寒九の雨 (十壱)




 例えそれが、どのような状況下であれ、乱れると云う事を知らぬ足音が、真っ直ぐにこの室に向かって来るのを聞き分けた土方の手が止まった。
そのまま、筆を置きざまに立ち上がったのは、徐々に近づく軋みの中に、この者が滅多に見せない焦燥を、逸早く感じ取ったからだった。


「副長」
案の定、白い紙の向こうに膝をつくや、山崎は一呼吸も置かず、伺いを立てた。
「沖田さんが、戻られました」
言葉の終わらぬ内に、乱暴に開けられた障子が桟を滑り、勢い、柱に当たり撥ね返る。
其れをも顧みず、敷居際で見下ろす土方の険しい双眸を、山崎はしかと受け止めた。
「どう云う事だ」
問う声には、事態を把握出来無い、苛立ちがあった。

確かに、つい先程まで、神代の一件で近藤と共に局長室に籠もっていた。
だがそれは、一刻にも満たぬものだった。
その間に総司が屯所から出ていたと云うのは、土方にとって、今始めて知る事実だった。
――胸の裡に、抑え切れない、重く、暗い何かが垂れ込める。

「何処にいるっ」
硬い面差しで見上げている山崎を、促す声が焦れる。
「豊岡藩藩士、岡島新吉の亡骸と共に、土蔵に・・」
が、いらえは、突如として廊下に踏み出した身に阻まれ、その土方の背を、素早く立ち上がった山崎が追う。
「岡島新吉は死んでいるのか」
「事切れて、そう経ってはいません」
足の速い相手の後ろから、一定の間合いを取りながら応える声は、短いながらも端的な言葉だけを返す。
「花屋町通の舟着場に着いた処を、見番の隊士が見つけ、副長へと言付けを託されたそうです。・・その隊士が駆け込んで来た処を、偶然私が見つけ、先に沖田さんの元へ走りました」


 京と云う街は、大路小路が東西南北に碁盤の目のように走り、その中に、幾つかの小さな川が流れを作っている。
其れは時に、物資を流通させる運河のような役割を果たし、或いは染物の町では顔料を洗い流し、更に水に映る岸辺の風情は季節の移ろいを教え、いつの時も、人々の暮らしと密着して存在して来た。
だがこれらの川は、近年、時代の坩堝と化しているこの都に於いて、今又もうひとつ、迅速に目的地へ辿りつく為の、交通手段としての顔を有した。
 くだんの西彫院川は、屯所のある西本願寺と東本願寺との中央に位置し、京都守護職邸、二条城の手前を発端とする川だった。
そう云う事情から、新撰組も、屯所から最も近い川岸に見番を置き、この川の利便性を最大限に利用して来た。
今の山崎の言葉は、其れらの経緯を踏まえている。


「総司は」
一瞬と云う間に、届くか否か――。
それ程に僅かな乱れが、問う声を急がせた。
「田坂先生の元に、使いを走らせています」
だがいらえは、又も直截な言葉では返らなかった。
その寸座、決して歩を緩めなかった足が、床に縫いつけられるようにして止まった。
「酷く衰弱されているご様子です」
振り返るその時を待っていたかのように応える山崎を見据えながら、この者が、何故いつに無い焦りを隠さなかったのか、土方は漸く知り得た。
が、躊躇の時は刹那にも及ばず、一旦止まった足は、次の瞬間、床を踏み落とさんばかりの勢いで廊下を走り出した。





 屯所裏手にある土蔵は、降る雨に、まだ新しい漆喰の白すら鈍く濁し、ひっそりと影を沈めている。
 その引き戸の入り口まで、濡れるがままに足を走らせ、焦れる心そのままに息を乱し、漸く辿り着くや、切れの鋭い三白眼が、視界を邪魔する薄闇に苛立つように細められた。
 
――中央に置かれた筵(むしろ)を護るように、傍らに膝をつく人影がひとつ。
高い位置にある天窓は、今は一筋の光も落としはしない。
その代わりのように、床に置かれた蝋燭の火が、薄い背に、唯一陰影を作る。
やがて後ろの気配を察したか、ゆっくりと振り返った深い色の瞳が、歩み来る土方を捉えた。

