寒九の雨 (九) 降りかかる雨を拭おうともせず、岡島は総司を凝視していたが、やがてその頬に、緩やかな笑みが浮かんだ。 「・・貴方、だったのですか。あの文を言付けてくれたのは・・」 「脇さんが貴方を待っていると、伝えたかったのです」 其れが八郎の機転だと本当を教えた処で、八郎と云う人間を知らない岡島にとっては、尚更の混乱が生じるだけだと判じた偽りは、少々ぎこちなく総司の唇から零れ出た。 「・・先日、貴方が脇さんを案じて診療所を伺っていた事、そして今日、偶然にも又貴方に会えた事、其れを、脇さんに伝えました。その時に脇さんから、国元で、貴方との間にあった経緯(いきさつ)を伺いました」 「加えて今の話で、更に深く、我々二人に蟠(わだかま)る事情を知ったと云う訳ですか・・」 瞬きもせず見詰める深い色の瞳に向けられた声には、聞き耳を立てられていた事への憤りは無く、むしろ其れに気付かなかった己の無用心さを自嘲する、苦い笑いが籠められていた。 ――だが岡島に、そのような笑みを作らせる余裕が、脇から真実を引き出して出来た、揺ぎ無い決意に根ざされているとは、板塀一枚隔て、厳しい面差しのまま聞く八郎のみが、今は知る。 「私には、貴方と脇さんの間に、どのような事情があるのかは分かりません。けれど脇さんは云っていました。飢饉に苦しむ人々を救うには、自分の力だけでは駄目なのだと。貴方の力がどうしても必要なのだと」 「脇さんは、私を買いかぶっている」 迸る感情のまま、顔を背け、吐き捨てるような物言いであったが、其れこそが、脇への甘えである事に、岡島は気付いていない。 「・・脇さんと初めて会った時、偶然にも、こんな雨の日で・・・」 が、その言葉も終わらぬ内に語り始められたのは、話の筋から突然離れたもので、其れを訝しんだ岡島が、総司に視線を戻した。 「その雨を、脇さんは、寒九の雨だと教えてくれました」 「・・寒九の、雨・・」 「寒の入りから数えて九日目に雨が降れば、それは豊作の吉兆なのだとか・・・。脇さんは雨を見上げて、嬉しそうにそう云っていた・・」 戸惑いの中で向けられる視線も意に介さず、しめやかに降る雨に、総司は瞳を細めた。 「飢饉に苦しむ人達にとって、この雨がどうか吉兆になるようにと、あの時脇さんは、心底願っていた。そしてその人達を救う為に、国元の過酷な風土に耐え得る強い稲を作るのだと、それにはどうしても貴方と二人力を合わせなければならないのだと、・・・そう、私に話してくれました」 ――総司の声を聞きながら、つと伏せた八郎の目に、雨雫に打たれ、萎れた細い葉先を地に垂らしている枯れ草が映った。 今は薄汚いばかりの其れは、踏みにじられ、雪に埋もれ、雨に叩かれながらも、深く根を張り、やがて息吹く季節を待っているのだろう。 人が植え、人が育み、そして人の糧となる稲に、この野の草のような靭さ逞しさを与えたいと、脇は総司に伝えたのだと云う。 其れは、既に人の庇護の下になるものでは無く、人と稲と云う、共に生あるものの共存だった。 が、その脇の熱い思いが、総司の裡にどれ程の衝撃を与えたのか、八郎には手に取るように分かる。 総司の宿痾は一時の油断も許さず、刻々と、内から身を喰い荒らしている。 常に隣り合わせにあるその現実に、怯える心が無いと云えば嘘になるだろう。 だが其れを強靭な精神でくるみ、おくびも見せぬその一方で、例え艱難辛苦の末であれ、希(のぞみ)は叶えるものだと信じ踏み出そうとしている脇の姿は、総司に、諦めかけていた自らの先に、一筋の光明を投げかけたのかもしれない。 