寒九の雨 (十弐)




 局長室に足を踏み入れた途端、土方の双眸が訝しげに細められた。
そしてその土方に、ちらりと視線を移しはしたが、近藤は胴巻きの紐を縛る手を止めようとはしない。
大仰な身づくろいが、何を意図しているのか――。
瞬時に、土方は其れを察した。
しかし問う言葉が出てこない。
「神代の捕縛には、俺が行く」
その土方の沈黙に焦れたか、紐を結ぶ無骨な指に目を落としながら、先に口を開いたのは近藤だった。

「神代が三門屋の名で借りていた隠れ家は、守護職邸から五町も離れてはいない、室町通りにあった」
語られる確かな探索結果は、室の隅で控えている山崎等監察方が、総司が岡島から教えられた情報に基づき、機敏に働き得たものだった。
「お前は相国寺に用があるだろう?」
やがて具足を巻きつけ終えると、近藤は漸く剛毅な笑い顔を向けた。
「総司が命を張って掴んだ企みは、この俺がきっと阻む。だが其処に何を隠してあるかまでは、俺は知らん」
近藤の云わんとしている事柄は即ち、神代から押収する武器弾薬の処分を、土方に一任すると云うものであった。
「それで、あんたはいいのか」
問う調子は、いつもながらに素っ気無いものだったが、しかしその核に、常に勝気を崩さないこの男にしては珍しい遠慮があった。

「脇とやら、伊庭君に云ったそうだ。百姓も武士も無くなる世がいつか来る。が、それも、今を越えなければやっては来ない。望外な希を抱くその前に、飢える者達を救わなければ、今と先とは結べないと、そう云ったのだそうだ。・・どんなに過酷な現実でも、先への道標と胸に刻み、越えて行かねばならぬと向き直るその強さに、総司は惹かれたのかもしれんな」
訥々と語られる言葉は、山崎から伝え聞いた話を、近藤なりに咀嚼し、未だ深い眠りにある者の心に重ね合わせたものだった。
「俺は武士になりたかった。そうして、なった。だが武士が武士たる所以は、あくまで精神の問題だと思っている。飛び道具に頼るのが悪いとは思わぬ。が、生憎、俺には刀の方が向いているらしい。そう云うわけだ。見つけた物に関しては、一応の押収はするが、後の裁量はお前に任せる」
「すまん」
短い一言に、いらえは豪放な笑い声となって返った。
しかし近藤は直ぐに其れを空(くう)に収めると、立ち上がりざま、自らの手で障子を開けた。

「出陣の準備は」
「各隊、局長の命を待っております」
修羅場に向かう長としての厳然たる顔(かんばせ)に、山崎の、静かだが良く通る声が、臨戦態勢にある緊張を伝える。
「如何に最新式の武器とは云え、湿り気のある内は、その威力も用を成さん。俺が神代を捕縛し、お前が相国寺で全てを終わらせる頃には、この雨も上がるだろう」
そしてその時が、眠りにある病人の目覚めと重なるのだとの希(のぞみ)を託し、近藤は天を睨み上げたが、それも一瞬の事で、肩の盛り上がった頑健な背は、己が指揮する戦場(いくさば)へと足を踏み出した。

「山崎」
そしてその後姿を最後まで見送る事無く、土方は鋭い一瞥を室の隅へくれた。
「豊岡藩江戸家老、丹羽昌右衛門に会う」
云い放つや翻した身を、すぐさま山崎が追う。

――八郎は、半刻後に脇と共にこの屯所を出ると、時を限った。
其れは、その間に丹羽昌右衛門に会い、脇の本懐の成就を計らえと、暗に告げるものだった。
そしてその事は、総司の希(のぞみ)とも重なる。
否、それを叶えるが為に、必ずや丹羽との勝負に勝利しなければならない。
細めた双眸の先に、見えぬ相手がいる。