だが土方が行き着くその前に、色を失くした唇が、微かに動いた。
「・・神代卯之助以下、不逞の者達が、守護職屋敷の襲撃を計画しています。・・その為の武器弾薬は、室町通と竹屋町通の辻に近い、三門屋の名で借りている、しもたや屋に隠されています」
語られた事柄は、一瞬、無言で見詰める双眸に、鋭い色を走らせた。
が、総司はそれだけを告げると、つと瞳を伏せ、土方の視線を、己の背で庇うようにしていた莚(むしろ)へ促した。
そしてその端を丁寧な所作で少しだけ捲ると、今一度、土方を見上げた。
「・・・岡島さんです」
其れに土方が頷くのを瞬きもせず瞳に刻むと、今度は骨ばった指が、濡れた袷から、幾重にも巻かれた油紙を取り出した。
「これを脇さんにと、岡島さんから預かりました。・・・脇さんや岡島さん達が見回っていた村の人達の、直訴状だそうです。・・神代卯之助は、最初は自らの不正を隠す為に、これを手に入れたそうです。けれど脇さんのお父上に、その証を掴まれてしまった神代は、交換条件として、この直訴状を利用しようとしたのです。・・直訴自体は、どんな理由があっても死罪を免れません。脇さんのお父上は、村の人達を救う為に、その条件を受け入れようとして殺されました。そして今度は脇さんが、神代との取引の為に上洛したのです」
応える事の無い者にいらえを求めるかのように、時折、総司の眼差しは莚の下に横たわる者に向けられる。
「・・だから・・っ・・」
「総司っ」
しかし続けられる筈の言葉が突然途切れ、その刹那、土方に向けられていた身が大きく傾ぎ、同時に、其れまでのしじまを乱暴に破る叫びが蔵の中に響き渡った。

ゆらりと、前のめりになった身が、岡島の亡骸の上に被さるように倒れこもうとするのを、咄嗟に伸ばした腕が直前で捉えた。
しかしその反動は、今度は土方の胸の中へ、総司を背から沈ませる。
「総司っ」
耳元近くで強く呼ぶ声が、現(うつつ)を離れかけた意識を引き止め、閉じられた瞳が薄く開いた。
が、戦慄くように震えた唇は、声を作ろうとして叶わず、一瞬、蒼白な面輪に苦悶の色が浮かんだ。
「山崎っ、田坂さんはまだかっ」
戸口で控えている者への怒号は、己の裡を不吉で喰い荒らそうとする、土方の、見えぬ敵への威嚇だった。
だが天はそんな強気を嘲笑うかのように、容赦の無い鞭を振るう。
胸に凭れていた背が、不意にくの字に折れるや、抱える土方をも揺り動かすような激しい咳が、総司を襲った。
「総司っ」
いだくようにしていた身を、更に深く胸の内に抱え込み叫ぶ声には、抑えようの無い畏怖が混じる。
しかしその闇を感じ取ったかのように、間断の無い咳の合間から、総司は残された力の限りで、土方を振り仰ごうとした。
だが振り下ろされた過酷な鞭はこれだけでは飽き足らず、身を捩ったその刹那、この時を待っていたかのように、肺腑を圧し潰されるが如き衝撃が総司の息を止め、そして中で砕け散った塊は、瞬く間に喉を遡り、案ずるなと言葉を紡ぐ為に開きかけた唇から、止める間も無く熱い何かが流れ落ちた。
其れが血だと。
そう判じるよりも早く、深い色の瞳は、自分を凝視している双眸が、驚愕に見開かれるのを映し出していた。
そして次の瞬間、骨ばった手指が、土方の視線から、溢れ出る朱(あけ)の塊を隠すように口元へ宛がわれかけたが、その動きは、手首を掴まれた強い力によって阻まれた。
血潮の逆流は、薄い背が大きく隆起する度、唇から零れ落ち、そして総司の首筋、喉元へと伝い、更に土方の腕までをも鮮烈な紅に染めて行く。


――眼(まなこ)に刻み付けたものは、実際よりも少ない量の血だったのかもしれない。
経たと思った時は、遥かに短い間の出来事であったのかもしれない。
山崎が瞬時に身を翻し、土蔵を出て行ったのも知っている。
苦しげに波打っていた背が、少しずつ鎮まりを見せているのも分かる。
が、其処まで判別出来ていながら、土方には愛しい者の名を呼び続ける己の声が、現で無い、何処か遠いものに聞こえる。


