寒九の雨 (十)




 睦月の寒気は、井草が含んだ雨湿りまで氷の棘に変えてしまうのか、気だるさに負け、畳に横たわった途端、芯まで凍てつかせるような冷たさが身を強張らせ、次には、背から四肢の端までを、小刻みな震えが襲った。
しかも一度起こった其れは、両の腕で己が身をかき抱くようにしても、中々止まらない。
それどころか急に変えた体勢が悪かったのか、喉の奥深くを締め付けられるような感覚に息を詰めた寸座、今度はその煽りを受けた気孔が、塞がれるのを嫌がり、乾いた咳を間断なく押し出し始める。
 背を丸め、腰を折り、右手で口元を覆い音を殺して咽ぶ咳は、薄く開いているだけが精一杯の瞳に、水の膜を滲ませる。
が、果てがないと思った辛苦の時も、過ぎればそう長い事では無かったのかもしれない。
それでも肩でする息は、薄い胸を大きく上下させ、費やした力のどれ程かを物語る。

 その胸の振幅が次第に鎮まりを見せて来ると、総司は唇を覆っていた右手を持ち上げ、其れを目の前に翳した。
そして其処に、禍々しく浮く、鮮やかな朱(あけ)の色を見つけるや、かかげられていた手が、ぱさりと、力の無い音を立て畳に落ちた。
そのまま、暫し瞬きもせず空(くう)を見据えていたが、やがて寥々と沈む閑寂に、突き付けられた真実を葬り去るかのように、静かに瞳を閉じた。
しかし視界を闇に閉ざしたのも一瞬の事で、仰臥していた身が、突然、其れまでの緩慢な動きが嘘のような鋭敏さで、跳ね起きた。
――まだ床を軋ませる音すら聞こえぬ中にあって、近づいて来る者を、気配だけで捉え、身構えた面輪が強張る。
「おい、いるか?」
だが間を置かずして障子に映った影の主の声を聞くや、張り詰めていた神経は安堵に緩み、同時に、そんな中の事情など知らぬとばかりに、白い紙の帳が、勢い良く敷居を滑った。


「客だぜ」
使いに立ってくれたのは、永倉だった。
が、その顔が、座している総司を見下ろした途端、曇った。
「お前、顔の色が冴えないぜ」
「そんな事無い、きっと雨で暗いせいだ」
「・・ならば、良いがな」
ぎこちない笑みを浮かべた面輪を見る目は、其れだけでは得心出来ぬとばかりに、厳しい色を消そうとはしない。
「それよりも、永倉さん、私にお客さんと云うのは?」
僅かにも気を許した途端、偽りなど敢無く見透かされてしまいそうな、容赦の無い視線を他所へ振る声が、隠す真実の大きさの分だけ明るくなる。
「お前の忘れ物を届けに来た奴だ。何処ぞの料理屋の手代だと云っていたが、玄関じゃ、荒くれ男どもに度肝を抜かしても気の毒だと思い、賄い口で待たせてある」
「・・料理屋・・?」
「お前ひとりで入るって事は、まぁ無かろうから、誰かに馳走なった時だろう。存外、伊庭さん当りじゃねぇのか?」
総司に向けていた視線を、宙に遊ばせてながらの当て推量に、ひとり合点した双眸が満足げに細められた。
「・・八郎さん・・」
だがつられてその名を声にした寸座、記憶を辿る作業に俯いていた面輪が、不意に、ばね仕掛けの人形のように上げられ、深い色の瞳が永倉を捉えた。
「永倉さんっ、その人、賄い口で待って貰っているのですよね?」
「其処で待てと云ったが・・」
豹変と云っても良い、あまりの勢いに気圧され頷いた時には、脇をすり抜けた痩せた身が、廊下に飛び出た。

「おいっ」
叫ぶ声にも振り向かず走り出した背は、対して来る者を器用に避けながら、瞬く間に永倉の視界から消え行く。
その様に呆れた息をつきつつ、しかし永倉は、先程総司の面輪を見た瞬間、胸に蟠(わだかま)るように沈んだ重石を持て余し、軒下からはみ出た沓脱に当る雨が、滝にも似て地に流れる様を、鬱陶しげに見遣った。





 西本願寺の広い敷地の一角を借りて普請された屯所は、俄仕立てのものではあったが、賄いは大きく膨らんだ世帯の需要を満たすべく、それ相当に広い。
その土間を抜け勝手口へ出ると、其処から少し離れて立っていた相手の方が先に、総司の姿を見つけた。