「急げっ」
後ろへ向けた尖り声は、土方の、焦燥と昂ぶりの迸りだった。






 萬年山相国承天禅寺。
足利義満により創建されたこの寺は、夢窓疎石を開山第一世とし、京都五山第二位の名刹として、豊臣秀吉ら数多(あまた)の武将の庇護を受けて来た大禅寺である。
その、広大な寺領の一角。
方堂よりも奥手に並ぶ最も大きな塔頭の、固く閉じられた門扉の正面に端座し、降りかかる雨にも目を細めず、前ついた手が泥濘に埋もれるのも構わず、厳かな静謐を破る脇の声は途切れる事が無い。
そしてその暴挙を取り押さえるべく、数人の侍が周りを囲んでいるが、これは脇の後ろに立ちはだかる八郎に威圧され、一歩も動けずにいる。

「豊岡藩中見役、脇太一郎清衡っ、ご家老様に申し上げたき義あり参上致しましたっ。この数年の飢饉で、村の者達の暮らしは困窮を極めておりますっ、このままでは息絶えるのを待つばかりっ。元より、我が身のご処分は覚悟の上っ。何卒、何卒っ、村の惨状をお聞き届け願いたくっ・・」
叫ぶ声は、必死で、必死が過ぎて、いくつにも割れ、酷く聞きづらい。
だが丹羽昌右衛門に見(まみ)える、その事しか念頭に無い今の脇には、それすら分からないのだろう。

 その声を背中で聞きながら、しかし八郎の思考は、今この建物の奥で、かの人物と対峙している筈の、恋敵の勝負の行方へと向けられていた。






 本来、禅宗の建築は畳を敷かず、尚且つ天井も張らずに構造材をそのまま見せる、禅宗様と呼ばれる建築法が用いられている。
が、此処が人の寝起きする場であるからか、この塔頭自体に限れば、他の寺社仏閣に比べ、造りにそう大した違いは見当たらない。
その一番奥まった一室で、今土方は、己の前に座す、まだ初老と云うには些か早い感のある、武張った面構えに双眸を据えている。

 降る雨が、蕭々(しょうしょう)と地に沈む静寂の中、遠方から聞こえて来る掠れた叫びだけが、音を成す唯一だった。


 豊岡藩江戸家老丹羽昌右衛門は、先程から対峙するかのように、土方を睨みつけ沈黙を出ない。
そうして、幾ばくか時を経ていたが、やがて繰り出される白刃にも似た鋭い視線は、己の口が開くまで逸らされる事は無いと知ると、ふと、腹に籠めていた気を抜くように、短い息を吐いた。

「確かに・・、元郡奉行神代卯之助が藩の命と偽り、過剰な年貢を取りたてていたと云う件に関しては、目下探索中だ。それ故、神代を捕らえ、その事実を確かめるまでは、当藩藩士とし、席を抜いてはおらん。だがそれ以上に関しては、当藩では与(あずか)り知らぬ事」
己が発っする一言に、綻びを見出す隙を与えぬよう、選ばれた言葉は殊更ゆっくりと告げられる。
「ほう・・、ご存知無いと云われますか」
だが土方は、その警戒を逆手に取るかのように、片方の唇の端だけを上げ、笑みの形を作った。
「神代が不正で得た金を、最新式の武器弾薬に変え、更に残った金を、折りからスナイドル銃を持つことを強制された、三田藩の藩士達に高利で貸していた事実を、・・丹羽殿は一切ご存知無いと、そう云われますか」
静かに滑り始めた語りは、丹羽の面に表れる変化を隈なく見据えながら、次第にその勢いを強くし、やがて鋭くいらえを迫るようにして、言葉を終わらせた。
「知らぬ」
が、返った其れは、短くも断固とした一言だった。
「神代が為した不正の詳細は、当人を捕らえて後、これから聞き出さねばならぬ事。だが当藩に齎されている事柄は、それ以上一切無い」
出方を探るように細めた双眸に土方を映しながら、丹羽は護りの姿勢を崩さない。