「総司っ」
しかし虚空に響くだけだった幾度目かの声に、蒼紫の血管(ちくだ)を透かせた、貝殻の裏のような瞼が微かに動いた。
「総司っ」
その、あまりに儚い兆しを逃さんと、己の声が昂ぶり掠れ、抱く腕に力が籠もるのすら土方は知らない。
ぼんやりと空ろに泳いでいる視線が、何を探しているのか――。
「ここだ、俺は此処にいる」
探しているのは自分であると断じて呼ぶ声は、死ぬなと、猛り狂う慟哭だった。
そしてその声を導(しるべ)とするように、掴まれたまま、力なく折れていた手首が微かに動き、指先が震えた。
其の動きを、瞬く事も忘れた双眸が息を詰め凝視していたが、彷徨う指が何を探しているのかを知ると、土方は血に彩られた指を握り締め、己の頬に当てた。
時折、忘れたように起こる小さな咳は、その度に、新たな鮮血を零れさせる。
だが土方の頬に触れるや、今度は何かを紡ごうと、総司は唇を動かす。
其れを食い入るように見ていた土方だったが、やがて己に伝えようとする想い人の言葉を判じた瞬間、その核(さね)にうねる想いが、怒涛の如く迸った。

――死にはしないと、総司は云った。
死ぬなと、己が裡で上げた悲愴の声を聞き分け、唇の微かな動きだけで、総司は応えた。
頬に触れている指は凍て、人の温もりはない。
だが其れを握り締める掌に籠める力は強く、猛る想いを抑える術など、最早知りはしない。

「・・死ぬな」
憚る事無く、腕にある身をかき抱き、生きて必ずや傍らにいろと、振り絞るように命じた声が掠れた。






 まだ日が落ちるには間があると云うのに、やまぬ銀の糸は、地にある色の一切を、紗の帳の向こうの、ぼんやりとした影に変えてしまう。
こんな処に土蔵があったのかと・・・
手前で足を止め、雨に浮き立つ土の壁を、八郎は暫し見詰めていたが、怪訝そうな視線を向ける見張りの者に気づくと、ゆっくりと、止めていた足を踏み出した。


「伊庭さんでしたか」
見知らぬ人間の出現に、俄かに張られた外の緊張を察したか、出てきたのは山崎だった。
「脇さんに会いたいが・・、邪魔かえ?」
「いえ」
八郎が此処に来る事は、大方予測していたのか、山崎は静かに頭を下げると、身を斜めにし、入り口を開けた。
が、事の次第が分からぬ隊士は戸惑いを隠せず、ただ二人を見比べる。
其れに山崎は、目線だけでこの場を去るよう促した。
更にその者の姿が見えなくなると、山崎自身も又土蔵の外に出、短い階(きざはし)を下りた。
その一連の動きが、これから交わされる会話を邪魔せぬ配慮と判じるや、八郎は、雨湿りを吸った壁が、一層の黴臭ささを、冷気に混じらせる蔵の床を踏んだ。


 薄暗い中央に延べられた莚の際(きわ)に、ひとつだけ灯された蝋燭の火が、身じろぎもせず座す人の影を揺らす。

「・・沖田さんは、大丈夫なのでしょうか」
後ろに来たの者を確かめもせず、友の亡骸を見詰めたまま問う声が、返るいらえに怯む心を叱咤するかのように硬かった。
「田坂さんが、診ている」
その脇に応えながら、八郎の視線は、床の一点に釘付けられている。

――拭き取られた後に残った僅かな血痕が、想い人の命脈を削り出来たものならば、佇む背には戦慄が走る。

「・・沖田さんが病を抱えている事など、少しも察する事が出来ませんでした・・私は、いつも自分の事しか考えていなかった」
漸く振り向いた面には、限りない悔恨と、己への、尽きぬ憤りがある。
「あいつが、知られたくはなかったのさ」
出来る事ならば、己に巣食う宿痾を、秘して通したかったのであろう総司の心を語りながら、八郎の脳裏に、一度も開かれる事がなかった瞳と、ひと滴(しずく)の血の色すら見つけられなかった蒼白な面輪が蘇る。


