流れゆく風の昔に、遠く(壱)
「あっと、すまん」
かわしたつもりだったが、かわしきれずに袖と袖が触れた。こちらは坂を下っているから、自ずと勢いが出る。上り坂の相手の上半身が揺れた。
「大丈夫か?」
案じ顔の田坂に、
「いえ、うちこそ余所見してしもうて…堪忍しておくれやす」
謝られた相手、お店(たな)者らしき風情の若い男は、慌てて頭を下げた。後ろに二本差しが二人、手持ち無沙汰で成り行きを見ているのだ。顔が強張るのも仕方が無い。
「ほな」
男は腰を低くしたまま後じさると、隣で呆然と突っ立っている女の手を引き、逃げるように人混みに紛れた。
土方、伊庭、田坂と、珍しい顔の組み合わせが、清水坂を下っている。
弥生三日、雛の節句。
冬の澄んだ気に毅然と色を添えた梅と入れ替わるように、桃花が愛らしい濃桃の花弁の綻びを見せた。が、そう思う間も無く、春を豪奢に飾り、そして密やかに仕舞う桜が、ちらほら蕾を持ち始めた。
花の季節は短い。坂を行き来する人々は、その移ろい易さを惜しむように、時折、賑やかな歓声を上げながら、寸の間の花見を楽しんでいる。
「弱いもんを苛めちゃいけねぇよ」
袖に手を突っ込んだ八郎が、半歩前を行く田坂をからかった。
「怖がっていたのは、あんた達の事だ。二本差が二人、無言で後ろに控えていて、怖がるなってのが無理な相談だろう。気の毒をしたな、あの人」
「俺はあんたを待っていただけだぜ。あの男とは話すことも無いから黙っていただけだ」
「それが相手にとっちゃ、不気味なのさ」
「愛想笑いをしてやったら余計に不気味だろうよ。それにだ、いくら帯刀しているとは云え、人品卑しからぬこの俺を怖がると云うのは解せない。原因はこの…」
八郎は、土方に顎をしゃくった。
「仏頂面のせいだ。この顔で睨まれたら、大抵の人間は震え上がる、と云う噂だ」
「顔の造りは生まれつきだ」
「だから親に感謝しろと云っているんだよ。新撰組の副長は、目で浪士を斬るってな、やっとうの腕は二の次だ。良かったじゃねぇか」
「ああ、それはあるな」
横槍を入れた田坂の声が笑っていた。その二人をちらりと見、土方は苦々しげに舌打をした。
雛の祭りをする間、家から出ていろとのキヨのお達しに、抗うでもなく外にいる情けなさは棚に上げ、男たちの呑気なそぞろ歩きは続く。
「だが珍しいね、あんたが余所見をして人とぶつかるなんざ」
八郎は訳ありげに田坂を見上げた。口辺に、からかうような笑みがある。
「一緒にいた女に目が行った所為だ」
土方が口を挟んだ。
「へぇ…、あんたも面白くも無さそうな面(つら)して、道行く女だけはしっかり見ていた訳か。さんざ女を泣かせた昔は、今も健在じゃねか」
渋い顔をした土方を放っておいて、八郎は再び田坂へ視線を戻した。
「で、どんな所以のある相手だ?その女」
「昔馴染みだ」
意外にあっさりと、田坂は答えた。それが八郎にはつまらない。
「昔馴染み、ねぇ?」
細めた目の奥に、突付く隙を探す鋭い光がある。
「下衆の勘ぐりはごめんだぜ。江戸にいた頃の話だ、黴の生えてきそうな昔さ」
「そう云や…、あんた一度うちへ来たことあったな」
「その頃の話だ」
「おいおい、あの時、あんたはまだ元服したかしないかの年だろう?この唐変朴ならともかく、いずれ名医と謳われるあんたが、そんな餓鬼の頃からよからぬ遊びをしてちゃいけないよ」
「人の事を云えるか」
土方が、吐き捨てた。
「云えるよ」
八郎は、片頬に揶揄する笑みを浮かべた。
「俺は女に恨みの涙を流させるような遊び方はしない。そこがあんたと違うところだ。それより、名医の初恋を聞こうじゃないか」
涼しげな眼が、田坂に向けられた。しかしその眸の奥には、暇の罠にかかった獲物をどう捌こうか、愉しげな思案にくれる残酷な色がある。
「他人の顔に面影を映す程には、忘れ得がたい女なんだろう?」