「私は、脇さんが寒九の雨だと教えてくれたあの雨を、吉兆だと信じています」 再び聞こえてきた声を耳にしながら、八郎は、地に這う枯れ草に止めていた視線を、雨雲の隙から僅かに覗く、高い天に向けた。 ぎしりと、湿り気を含んだ木の戸は、重い音を立てて外への道を開いた。 だがそれに面輪を向けるでも無く、総司の瞳は、雨が朧に霞ませる背を追ったまま瞬きもしない。 そして八郎も又、暫しその後姿を見ていたが、其れが三門を潜り視界から消えると、ゆっくりとした足取りで、総司の傍らに遣って来た。 「これまでの不正の証を握られているのならば、確かに、神代にとって脇さんは、この世に居て貰っては困る存在だろう。そして其れが今、神代を潤わせている財力になっているのならば、くすね取られた豊岡藩も黙ってはいまい。神代を捕らえる事に躍起となるだろう。・・いや、もう既に動き始めているか・・」 出された結論は厳しい現実を踏まえていたが、其れを告げる語り口は、雨音よりも静かだった。 「・・けれど脇さんは、藩がどうしても必要としている証を、村役の人達の命と引き換えに捨てようとしている」 漸く振り向いた面輪は硬く、声を発した唇は凍てて色を失くしている。 「目安箱に入れず、ちゃんとした手続きを踏まない直の訴えは死罪だと、江戸に居た頃に聞いた事がある。・・でもそうしなければならない程に、脇さんの国元の人々は苦しんでいたのです。そして脇さんは、その人達を救う為に、京へ遣って来た」 「が、神代と云う輩は、交換などと云う申し出は信じまい。証しを奪い取った上で、脇さんを亡き者にする魂胆は目に見えている」 八郎の声は淡々と、感情と云うものを伺い知ることが出来ない。 しかし雨を凌ぐ素振りに隠し、一瞬見せた横顔の峻厳さが、見えぬ敵への瞋恚(しんい)を物語っていた。 だが其れも刹那の事で、八郎は、手にしていたふたつの傘のひとつを一振りすると、ごく自然な仕草でそれを総司に手渡した。 「帰るのだろう?」 誰の元へとは、決して云ってはやらぬつまらぬ矜持を、胸の裡で笑って捨てた手が、もうひとつの傘を、大きく弧を描かせ氷雨に咲かせた。 「俺は所司代屋敷に戻る。あの顔を、一日に二度見るのは真っ平だからな」 が、端整な面が顰められるや、それまで手渡された傘の下で八郎を見ていた総司が、我に返ったように慌てて頭を下げた。 「何だえ」 「・・すみませんでした」 ――此処まで真実を知る事が出来たのは、全て八郎の甲斐性によるものだった。 八郎と、そして田坂がいなければ、自分は何も出来ない木偶坊で終わっていた。 其れを伝えようとした寸座、溢れる思いが先に立ち、総司から言葉を摘み取った。 「何が、すみませんだって?」 だが頭を下げたまま、言葉を探しあぐねている相手に、笑いを含んだ声は意地悪く先を促す。 云わんとしている事は、疾うに承知している。 それでも云わせてみたいと捏ねる駄々は、八郎から、養ってきた大人げなど何処ぞに吹き払う。 「八郎さんが、脇さんを、岡島さんと会わせてくれた・・」 が、愛しい者の唇から紡がれたのは、己の為にと逆上(のぼ)せた情では無く、他人の僥倖を喜び、それをお膳立てした事への深い感謝の念だった。 「お前ってのは、つくづく可愛げのない奴だねぇ・・」 案の定のいらえを苦く噛み潰した顔(かんばせ)に、眉根が寄ったのを、伏せた瞳の主は知らない。 全ては、お前の為だったのだと――。 しかしそんな艶な駆け引きを分かれと、この者に怒った処で、云ったが負けは目に見えている。 「行くぞ」 その胸の裡など判じ得る筈も無く、不意に荒っぽくなった八郎の態度に戸惑い、暫し唖然と立ち尽くしていた総司だったが、物言わず先を行く背が小さくなるや、急ぎ後を追い始めた。 