る、高い鼻梁の横顔が、己が所業の悪さを盾に取り、苦い笑いを浮かべた。









事件簿の部屋  寒九の雨(八)