琴平物語 弐
―情炎―
蜥也は足音もさせず前を行く。その無言の背には、無頼の客に対する怒りがる。
廊下の行き詰まりまで来て漸く彼は立ち止まり、尚吾を振り返った。
「あちらです」
促されて見た先に、茅葺屋根の瀟洒な建物がある。小さな中庭を隔てたそれは、離れになっているらしい。
「宗次郎さまは、中にいらっしゃいます」
尚吾が頷くと、蜥也は黙って背を向けた。
離れに続く飛び石を踏んだ時、一瞬、目眩ましのような強い陽が差した。それを手で遮りながら尚吾は、今自分は、この明るい光とは真逆の闇の淵へ堕ちて行くのだと思った。しかし恐怖は無い。それどころか、まるで甘美な罠に囚われたような恍惚感に胸は満たされていた。
竹林を渡る風が、笹の影を揺らす。
その風が止むと、声を潜めていた蜩が鳴き始めた。
宗次郎の膚は、障子を通して入り込む陽の光にも透けてしまいそうに白く、その下に流れる血の色すら探しあぐねてしまう。
「君を傷つけたくないんだ…」
浮き出たあばら骨の、ひとつひとつを指でなぞりながら、尚吾は囁いた。
自分がしようとしている事は、理不尽な暴力だ。この脆弱な美しい身体に、酷い無体を強いろうとしているのだ。心に刺さっている小さな棘が、警鐘を鳴らすように疼く。今ならまだ間に合うと――。
しかし宗次郎はくすりと笑った。そしてその笑みを引くと、無表情に云った。
「貴方に抱かれるのは、約束だからです。私は交換の条件に身体を使う、それだけです」
硝子玉のような瞳に見上げられ、尚吾の頬がかっと火照った。
思いあがりを嗤われ、屈辱と怒りで頭の中が白くなる。その熱い混濁の向うで、残忍な獣がむくりと起き上がった。獣は、尚吾に残っていた優しさも労わりも良心も、人としての情の全てを瞬時に踏み砕き、目の前の獲物に襲い掛かった。
荒荒しく、尚吾は宗次郎を押し倒した。そして不意を突かれて崩れた膝の間に、素早く手を割り込ませた。宗次郎は抗い、手を振り払おうとしたが、力では到底敵うものではない。更に尚吾は、光に晒された宗次郎の中心を大胆に掴んだ。その刹那、ぐっと白い喉が鳴り、綺麗な眉根が寄せられた。
苦しげに歪む面輪を見下ろしながら尚吾は、掌中の宗次郎を、指の腹でこそばゆい程微かになぞった。すると、あっ、と短い声が上がり、青白かった頬に血の色が透けた。
「君、悦んでいる…」
耳朶に触れて囁くと、宗次郎は尚吾を睨みつけた。
「僕の事が憎いのだろう?でも構わない。僕は君を手にする事が出来るんだ」
首筋に落とした唇を、想いを刻み込むように、鎖骨へ、そして乳首まで滑らせると、ああっ…と、しなやかに胸が仰け反り、小さく振られた首の後を追って黒い髪が乱れた。
一度己を縛っていた戒めを解き放つと、宗次郎の若さは性に対して従順に反応した。きつく結ばれていた唇は執拗な愛撫に熱い息を零し、勝気に睨みつけていた瞳は戸惑いに潤み、抗いを封じ込められた腰がもどかしげに揺れる。
しかしどのような悦びの声を上げようが、寧ろそうあればある程、そんな自分から逃れるように、宗次郎は茫洋と遠くを見詰め、尚吾を見ようとはしなかった。
やがて尚吾を内に抱えた宗次郎に、時が満ちた。それを知らせるように、宗次郎は目を閉じた。その眦から泪が滑り落ちる。
「僕もだ、宗次郎…」
泪の跡を唇で拭うと、尚吾は囁いた。そして息を詰め、宗次郎の奥深く、獣がとどめを刺すように、沈んだ。
恍惚と力を失くした尚吾の耳に、細く短い、悦びの、そして哀しい、宗次郎の悲鳴が聞こえた。
―夢のあと―
気だるいのは、体ではなく心だ。
何故あんな事をしてしまったのか…。夢から醒めれば、重い罪の意識だけに苛まれる。
尚吾は立ち止まり、振り返った。隙無く閉じられた障子の向こうでは、宗次郎が傷ついた身体を横たえている。
暫く、尚吾はその白い紙の砦を凝視していたが、やがて物音ひとつしない静謐が終りそうに無いと知ると、物憂い息を吐き踵を返した。が、その足が、ぎくりと止まった。飛び石の上に、一匹の蜥蜴がいたのだ。大きな蜥蜴は、尚吾と対峙するようにじっと動かない。しかし何より目を瞠ったのは、その色だった。蜥蜴は、美しい瑠璃色の背をしていた。長い尾の先は、木立から差し込む陽を巻き込み白く光っている。動けば蜥蜴は逃げるだろう。だが足が動かない。
