寒九の雨 (八)




 家の主は儀助と云い、四条にある芝居小屋南座の勘定場に長く座り、京の芝居興行にこの人在りと名を売った人物だと云う。
そして当の儀助は、自ら運こんで来た茶の乗った盆を置くと、聞いた年よりは余程に若く見える、艶の良い頬に悪戯げな笑みを浮かべ、何やら訳の有るらしい客の邪魔をしないよう、早々に腰を上げた。
 
 その背筋の伸びた後姿が薄暗い廊下の奥に消えるや、総司は躊躇い加減に、隣に座る田坂を見上げた。
「聞きたい事が、あるのだろう?」
が、ゆっくりと湯呑に手を伸ばしながら田坂の口をついて出たのは、そんな戸惑う心を見透かせた、先回りのいらえだった。
「・・・何故、田坂さんは、私があそこに居た事を」
その語調の強さに促され、ようよう疑問を言葉にしたものの、最後まで云うに憚りがあったのは、経緯はどうあれ、田坂を騙したと云う後ろめたさに他ならない。
「君も脇さんも、大根だな」
「・・大根・・?」
「ここの家の主には、到底使っては貰えない役者だと云う事さ」
分からぬ言葉の不意打ちに、張り詰めていた糸を不意に弛(たゆ)ませられ、ぼんやりと光を失くした瞳を見た田坂の口から、苦笑が漏れた。
「脇さんに何を話したのか知らんが、君と会った後、あの人が何かを決意したのは、表情の硬さから直ぐに知れた。増して帰り際の君の落ち着かない様子を見れば、それと脇さんの変容を結びつけるのは当然だろう」
一息に語り終えた最後に、これみよがしに苦々しく方頬を歪めた田坂だったが、しかし総司は、手にしている湯呑に視線を落したまま言葉が無い。

時には正面から、時には傍らから、そして時には今のように背後から、仰々しい態度をするでも無く、声高に意見するでも無く、あくまでさり気なく見守ってくれるこの医師に、自分はどれ程支えられている事か・・・
その思いを上手く言葉に出来ないもどかしさが、己の不器用さが、総司を焦らせる。

「・・大根・・、なのかな、やっぱり」
「筋金入り、のな」
ぎこちない笑いと共に、ようやっと返したいらえに、容赦の無い揶揄が戻る。
「・・出てきたな」
が、其れを切欠として、胸の裡にある思いを伝えかけようとした寸座、鋭さを孕んだ声が、ゆっくりとその先を遮った。
そして総司も又、田坂の言葉が仕舞いの韻を踏むよりも早く、格子窓へ走り寄っていた。
やがて僅かばかり開けた戸の隙から、左の腕を白い被布で覆った姿を視界に捉えるや、深い色の瞳が、朧な像を鮮明にするかのように細められた。





 感づかれる事の無いよう脇の後を行きながら、ほんの幾日前、同じように追った背が、総司の脳裏を過る。
あの時は岡島新吉と云う、名前すら知らなかった。
脇との繋がりも、何故彼が脇の安否を尋ねるて来る事が出来ないのか、その事情も分からなかった。
だが今日、かの人物との関係と、そして互いに表立っては会う事の出来無い経緯が、脇自身の口から語られた。
――振り返らぬ背の、向かう先。
其れは豊岡藩元郡奉行神代卯之助と、そして岡島新吉が逗留している三門屋の寮に他ならない。
しかしその事は、脇にとって、火中の栗を拾うにも等しい。
進める一歩が、脇と岡島との距離を縮める。
そしてそのたび、危険の渦は激しく螺旋を描く。
緊迫した思いが、総司を焦らし急(せ)かせる。



 標(しるべ)としていた屋敷は、いぶし銀のように煙る雨の中に、黒く重厚な佇まいを沈めていた。
だがその手前まで来ると、脇は足を止め暫し動かずにいたが、やがて寮の斜め向かいにある、人気の無い小さな寺の門を潜(くぐ)った。
そして其れを見届けた田坂と総司も、その寺とは反対側の、これは又、界隈でも一際目立つ偉容が、他とは一段寺格の高さを象徴している山門の内へと消えた。