案ずるなと、田坂は云わなかった。
終始、厳しい医師の横顔だけを見せていた。
そして土方も又、一時たりとも視線を動かす事無く病人を見守っていた。
だがその双眸の中に強い光があるのを、八郎は見逃さなかった。
総司は必ずや己の腕(かいな)に戻ってくるのだと――。
その土方の信念の核(さね)を成しているのが、ふたつ身で、ひとつの魂を持つ者達だけに授けられる絆であると見せ付けられた時、八郎の裡を、嫉妬と云うには遠く及ばない、情炎の焔が燃え盛った。
だがもしも。
もしもその絆が、闇に留まる想い人を目覚めさせてくれるのならば、例え其れが妬心の糸を撚って編んだ縄手であろうと、縋れと投げる心に躊躇いは無い。
恋敵の手だけが、唯一総司が探し求める標(しるべ)であるのならば、少しも早くその燐光を見つけよと願う己を、笑いはしない。
閉ざされた瞼が開き、覗いた瞳が己を映し出すまで――。
今は嫉妬ですら、烈しい恋情の糧にしかなりはしない。
それでも消したつもりの悋気は、ひそかに燻り、胸の裡を焦がし続ける。

「あいつは、大丈夫だ」
その業の深さから目を逸らせ、漏れた呟きが、凍えた気を静かに揺らした。


「・・私は岡島を追い詰め、挙句殺してしまいました。いえ、私はもしかしたらこうなる事が、分かっていたのかもしれません・・」
八郎の胸の裡を知る筈もなく、人の厚みを盛らせた莚を見詰めたまま、脇は続ける。
「・・私は岡島と共に仕事をしながら、いつの時も、消せぬ黒い靄(もや)のようなものを抱えていました」
「それはこの人に、神代との繋がりに絡む疑いを捨てきれなかったからかえ」
「いえ、嫉妬です」
促す声に、いらえは意外な言葉となって返って来た。
が、八郎は驚く素振りを見せるでも無く、腕組みをした背を壁に預けると、無言を決め、その先が語り始められるのを待つ。
「私は岡島に敵うものを、何ひとつ持ってはいなかった。実践の仕事に、禄高の差など関係ありません。いえ、いっそ私と岡島が逆の立場ならば、私は素直に岡島から学び尊ぶ事が出来たのかもしれません」
心の裡を、訥々と伝える調子は、乱れる事がない。
だが其れこそが、脇が必死に己を律している証なのだと、八郎は判じた。
「岡島を説得し、そして戻った時。・・果たして今までと変わりなく、私は冷静を装う事が出来るのか・・、常に考えていた事です。だがそうしなければならなかった。岡島に出来る事が、私には出来ない。ならば、例え心の奥底にどす黒い澱みを持とうが、嫉妬に塗(まみ)れ様が、私は岡島に縋る他なかった。そして私は、そう云う道を選んだ。・・その事に、悔いはありません」
物云わぬ者を包む藁の蓋(おおい)から離した双眸を、背後の八郎に向けた時、硬い面にぎこちない笑みが浮かんだ。

「伊庭さんに、頼みがあります。この・・」
己の右手に視線を落とし、そして再び八郎を見上げた時、もう其処に笑みは無かった。
「連判状を取り戻す為に、私は上洛しました。・・・確かに、藩は逼迫した財政の建て直しの為、年を追うごとに、年貢の取立てを厳しくして行きました。ですが其れは、米の取れ具合と調整の上での事です。が、神代は藩には分からない極限で、必要以上の年貢を搾取していたのです。しかし昨年は嵐や霜の被害に見舞われ、稲は大きな打撃を受けました。・・・この連判状は、今のままでは村が壊滅してしまうと追い詰められた者達が、その惨状を、直にご家老様に訴えたものです。そして其れを知った神代は、此れにより、己の不正が暴かれ事を恐れ、連判状を握り潰すべく密かに入手しました。更に神代は、直訴状を盾に、父が掴んだ証との交換を申し出たのです。・・父は、直訴した村の者達の命を救う為に、其れを受け入れ、殺されました。そして今度は私が、神代の出した条件に応じたのです」