――神代が揃えた短筒の中には、大藩であっても入手するに困難な、最新式のものが含まれている。
今は徳川の治世と、誰もが憚りなく口にするが、しかしその実、徐々に移り変わろうとしている時勢の動きに、どの藩も敏感になっている。
例えそれが一万五千石の小藩と云えど、その例外ではない。
否、小さな藩だからこそ、どのような混迷にも巻き込まれない、鉄壁な砦を欲しがっている。
国を護ろうとするが故の、丹羽の意志は固い。


暫し。
守る者と攻める者との、無言の矛の交わし合いが続いたが、つと兆した外の気配に、素早く土方が立ち上がり、人ひとり分程、障子を開けた。
その、待っていたかのような躊躇いの無い動きに、丹羽の視線がちらりと走った。
が、広い背が邪魔をし、廊下に跪いている山崎の姿までは分からない。
 
 僅かな隙から見える中庭は、夕間暮れが近いこの頃合であっても、先程よりは数段明るく、糸のような霧雨はじき上がるだろうと予想させる。
だが外が開かれたと同時に、打ち寄せる波の如く、再び近くなったしゃがれ声を、丹羽は、一度目を瞑ると己の思考から切り捨てた。
その動きが伝わった訳でも無いのだろうが、背を見せていた土方が、静かに障子の桟を合わせ、元の座に戻った。


「室町通にある商家の寮に潜んでいた、神代卯之助以下十数名の不逞浪士を、新撰組が捕縛したとの知らせが来ました」
一瞬、丹羽の面が強張り、何かを云いかけたが、土方はその間を与えず続ける。
「本来ならば神代は豊岡藩藩士、不正の一件もあり、丹羽殿へ引き渡すのが筋でしょうが、当人の自白により、蓄えていた武器弾薬は、京都守護職邸襲撃の為のものと、判明しました。さすれば、既に事は一藩の事情を越えております。いえ、神代が集めた武器弾薬と、企てし襲撃計画、そしてかの者を、未だ藩席に置いていると云う事実を照らし合わせれば、豊岡藩そのものが、謀反に係わったとの疑惑は免れぬでしょうな」
先回りされた神代の捕縛に揺らぎ、そして今、思いもかけぬ事の成り行きに、横に張った口元が、固く引き締まる。
「豊岡藩は神代を通し、幕府に抗うが為の準備として武器弾薬を入手していたと、・・そのように取られても、最早、致し方無いでしょうな」
「何をっ、根も葉もない戯言を・・」
あまりに強引な理由付けの念押しに、丹羽の方頬が皮肉に歪んだ。
「戯言と、云われるか」
「他に何と云う」
「ならば今新撰組が押さえている武器弾薬、此れを貴藩は如何なさるおつもりか。過日、三田藩に於き、五十石以上の藩士全員にスナイドル銃の携帯が強要され、他意は無いと云え、時期が時期だけに、幕府はこのような話に神経を尖らせました。されば此度(こたび)の一件も、直ぐに巷の噂となりましょう。丹羽殿ともあろうお方が、それを承知で、みすみす疑いの種を藩の蔵に眠らせるとは思えませぬが・・」
「どう云う事だ」
含みをおびた語り口と、射竦めるような視線に捉えられ、此れが駆け引きなのだと漸く気付いた丹羽の双眸が、ゆっくりと細められた。

「どうやら・・、わしは脅かされているらしいな」
だが話の筋がどのような方向に走り出そうが、辿る道筋さえ承知しておけば、丹羽にも余裕が生まれる。
返ったいらえに、初めて苦い笑いが籠もった。
「回りくどい云い方をせず、直截に申すが良い」
「ならば、申し上げます。神代が集めし武器弾薬、新撰組にお譲り頂きたい」
「新撰組に・・?」
予想外の申し出に、白いものが混じる、太い眉が寄った。
「只(ただ)でとは申しません。これ等の武器は、神代が貴藩に多大な損失をさせて集めたもの。されば丹羽殿も、このまま事を仕舞いにする訳には行かぬでしょう」
「その損失を、新撰組が払ってくれると云うのか」
歪めた方頬に浮かべられた笑みには、追い込まれ、最早開き直る他ない、我が身への自嘲があった。
「左様。但しその代価は金ではなく、米と引き換えと、ご了承頂きたい」
「・・米?」
肝が据われば、この男が持つ本来の豪放さが頭をもたげて来たのか、土方の言葉に、今度は低い笑い声が漏れた。
「如何にも。元々これらの武器を買うに当って神代が工面した金は、貴藩の年貢米を民百姓から過剰に摂取し、己が懐にしたもの。されば返すのが米であっても、何ら不思議は無い筈」
感情と云うものの、微かにも見せぬ顔(かんばせ)の主は、声の調子ひとつ変えるでも無く、淡々と強引な取引を迫る。