 何の利益(りやく)があるのかは分からぬが、冷たい漫(そぞろ)ろ雨の中にあっても、参拝客が途絶えることは無い。
が、そのお陰で、こうして其処を動こうとしない人間が二人いても、然程目立つ事も無い。

「脇さんがあそこで何をしようとしているのかは知らんが、待つのは半刻だけだ。それ以上は、二人共に諦めて貰う」
視線を前の寺に据えたまま告げる田坂の物言いには、否と拒むいらえを許さぬ厳しさがあった。
が、其れが医師として、譲る事の出来無い際だと突き付けられれば、総司も黙って頷く他無い。
「・・・半刻」
限られた刻(とき)を今一度呟いた声が、音も無く降り続く雨の白玉に絡むようにして消えた。

半刻――。
こうしている間も脇は、三門屋の寮に向けた視線を逸らす事無く、岡島の姿を眸に捉える時を、ただひたすらに待ち続けているのだろう。
しかしその僥倖は、万の糸の束から、たった一本の其れを引くよりも覚束ない。
だが総司は、脇の取った行動を愚かだとは思わない。
今脇の心中に去来しているものは何なのか。
半刻の内に其れを知りたいと、叶わぬ希を抱きながら、総司も叉沈黙の中に佇む。


「・・新撰組の遣い・・、ではなさそうだな」
不意に聞こえて来た声は、田坂自身が、己の疑問を無造作に口にしたと云う類のものだった。
が、その刹那、それまで脇のいる寺だけを凝視していた総司の視線が、我に返ったように、声の促す先へと向けられた。
そうして瞳が映し出したのは、折った肘を手傘にして此方に走り来る、一見した処、どこかの店の手代風の男だった。
しかしその足が確かに田坂と総司を目当てとしているのは、二人の視線に気付いた寸座、小さく頭を下げ礼の形を取った事からも明白だった。
やがて男は二人の正面まで来ると、半間程間を開け、息を切らせながら立ち止まった。

「田坂さまと、沖田さまですやろか?」
「そうだが」
慇懃な物腰と丁寧な言葉使いではあったが、男の目にある、暗く、それでいて鋭い光には、妙に人の心を落ち着かなくさせる何かがあった。
強いて言葉にするのならば、それは世の中に吹き溜まる闇と云うものに、良く似ているのかもしれなかった。
「伊庭さまが、お待ちです」
「八郎さんっ?」
しかし男が告げた言葉は、総司の、相手への観察の時を、瞬く間に驚愕の斧で打ち砕いた。
「見張られていたのは、俺達か・・」
だが田坂の鷹揚な口調は然程その事に拘っている風は無く、それよりも興の対象は、無言で頷く男の正体へと動いているようだった。
「ご案内しますよって」
云いながら、少し腰を屈め具合にして向けた背は、客がついて来ると疑わず、ずんずん先を行き始める。
そして其れを追い、田坂が一歩を踏み出した。
だが総司は脇が居る寺の門から目を離す事を躊躇し、暫し其処に立ち尽くしていたが、次第に広い背との距離が開いてくると、心残りを振り切るようにして、ぬかるんだ地を蹴った。





「どうせ招(よ)んでくれるのならば、温(ぬく)い処にして欲しかったね」
案内(あない)されて来た其処に、憮然とした面持ちで立っていた八郎に向かい、開口一番田坂から発せられたのは、遠慮の無い文句だった。
「生憎、新撰組と違って、お大尽じゃなくってねぇ」
だが戻ったいらえの声も又、酔狂を笑うに笑えない苛立ちを隠しきれないようで、この男にしては珍しく不機嫌をあからさまにしたものだった。
「が、俺達がここに来る事が、良く分かったな」
「勘さ」
「勘ねぇ」
「こいつが・・」
意外過ぎる事の成り行きに、何を問うて良いのか其れすら分からず立ち尽くすばかりの総司を、八郎はちらりと見遣ったが、直ぐにその視線を降る雨に向けた。
「あんたの処に行ったと聞けば、帰りの道筋は決まっているさ。尤も、脇さんの姿が先に飛び込んできたのは、予想外だったがな」
どうやら一部始終を見ていたらしい物言いには、とんだ方向に滑り出した筋書きの行方を憂慮し、いつものような歯切れの良さが無い。