思いの外に遅くなってしまった帰りは、後ろめたさばかりが心を重くする。 漫(そぞ)ろ雨が、薄闇を一枚沈めた夕暮れ時、音を忍ばせ辿りついた自室の障子を後手で閉じた途端、総司の唇から微かな吐息が漏れた。 が、一瞬の間もおかず、すぐにその背に、緊張の雷(いかずち)が走った。 そして同時に、閉じた障子を外から開こうとする力に、桟を合わせていた両の手が、からくり人形の其れの如く脇に滑り落ちた。 「田坂さんは、何と云っていた」 室に入るなり発っせられた土方の最初の言葉は、遅い帰りを咎められる事だけを思っていた総司には予期せぬもので、深い色の瞳に動揺が走った。 「先日、何を云われた」 向けられた眼差の、尋常で無い険しさは、まだ灯の入らぬ暗さの中にあっても充分に見て取れる。 「何も」 が、全てを見透かせてしまうかのような鋭い視線からとて、真実を隠し通すと決めて揺るがぬ心は、仄白く浮かぶ細い面輪に、柔らかな笑みを浮かべさせた。 「何も云われない。田坂さんの都合で、先日の診療が今日になった、ただそれだけの事なのです」 盾となり、或いは矛となる偽りは、少しの淀みも痞えも無く、色の薄い唇を滑る。 その総司を、土方は無言で見詰める。 そして総司も叉、瞳を逸らす事無く、土方を見上げる。 共に譲る事の無い沈黙の時は、しかし土方の、思いもかけぬ挙措で破られた。 突然。 視界が何かに覆われた思った途端、畳を踏みしめていた足が不意に浮き、天地が逆がえるような不安定さに全身を硬くした刹那、今度はひんやりとした感覚が背に押し付けられた。 其れが畳で、そして自分は今その上に倒されたのだと。 そう判じるよりも早く総司の瞳に映ったのは、馬乗りになり、射抜くように上から自分を捉えている双眸だった。 ――こんな荒々しい土方は初めてだった。 しかしその土方を、総司は恐ろしいとは思わない。 今総司を怯えさせているのは、己の身の不調を悟られる、ただそれだけだった。 「・・俺では、駄目なのか」 だが右の手の平で前髪を掬い上げ、面輪の全てを曝させて問う声に、総司の瞳が見開かれた。 「何もかも、お前はひとりで隠そうとするのか・・」 低い静かな声音は、額に置かれた掌の温もりとは相反し、狂おしい程に切なく、総司の耳に、胸に、そして身の内に張り詰めた神経のひとつひとつに響き、魂魄を、核(さね)から揺さぶる。 勝手の限りを尽くす自分に、土方の憤怒がどのような責めを下そうと、其れは承知の上だった。 けれどこんな風な優しさに触れ得たら、胸に決めた覚悟は、砂上の楼閣よりも脆く崩れ去る。 何時の日も傍らにいたいのだと、何処までも後ろを追って行きたいのだと。 もしも其れが叶うのならば、修羅になろうが悪鬼になろうが、厭いはしないと。 そう叫び、胸にある全てを曝け出し、あらん限りの力で縋り付く事が出来るのなら、どんなに救われる事か――。 だが唯一無二の人だからこそ、其れは出来ない。 土方の行く手を阻み、心揺るがすものは、例え己自身であっても許しはしない。 その想いの丈が、総司の裡に、もうひとつ厚い帳(とばり)を下ろす。 押さえ込まれた右の手首が、捩れ痺れるように痛い。 が、唯一自由になる左の手を伸ばすと、震える指先で、総司は土方の頬に触れた。 「・・脇さんが、強い稲を作るのだと云っていたのです・・」 捕まえられた手の、膚一枚を通し、強く波打つ土方の血潮が伝わる。 それに鼓舞され、見上げている唇から零れ落ちた声は、始め呟きにも敵わぬ小さなものだった。 