「京都守護職邸の襲撃を企てていた豊岡藩藩士を、新撰組が捕らえ、その目論見を阻止した。だが豊岡藩は一切を知らず、寝耳に水の話にひたすら驚愕した。そして見事企みを食い止めた新撰組に礼として、その不埒な輩が集めた武器弾薬を贈りたいと申し出る。が、それらを買い求めていた金が、実は藩の財源を横領して得たものだと知った新撰組は、受け取るに忍びず、飢饉に瀕し困窮している豊岡藩に、代価として米を贈る。
此れで、自ら武器を手放し、尚且つ、京の治安を与る新撰組に役立てるよう、其れを贈った貴藩に、幕府は疑いの目を向ける事は無くなりましょう。・・・中々の、美談だと思いますが」
云い終えて、初めて土方の面に浮かんだ笑みは、其れがあまりに整いすぎた造作の上に出来たもの故に、むしろ冷酷に、是か否か、二者択一の際へと相手を追い詰める。
だが飢饉と云ったその時、固く口を閉ざしていた丹羽の横顔に、一瞬翳りが射したのを、土方は見逃さなかった。
丹羽に向けていた視線を逸らせると、今一度土方は立ち上がり、細く障子を開けた。
その寸座、白い紙一枚に遮られていた遠い声が、再び現の息吹を持って寄せてきた。


「ある人間から・・」
立ち上がったまま、暫しその声を聞いていた背が不意に語り始めたのを、丹羽が訝しげに見上げた。
「過酷な現実を乗り越え無ければ、今と先は結べないのだと聞かされました。確かに、今困窮する民を救えぬのならば、どのように堅牢な砦も、いずれ足元から瓦解するのは当然の事」
「それは、当藩の事を云っているのか」
「いえ、ごく当然を申したのみ」
ゆっくりと振り向き、いらえを返した面からは、その心裡を量り知る事は出来無い。
「ごく、当然と申すか」
しかし受けた応えを繰り返し、苦く笑った顔が、その途中で動きを止めた。
「・・禅の教えは、あらゆるものに仏性があり、そして其れを、身を以って体験せよと云うもの。が、生憎とこの罰当たりは未だ其れを悟りきれず、こうして教えを乞いに来ている。だがあの民を救わんと、それだけに己を賭ける迷いの無い一徹さは、この年寄りが長年修行を積んでも尚会得出来ない境地に、既に達しているのかもしれん」
土方のその背の向うから聞こえて来る、掠れ切った叫び声を聞きながら、微かな衣擦れの音だけをさせ、丹羽が立ち上がった。
「己に仏性があるとは思えぬが、確かに貴殿の云う通り、足元の凶状を見過ごせば、屋台骨は成り立たぬ」
土方に語りかけながら、しかし土方に一向もくれず廊下に出た丹羽だったが、ふとその足が止まった。
そして振り向いた目が、今度はしかと土方を捉えた。