自分と蜥蜴のいる其処だけが、まるで時間から削ぎ落とされてしまったかのような錯覚に、尚吾の背に冷たい汗が滲む。
その時だった。
後ろで、小さな咳払いが聞こえた。宗次郎のものだ。咄嗟に尚吾は振り向こうとしたが、それより早く、視界の端で蜥蜴が動いた。慌てて視線を戻したが、もう蜥蜴は消えていた。あっと云う間もない、一瞬の出来事だった。
宗次郎の咳はすぐに治ったようで、その後は聞こえて来ない。
木立の間からは、焦ぐような炎陽が降り注いでいる。
歩き出した尚吾の胸を、混沌とさまざまな思いが駆け抜ける。
宗次郎の切望を盾に、彼を抱いた自分。
一炊の夢の後に澱む、重い贖罪。
それらを凌駕する、幸福。
宗次郎をこの腕に抱く幸福――。
その幸福を得る為に、自分は恥知らずの陵辱者に成り下ったのだ。
何を後悔しよう。戻る道は自ら絶った筈だ。
挑むように、尚吾は炎昼の太陽を見上げた。
―杞憂―
「出かけるのか?」
曖昧な答えでは納得しないと云う顔をして、雄次は廊下に立ちはだかっていた。
「散策だ」
廊下を塞がれ、尚吾は立ち止まった。
「お前、毎日何処へ出かけているのだ?」
「夜には帰って来ているだろう、帰りが遅いと指図されるほど子供ではないぜ」
尚吾は笑いかけたが、
「村で噂が立っている」
雄次は思いつめた目で尚吾を見た。
宗次郎の屋敷に通うようになり、五日が経っている。
薬を渡した時の宗次郎の喜び様は想像以上に大きかった。しかしその幸福そうな顔は、尚吾の胸に暗く重い闇を引き込んだ。やがてその闇は乾いた声になり、薬を盾に、更なる契りを強いたのだった。
「どんな噂か知らないが、僕には関係の無い事だ」
少しも表情を変えず親友を偽る自分が、尚吾には他人の様に思える。むしろ行く手を邪魔する雄次に苛立ちすら覚えた。宗次郎との約束の時間が迫っていた。
「お前が魔物にとり憑かれたと、人々は噂しているらしい」
「魔物?」
尚吾は笑った。その嘲りの笑みを湛えながら問うた。
「一体どんな魔物だと云うのだ?」
「若く、美しい男だそうだ」
雄次は真顔を崩さない。
「その魔物とお前が竹林に居るのを見た者がいる」
「莫迦も休み休み云え」
とうとう尚吾は声にして笑い出した。だがその笑い声が乾いているのは、尚吾自身が一番分った。
「見たと云うのは、金比羅宮の境内で商いを許されている、五人百姓の老婆だ。その老婆は以前にも一度…娘の頃だが、魔物を見ている」
「ほう、それで取り憑かれたのか?」
「真面目に聞け。婆さんが最初に魔物を見たのは、明治維新を経て十年も経った頃だ。その時、金丸座で芝居を打っていた旅の一座の、看板役者だった男が死んだ」
「……」
「表向きは病死となっているが、実は違う。彼も又、お前と同じように行き先も告げず、毎夜何処かへ出かけるようになった。その内舞台も疎かになり、何を言っても聞いても上の空で、座の者も心配していた。そんなある日、ふと姿を消した。そして翌朝、金丸座の裏山の竹林の中で死んでいたそうだ」
「まさか、その魔物とやらに殺された、とは云わないだろうな」
尚吾は皮肉に口元を歪めた。
「真実は闇だ。しかしくだんの婆さんが、商いの帰り道、偶然、人影を追って竹林に入って行く役者の姿を見た。灯も要らないような冴え冴えとした月灯りが、一瞬振り返った前を行く者の顔を照らし出した。それは若い男で、思わず息を呑むような美しい顔だったそうだ。そして歳月を経て、彼女は再び彼の姿を見た。…今度は白昼、お前と一緒に居る姿を、だ」
尚吾は、雄次の言葉を耳に素通りさせている。動悸が激しく打っている。
役者を殺したのは宗次郎だと、思った。その直感は、揺るがざる確信だった。
「なぁ尚吾」
躊躇いをそのまま押し出したような声で、雄次は云った。
「お前の行くところは、金丸座で会った、あの若者の処じゃないのか?いや、そうなんだろう?一体あの若者は誰だ?彼とお前は…」
「それ以上を云うなっ」
激しく、尚吾は遮った。
「いや…、すまなかった」
呆然と目を瞠る雄次から目を逸らせ、尚吾は詫びた。
「なに、俺も悪かったのだ」
雄次はぎこちなく笑った。
