琴平物語 壱
―金丸座―
芝居小屋から外に出た途端、湿った風が膚に纏わりついた。その、息苦しさすら覚えそうな蒸し暑さに、小川尚吾は閉口した。
「たまらんな」
すると、すぐに後で、織部雄次が情けない声を出した。
八月の日は、もう稜線に掛かろうとしているのに、山あいに籠もった熱は一向鎮まりを見せない。柳の枝は干からび、焼けた土が、白い陽で包まれている。
「何故こんなに暑いのだ」
雄次の、癇癪を起こした子供のような物言いに、尚吾は苦笑した。大切な跡取りとして育てられた友は、多少我侭ではあるが、それが故に憎めない気質だった。
「何だ?」
口元にある笑いを目ざとく見つけた雄次が、不満げな声を出した。
「いや、何でもない」
その咎めるような視線から、尚吾は角帽を被る振りをして逃れた。
東京帝国大学の同級生である尚吾と雄次が、夏休みを利用し、ここ琴平にやって来たのは、かつて織部家で働いていた於たきの病気見舞いの為である。
於たきの実家は小さな土産物屋だったが、明治になり、才覚のある弟が少しずつ商いを広げ、今では門前屈指の商家として名を馳せている。其処へ老齢の於たきが身を寄せたのが、十年前。その直前まで、於たきは雄次の身の回りの世話をして来た。
くだんの於たきはと云えば、病気と云うのは夏風邪を拗らせたほどのもので、書状のように重篤な状態ではなかった。どうやら、年を重ねて細くなった心が、雄次の顔を見たいと、堪え性の無い駄々を捏ねたらしい。
実際、尚吾と雄次が琴平に着いた時には、於たきは床払いをしており、二人の顔を見るや、いそいそと面倒を見始めた。その傍らで於たきと良く似た弟が、姉の我侭に付き合わされ遠方から足を運んだ客に、体を縮こめて恐縮していた。
かような顛末で尚吾は琴平に滞在し、五日目になる。
盆過ぎの日は、傾き始めれば呆気ない。観客は家路を急ぎ、気付けば、小屋の前には尚吾と雄次だけが取り残されている。
「おっ」
突然、雄次が弾んだ声を上げた。つられて尚吾も彼の視線を辿ると、人力車が二台、坂を上ってくる。車夫の体つきに見覚えがあった。二人の帰りを見計らい、於たきが回したものらしい。
「於たきさんは、余程お前が可愛いらしいな」
「甘やかされるって、良いものだぜ」
雄次は片目を瞑った。その太平楽な背に呆れ顔で続こうとした、その時。
ふと誰かに見られているような気配に、尚吾は振り返った。すると、木戸番の横に佇み此方を見ている若者と目が合った。
白っぽい絣の着物をつけた若者は、一瞬、見とれるような美しい顔立ちをしていた。が、見詰める不躾な視線を嫌ってか、直ぐに戸惑いの色を面輪に浮かべ目を伏せた。尚吾は慌てた。ところが間悪く、
「尚吾っ」
少々苛立った声が掛かった。振り向くと、車に乗り込んだ雄次が早くしろとばかりに手招きしている。それに軽く手を上げ応えると、尚吾は急いで若者に視線を戻した。
若者は小屋の西側の小路を入って行くところだった。後ろには、いつの間に控えていたのか、供らしき者が従っている。
小さくなる二人背を、尚吾は食入るように見詰めていた。
―夜―
「おいっ、どうした?」
些か焦れた様子の声に、尚吾は漸く振り向いた。団扇の手を止めた雄次が、此方を見ている。縁に腰掛け、暗い中庭に視線を遣っている姿を訝しげに思ったのだろう。
「どうもしないさ」
尚吾は誤魔化し笑いを浮かべ、立ち上がった。
「今日見た芝居を思い返していた」
ゆっくりとした足取りで部屋に入ってきた尚吾に、雄次は盆にあった西瓜を差し出した。ぼんやりを見咎められたような照れくささもあり、尚吾は行儀悪く西瓜に食いついた。
「それほど、印象に残るものとも思えなかったがな」