「沖田さま」
視線が合うと、隅に小さく店の屋号を入れた番傘の下から、男は遠慮がちに声を掛けた。
「・・あなたは」
腰を屈めて頭を下げた姿には、確かに見覚えがあった。
「三門屋はんの寮の筋向かいにある、料理屋のもんです」
名乗る相手に、総司はいらえを返さず、蒼ざめた面輪の細い頤だけが小さく頷いた。
「沖田さまに、お言付を預かって参りました」
男は丁寧な身ごなしで、胸の袷から、小さく折り畳んだ紙を取り出した。
「これを渡して欲しいと、そう云わはりました」
渡した相手が誰がとは云わず、紙片が雨に濡れぬよう、差し出す手を傘で追いながら告げる口調には、事の詳細を教えられぬまま託された事への不安は無い。
関わればきりが無い、秘めた事情と背中合わせの商売は、全てを金で割りきる度量と機微を身につけなければ到底やっては行けない。
この男も、見合うと踏んだ金を受け取ったからこそ、巷の人間には疎まれる存在である新撰組にまで、やって来たのだろう。
だが今はそんな詮索よりも、書かれている内容を知る事が、総司にとって、何よりも優先すべき事柄だった。
 凍てついた指先が思うに動かないのに焦れながら、漸(ようよ)う開いた紙片を凝視する瞳に、最初に飛び込んで来たのは、姉小路通神明社との薄い文字だった。
そしてその横には、もう一行だけ、寒九の雨と――。
書いたのは岡島だと、即座に判じた瞳が、佇んでいる男へと向けられた。

「これを受け取ったのは、いつ頃の事でしょうか?」
「小半刻も経てはおりまへん」
「・・小半刻・・」
「店にお出でになるなり、これを貴方様へ、急ぎ持って行って欲しいと手渡されました」
「新撰組の沖田へと、その人は云ったのですか?」
「そう、仰りました」

――岡島は、自分が何者であるのかを疾うに知っていた。
否、神代の傘下にある立場から考えれば、最も警戒すべき新撰組の、主だった人間の顔を知らない訳が無かった。
だが今岡島は、己を、敢えて寒九の雨と記して来た。
其れはかの人が、神代とは違(たが)う方向へ走り出した、確たる証だった。
名指して来た場所は、此処からそう遠い距離では無い。
しかし託した時を遡れば、その間に起こり得る事態は憂慮して余り有る。
何より、己の懐に抱いたとは云え、脇との関わりから、常に岡島に対して疑いの目を向けていただろう神代は、脇の上洛によって、一層その監視を鋭くしている筈だった。
其れらを考慮すれば、昨日の一件とて、既に神代の知る処となっていても何ら不思議は無い。
悠長にしている間は、僅かにも無かった。

「雨の中を、ありがとうございました」
「滅相もございません」
全ての状況を一瞬の内に推し量り、急(せ)く心を隠して下げた頭(こうべ)に、丁寧ないらえが返る。
「ほな、私はこれで失礼致します」
伏せた目を会釈の代わりにすると、男は、今少し傘を低くし、後ろを向けた。
そしてその背が視界から消えぬ内に、総司も又、建物の内へ身を翻した。






 姉小路通は、二条城よりも僅かに南に位置し、都を東西に走る通りである。
距離から云えば、岡島の居留している三門屋の寮と、西本願寺の屯所からとでは、そう極端な差は無い。
だが屯所を出て直ぐの、西洞院川の岸を北へ上りながら、総司には焦らなければならない理由があった。

 姉小路通りの神明社と云われ、直ぐその場を思い起こせたのは、其れが二条城に近い神社だからだった。
京都守護職邸も、そう遠くは無い。
その意味合いもあり、辺りの地形は、持ち場では無くとも、新撰組の隊士であれば自ずと把握できている。
しかしそう云う環境だからこそ、神代達には、尤も警戒すべき範疇と云えた。
が、岡島は、敢えて其処を指定して来た。
其れは即ち、神代に追われた身を、嘗ては敵陣であった場に潜ませ、自分の助けを待っているのか――。