だが突然の言葉の意味合いを判じかねたのか、それとも己の欲するいらえを未だ求めているのか、土方は総司を見下ろしたまま、無言を解こうとはしない。 「・・海が近くて、それで霧が出やすくて、・・田に植えた苗や、畑に撒いた種の芽が、直ぐに駄目になってしまう。・・そのたびに、村の人々は苦労を強いられる。・・でもそう云う過酷な風土に打ち勝つような強い稲を、きっと作るのだと、脇さんは云っていたのです」 ふと言葉を途切ぎれさせた一瞬、総司の瞳が、土方の視線を外し宙に向けられた。 其れは見据える双眸から逃れると云うのでは無く、止めた薄闇の其処に、まだ見ぬ地の光景を映し出しているかのように、瞳はゆっくりと細められた。 「そしてその為には、どうしても岡島さんの力が必要だと云っていた。・・岡島さんや村の人たちと一緒に、凍る地や、霧に負けない強い稲を作るのだと、そう聞かせてくれたのです・・・」 語り終え、再び土方に向けた瞳に、夢寐を彷徨っていた名残は無い。 だが土方は、烈しい視線で、組み伏している面輪を見詰めたまま、無言を貫く。 「・・脇さんにとって岡島さんは、共に歩む人なのです。自分が強くある為に、そして挫けて、弱気に傾きかける自分を叱り、又歩き出す為に、脇さんには、岡島さんが必要なのです」 もう温もりなど何処にも無い指先が、峻厳な面持ちで見下ろす顔(かんばせ)の、鬢から頬に滑り、そしてその双眸に笑いかけようとした途端、しかし其れは最後まで形作られる事無く、総司の面輪が不意に歪んだ。 が、その刹那、触れていただけの指が離れ、今度は左腕が、巻き付くように土方の首筋に絡んだ。 「・・・私は、きっと土方さんの傍らにいる」 滾る想いは、愛しさのままに、堪えようとする必死を凌駕する。 だがひとつも己の侭にならないその情けなさを越えて、今は土方に伝えたかった。 「土方さんの傍らに、ずっといる」 声が上ずるのも、何かが瞳を覆い視界を邪魔するのも、もうそんな事はどうでも良かった。 ただ今はひとつだけ、土方に知っておいて欲しかった。 土方を恐れさせているものが、我が身に巣食う宿痾の存在ならば、其れすらも自分は許しはしないのだと。 だからきっと、自分は土方の傍らに居るのだと。 必ず居ると。 見下ろしていた険しい双眸の奥に沈む、痛い程に哀しい色を、この身全部で包み込んでしまいたいと願う想いは、絡ませた腕に力を籠める、そんな些細な動きでしか伝えられない。 それでもあらん限りの力で、総司は土方を捉えた。 ――首筋に縋る腕に、次第に力が籠められて行く。 想い人は、この片方の腕一本で、自分を捉えて離さない恐怖を取り去ろうとしているのか・・・ それを知った瞬間、土方の裡に、滾る想いが堰を切り、怒涛の如く迸った。 死ぬなと――。 決して死ぬなと、置いて行くなど許しはしないと。 獣の咆哮のように叫び、後先など省みず、欲するまま、下に組み伏す身を骨が砕け散るまでこの腕で抱きたいと、その衝動を刹那の際で堪え、土方は薄い肩に顔を埋めた。 そうして暫し、身じろぎもせず、愛しい者の血潮の流れを己が膚で確かめるようにしていたが、やがて伏せた面が微かに動いた。 「・・死ぬな」 荒々しく圧し掛かり、自由を封じ込め、そしてその姿勢で組み伏した肩口に顔を埋め命じるくぐもった声は、総司の胸を直截に貫く。 瞳から零れ落ちそうになるものを止めようと、慌てて瞼を閉じたが敵わず、其れはこめかみを伝わり、乱れた髪の中へと消えた。 土方は、もう何も云わない。 だが掴んだ右の手首は離される事無く、埋めた顔は上げられようとしない。 そしてその土方の首筋に回された総司の左の腕も又、解かれようとはしない。 