「天晴れな美談、後々までの語り草になろう」
やがて低く笑いかけた声に、それまで鋭い視線だけを向けていた双眸が、静かに伏せられた。






「村の者達は飢えに苦しみ、力なき弱い者は命を落とすしかありませんっ。このままでは、豊岡の土そのものが死んでしましますっ、・・何卒っ、何卒っ、お聞き届け願いたくっ・・」
細くなり行く雨の中、掠れきり、今は処々繋がるばかりのしゃがれた声が、しじまを破る。
身に籠めた力の強さに、開いてしまった傷口からの鮮血が、腕を流れ、前についた手を伝い、泥に紅の澱みを作る。
そしてその脇を護る八郎の構えも、解かれる事は無い。
「何卒っ・・・」
だがその声が不意に途切れたのと同時に、それまで一部の隙も無く閉じられていた堅固な黒門が、重い音を軋ませ開いた。
そしてその中央に、傘も差さず凛然と立つ、江戸家老丹羽昌右衛門の姿があった。

「中身役、脇太一郎とはそちか」
「はっ」
泥濘に平伏する背に掛けられた声は、厳しい。
だがその核には、人を安堵させる静けさを有していた。
「参れ」
短く、ただ其れだけを云い置き後ろを向けた丹羽に、脇の頭(こうべ)が、今度は先程よりも遥かに深く下げられた。
そしてその一部始終を眼(まなこ)に刻んだ八郎も又、門の内へ消える背の全部を見ずして、足を踏み出した。


――土方は丹羽に勝利した。
そして同時に、自らの役目も終えた。
だから後は己が還るべき先へと急げばいい。
想い人は、もう目覚めただろうか・・・
少しづつ、天が雨雲を押し開いて行く様を僥倖への標(しるべ)とし、八郎は、薄い霞の向こうを見る眸を細くした。







 睦月も過ぎ、如月ともなれば、白い氷の礫が地を覆う日が増える。
それでもここ両日は、風も無く、春信を覚えるような長閑な日が続いていた。
尤もこの間迄の雨の多さが、いつもの年に比べおかしかったのだと、見舞ってくれた永倉が、火鉢を抱えるようにして云っていたのに、笑いながら頷いた途端、ふと脇の顔が脳裏に浮かんだのは、つい先程の事だった。
其れが幾らも経たぬ内に、こうして当の本人を目の前にすれば、まるでその思いが伝わったのかのような不思議が、総司を捉える。

「脇さん、江戸に行くんだってよ」
そんな総司のぼんやりを、呆れた声の八郎が叱る。
「・・江戸に?」
床の上に端座したまま、脇に向けた深い色の瞳が、驚きに見開かれた。


 豊岡藩江戸家老丹羽昌右衛門に、脇が村々の窮状を直訴してから、既に十日の余が経ようとしていた。
が、訴えに及ぶその直前に、京都守護職邸の襲撃を企んでいた、神代卯之助以下不逞浪士十二名が、近藤率いる新撰組に捕縛され、当人が未だ豊岡藩藩士であると云う事情から、その身は、かの藩に引き渡された。
そして豊岡藩は、神代に不正を自白させた後即日斬首と云う、異例の速さで事件の解決を図った。
尚且つ、神代により二重に搾取されていた年貢で困窮を極めていた領民に、新撰組から受け取った武器弾薬代金としての米一千石を、藩の備蓄米と共に放出し、飢えに苦しむ者達に救いの手を差し伸べた。

 だが同じ日、岡島の亡骸を連れ帰った後喀血した総司は、土方の呼びかけに一度だけ反応しようとしたが覚醒までには至らず、その後昏睡に陥ったまま、容態の危ぶまれる状態が続いた。
しかしそれも田坂の治療が功を成し、何とか周りに安堵の息をつかせるまでに持ち直したのが、倒れてから丸三日が経た夕刻の事だった。
そして明日、丹羽と共に江戸に下ると云う脇が、八郎に案内され、総司の見舞いにやって来たのだった。