ひとしきり、水菓に舌鼓を打った後、雄次がぽつりと呟いた。
「今日見た芝居の事だ」
西瓜に埋もれていた顔を訝しげに上げた尚吾に、雄次は答えた。
「思い出して感慨に耽るほどのものでは無い、と俺は思った」
「人それぞれだろう」
「確かに人の好みは十人十色だ。が、お前のぼんやりは芝居の所為ではなかろうと、俺は推測したのさ」
にやりと意味ありげな笑いを、雄次は浮かべた。それをふんと軽くあしらい、尚吾は雄次から視線を逸らせた。
浴衣をつけた雄次は、二十二歳と云う年齢以上の貫禄が滲んでいる。伊達に呉服屋の倅ではないな、などと尚吾は変な処で関心してしまう。ところがそんな心の隙を、雄次は突いた。
「ぼんやりの原因は、あの若衆だろう?」
「……」
「俺が気付かなかったとでも思ったのか?」
尚吾は答えなかった。見られていた事に、軽い衝撃を覚えたのだ。それは大げさに云えば、自分とあの若者とだけが密やかに共有する世界を、乱暴に破られた不愉快さにも似ていた。しかし尚吾の胸の裡など知る由も無く、雄次は邪気無く話を続ける。
「俺は初め、あの若衆は一座の女形かとも思った」
「若衆と云うのは止めろ」
声が、忌々しげに尖った。若衆と云う言葉に、あの若者を穢されたような気がして、ひどく不快だった。
「そうだな、うん、確かに彼は商売の為に体を売る人間ではなさそうだ。彼には、凛とした品があった。更に云えば、俺は親友の恋愛にどうこう云うつもりはないぞ」
「よせ。どこの誰とも分らない、たまたま目が合っただけの人間だ」
「ひと目で恋に落ちる、とはそう云う事だろう?」
「いい加減にしろっ」
吐き捨てるや、尚吾は荒々しく立ち上がった。
「つまらない話は御免だっ」
その突然の激昂を、雄次は呆気に取られて見上げた。
湯治客が寝静まった宿はひっそりと夜に抱かれ、近くまで迫った森の影が、一層闇を深くしている。その闇に隠れるように、尚吾は足音を殺し廊下を歩く。
図らずも雄次の言葉は、尚吾の心の深いところに兆していた感情を暴いた。それが見ず知らずの、ほんの一瞬出会っただけの、しかも同性への恋である事が、今彼を打ちのめしている。
廊下の曲がり角で立ち止まると、尚吾は軽く柱に手を当て目を閉じた。
瞼の裏には、残光の眩しさに瞳を細めている美しい顔がある。その瞳が、じっと自分を見ている。見詰められ、息が苦しい。思わずシャツの胸元を握り締めると、行き場を失った昂ぶりが熱い吐息となって漏れた。
明日、誰も目を覚まさないうちに若者を探しに行くのだ――。
そう思った途端、激しく動悸が打つ。胸が痛む。だがその痛みの底には、今まで知らなかった甘美な幸福感がある。
まるで初恋に翻弄される少年のように心許ない自分を、尚吾は苦く笑った。
―再会―
黎明、門前町は、深い靄に沈んでいる。
その中に、ぽつりぽつり動く影がある。金比羅宮への参拝者だ。それらの影を追い越し、宮への登り口を過ぎ程なく、目の前に巨大な影が浮かんだ。それが金丸座だった。
昼間は賑う小屋も、今はまだ眠りの中にいる。
木戸番の前で、尚吾は立ち止まった。視界は悪いが、若者の消えた小路は判じられる。
ひとつ息を吐くと意を決したように、尚吾は小路の先へ踏み出した。
まるで靄の海に、舟を漕ぎ出すように――。
途中から、道は急峻な坂になった。早朝だと云うのに、少し歩いただけで額に汗が滲む。方向からすると、どうやら金比羅宮への参道と平行して山を登っているようだが、覆いかぶさる木の枝が陽を遮り、鬱蒼と暗い山道にしている。先があるのかと不安を覚えるような細道だった。だが戻ろうとは思わなかった。