焦燥を、漸う抑えて行く道は、果てなど無いかの如く長い。
だが今此処で、着けている笠も蓑もかなぐり捨て、急(せ)く心のまま走り出してしまえば、体温は瞬く間に甚雨に霧散し、力の消耗は免れない。
そうなれば神代の襲撃を防ぎ、岡島を護る事が難しくなる。
我が身に残る体力を怜悧すぎる程に見定め、先を計る観測の正確さは、総司に与えられた、ひとつの天凛だった。
 苛立つ心を叱咤する自分と、ともすれば全てを押し退けて走り出してしまいそうな衝動に駆られる、もうひとりの自分とのせめぎ合いを繰り返しながら、泥濘に飛沫を上げ進める足が、徐々に速くなって行くのを、総司はもう止める事が出来なかった。


 
 水の流れに逆らい、ひたすら上って来た西彫院川は、蛸薬師通に突き当たり、突然、其処で終わる。
そして川の両岸だけが、西彫院通と云う名を残してひとつになり、六角通、三条通と交差し、やがて三つ目に交わる通りが、姉小路通だった。
四辻には津軽弘前藩の京屋敷があり、細い小路を隔てた東隣が、目指す神明社だった。
その津軽屋敷の白い塀が見えてきた処で、総司は顎紐に指をかけ笠を取り去ると、同時に、纏っていた蓑をかなぐり捨て、自由を縛る全ての重さから身を開放させるや、一気に地を蹴り走り出した。



 朱塗りの鳥居は然程大きくも無く、間口も狭いものだったが、社を成す地形自体は扇のように奥へ広がっているらしく、祠の後ろには、葉を落とした広葉樹が小さな雑木林を作っている。
その鳥居を躊躇う事く潜った刹那、向けられた殺気に、総司の神経が、触れれば膚を切る紙の鋭さの如く、緊張に張られる。
だが祠の前に、まるで獲物をおびき寄せる餌のように、無造作に放り出された人形(ひとがた)を捉えた寸座、深い色の瞳が、一瞬、大きく見開かれた。
泥濘の中に倒れているのが岡島だと、それだけは分かった。
が、其処に走り寄る事は叶わず、総司は直ぐに、己を取り巻き始めた者達に向き直らなければならなかった。

岡島を斬った名残か、抜き身に滴る血を、雨に洗わせている者が二人。
柄に手を掛け、今正に抜刀せんと構えている者が三人。
都合五人の敵が、行く手を阻み立ち塞がる。

その一番手前にいた男が、人を斬った昂ぶりが冷め遣らぬのか、勢いのまま、上段から仕掛けて来た。
しかし刀は振り下ろされる事無く、閃火とも見紛う銀の光が男の脇を掠めた時、雨が、飛沫も上げずふたつに割れた。
其れが一体何であったのか――。
男の足が蹈鞴(たたら)を踏み、次に徐に上半身が傾ぎ、そして其れを追って紅い飛沫が宙に舞う。
瞬くにも及ばない刹那の出来事が、凝視する者達の視界の中で、一枚毎、絵草紙をめくるように映し出されて行く。
が、敵に走ったその僅かな怯みを逃さず、総司は正面の男に向かう。
そして今度は、本来ならば難無く突ける隙を敢えて外し、激しい音を立て、自らの刀を相手の其れに合わせた。
ぎりぎりの処でせめぎ合う力比べは、総司の方が遥かに劣る。
だがその分の悪さも計り尽くした上のものであったのか、不意に身を沈めた動きの俊敏さは、目晦ましにあったかのような錯覚を相手に齎せ、屈強な体が二歩三歩後ろへ後ずさった。
しかしこの一見無駄にしか無い動きも、総司にとっては、ひとつの賭けであった。

自分に残されている力がどれ程かを知る事は、一番に見据えなければならない現実だった。
残り四人を倒し、岡島を救い出すには無理がある。
その無理を可能に変えるには、今自分が取ったこの策より道は無い。

荒くなってきた息を敵に悟らせまいと呼吸を詰めながら、思考は鋭い程に研ぎ澄まされて行く。
間を空けたまま、仕掛ける動きを見せないのを怯んだと見たか、再び勢いを得た敵のひとりが、白刃を繰り出す。
それを今一度、鋼の重なり合う甲高い音を立てて交わしながら、総司は己の振った賽の行方を天に乞う。