「此れまでの私の知識は、すべて独学によるものでした。尤も、誰かに教えを乞うなどと、そのような余裕も無かったのです。しかし今回、一年を限りとして江戸に出、会得した知識を国元で生かせと、ご家老様から命ぜられました。其れが今回の直訴への、ご家老様が私へ下された処罰でした。・・ついでに、その向こう見ずの一本気も直せと、仰せを受けました」
自分が床で動けずにいる間に、目まぐるしく運んだ事柄を整理するように、言葉も無く見詰める総司の視線を受け、脇の声が少々気恥ずかしげに笑っていた。
が、次の言葉を繋げるべく口を開きかけた時、穏やかに語る面に、ふと翳が射した。
「・・・岡島の亡骸は、相国寺の雲仙禅師様のお骨折で、近くの寺に葬って頂きました」
その一瞬、岡島を助ける事の出来なかった痛恨に、脇を見詰めていた瞳が揺れた。
「ですがあいつの魂は、いつも此処にいます」
しかしその憂いを払拭するかのような強い声が、総司に、瞳を伏せさせる事を許さなかった。
「・・此処に、共にいるのです」
まだ不自由な左の手で、己の右の胸に触れ、真っ直ぐに総司を見る脇の眼差しは、諾と頷くいらえの他は要らないと語りかける。

――土を白く凍らせる厳冬に、張る氷を割りながら稲田を見回り、水ぬるむ春に稲田を整え、翠の陽の中で、植えた稲の生育を見守り、降る雨、或いは干ばつ、そして海霧に神経を注ぎ、炎陽に焼き尽くされる夏を経て、乾いた風を肌で感じる頃、漸く収穫の季節を迎える。
だがそれが終(つい)ではなく、又其処から、翌年の収穫への新たな時が刻まれ始める。
その時を、岡島と共に歩んで行くのだと、脇の言葉は云っていた。


「岡島は・・、いつも共に歩いて行く相手だと、私は決めていまいました。ですからあの世に行った時には、あいつは勝手を云うと責めましょうが、これだけは私も譲る事が出来ません」
笑いながら語る声に響く潔さは、それが脇の心にある本当なのだと、総司に知らしめる。
「岡島さんは、云っていました。脇さんの事が、本当は妬ましかったのだと。・・岡島さんにとって、真っ直ぐに物を見る脇さんの姿は、いつも眩しかったのだと思います。眩しすぎて、その心の裏返しのように、脇さんの傍らにいるのが辛かったのだと思います。でも本当は、脇さんと一緒に仕事をしたかったのだと、それが岡島さんの希(のぞみ)だったのだと、私は思います」
上手く言葉にして表せぬ苛立ちに焦れながら、岡島の思いを説く総司の肩に、脇の顔を見ることは出来ないのだと、吐く息を繋いで、途切れ途切れに語った人の重みが蘇る。

「・・・ありがとうございます」
そんな総司を、脇は暫し黙って見詰めていたが、やがて今の己の裡に逆巻く様々な思いの丈を籠めるかのように、ゆっくりと頭を下げた。
そして其処から少し間を於いて、二人の遣り取りを、八郎が見守る。

――天の戯れに負けぬ、人の作る稲。
其れを、脇は岡島と作ろうとしていた。
だが岡島は脇を妬み、脇も又、岡島を妬んだ。
人の心の綾は、今回の一件に複雑に絡み合っていたが、其れが解けた時、岡島と云う若い命が散った。
それでも脇は、己が決めた先を歩み続けるのだと云う。
否、きっと脇にとって、この世に生ある限り、立ち止まり振り返る事は、岡島への冒涜なのだろう。
そしてどのような今であっても、其れを越え、先への礎にしようとする脇の靭さに、総司は惹かれた。
もしかしたら。
もしかしたら限られた己の命脈を、希(のぞみ)あるものと思っても良いのかと――。
人が聞けば、たかがと笑う、その儚い願いすら禁忌として来た想い人は、八郎の眸の中で、知らぬ土地の収穫の話に、熱心に耳を傾けている。
が、項(うなじ)のあたりで無造作に束ねられた黒髪から覗く白い首筋も、更に細くなった頤(おとがい)も、肉が削げ、柔らかさを失くした造作も、そのひとつひとつが横顔の線を硬質なものにし、其れが酷く八郎を落ち着かなくさせる。