いつの間にか・・・ しず降る雨は、夕間暮れを宵へと誘(いざな)い、燭光一筋すら無い長夜の始まりを教える。 そしてその、もう物の形すら定かで無い闇の中、ひとつに重なる影だけが、刻む時を、ひっそりと止めていた。 「お天道さまは、今日もお休みですやろか」 昨日から一向止む気配の無い雨に、茶を運んできたキヨの声も、流石にうんざりとした響きを隠せない。 「確かにこの時期、こう雨が続く事も珍しいな」 云いながら、湯気を立てている茶に伸ばした手の早さが、芯まで凍りつきそうな寒さに閉口している、八郎の本音を物語っていた。 「用心棒も、楽な家業じゃないらしい」 その様を揶揄して笑いながら、しかし当の田坂とて、もう口元にまで湯呑を持って来ている。 「奴等が来たその時に、人を待たせるにも程ってものがあるのを、じっくりと教えてやるさ」 「伊庭はんも、若せんせいも、物騒な事は遠くでやっておくれやす。又怪我人さんが増えるのは敵いませんわ。こないに雨が続いて、ただですら晒しが乾かんと難儀してますのに・・」 キヨは心底そちらの方を案じているようで、豊かな頬に、これも又、負けず劣らずふっくらとした手を当てると、柔らかな曲線を描く唇が文句をつけた。 ――昨日、脇が岡島と会ったと云う事実が、神代側に露見するのは時の問題と踏まえた八郎は、結局所司代屋敷には戻らず、そのまま田坂の診療所に来、敵への襲撃に備え詰めの体制を取っていた。 そしてその行動は、三門屋の寮へ監視の目を向けている新撰組観察方により、直ぐに土方へ伝わったらしく、夜になると、伝吉と吉村の二人が、闇に紛れ密かに診療所を護るようになっていた。 「お仕事が終わらはったら、沖田はんも寄るかもしれまへんなぁ・・。そや、それやったら、やっぱり松浪屋はんへ行ってきますわ。せんせ、一寸だけ、お留守番お頼もうします」 だが男達のそんな事情など頓着無く、キヨの声は普段どおり、おっとりと変わらない。 「ほな、行ってきますわ」 行くと決めた途端、早々に売れてしまう菓子を案じ気が急き始めたのか、立ち上がった丸い背が、慌しく障子の向うへ消えてしまうと、半ば呆気に取られて見上げていた田坂が、諦めともつかぬ笑いを浮かべた。 「あいつはキヨさんに受けがいいからな」 誰とは云わず、その後をとった声が、男二人が残された室に味気なく響く。 だがそんな手持ち無沙汰を持て余し、視線を宙に置いた八郎の脳裏に、昨日、同じような雨の中、岡島に脇の心を説いていた総司の姿が蘇る。 ――雫に打たれながら訴え続ける声は必死で、必死が過ぎて言葉が思いに追いつかず、時折、焦れるように語りは覚束なくなった。 其れを塀を挟んで聞きながら、この愛しい者が、脇の行動に重ねるもうひとつの希を、何故叶えてはやってくれぬのかと。 八郎は地を睨み、そして天を振り仰いだ。 やがて再び雨音だけが辺りを静寂に仕舞い込んだ時、ゆっくりと閉じた目の奥を不意に熱くした、己には似つかわぬ殊勝を、八郎は、暫し瞼を伏せて誤魔化した。 「脇さんは、相変わらずかえ」 「帰ってきてから、変わった様子は見せない。尤もあの人は、俺達が後をつけていた事も気付いていないようだが・・」 重く引き摺る感情を強引に振り切り、所在無さげに問うた声に、話を向けられた田坂の調子が、幾分低く沈んだ。 「この診療所も要らぬ客が増え、煩わしい事だな」 今、この診療所には、自分の他に、新撰組の者も詰めている。 患者がひと段落すれば、田坂とキヨだけの、普段は静か過ぎる屋敷に増えた、迎えたくも無い男達を、己自身を含め八郎が皮肉った。 