長い語りは、その先に据えた決意への、単なる経緯(いきさつ)に過ぎない。
脇が握る直訴状の巻かれた油紙には、処々に、錆色に変色しつつある滲みがある。
其れは人の内に流れる血潮が残した、紅の輪だった。

「中に、村の者達の直訴状が入っています。連ねた名の下に押された血判は、その者達の命。そして其れを護る紙に染みた血は、岡島と沖田さんのものです」
その一瞬、端整な面を険しくする翳りが走ったのを、直訴状に視線を止めている脇は知らない。
そして見詰めていた其れから目を離すと、脇は壁際に立つ八郎に、体ごと向き直った。
「伊庭殿に、私の介錯をお願いしたいのです」
「介錯・・?」
僅かに細められた双眸と、繰り返した低い声に、脇は頷く。

「今、藩の江戸家老であられる、丹羽昌右衛門様が、師と仰がれる相国寺の雲玄禅師様に教えを乞う為、この京に来ておられます。丹羽様は殿の信頼も厚く、その力量と機知で幾度か藩の窮地を救って来られたお方。此度(こたび)の上洛は、神代に関わるが故のものと、私は推測しています。ならば丹羽様に全ての真相を明らかにし、村の者達が瀕している窮状を訴えます」
「あんたが、直訴すると云うのかえ」
空(くう)を鳴らす声が、敷かれたしじまに重く消え行く。
「米を作るに、百姓も武士もありません。なれば、武士とて直訴は死罪。・・生憎私の腕では、見事腹を掻っ捌くとまでは行かぬでしょう。見苦しい真似を晒すその前に、貴方にこの首を打って頂きたい」
云い終えて、穏やかに浮かべられた笑みは、静かな語り口と同じように、決めた意志の固さを八郎に知らしめる。
「あんたはそれでいいのかもしれない。が、それでは稲の改良は誰がやる。その為に、あんたはあれ程、この人に執着したのではないのかえ」
「神代に着いて行く岡島を止めた時、これから先は、武士も百姓もなくなる。そんな境の無い時代が来るのだと云われました。貧しい者も富んだ者も、皆が等しく暮らせる、そう云う世を創るが為に藩を出、神代について行くのだと岡島は云いました」
筵の下に眠る者に語りかける声は、外に降る雨が、地に染み入るその閑寂さすら邪魔するものでは無い。
「確かに、いつかはそう云う時代がやって来るのかもしれません。ですがその日を待っている暇(いとま)が、もう無いのです。今私が出来る唯一は、この身で、村の窮状を訴え、その凄惨な姿を、上の方々に知って貰う事なのです。今を越えなければ、将来(さき)は有り得ません。今民を救わなければ、そのような将来など、私たちの郷にやっては来ないのです」
「己の身で、今と先を繋ごうと云うのか」
「そのように立派なものではありません。血判を押した者達は、村を護る為に、身を挺しようとしました。そしてその者達を岡島は護り、更に岡島を、沖田さんは護ってくれようとしました。・・・今度は私が、護る番なのです」
静かな声音ではあったが、追い詰められ、崖の淵に立たされた者が、最後の抗いに身を転じるかの如き苛烈さを秘めた双眸が、八郎を捉えた。

「伊庭殿に、介錯をお願いしたい」
――油紙で包まれた連判状を前に、脇が、ゆっくりと頭(こうべ)を下げた。
その、貫くと決めた決意の強さが、この者が本来持つ技量を遥かに凌ぎ、見詰める八郎の目に、人物を大きく映し出した。






 音もさせず滑らせた唐紙が、身ひとつ分だけ開けられたのを、衝立の向こうの者達は察した筈だった。
だが延べられた床の傍らに座す田坂も、それと対峙するように動かぬ土方も、ちらりとも視線を向けようとはしない。
それは即ち、病人の状態に、変化の兆しが見られない証でもあった。

 瞳を閉じた白い面輪は、細い線の縁取りの中に、丁寧に細工された造作を行儀良く並べている。
だがこんな風に血の気を失くし蒼を強くすると、元々が、出来すぎたが故の硬質さを有しているだけに、まるで息せぬ作りもののような錯覚を呼び起こす。
或いはこのまま二度と、瞼は開かれる事が無いのではと――。
ふと脳裏を過ぎった不吉な思いを打ち捨てるかのように、細い息を繰り返す想い人に眸を向けた時、突然、土方の身が、一瞬にも足らぬ素早さで動き、八郎の視界を邪魔した。
そして同時に、田坂も又、峻厳な横顔を更に厳しくした。