「今年は大丈夫さ」
天道の陽が、不意に流れてきた雲に遮られたように差した、己の裡の翳りを払拭する声に、二人の視線が八郎に向けられた。
「米だよ。お前はその幸先の良い雨に、濡れたんだろう?」
火鉢の一番近くに胡坐を掻き、嘯いた顔が、厳冬の雨の冷たさを思ったか、少しばかり歪められた。
「そうだ・・、今年は寒九の雨が降って、其れに濡れたんだった」
八郎の胸に去来した思いを知る筈も無く、先人の云い伝えを、揺らぐ事無く吉と決め込んだ面輪が嬉しそうに笑った。
「そうです、雨宿りの狭い軒下を、沖田さんに譲って貰って・・思えばあの出会いこそが、私にとっては吉兆でした」
続けて頷く脇の後ろから射しこむ陽が、畳に長く延びる。
そしてその先を追い、視線を落とした総司の脳裏にも、同じ情景が蘇る。


寒九の雨が吉兆なのだと聞いた時、其れがどのような事柄を指すのであれ、幸い事に巡りあったと云うその事に、自分は縋りたかったのかもしれない。
弱い自分は厭わしいだけだった。
けれど、ともすれば弱気に傾く心を、止める事は出来なかった。
だが別つ時を畏怖していたのは、自分だけでは無かった。
死ぬなと、生きろと、否と拒む事を許さず強く命じた声は、この身を削り、その痛みを包み込みたいと願う程に、苦しげだった。
嘗て、自分たちは二つ身でひとつ魂の持ち主なのだと、土方は云った。
ならば、希(のぞみ)を持つが故に背中合わせに有る、先を恐れる思いも、共に同じものなのだろうか。
どんな時にあっても傍らに在りたいと願うのは、土方も同じなのだろうか――。
ふと兆した想いの丈は、新たな昂りを、総司の裡に呼び起こす。


「名医が、来たようだぜ」
だが束の間、他所に向けていた想いを見透かせたように、意地悪く現(うつつ)を教える声が、総司を慌てさせた。
急(せ)いて視線を移せば、確かに見知った人の姿が障子に影を作っている。
こんなに近くなるまでその存在に気付かなかった事に狼狽し、居ずまいを正す動きがぎこちない。

「賑やかだな」
薬箱を手にした田坂は、鴨居に長身をぶつけぬよう、少し腰を落とした姿勢で敷居を跨ぐ。
「あんたの噂は、しちゃいないよ」
「そりゃ、話の種にもならなくて悪かったな」

憎まれ口に、憎まれ口を返した田坂の後ろから、止められていた陽が一気に溢れ込んだ。
それは凛として確かな線では無く、ものに当り影を作り、漸く存在を露わにする曖昧なものだった。
だが一瞬投げ掛けられたその光の筋が、過去と今と、そして先とを、時と云う見えぬ糸がひとつに結んだかのような錯覚に、深い色の瞳が眩しげに細められた。






 年が明け、段々に強くなって来た冬の日も、暮色が広がり始めれば、その勢いも次第に寒気に呑まれ行く。
 音をさせずに開けたつもりが、この者の敏感な神経には何の役にも立たなかったらしく、指ひとつ分だけ開けた障子の隙を見上げ、総司は笑っていた。