だが判別の時は、そう長くは掛からなかった。
二度目の残響が雨に消える間も無く、微かに、この場とは違う、ざわめいた気配が遠くで起こった。
その刹那、防戦一方だった総司の足が泥濘を跳ね、前を塞ぐ者の胴を払いざま、岡島へ向かって走り出した。
そして其れを追うように、険しい尖り声が上がる。
――激しく刀を合わせ放った音が、壁を隔てた津軽屋敷に不審の念を起こさせたのだと。
そう敵が判じる前に、総司は岡島に駆け寄り、身を屈めていた。
「岡島さんっ」
身じろぎしない者を呼ぶ、硬く、高い声が、隣家に緊迫の糸を張る。
そうなれば二人を倒された敵の動揺は、最早抑えきれるものでは無く、形勢の不利を見極めた首領とおぼしき男が顎をしゃくるや、浮き足立った者達は、木立の中へ身を翻した。
しかし総司も又、己の勝運を天の僥倖と受けとめる間は無く、動かぬ岡島の首筋に耳をつけ微かな血潮の流れを確かめると、泥に突っ伏していた体を横にした。
そのまま、力無く揺れ落ちた右腕を己の肩に回し、上半身を起こしかけた寸座、声にも及ばない低い呻きが、まだ紅も鮮やかな血糊が覆う口元から漏れた。

「岡島さんっ」
一重の紙にも足らぬ微かな息吹の兆候を聞き逃さず、二度目の呼びかけは、岡島の魂魄に響かせるように烈しく、そして強い。
更に身を寄せ、弛緩した体を下から持ち上げようとすると、其れまでがくりと垂れていた首が、微弱ではあるが、初めて、力のある動きを見せた。
「岡島さんっ、沖田です、分かりますか?」
耳元近くでの声に、空ろに回された眸に宿る光は弱く、胸部から脇腹までの傷は首筋までをも紅く染め、鋭利に裂かれた着物の上からも見ても、かなりの深さだと察せられる。
しかも血潮の流出は未だ止まらず、こうしている間にも、雨は土に巻く紅蓮の渦を押し広げて行く。
下手に動かせば、其処で息の緒を絶つ事にも成り得る深手だった。
だが逡巡している総司の肩に掛けられていた腕に、不意に力が籠められた。
その異変に、咄嗟に見上げた瞳に映ったのは、転がっていた抜き身を手繰り寄せ、握り締めた柄を支えに、荒い息を繰り返しながらも、前を睨み、自らの力で立ち上がろうとしている岡島の姿だった。
傷の痛みを堪えながら体を起こそうと踏ん張る分、掴まれた総司の肩には、その重みが、骨をも砕きそうに喰い込む。
しかしその痛みこそが、岡島が生きて此処に在ると云う証だった。
「・・脇さん・・の・・」
脇の処へと行くのだと、そう告げたいのだろうが、しかし傍らの総司に視線を向けないのは、もう其れを為し得る僅かな力も残っていないが故だった。
それでも鬼気の如き一念が、岡島を動かす。

――津軽屋敷から、幾多の足音が此方に走り来るのが聞こえて来る。
味方してくれた天は、今又返す刃で、容赦の無い断裁を下そうとしている。

総司は我が身を支えにし、渾身の力で岡島を立ち上がらせると、よろめく足を踏み出した。






 社は、夏場は鬱蒼と茂るであろう、雑木林を背負っている。
その、蜘蛛の巣の如く地から浮き出ている木の根に足を取られながら、少しも早く津軽屋敷から遠ざからんと、総司の心は焦れる。
 
 少し遠回りになるが、このまま南に下れば、来る時に岸を上って来た西彫院川に出る。
そして其処に、一艘の小さな舟があったのを、総司の網膜は強烈に焼付けていた。
それは屋根も無く、荷の上に莚が一枚被さっただけの粗末なものであったが、二人の人間を運ぶには充分過ぎる造りだった。
しかも幸いな事に、続く雨で川の水かさは増えており、流れに乗れば、西本願寺の屯所近くまで、そう時は掛からず着く事が出来るだろう。