暫く経つと、僅かばかりの陽が、葉と葉の間を縫い土に落ち始めた。ふと空を見上げれば、木立の隙から覗く太陽が高い位置にある。当ても無く歩いてきたが、もう何時頃になるのかと懐中時計を探ろうとした、その時。不意に前の木立から出て来た人影に、尚吾の目は大きく見開かれた。
若者は、まるで来るのを知っていたかのように、衒いの無い笑みを浮かべた。その瞳に見詰められ、尚吾は呆然と立ち尽くすばかりだった。やがて沈黙を破ったのは、若者が先だった。
「昨日は失礼をしました」
良く透る澄んだ声が、森に響いた。
「…昨日、芝居を見ていた時には、君に気付かなかった」
高鳴る動悸を抑えながら、尚吾は答えた。すると若者は小首を傾げ、そして瞳を細めた。
「私は、貴方に気付いていました」
それは尚吾にとって思いがけない言葉で、その喜びは彼を混乱させ、辛うじて残っていた余裕を奪い去った。言葉は詰まり、握り締めた手の平が汗ばむ。焦燥が、尚吾を追い詰める。それに抗うように、深く息を吸いかけた時、ふと、後ろで草を掻き分ける音がした。
「宗次郎さま」
背後でした低い声に、尚吾はぎょっと振り返った。その声に、背筋を凍てつかせるような冷たさがあったからだ。
「宗次郎さま、こちらでしたか」
木の陰から、背は尚吾と同じ程の、細身の男が現れた。昨日一緒に居た供の者とは直ぐに知れた。尚吾に向けた目が、剃刀の刃のように鋭い。
「お客さまなんだ、蜥也」
尚吾の様子を察した若者が、取り成すような笑みを浮かべると、せきや、と呼ばれた男は、若者を見、もう一度尚吾を見た。
「では屋敷へご案内致しましょう。外の日差しは強すぎます」
嗜めるような口調に、若者は素直に頷いた。そして不安げに尚吾を見た。
「どうぞこちらへ」
だが蜥也の言葉に尚吾が頷くと、端麗な面輪に安堵の色を浮かべた。
案内された家は、竹林の奥に続く、細い脇道の行き詰まりにあった。裏手には川が流れているらしく、せせらぎの音が聞こえる。そう大きな家では無いが、どこも手入れが行き届き清々しい。否、あまりに整然としすぎて、むしろ無機質な感すらする。しかもどう云う造りをしているのか、この家の空気は、外とは世界を違えるように冷たい。
鳥の羽ばたく音に、尚吾は開いた障子の向うを見た。するとその気配を察したのか、床に伏していた若者も薄く目を開けた。
意外にも若者は、昨夜から具合が良くないのだと云う。家に入った途端倒れかけ、それでもどうにか自分の足で部屋まで来たが、その後は枕から頭が上がらない。どこか悪いところがあるのかと思える華奢な身体つきではあるが、改めて蒼い顔を見ると、尚吾には不安ばかりが湧き上がる。
「大丈夫かい?」
障りの無いよう小声で声をかけると、
「情けないところを、お見せしました」
若者は尚吾に顔を向け、自嘲するように笑った。
「宗次郎さま」
目覚めるのを待っていたように声がし、蜥也が入ってきた。手にした盆には、瑠璃色をした、ぐい呑み程の硝子の器が乗っている。
若者は大儀そうに身体を起こすと、蜥也から器を受け取り、目を瞑って、ひと息で器の中味を飲み干した。それは余程苦いものだったらしく、寸の間、若者は憂鬱そうに顔を顰めていた。それでも暫くすると、尚吾を見、
「…苦い」
と、悪戯げな笑みを浮かべた。途端、尚吾は目を伏せた。頬が火照り、紅くなるのが自分で分る。一高でも軟派で鳴らしている自分が、こんな時に気の効いた台詞の一つも出てこないのが恨めしい。
「貴方も如何ですか?」
「…え?」
慌てて目を上げると、若者が薬の入っていた器を指差した。
「とても苦いのです。けれど滋養になるって、蜥也が…。本当かどうかは分らないけれど」