「実は今日の夕方、この宿に京都から客が着く。七十も過ぎた老人だが、役者の事件が起こってから、毎年琴平に来るそうだ。役者の亡骸が見つかった竹林の奥で一日過ごして帰るのだが、その理由は誰も知らない」
友を踏み止ませようとする必死が、雄次をいつもより早口にする。
「俺も現代を生きる人間だ。怨霊だの、魔物だの、そんな根拠の無いものを信じようとは思わない。しかし一度その老人と会ってから、お前の意図する処へ出かけたらどうだ。彼なら何か知っているかもしれない」
「……」
「駄目か」
応えを返さない尚吾に、人の良さそうな顔が寂しげに歪んだ。
「俺はお前が心配なんだ。…女遊びなら笑ってからかえる。だが今のお前を見ていると、何かこう、得体の知れない不安に胸が覆われるのだ」
その杞憂を払拭するように、尚吾は明るく笑った。
「宗次郎と会うのは、今日を限りにするよ」
「宗次郎と云うのか?あの若者」
尚吾は黙って頷いた。
「守れる約束か?」
「石田散薬は、あと一つしか無いんだ…」
「どう云う意味だ?」
訝しげな声には答えず、尚吾はただ笑みを浮かべた。
「心配させてすまなかったな、雄次。夜には帰るから」
ぽんと雄次の肩を叩くと、尚吾はその傍らを通り抜けた。
―土方歳三―
宗次郎が、床柱に背を預けている。
美しい魔物が、孤高の中で傷を癒している。
羽織った着物が肌蹴、薄い胸が覗く。つい先程まで、その胸は荒荒しく上下し、唇は浅い呼吸を繰り返していた。この腕の中で。
「その紐…」
消えかかる温もりを追うように、尚吾は体を起こした。
「解けないんだな」
髪を束ねている白い結わえを指差すと、宗次郎は物憂そうに襟足に視線を遣った。だが応えを返す気は無いらしく、また遠い一点に視線を向けてしまった。
「髪を下ろしている君を、見たいな」
しかし尚吾も引き下がらなかった。
石田散薬は、先程渡した一つが最後だった。もう宗次郎を縛る駒は無い。彼といられる時間は、あと僅かなのだ。まだ知らない宗次郎の表情を、気付かなかった宗次郎の癖を、ひとつでも多く知っておきたかった。
「その紐を解いてくれないか?」
「これは解けない」
冷ややかな声が返った。
「何故だ?どんなに髪が乱れても、君はその結わえを取ろうとはしなかったね。その事を、僕はずっと不思議に思っていた。正直に云う、薬は、さっき渡したのが最後だ。僕にはもうここに来る資格は無い。だから最後に君の髪に指を通してみたい、頼む」
尚吾は宗次郎の手を取ろうとした。その手を、宗次郎は全身で拒むように跳ね除けた。
「この結わえは取らない」
「理由を知りたい」
「…約束だから」
約束、と云った時、ほんの一瞬、宗次郎の面輪が苦しげに曇った。その僅かな変化を知られるのを厭うように、宗次郎は尚吾から目を逸らせた。宗次郎が初めて見せた弱さだった。しかし同時にそれは、尚吾の嫉心を激しく燃え立たせる糧ともなった。
「誰との約束なのだ?」
声が震えるのが分った。宗次郎にこのような憂い顔をさせる人間が妬ましい。
「もしかしたらその薬、石田散薬に関係がある者との約束なのか?」
石田散薬と云う言葉に、宗次郎の頬が強張った。それを見た尚吾の裡に、五臓六腑を紅い焔で舐めるような嫉妬が、一気に吹き上がる。目が眩みそうだった。
「半世紀も昔、新撰組と名乗る集団が京都にいた。その石田散薬は、新撰組の副長だった土方歳三が持っていたものだ。約束の相手は土方歳三か」
黒々と濡れた瞳が、尚吾を見上げた。
「そうなのだな。だが土方はずっと昔に死んでいる。約束など、とっくに反故だ」
「…死んでいる?」
薄い色の唇が、戦慄くように動いた。
「そうさ、土方は過去の人間だ」
「嘘だっ」
「宗次郎っ」
「触るなっ」
肩を掴んだ尚吾の手を、宗次郎は振り払った。尚吾が怯むほどの激しさだった。
「土方さんは、死んでなどいない。前にも、貴方と同じような事を云った者がいたよ。でも嘘だ。…皆、偽りばかりを云う」
尚吾を睨みつけながら、宗次郎は薄い笑みを浮かべた。不敵にも見えるその笑みは、しかし、哀しみが形になったような寂しさを湛えていた。
宗次郎が泣いている…、そう、尚吾には思えた。
「僕と同じ事を君に云った者…。それは昔、金丸座にやって来た役者の事かい?」