「岡島さん・・、もう直ぐです。脇さんが待っている」
強(したた)か当る雨を片方の瞳を細めて遣り過ごしながら、肩にかかる人の身は、己の足諸共に沈み行くかのように重い。
が、その声が届いたのか、歩くと云うよりは、引き摺られるようにして進む岡島の面が、僅かに上げられたのが、気配で分かった。
「・・脇・・さん・・」
「そうです、脇さんが貴方を待っている。脇さんは貴方と、強い稲を作るのだと云っていた。飢えて苦しむ人達の為に、自分達はしなければならない事があるのだと云っていた。だからこんな処で、貴方を死なせはしない」
人の命を背負うて行く道の果ては、限りなく遠い。
だが例えそれが何処まで続こうと、歩みを止める事は出来ない。
「・・私は・・脇さんが・・」
そして岡島も又、総司の声の強さに応えるかのように、委ねていた身を少しずつ起こしながら、吐く息だけで、漸(ようよ)ういらえを返す。
「・・脇さんが・・、憎かった・・」
が、続けられた言葉の意外さに、一瞬深い色の瞳に驚愕の色が走ったが、しかし総司は岡島に其れを見せる事無く、前を見詰めたまま、無言で歩み続ける。

「・・私の家は僅かな禄高で・・いつも母は畑に出、・・父とて、城から下がれば、暗くなるまで百姓仕事に精を出していた。・・・武士など、聞いて呆れる貧乏だった。・・その父も流行り病であっけなく死に、私が家を継いで二年程した頃・・、目をかけて頂いていた脇さんのお父上が急逝し、あの人が中見役になられた・・」
振り返る過去は、岡島にとって決して懐かしいものでは無いのだろう。
苦しい息の下の声は、心の奥に蟠(わだかま)る暗鬱を吐き出すかのように、低く掠れる。

「・・貧しさから、斜めにばかり世の中を見るようになっていた私と違い、あの人は、・・いつも前を向き、どんな時にも真摯だった・・。民を護る為に、年貢を重くした藩の方針に、躊躇う事無く異を唱え、・・その為に咎を受けようが・・誹謗を浴びようが・・恐れること・・なく、自分の信念を貫こうとした。・・私は・・そんなあの人が、・・羨ましかった・・。真っ直ぐで・・怯む事を知ら無いあの人の強さが、羨ましくて・・妬ましくて、そして憎かった・・・同じ人として、生まれ・・だが、生まれた家禄が先を決めてしまう・・・私は、・・己の捻じ曲がった鬱憤を、脇さんを・・憎む事で・・正義としようとしたのです・・・・軽蔑・・、しますか・・」
薄く笑った声音の底には、暗い自嘲が澱む。
「もう喋ってはいけません」
だが傷を案じ諌める声は、岡島と云う人間の心に巣喰う闇を、包むように柔らかい。

「脇さんの・・お父上、脇助左衛門様が亡くなられたのは・・事故などでは無い。・・あの雨の夜、助左衛門様が何者かに川へ突き落とされたのを、私は見た。・・其れがお奉行の差し金によるものではと疑いを持ちつつ、私は、敢えてその疑惑に封をした・・」
真実を明かす、途切れ途切れの声は、ともすれば混濁する意識を奮い立たせるように、時折調子を強くする。
「・・お奉行の不正を薄々気づき始めていた助左衛門様は、・・その数日前、遂に確かな証を掴んだのです・・しかし時悪く、その前に、飢饉に喘ぐ村の者達が、国家老様へ、直に訴状を出してしまった・・。直訴状を見れば、藩の課した年貢と、取り立てられた年貢との間に、大きな差があるのが歴然としてしまう。・・その事を知ったお奉行は、直訴状がご家老様に渡る前に、密かに其れを手に入れ、助左衛門様に取引を申し出た。・・・どのような事情であれ、直訴は、打ち首です。・・・助左衛門様は村の者達の命を救う為に、・・お奉行の申し出を受け入れ、指示された場に出向き・・そして消された・・」
語りの途中で、肩で支えている身が、闇の淵に沈むかのように、一段重さを増した。
その、崩れかけた均整をどうにか持ち直しながら、ひとつずつ明かされて行く真実を、総司は、前に開ける道だけを見据え聞く。