「宗次郎さま」
窘められて、若者は首を竦めた。
「お客さまには、冷たいものをどうぞ」
同じ盆にあった、こちらは紅色の硝子の器を、蜥也は差し出した。
硝子はどれも江戸切子で、月と薄を意匠した細工は精緻を極めている。祖父の蒐集品を、幼い頃から見て来た尚吾には、相当値の張る逸品だと判じられる。
「どうしましたか?」
一瞬魅入ってしまった尚吾に、若者が訝しげな目を向けた。
「いや…、あまりに見事な細工なので、つい見とれてしまいました」
「頂いたのです、懐かしい人に」
若者は微笑した。そしてふと、その笑みを引くと、
「あなたも、とても懐かしい匂いがする」
小さく呟き、尚吾を見詰めた。その瞳にある、あまりに真剣な色に、尚吾はたじろいだ。
「香のするものは、つけていないけれど…?」
「そうですか」
落胆したように、若者は瞳を伏せた。
「そんな事よりも」
尚吾は明るい声を出した。
「僕は小川尚吾、夏休みを利用して東京から来ている。さっき、君の事を宗次郎と呼んでいたけれど?」
「失礼をしました、私は宗次郎と云います」
「上の名は?」
宗次郎は黙って首を振った。後ろで、足音もさせず蜥也が出て行く。その様子から、深い詮索は避けた方が良いと、尚吾は判じた。
「僕は琴平は始めてなんだ。宗次郎君はずっと?」
話題を変えても、宗次郎は答えなかった。その代わりに、
「さっき尚吾さんは東京から来たと云われましたが…」
と、別の事を訊いた。
「生まれも育ちも東京だよ。君は東京を知っている?」
「少し…」
宗次郎は一瞬間をおいたが、
「でもみんな、忘れてしまった」
すぐにその迷いを消し去るように笑った。
「そう」
何か事情があって、こんな人里遠い山の中で暮らしているのだと思ったが、その勘は大方当たっていたらしい。それにしても、宗次郎は浮世離れしている麗人だった。
「では東京から琴平に移ってからは、ずっとここに?」
「ここに来る前は、京に少し…」
宗次郎は語尾を濁した。
「京?偶然だ!」
しかしその微かな変化に気付かず、尚吾は逸った声を上げた。
「僕の家は薬品関係の会社をやっているが、祖父の代までは京都で薬種問屋をしていたんだよ」
「薬種問屋?」
宗次郎は瞳を見開いた。
「店は五条大橋の西詰めにあった。遷都の都度、小川家は時の天皇に従い、住む土地を変えてきた。それで今は東京と云う訳だ。その歴史の中でも京都は長く、京都に生まれ育った祖父は、明治維新後、父に店を譲ると、隠居して京都に残ったんだ」
接点を見つけ出そうと、尚吾は必死だった。だから途中から、宗次郎が驚きの表情で自分を凝視している事に気付かなかった。
「祖父は僕を可愛がってくれ、僕も祖父の家には良く行ったよ。尤も、その祖父が亡くなってからは、京都はご無沙汰だけれどね」
語り終えると、尚吾は肩の力が抜けるのを感じた。それ程緊張していたのかと、自分で可笑しくなる。そしてその時になって漸く、尚吾は宗次郎の異変に気がついた。
「宗次郎君?」
不審に思って呼ぶと、宗次郎は、はっと瞳を上げ、そして呟くように云った。
「では貴方はあの、小川屋仁兵衛さんの…」
「どうして祖父の名を?」
今度は尚吾が驚愕した。
「…とても懐かしい、大切な方なのです」
宗次郎は瞳を細め、尚吾を見た。しかしその慈しむような眼差しは、尚吾を通し、遥か遠くの祖父仁兵衛に向けられていた。その刹那。尚吾の胸に、思いもかけぬ不快な感情が兆した。黒い靄のようなそれは、嫉妬だった。祖父が、宗次郎の大切な人間だと云う事に嫉妬したのだ。
「祖父が亡くなったのは僕が六歳の時だ。君とて同じ位の歳だろう?記憶に止める程の付き合いも無かったと思うが」