宗次郎は答えない。それが紛う事なき肯定だった。
尚吾は目を瞑った。
脳裏に、行く手を阻んだ雄次の顔が過ぎる。
雄次の話を聞いた時、役者の身の上に降りかかった災禍は宗次郎が齎したものだと直感した。彼も又、己の堕ちる先を知りながら、この美しい魔物に魅入られ、此処へ通い続けたのだろう。自分と同じように…。
止んだ蝉時雨の隙を縫って、葉擦れの音が竹林にざわめく。
閉じた瞼を開いた時、青ざめた頬をした宗次郎が見詰めていた。
―浩太老人―
「新撰組…?」
怪訝問うた語尾が、蝉の声に掻き消された。
「新撰組って…、あの新撰組の事ですか?」
「そうです。宗次郎様とは、新撰組の幹部であった沖田総司様の事なのです」
水梨浩と名乗った老人は、静かに頷いた。
頑強な体躯も、毅然と伸びた背筋も、八十に近い高齢とは到底思えない。だが今の雄次に、目の前の老人の来し方を憶測している余裕は無い。
「何を仰っているのか、僕にはさっぱり…。考えてみても下さいよ、彼らは五十年余も前に存在した集団だ。沖田総司だって病気で死んだのでしょう?」
「肉体の消滅を以ってするのなら、確かに沖田様は過去の人なのでしょう。しかし魂は消滅していないとしたら、どうなるのでしょうか」
「僕に幽霊の類を信じろと云うのですか?」
「現実なのです」
「分らないな。そもそも、沖田総司と琴平はどう云う関係があるのですか?そこから疑問だ。彼らは京都で活躍し、後、一部の者達が函館まで転戦した筈です。位置的にも琴平とは反対方向だ」
「琴平は、沖田様の終焉の地なのです」
「まさか…」
「本当です」
雄次は驚愕に目を見張り、浩太は軽く吐息した。
「…幕府軍と新政府軍が伏見で戦の火花を切った時、既に沖田様の病は重く、戦に出られる状態ではありませんでした。幕府軍も劣勢を極め、遂に新撰組も、大坂から船で江戸へ向かう事になりました。その時、副長の土方様は、薬で眠らせた沖田様を密かに違う船に乗せ、瀬戸内を渡り、この琴平に運んだのです」
雄次は眉根を寄せた。直ぐに信じられる話では無い。
「土方様が琴平を選んだのは、当時金丸座に、江戸の森田座が来ていたからです。森田座の座長と、そこで三味線を弾いていた富弥さんとは、土方様も沖田様も大変懇意だったのです。その二人を、土方様は頼ったのです。どんな事をしても土方様は、新政府軍の目から沖田様を隠したかったのです」
浩太老人が嘘をついてないとは、その真摯な眼差しと誠実な語り口で判じられる。しかしそれでも、あまりに突拍子すぎる話しに、雄次は戸惑いを隠せない。
「ひとつ聞かせて下さい。貴方はどうしてその事を知っているのですか?話を聞けば、沖田総司が琴平に潜伏するのは、ほんの一握りの人の秘密でしょう?もしかしたら、その一握りの中に、貴方が居たのですか?」
「お察しの通りです。…衰弱の激しかった沖田様を薬で長い間眠らせるのは、一か八かの賭けでした。薬の量が多ければその場で心臓が止まり、少なければ眠りは浅く途中で目覚め、悪戯に体を弱らせるだけで終る。調合に卓越した技術を持ち、後を見守る医師が必要でした。その医師と供に、私は琴平に来、沖田様が亡くなるまでお世話をしました。そして小川尚吾さん、彼のご祖父様が、当時まだ入手困難な舶来の眠り薬を用意して下さったのですよ」
「尚吾の…」
雄次は驚きに目を瞠った。そして軽く頭を振ると、浩太にその目を向けた。
「僕にはまだ信じられない…。尚吾が恋してしまったのは、本当に沖田総司なのだろうか…」
「昔、金丸座で芝居を打っていた東京の役者が、不慮の死を遂げました。一部では魔物に取り憑かれた…とも噂が立ちました。その事はご存知ですね?」
念押しする浩太に、雄次は真顔で頷いた。
「その時囁かれた魔物の姿が、聞けば聞くほど亡き沖田様に瓜二つなのだと、当時まだ健在だった、隠れ家の下働きの老婆が知らせてくれました。その文を読んだ私は、居ても立ってもおられず、再び琴平の土を踏んだのです」
浩太は苦しげに息を吐いた。それきり言葉が続かない。
長い沈黙が、彼の深い懊悩を物語っていた。
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