 薄っすらと開かれた瞼から覗いた瞳は、まだ意識の大方は夢寐にあるのか、何処にも焦点を合わせようとしない。
「総司」
そして土方の声も、その覚醒を急がせるものでは無い。
だが総司自身は、無意識の中にあって現(うつつ)に置き忘れた何かを求めるかのように、力の無い視線を宙に浮かせている。
「連判状は、脇太一郎に渡した」
土方の伝えた其れが、総司の欲していたいらえだったのか否か、其処にいる誰もが確信を持てた訳では無い。
「脇に、渡した」
だが再び耳元近くで告げた時、ただぼんやりと、無機質にものを映し出していた瞳が微かに揺れ、そして次に、再び闇の安息に戻るかのように、瞼は静かに閉ざされた。

其れを見届けても土方は、今一度、確かな僥倖の兆しを求めるように、暫し病人の面輪に視線と留めていたが、やがて田坂に向かい頭(こうべ)を深くした。
「頼む」
短い一言だった。
しかし其の一言に籠められた想いの丈を、頷くだけで受け止めたのは、医師として、一時の油断もならぬ患者を診る厳しさ故か、それとも想い人と恋敵との解けぬ絆を、つぶさにこの眼(まなこ)に刻まざるを得なかった妬心故か・・・
そのどちらともつかぬ己の裡を、眠りにある者を凝視する横顔に隠し、田坂は音もさせず立ち上がった土方と、そしてそれに続く八郎の背を、視線を向ける事無く送った。






「脇太一郎に、介錯を頼まれた」 
直前まで、全てを静寂に葬っていた男が、今、板張りの冷たさすら烈しい熱に変えてしまいそうに、速く、そして強く廊下を行く後ろから、八郎が声を掛けた。
「引き受けたのか」
「受けた」
背中で問う声に、いらえは即座に返る。
「今京に来ている豊岡藩江戸家老に、直訴するそうだ」
「村の窮状と神代の不正を訴えた後、直訴の責を取り腹を切ると云う訳か」
「だが豊岡藩も、そう甘くは無いだろう」
歩みを緩めるどころか、むしろ更に速くなって行く土方の後ろから、八郎はずいと身を出すと、今度は横に並び立ち、廊下を行く。

「何処ぞを襲うのか知らんが、神代の企みは、新撰組がどうにかすりゃいい事だ。が、其処に集めてある武器弾薬は、この騒がしい時勢じゃ、どの藩でも垂涎ものの代物だ。無論、新撰組とてその例外ではなかろうがな」
仏頂面を崩さない相手に、ちらりと視線を向けて片方の口角を上げたのは、漸く戻った八郎の余裕だった。
「だとしたら、豊岡藩とて同じ事だ。増してそれらを買い求めた金の出所は、元々が己の藩の財源だ。神代から取り返そうとするに、何の遠慮も無い。その証に、奴の席は未だ豊岡藩にある。捕らえ、口を割らせ、宝を取り返した上で断罪しようとの腹だろう。だがそうなれば、困窮した民には何も施しは無い。銃や大砲では、飢えは凌げん。・・脇さんの訴えが、藩に聞き届けられる事は無かろう」
横顔だけを見せ、いらえを返さない相手に、八郎も視線を向ける事無く、漏れる息だけが、透いた気を白く濁らせる。
「豊岡藩江戸家老丹羽昌右衛門は、今相国寺に滞在している。あと半刻の後、脇太一郎と俺は、此処を出る。脇太一郎の直訴、生かすも殺すも、後はあんた次第だ」
 

 前を見据えたまま、交わることの無い視線、共に譲らぬ歩調、突きつけた挑戦と、受けねばならない矜持。
それ以上を、問わず語らずの沈黙が、ひとえふたえに、静謐を重くする。
その隙を、寂として降る雨が、しのびやかに音を寄せて来た。









事件簿の部屋  寒九の雨(十弐)