「確か以前・・、小川屋が世間話の中で、三田藩の藩主の新しもの好きを話題にした事があった。その時は俺にはどうでも良い話だと聞き流していたが、まさか今頃になって関わりを持つ破目になろうとは、流石に思わなかった。が、これも因果と云う奴か」 「如何に名医でも、其処までは見通せなかったかと云う訳か」 「藪でね」 笑って返すいらえの声には、諦めと、そしてその諦めを良しとしている、軽い自嘲を含んでいた。 「まぁ、そんな事はどうでもいいが・・、その三田藩の殿様、丹波綾部藩九鬼家から三田藩に養子に入るにあたり、散々ごねたそうだ」 「良く知っているな」 「丁度、俺が京に来た頃の話だった。綾部は京に近いし、都の人間はこれで案外に噂好きだからな」 「俺は武具を売り払い、最新式の兵器を買い入れたと云う噂が持ち上がった際に、其の人となりを耳にしただけだ。が、新進気鋭かどうかは分からんが、確かに変わった人間ではあるらしい。あんたが云った通り、養子に迎え入れるに無理を聞かせたと云う訳でもあるまいが、三田藩でも多少の無理は黙認されていると聞く」 又聞きだと前置きしながらも、八郎の情報は確たる証に裏付けされているらしく、淡々と語られはするが、声の調子は強い。 「だが武具を売り払ってまで西洋式の最新銃を買い揃えるとは、見方によれば、天晴れな思い切りの良さと云えよう?」 「そう云う上の人間の、後先見ずが、とんだ処に火の粉を飛ばすのさ」 「あんたのその物言いも、何処かの人間に似てきたな」 「やめてくれろ」 言葉尻を取った笑いに、端整な面が、心底嫌そうに顰められた。 「が、見たことも無い最新式の兵器は、良くも悪くも、其れまで狭い囲いの中でしか世間を知る事が出来なかった者達に、衝撃を与えた。そして其れは、その者達を、目まぐるしく変わる世相の流れに乗り遅れまいと焦らせた。そんな隙を狙って現われたのが神代だ。 三田藩の藩主、九鬼隆義殿は五十石以上の藩士全員にスナイドル銃の購入を強制した。だがそんな金、都合出来る人間はごく僅かだ。そこを上手く利用し、神代は金を貸し、更に己が思想を都合良く吹聴し、貸しと畏敬の二つで搦め取り、三田藩の一部の者達を思うがままに操ろうと企んだ。・・・己の存在を、倒幕と云う思想を持つ輩どもの中央に据える為にな」 「その軍資金が、豊岡藩郡奉行時代に不正を働いて得た金と云う訳か・・」 「らしいな。・・だからあの人も・・」 言葉にはせず、面倒そうに顎をしゃくる真似をしたその仕草だけで、指した相手を土方と判じた田坂が苦笑した。 「何処で聞いて来たのか知らんが、三田藩の若い連中の中に不穏な動きがあるのを調べている内に、勢い、神代に辿りついたのだろうよ。尤も其処に総司が絡んで来るとは、とんだ誤算だったろうがな」 恋敵の苦い顔を思い描きながらも、今度ばかりは己も同じ思いを抱かねばならない忌々しさに、遊ばせていた八郎の右指が、癇症の当り処のように青い畳を叩いた。 三つの隊が待機していると云うその事が、組織の空気を張り詰めさせるのは、人である限り致し方が無いのかもしれない。 だが昂りや勇むと云う高揚は、ひとつ間違えれば恐怖へと翻る。 だからこそ、臨戦状態が常である新撰組に於いて、それらの感情は要らない。 要るのは平常心だけで良いと云うのが、土方の持論である。 それ故、今のこの状態は土方にとって苦々しいだけでのものであり、端整が過ぎた怜悧な顔(かんばせ)が、次第に昔ながらの仏頂面に変わり行く様を見ながら、その苛立ちの過程が分かり過ぎる近藤は笑いを禁じ得ない。 