詰問するような調子に、宗次郎は薄い笑みを唇辺に浮かべただけだった。
「祖父を、何故知っているの?」
尚吾は苛立った。そんな尚吾の様子を微笑んで見詰めていた宗次郎だが、ふとその笑みを引いた。
「この匂い…」
そして独り呟くと、突然、尚吾の間近まで膝を進め、真剣な目を向けた。
「この匂いです、昨日もつけていた、この匂いをどこで…」
指に渾身の力を込め、宗次郎は尚吾の腕を握った。その勢いに、尚吾は怯んだ。
「さっきも云ったが、僕は香が立つようなものをつけてはいない」
「でもこの牛革草の匂いは…」
「牛革草?」
聞いた事の無い名に、尚吾は眉根を寄せた。が、直ぐに破顔した。脳裏に閃くものがあったのだ。
「ああ、あれか」
からくりの解けた声が、自然、朗らかになった。
「旅行鞄の中に入れてある粉薬の成分が、確かそんな名前の草だった。その匂いが、同じ鞄に入れてあるシャツにもついたのかな?紙に包んであるし、僕には分らないけれど、宗次郎君は敏感だな」
「粉薬?」
「祖父がくれたんだ、万能な散薬だと云ってね。薬種問屋小川屋として知れた祖父が、そんな薬を信じていたのも可笑しいが、今では祖父の形見だと思って、それこそ守り代わりにいつも持っているのさ」
尚吾は苦笑したが、宗次郎の面輪は強張ったままだ。
「どうしたんだい?」
流石に不審に思って問うと、宗次郎は硬い面持ちのまま、唇を開いた。
「その薬、私に譲っては貰えませんか?」
「薬を?」
息を詰め、宗次郎は頤を引いた。
「それは構わないが…」
そうは答えたものの、尚吾は何故、宗次郎がその薬に拘るのかが不思議だった。否、宗次郎の様子からして、それは執着と云っていい。
宗次郎を見ると、身じろぎもせず、じっと答えを待っている。
瞬きも忘れた切れ長の目。引きずり込まれそうに深い色の瞳。
無造作に束ねている、長い黒髪。そこから覗く細い首筋と、凛と伸びた背筋。
細い線で縁取られた顔立ちは優しいが、芯に硬質さを秘め、彼が女性では無い事を確かに訴える。
自分よりも祖父を敬愛する者。
心を、狂おしく惑わせる者。
美しく、気高き者。
――宗次郎が欲しい。
それは突如として湧き上がった欲望だった。同じ性を持つ者に対する自分の感情を、尚吾はおかしいとは思わなかった。目の前の美しい者が欲しい、自分を受け入れようとしない恋しい者を、いっそこの手で壊してしまいたい。その衝動が、彼のからからに渇いた口から声を押し出した。
「薬はあげよう」
宗次郎の目が輝いた。
「でも条件がある」
途端、不安げに曇った表情が、尚吾から最後の理性を剥ぎ取り、ただの獣にした。
「君が欲しい」
恐ろしい程の静けさが、尚吾の額に汗を滲ませる。耳に届くのは、己の胸の鼓動だけだ。
宗次郎が、ゆっくり腕を放した。
「云うとおりにしたら、薬をくれるのですね?」
「約束する」
嗄れた声を聞くと、宗次郎は緩慢な動きで立ち上がり、尚吾を見下ろした。そして嫣然と笑った。
「抜け殻を、抱くようなものなのに」
呟いた宗次郎の瞳は硝子玉のように冷ややかで、尚吾への慕わしさはもう無い。だがそんな事はどうでも良かった。今はただ、宗次郎が自分のものになる悦びだけが、尚吾を支配していた。
「蜥也」
凛と呼んだ声に、蜥也の影が障子の向こうに蹲った。
「湯浴みの支度を頼む」
その影に短く告げると、宗次郎は出て行った。
尚吾はじっと壁の一点を見詰めていたが、宗次郎の気配が消えると大きく吐息した。
全身から、冷たい汗が噴出した。
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