「・・だがその時、お奉行は自らの・・不正の証を奪い返す事が出来なかった。・・・そして我が身の危急を察したお奉行は、その夜、藩を逃れ、この京へ来たのです・・。目的は・・、不正で得た金を高利で融通し・・己の傘下に入れた三田藩の藩士達を使い・・、京都守護職邸を襲撃する為・・・」
――突然の告白は、無言で聞き入る硬質な横顔を強張らせはしたが、先を踏みしめる足が止まる事は無い。
「・・お奉行は、焦っています・・・脇さんが握っている不正の証が暴かれれば、今までの主義主張も、奇麗事だけの偽りだったと知れてしまう。・・・そうなれば・・せっかく集めた兵が離れ・・守護職邸の襲撃も危うくなる・・だから少しも早くに・・」
吐く息だけで、漸う言葉を繋いでいた声が不意に途切れ、その瞬間、ぐらりと揺らいだ体の重さが、肩に、背に圧し掛かり、自らも共に倒れかけたのを、総司は、前に泳ぎかけた足に、限りの力を籠める事で凌いだ。
「岡島さんっ」
が、更に深く、岡島の下に潜るようにして身を支え名を叫んだ刹那、今度は総司自身の胸に、貫くような鋭い痛みが走った。
其れは無数の針が肺腑に突き立てられたかの如き激しいものだったが、総司は一瞬瞳を瞑り、次にゆっくりと息を吐くと、再び足を踏み出した。
だが岡島は、もう自ら歩こうとはしない。

「・・此れ・・を・・」
そしてその代わりのように、聞こえるか否か、雨の音にも敵わぬ声で総司を呼ぶ。
「・・脇さんが・・求めていた、村三役の・・連判状です・・」
大きく震える手で、胸の袷から取り出した油紙には、処どころに紅い染みが滲んでいた。
「・・お奉行・・いえ、神代卯之助から・・盗み出しました・・。貴方から・・渡して欲しかった・・私は・・脇さんの顔を見る事の出来ない・・卑怯な人間です・・」
向けられた深い色の瞳に自らを映し出しながら、苦しげに歪んでた面に、微かに、緩やかな笑みが浮かんだ。
が、その寸座、斬り落とされたかのように膝がすとんと折れ、今度こそ止められぬ勢いで、岡島の体が傾(かし)いだ。
そして其れに押し潰されるように、総司自身も又、泥濘に倒れこんだ。
「岡島さんっ」
その下からどうにか抜け出し身を起こすや、総司は、泥に指を蠢(うごめ)かす者の肩を揺すり、名を叫ぶ。
「・・・襲撃に使う武器弾薬は・・室町通と竹屋町通の辻に近い・・・三門屋の名で借りているしもた屋・・」

喉を振り絞るようにして漏れたのは、嗄れた呻き。
意識は、半ば現には無いのであろう、闇に塗られて行く視野の中で、一条の光を求めるかのように、両の眸が細められた。
だが其れも束の間の事で、泥にまみれた面から少しずつ苦悶の色が消え行き、それと同じくして、静かに瞼が下ろされ、最後まで定めに抗おうとしていた指が泥に沈んだ時、もう二度と、岡島は自分の声に応えはしないのだと、総司は知った。



 
 地を叩くような繁吹き雨は、生きる者にも、死せる者にも、分け隔て無く打ち付ける。
その天の惨さに挑むかの如く、総司は喉首を反らし、宙を見据えていたが、やがて地に動かぬ者を抱え起こすと、時をかけ、己の背に負うようにして立ち上がった。
岡島を、脇の元へ連れて行かねばならなかった。
自分はもう脇の顔を見ることは出来ないのだと、卑怯な人間なのだと、岡島は云った。
だがその言葉は、この連判状を自らの手で脇に渡す事が、岡島の希(のぞみ)であったのだと、総司には聞こえた。

――背にある温もりは、急速に失われて行く。
屍と化した者は自ら歩みを刻む事無く、地を引き摺られる足は、二本の紅い線を残す。
そして其れを、瞬く間に雨が流し去る。
あとひとつ。
あとひとつ角を曲がれば、其処に西彫院川が見えてくる筈だった。


「・・岡島さん・・、もうすぐ・・もうすぐです・・」
応えぬ者に掛ける声音が、胸を鷲掴みにされるような痛みで掠れる。
だが総司は己の足を妨げる其れに抗うように、前だけを凝視し、歩みを続ける。
やがて霞む視界が、揺れる一艘の小舟を捉えた時――。
総司の脳裏に、ひとりの人の姿が浮かんだ。

「・・土方さん・・」
呟いたその瞬間、死ぬなと、そう命じる声が、膚も肉も骨をも貫き、総司の核(さね)を、雷(いかずち)のように震わせた。
――死ぬなと、土方は云った。
だから自分は、まだ倒れる訳には行かない。
傍らに在る為に、必ずや土方の元に還らなければならない。

又一歩。
ともすれば薄れ行く意識を奮い立たせ、総司は最早知覚と云うものの無い足を、雨が、
ねず色に濁す道の先へと踏み出した。









事件簿の部屋  寒九の雨(十壱)