――最初に居た寺の裏から出た、狭い小路。
其の突き当たりにあった、人ひとり通り抜けるのがやっとの、土塀の隙。
それらを辿り、くぐり、そうして再び出た、又も同じような小路。
今自分が居るその場も、歩んでいる時も、そう云う感覚の一切を鈍くさせるような迷路を行きながら連れて来られたのは、先日、岡島新吉を追い、暫し足を留めていたあの料理屋の裏手にある、小さな木戸の前だった。
そして着いた其処で待ち受けていたのは、張り出した軒の下で雨を凌ぎながら、建物の壁に背を預け、顰め面のまま視線を向けた八郎の姿だった。


「あちらさまへの遣いも、あんじょういったそうです」
話と話の、ほんの僅かな切れ目を逃さず、此処まで案内して来た男が、総司の後ろから小さく、しかし良く透る声で首尾の上々を伝えた。
「手間を掛けたな」
「滅相もございません。ほな私はこれで・・」
男は先程総司達の前に現われた時と同じように深く腰を折ると、八郎の立っている直ぐ脇にある、おそらくこの店の者達だけが使う小さな戸を開け、軽く頭を下げた姿勢のまま其れを閉めた。
「あんたも、十分にお大尽のようだな」
その様を横目で見ながら、掛けた田坂の声が笑っていた。

 料理屋と謳っているいる店に、裏口を貸せと無理を持ち込むなど、商売の面子(めんつ)を考えれば到底断られる筈が、こうして押し通してしまったからには、それ相応の金子を弾んだに相違ない。
その相手の懐を苦笑まじりに皮肉ったのが、今の揶揄だった。

「あの・・、八郎さん、此処は先日上がった・・」
だが総司にはまだ会話に加わるまでの余裕は無いらしく、記憶の水面を不意に漣(さざなみ)立たせた残影だけを頼りに、辺りの情景を探る。
「あの時の料理屋だよ。尤も料理屋と云うのは、表の商売だがな」
「・・表の?」
然も無く云い切る声を受け、思わず反復した調子が、言葉の持つ意図を計りかねて心許ない。
「あの手代、物分りが良すぎると思ったが・・。そう云う事ならば、この位の酔狂には慣れているだろうな」
男が消えた戸口へ視線を流し、苦く笑った田坂だったが、まだ不可思議にいる総司は、返す言葉を見つける事が出来無い。
「世俗の欲を捨て一心に精進に励む者どもが、捨て切れない煩悩に忠実になる、現の極楽浄土さ」
「此処が、辺りの坊主達を客にしている出会い茶屋なら、あれ程複雑に張り巡らされている小路は、その浄土へ誘(いざな)う道しるべと云う奴か・・」
が、八郎の、謎かけの後を取った田坂の言葉を耳にした途端、漸く全てを解した総司の項から耳たぶまでが、瞬く間に朱に染まった。
その、周囲の像が水霧の紗幕にぼんやりと影を落とす中、刻(とき)を浮き立たせたかのような鮮やかな一瞬に、八郎の眸が微かに細められた。
「欲って奴は、ひとつ殺せばひとつ生まれ、無理に押さえりゃ余計に膨らむ。困ったものさ」

不意に焔(ほむら)立った恋情を、敢えて隠すでも無く、さらりと謡うような調子で漏らした言葉の意味合いは、果たしてこの想い人に通じたものか・・・
否と、即座に返す天のいらえは分かっている。
それでも口にせずにはいられなかった己の堪え性の無さを、八郎は、今皮肉ったばかりの浮世人と重ね合わせると、唇の端を上げ自嘲の笑みを作った。

「さっきの男、もうひとつの方も上手く行ったと云っていたが・・」
が、その八郎の心裡を敏(さと)く判じたか、田坂の声が、恋仇の思慕に割り込んだ。
「いつまでも寒い中を待たされるのは、御免でね」
「ではそろそろ現れるのか、脇さんの待ち人とやら」
狭い軒の下に大の男が並びながらの、まるで世間話のような遣り取りに、総司だけが驚きの瞳を向けた。
「岡島さんを、呼び出したのですかっ?」
「岡島と云うのか?その待ち人」
「そうらしいよ」
聞きなれない名を問い返す田坂と、其れに衒いも無く応える八郎。
そのふたりの横顔を、総司はただ呆然と見詰める。