「忘れがたいと云えば、そうなのだろうな。だが艶っぽさは無い。師、曰(のたまわ)くと一緒に思い出した位だ」
苦く笑った顔に、息吹く季節の眩い陽が跳ねた。
「論語、かえ?」
訝しげに見る目に、田坂は笑ったまま頷いた。
「論語の師を変える事になって行った塾で、机を並べていたおなごだ」
「おなごが論語塾か?」
「師の前田碌膳と云う人が型に嵌らない人間で、塾も自由な気風だった。侍の子も町人の子も一緒に学んでいた。だがおなごは一人だったな」
「へぇ」
八郎はもの珍しげに、遠くに視線を置いている横顔を見た。
「あんた達がどんな詮索をしようが勝手だが、まぁそう云う事で、残念ながら艶な色は皆無だ。他に覚えているのは、そのおなごが塾で一番出来が良く、出来の悪い俺は、始終小言を云われていた事位だな」
「論語は苦手だったのかえ?」
「俺は、興味のある事には寝食を忘れるが、それ以外は箸ひとつ動かすのも面倒な人間だ。漢学は不得手どころか、塾に行く事さえ苦痛だった」
「それは、師匠も教えがいの無い弟子を取ったもんだ」
長閑な声を、麗らかな日差しが吸い込んで行く。
「そう云えば…、見つからぬよう欠伸をしたら、それを見咎められて、学ぶ気が無いのなら出て行けと云われた事もあったな」
「ほう?」
「ぴしゃり、とな」
「で?」
笑いを堪える八郎の横で、土方の口元も緩んでいる。
「で?とは?」
「あんたも男だろう。そこまで云われて、ああそうですかと、引き下がったとは思えん」
八郎の好奇は益々膨らみ、このままでは、傍らの茶屋に上がり込もうとさえ云い出しかねない。丁度その時、間がいいのか悪いのか、店の前で客を呼び込んでいた女が、いっそう華やいだ声を上げた。八郎の視線がそちらに流れた。が、中に入ったら最後だ。
「行こう」
茶屋に未練がありそうな二人を引っ張るようにし、田坂は大股で坂を下り始めた。
人の昔話は、暇つぶしには格好の種だ。それが真実であったかどうかなどこの際関係が無い。面白おかしく話を膨らませ、相手をからかい、一時暇を潰す事ができれば良いのだ。
田坂は重い息をついた。
「引き下がらず、どうしたんだえ?」
憂鬱な心情などお構いなく、暇人は次を強請る。
「退屈なものは仕方がないと云ってやった」
「いけないねぇ。相手はおなごだ、そこはすまんの一言で、あんたが大人になってやらなくっちゃ」
「餓鬼に、そこまで分かりを良くしろと云う方が無理だろう。あんたじゃあるまいし」
「俺はできるぜ、餓鬼の頃でも今でも。おなごは大切にしなけりゃならん。が、この人は違う」
にやりと、八郎は土方を見た。
「この人のは、ただの女たらしだ。だから後で恨まれる」
「寄ってくるのは女の方からだ」
「そうそう、その自惚れ。そいつがいつか身を滅ぼす」
「お前とて、相当な遊びっぷりだっただろう」
「俺はちゃんと選んでいたぜ。来る者は拒まずのあんたと一緒にされちゃ困るね。それより、続きだ」
八郎は厭わしげな視線を土方に向けたが、すぐにそれを田坂に戻した。
「名は?」
攻める手は緩めない。
「いと」
観念した横顔を、春風が撫でて行く。
「どんな字を書く?」
「人偏の伊に、都だ」
「…ほぉ、良く覚えているな」
土方は目を細めた。感嘆の向こうに、揶揄がある。
「子供の頃の友達の名は忘れんだろう?」
「俺は顔も覚えちゃいない奴もいるぜ。余程仲が良けりゃ別だがな」
日頃は、顔を付き合わせれば眉間を狭くする者同士も、こう云う時ばかりは気が合うらしい。八郎が、土方を後押しする。
「別に大した事があった訳じゃない。ただ男の中に紅一点、しかも成績は誰より優秀だった。そこまでくれば、忘れる方がおかしいだろう」
「おまけにあんたは、その伊都さんにこっぴどく叱られた。確かにそれじゃぁ、忘れる訳が無いかと頷けるが、…やはり気になる」
八郎は腕組みをした指先で、己の顎を撫でた。
「何がだ」
「その、嘘の先にあるもんだよ」
「ほう、あんたは神か仏か?」