が、そんな気配は、胡坐をかいた膝を支えに頬杖をついていると云う、何とも行儀の悪い姿勢で思索に耽っていた土方の察する処となったようで、半眼の体(てい)で畳に落としていた視線が、面倒げに近藤に向けられた。 「何だ」 「いや・・」 予想を違えない凡そ不機嫌な声に、厳つい口から、遂に太い笑い声が漏れた。 「だが、信じられる筋の話なのか、その三田藩の動きは」 慌てている訳でもないが、笑った理由を悟らせまいと話を他所に振る物言いが、ついつい急(せ)く調子になる。 「三田藩自体じゃない。豊岡藩の郡奉行神代卯之助に踊らされた、ごく一部の若い連中だ」 「ならばその神代とやらは、あの一件を調べていての、瓢箪から駒か」 先程、初めて詳細な事の経緯を聞かされたばかりの近藤の声に、驚きの色が混じった。 ――三田藩が甲冑等の武具を売り払い、最新式の銃を買い入れるとの噂は、諸大名の間に瞬く間に広がった。 が、其れはあくまで一藩の施策に基づくものであり、誰も何ら口出し出来るものでは無い。 しかし時が時だけに、幕府は眉根を寄せた。 しかも三田藩は、時勢の坩堝と化している、この京に近い。 そうなれば京都守護職を預かる会津藩としては、殊更警戒を強くするのは当然の成り行きだった。 会津よりの密命により、三田藩京都藩邸、そして武器弾薬の仲介をしている御用商人(あきんど)三門屋を極秘に探る内、その延長線上に、豊岡藩郡奉行神代卯之助が浮かび上がった。 そして今日、夜も名残の朝まだき。 三門屋の寮を見張り続けている監察方から齎された情報は、土方を舌打ちさせ、掌中で紙片を握り潰すような内容だった。 雨が滲んだ半紙半分程の大きさの紙には、三門屋の寮を牙城としている神代達の動きが活発になり、何処とは未だ不明ながらも、幕府の要塞となっている建物の襲撃を目論んでいるらしいと、細く几帳面な文字で記されていた。 「が、吉村達が集めてきた情報が確かならば、一刻も早くにその神代を捕らえなければならんだろう」 「奴らが何処に狙いをつけ、集めた武器弾薬を何処に隠し込んでいるのか・・。其れが分からん事には動きようが無い。しかも面倒な事に、奴はまだ豊岡藩藩士だ。迂闊には手を出せん」 返事のにべの無さは、其処に総司の存在が絡んでいるとまでは明かす事の出来無い、土方の憂鬱がさせたものだった。 「神代とやらは、脱藩をしているのでは無いのか?」 「奴の不正に気づいた豊岡藩は、其れを返上させた上で、粛清する腹だろう。藩から巻き上げた金で買った武器弾薬はどれも最新式だ。使わずとも、売ればそれなりに金になる。逼迫した財源の足しにするつもりだろう」 一藩の事情を、興も無さそうに語りながらも、何か他に気掛かりがあるのか、土方の横顔に憂いの翳が漂う。 「それはそうと・・、さっき総司に会った時に、あまり良い顔の色では無かったが・・」 その土方の裡を曇らせている訳を、あるいはと、推し量った近藤に、他所へ置かれていた双眸が、ゆっくりと巡らされた。 「待機させているのは、二番、三番、十番隊だ」 いらえは直截な言葉ではなかったが、しかし即座に返ったその早さが、己の勘が外れてはいなかった事を近藤に知らしめる。 ――総司の身に何か憂えるものがあるからこそ、この友はこれ程までに苛立っている。 それが土方と云う男を長年に渡り知る、近藤の確信だった。 そして又土方の其れは、同時に、近藤の心中にあった憂慮をも現実のものに変える。 「雨が、止むと良いが・・」 そうなれば全てが上手く行くのだと、そんな他愛も無い錯覚に、一瞬でも捉われた己の弱気を知られまいと、近藤は、その先を見据えるように、締め切った障子へと視線を向けた。 |