自分ですら、脇と岡島の係わりを知ったのは、つい先程の事だ。
だが話から察すれば、八郎は、既に其れ以前に岡島と云う名を知っていた事になる。

「まだ去年の、秋も終わり頃の事だ。元豊岡藩郡奉行神代卯之助が、所司代屋敷に奴の旧知と云う桑名藩士を尋ねて来た事がある。俺はたまたま所司代屋敷に所用がありその場を通りかかっただけだが、その神代について来ていたのが岡島だった。尤もその時には、まだ名までは知らなかったがな」
総司の戸惑いを他所に、正面の木戸に視線を置いたまま、八郎のいらえは少しばかり低い声で語られた。
「だが良く覚えていたな。自分に何の係わりも無い、しかも偶然通りかかっただけの他人の客の顔貌(かおかたち)を」
「通りがかる人間の気を引く為に、故意に開かれた襖の間から、自慢するかのように面白いものを見せてくれていた。そうとなれば見てやるのが、礼儀って奴だろうよ」
「で、その面白いものとは?」
軽い調子で会話を交わしながら、しかしふたりの男の双眸は、いつ現われるとも知れぬ岡島を待ち、ごく細く開けられている戸の隙から逸らされる事は無い。
「最新の短筒さ」
「八郎さんっ、もしかしたらそれはこの間云っていた・・」
「スナイドル銃だ」
昂ぶりのまま、思わず叫びかけた声をどうにか喉元で止(とど)めた総司に、応える八郎の物言いは至極平坦なものだった。
「気の毒な事に当の桑名藩士は、そのスナイドル銃一丁で先を狂わされる結果になった。お陰で神代と云う人間は、桑名藩の一部の人間の中では、今も警戒すべき名になっている」
「・・警戒?それはどうして・・」
「さぁな。その先はどっかの仏頂面にでも聞くんだな。・・さてと、お出ましになったらしい」
殊更構える風の無い調子も、語る声の伸びやかさも何一つ変えず、八郎が、凭れていた背をゆっくりと壁から離した。
そして時を同じくして、総司の身が俊敏に翻り、木戸に走り寄った。





 人気の無い境内に岡島新吉が現れた時、初め脇の顔を彩ったのは、この僥倖への喜びでは無く、信じ難い驚愕の色だった。
何かに操られるかのように、掛けていた階(きさはぎ)から腰を上げ、目の前に立つ者を呆然と見る口から、漏れる言葉は無い。
そしてその脇を、岡島は身じろぎもせず見詰めていたが、やがて深く頭(こうべ)を下げた。

「・・・まさか、こんなに早く会えるとは、思ってもいなかった」
音も無く、粛々(しゅくしゅく)と降る氷雨の中、頭を下げたままの主に掛けられた声は、その静けさを破るものでは無い。
否、むしろ凍てる身に、染み入るように柔らかなものだった。
だが岡島は応えない。
「誰か私の顔を知っている者が、ここでお前を待ちぶせしていると教えたのか?もしそうならば、お前に迷惑が掛かる」
神代の手の内の者が自分を見つけ、其れにより此処に来たのだとしたら、岡島の身が危ういと気付いた脇の声が、不意にくぐももった。
「・・いえ、私が此処に来た事は、誰も知らない筈です」
躊躇いがちに頭を上げ、そうして漸く返ったいらえが、ぎこちない笑みに隠れた。
「ならば私の希(のぞみ)は、どうして叶えられたのだろう」
語尾に被せるようにして笑う声が、別(わか)つ道を歩んでいた時を遡り、互いの裡にある蟠(わだかま)りを解いて行く。
「脇さんが此処で待っていると、この寺の隣にある店の者から遣いが来ました」
「私はそのような事はしていない。・・一体誰が・・」
「・・脇さんご自身でなければ、私にも分かりません」
「それでもお前は私を信じ、来てくれたのか・・」
今自分に接点を持つのがどれ程危険かも顧みず、誰とも分からぬ者からの言付を信じ会いに来てくれたその事に、まだ果ててはいない希と、そしてそれによって窮地に追い遣られる岡島の立場を案じた脇の声が、吉と凶、相反するふたつの狭間で揺れる。
「もし私がここにこなければ、脇さんはどうするつもりだったのです」
が、返ったいらえに込められた辛辣さは、我が身を顧みない脇への、岡島の苛立ちだった。
「今日会えねば明日、明日会えねば又次の日・・・、そうして、会える時を待つつもりだった」
「貴方は・・」
「相変わらず、莫迦で愚鈍だ」
己を卑下しながらも、相手へ向けた笑い顔に屈託は無い。