「目が覚めていたのか」
労わった筈の口調は、優しいと云うには程遠い。
「脇さん、江戸に行くのだそうです」
それでも総司は、床の傍らに胡坐をかいた土方に、嬉しそうに語り始めた。
「らしいな」
「知っていたのですか?」
驚きに瞠られた瞳に、端整な面持ちが、然程興も無さそうに頷いた。
「近藤さんから聞いた」
「・・近藤先生が?」
意外な方向へ進んだ話に、不可解を解け無い声が戸惑い小さくなる。
「黒谷に商売をしに行った時、丁度豊岡藩の江戸家老が、今回の一件についての陳謝に来ていて、その折に聞いたらしい。尤も、陳謝と云っても、買い集められていた武器弾薬の類は、神代の企てを未然に防いだ礼として新撰組に贈られたとの筋書きになっているから、会津藩とて、藩の財源を横領された豊岡藩には同情こそせよ、責める筋合いは無い」
「けれど近藤先生が、会津さまへ商売って・・」
凡そ剛毅な気性の近藤が、商人(あきんど)のような器用な真似が出来るとは思えない。
師を案じる面輪に、憂いが広がる。
「豊岡藩から買った武器弾薬を、今度は会津藩へ売りに行ったのさ。真(まこと)武士であらんとする新撰組に、過分の飛び道具は無用と、その一言で商談は成立した。近藤さんは己の本当を云い、会津藩は其れに感じ入った。それだけだ」
何といらえを返して良いのか分からず、ただ瞳を瞠り見上げるばかりの総司に、土方の答えはあまりに簡単に返った。
しかしその端的な語り口こそが、この筋書きの作り主が誰であるかを、如実に物語っていた。
「・・でも脇さん、喜んでいた。江戸で学んで、そしてそれで得たものを、国元で生かすのだと・・。そう云う機会を与え貰えた事に、とても感謝していた」

断を下したのは、確かに丹羽昌右衛門だろう。
だがその階(きざはし)は、土方の采配が無ければ有り得なかった。
其れを脇の心に置き換えて言葉にしても、土方は応じるのも面倒そうに、火鉢へ体を向けてしまった。
その背を、総司は黙って見詰めている。


例えそれが、艱難辛苦の繰り返しであろうが、先への希を捨てず、脇は前を見て歩み続けるのであろう。
その姿を眩しいと思う自分は、まだ弱い人間なのかもしれない。
けれど土方の傍らで、自分は何処までも強い人間でいられる。
生きろと――。
そう命じる声が、独りを畏怖する心を、何よりも強い心に変える。
死ぬなと――。
覆い被さり、四肢の自由を奪い荒々しく命じた声は、狂おしい程に哀しい慟哭だった。
だから自分は、土方を裏切る事はできない。

瞳を向けた先に、火箸を手繰り、火の熾り具合を見ている後姿がある。



「土方さん・・」
夕景が室を黄昏色に包み、ゆっくりと振り向いた顔がその光華に埋もれ、見詰める眼差しの変わり様が分からない。
それを胸の高鳴りを隠す僥倖とし、総司は土方を見上げた。
「・・私は、・・」
が、視線を留められれば、途端に言葉は詰まる。
だがその総司の次の言葉を、土方は物云わず待つ。
まるで根競べにも似た沈黙が続いが、それも束の間の事で、無言の責めに負けたかのように、躊躇していた唇が再び小さく動いた。

「・・・こと切れた岡島さんを支えながら西彫院川へと歩いていた時、土方さんが死ぬなと・・そう呼ぶのが、聞こえたのです。・・だから・・」
心の裡を上手く伝えられないもどかしさは、語る声を弱気にする。
「生きて、土方さんの傍らにいなければならないと、思ったのです。・・生きて、土方さんの傍らにいたいと・・・」
だが選びあぐね、漸(ようよ)う見つけた言葉の先は、突然視界を覆った影に摘み取られた。

――土方は何も云わない。
何も云わずに、総司を抱く。
吐く息も、吸う息も、そして胸の鼓動すら分かち合うように、臥す者の上に、静かに己の身を重ねている。
そして総司は、微塵の弱みも見せず、常に強靭な精神を纏い続け、死ぬなと命じる唯一の人の孤独を、今我が身でつつみ込むように、広い背に腕を回した。


落ちる間際の、冬の日。
残照に、浮き、沈み、戯れ消え行く光の穂先。
過去と、今と、そして先を絡めあう、両の腕(かいな)。
やがて伝わる、人肌のぬくもり。

その刹那、固く閉じた総司の瞳の際を滲ませ、こめかみを滑る何かがあった。
そしてそれを、頬に触れた指がいとおしげに拭った時、声にもならぬ嗚咽が、まだ色の失い唇から、忍ぶようにして零れ落ちた。







                                        寒九の雨   了









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