――その声を、木の塀一枚を通して聞きながら、今脇の胸を満たしているのは、岡島との邂逅を喜ぶただそれだけなのだろうと。
面に浮かぶ表情までは見極める事が出来ずとも、其れだけは、離れて見守る総司の裡にある確信だった。
そして八郎と田坂も叉、これから明かされる真実を無言で待つ。


「お奉行・・、いえ神代先生から、上洛した脇さんが怪我をし、五条の医師の元で世話になっていると聞きました」
「それで案じ、尋ねて来てくれたのか?」
神代を、先生と呼ぶにまだ慣れていない岡島の朴訥とした物言いが、何故かしら脇に安堵を与える。
しかしその束の間の安寧を知らずして、くだんの事件に話を遡らせたのは、岡島にとって、どうしても己が知らなければならない真実を問い質すが故だった。
「脇さん」
頬に、鬢に、滴り落ちる雨を拭いもせず、其れまでとは違う強い光を宿した双眸が、脇を捉えた。
「脇さん・・・、貴方を亡き者にしようとしたのは、神代先生なのでしょうか」
「お奉行はどのように申された」

――いらえひとつで、岡島の裡に渦巻いている疑惑に、堰するか迸らせるか。
ふたつにひとつへと追い込まれての、敢えて静かな物言いは、脇に前者を選ばせたのだと、詰めた息を吐く事すら忘れたように、会話を聞き入る総司は判じた。


「脇さんから、所用で上洛するにあたり、会いたいとの書状を貰い待っていたが、着いた早々怪我をしてしまい療養中故、会うのは今少し延ばして欲しいと、そう連絡があったと云われました」
「お奉行の、申された通りだ」
「それは嘘ですっ、脇さんの上洛を知っていたのは神代先生だけです。だからあの人は貴方を襲う事が出来た」
堰にした筈の偽りは、逆に岡島に真実を認めさせる結果となり、激した声が迸った。
「嘘では無いっ、私を襲ったのは金目当ての無頼の輩だった。こんな田舎侍でも、今の都では良くある事だと聞いている。私はお前に国元に戻って欲しかった、それ故、お奉行にその旨を認(したた)めた書状を送ったのだ。そしてその後は、今お前が見る通りだ」
湿った土へ、勢いのまま一歩踏み出しての声は、焦燥を映して力みが過ぎ、皮肉にも其れが、相手の確信を強めるばかりになっている事に、脇は気付かない。

――何故、脇がこれ程までに、神代を庇わねばならないのか。
その理由を語った脇の、苦渋に満ちた面持ちが、今総司の脳裏に蘇る。
 神代への疑心を捨て切れないながらも、其れを押して、その思想の中に貧困に喘ぐ人々の将来を託し、岡島はかの人物と行動を共にしたのだと云う。
しかし脇を襲ったのが神代の仕業と知れば、抑えていた疑惑は決定的なものとなり、激昂した岡島は、容赦なく当人に詰め寄るだろう。
だが其れは、自ら危険の渦中に飛び込む事であり、その事態は何があっても阻まねばならないのだと語り終えた時、脇は己の信念の証のように、堅く口を結んだ。
 総司の瞳の中で、雨の帳(とばり)を通して映る峻厳な横顔は、もう脇にいらえを返そうとはしない。
岡島の裡に、揺るぎ難い決意が下されたと判ずるのは容易な事だった。



「脇さん・・」
それまでの二人の立場を逆転し、激しかけた脇を宥めるかのような、岡島の静かな声だった。
「貴方はふたつ、嘘をついている」
「嘘?」
「ひとつは、今貴方自身の口から告げられた、その傷の経緯。・・其れは確かに、神代先生が仕掛けた罠によるものです」
止めた視線から隠すように、咄嗟に己の左腕を覆う被布に手を遣った脇のその所作が、岡島の言葉を何より是と認めていた。
「脇さんを襲ったのは、神代先生です」
「違うっ、岡島、それはっ・・」
「もう良いのです」
薄く笑みを浮かべる相手に、否と訴える言葉は、既に虚空でしかない。
「今ひとつ。・・脇さんが危険を承知で神代先生に会われようとしたその訳は、先生が握る、甚五郎達、沼沢村の村方三役の連判状を取り戻す為です。それが故に、貴方は己の身を挺して上洛を決めた」
そうする事で秘められた真実を確かめるように、言葉はひとつひとつ、明瞭な韻を踏んで向けられる。
が、対する脇は岡島を直視したまま、無言を貫く。
「脇さんが神代先生へ渡したものは、挑戦状だった。そして其れをするからには、脇さんには神代先生と互角に渡り合える切り札が有る筈です。だから貴方は襲われた」
是とも否とも応えず、ただ見詰める相手に、言葉は途切れる事が無い。
「それは神代先生が、藩の郡奉行であった時に働いた不正の証しと、そして脇さんのお父上があのような形で亡くなられた事と、関係があるものです」

――語り続ける者と、無言で聞く者との間には、触れた途端、白い紙が、鋭い凶器となりうるような緊迫感がある。
そして総司は、それを身の内に張り巡らされた全ての神経で感じながら、僅かばかりの隙から、今ひとつ鮮明でない視界の先を、瞬きもせず凝視する。


が、それまで己の感情の昂ぶりを抑えるかのように淡々と語って来た岡島が、突然口を閉ざし沈黙に籠もった。
「・・・何故っ」
しかしそれも一瞬の事で、一度伏せた眸は直ぐに上げられ、再び脇を捉えた時、唸りにも似た声が、堪えていた思いを迸らせた。
「何故っ、貴方は京へなど来たのですっ。神代先生から連判状を取り返すと云う事は、その命を危険に晒すと云う事なのです。貴方がいなくなってしまえば、今貧困に喘いでいる百姓達はどうなってしまうか、そんな事くらい、分かっている筈だっ」
握り締めた拳を震わせ、雨雫を振り払うようにして、胸の裡を激しく吐露する岡島を、脇は物言わず見ていたが、やがて閉ざされていた唇がゆっくりと開かれた。
「だから、お前を連れ戻しに来た」
「どうして貴方がその先頭に立とうとはしないのですっ」
「私では駄目なのだ。知識も経験も、私では全てが足りない。しかしそれらを得て、皆を引っ張って行ける迄待つ時が、今はもう無い。飢えは、力の無い者から息絶えさせる。母は乳が出ず、そして子は泣くことすら出来ずに死んで行く。・・確かに、直訴は死罪を免れない。それでも甚五郎達は、ご家老さまにこの惨状を訴えようとした。そうせざるを得ないまでに、状況は逼迫しているのだ。だが甚五郎達の命は、必ずや私が救う。そして岡島、お前の事も諦めない。決して、諦めはしない」

 其れが貫くと決めた覚悟と告げた涼やかな双眸が、張り詰めた糸を解いたように、ふと柔らかな色を湛えた。
そして脇は、立ち尽くす岡島の横を通り過ぎると、二度と振り向くことはせず、己の姿が相手の災禍になる事を恐れるように、足早に寺の外へ消えて行った。



「田坂さん、あんたはあっちの用心棒をするんだろう?」
それまで一言も発する事の無かった八郎が、やはり同じように無言で聞き入っていた田坂に視線を投げかけた。
「帰り着く処は、同じだからな」
いらえを返し終わらぬ内に、畳んであった傘を一振りして差すと、田坂は建物の軒を離れた。
其れは今聞かされた会話から、脇の身辺にはまだ幾多の危険が伴っていると判断した迅速な行動だった。
その田坂の背に一礼をして見送ると、今一度、総司は境内に独り立つ岡島へと視線を戻し、もう凍てて感覚すら無い指先で、細く外を覗かせていた木戸を押した。
そして総司の突然の行動を、相変わらず自分は戸の此方側で、八郎は黙って見守る。



「岡島さん・・」
不意に掛かった声に、警戒も露わに鋭く振り返った身が、総司の姿を眼(まなこ)に映すや驚きに見開かれた。











事件簿の部屋  寒九の雨(九)