「時と場合によっちゃぁね」
「大したもんだ」
勘の良い人間の目は鋭い。誤魔化し笑いを剥がされる前に、田坂は正面を向いた。
まだるい午後の陽は、往来を行き来する人にも荷にも惜しみなく注ぎ、彼方の山々は春霞に埋もれ、稜線がぼんやり浮出ている。
白い陽の眩しさに双眸を細めた田坂の耳に、遥か遠く、声が聞こえる。
――俊輔さまの、意気地無し。
声は、その核(さね)には切ない哀しみを帯び、からかうように笑った。
裏店の細い路地で、遊びに嵩じる子供達の声が喧しい。その甲高い喧騒が一際大きくなると、くっつきかけていた瞼が離れる。しかしすぐに又、師、前田碌膳の声は、夢の中で聞くように遠ざかる。
「…俊輔さま」
耳元で、今度は囁くような声がした。と、思った途端、太ももに鋭い痛みが走った。痛みは一瞬だったが、俊輔は眉を顰め隣を見た。
「…つねる事はないだろう」
「先生がお気づきになられますよ」
「伊都殿は乱暴だな」
同い年の伊都の、姉のような口ぶりが俊輔には気に入らない。
「俊輔さまがお悪いのです。人の所為になさるのはおやめなさいませ」
「しかしっ…」
「しっ」
不満を云いかけた口に人差し指を当てる真似をすると、伊都は何事も無かったかのように正面を向いてしまった。そのすました横顔を、俊輔は暫く睨みつけていたが、やがて少々自棄(やけ)な仕草で姿勢を正した。
「お待ちになって」
玄関を出ようとした時、背中で声がした。伊都だと分かったから、俊輔は億劫げに振り向いた。
「途中まで御一緒しても宜しいかしら」
「私は構わないが、伊都殿が困るだろう」
俊輔も伊都も十五歳。もう往来を並んで歩ける歳ではない。そこの処の分別を、先程のお返しとばかりに大人びて云ったつもりだったが、伊都はくすりと笑った。
「砥部さまとの御縁談の事を仰っているのね、お気になさらないで」
伊都は足元に視線を向けたまま、素早く式台から下り草履を履いた。紅色の鼻緒が鮮やかだった。
「伊都殿が気にしなくとも、私が気にする」
憮然とした物言いが可笑しかったのか、伊都は袂で口元を覆った。
伊都の家は俊輔の家と同じく、膳所藩の禄を食んでいる。
父は鈴木正膳克織。現藩主の実弟で、次期藩主と目される本多康穣の用人を勤めている。その正膳が、俊輔の父杉浦高継と、若い頃から昵懇の付き合いをしていた。築地本願寺の東にある、この論語塾を紹介してくれたのも正膳だった。そして伊都はこの春、家中の砥部家の嫡男との縁談が決まった。嫁ぐのはまだ先になるが、砥部家の主が病気がちなので先に約束だけでもと云う事だったらしい。
あのお転婆がもう嫁に行く年になったのかと笑う大人達の話を、俊輔は少し不思議な気持ちで聞いていた。それは、憎まれ口を叩き合う喧嘩友達が、不意に、自分とは違う世界の人間になってしまうような違和感だったのかもしれない。
そんな事もあり、最近伊都とは何とく疎遠になっていた。
「俊輔さま、もう少しゆっくり歩いて下さいませ」
伊都の声を、俊輔は無視した。
「それではお話ができません」
だが伊都は執拗だった。すぐそこに、藩邸のお長屋に通じる合引橋が見えていた。
「往来で話しながら歩くなどできるものか、みっともない」
「あら、俊輔さまは、そのようにお堅いお方でしたかしら?」
からかうような小さな笑い声に、とうとう俊輔の足が止まり、苛立たしげな顔が振り向いた。
「やっと、お顔を見る事ができましたわ」
伊都は笑いを浮かべ、佇んでいる。その微笑みで、自分が一杯食わされたのだと気付いた。が、もう遅い。俊輔は腹の裡で舌打ちをした。
「お怒りは重々承知しております」
「怒ってなどいない」
「お声もお顔も、怒っていらっしゃいますわ。でも私、今日はどうしても俊輔さまにお伺いしたい事がございましたの」
「聞きたいこと?」
「はい」
暮れかけた夏の日が伊都の足元をつつみ、微笑みの引いた顔の上半分を白く照らしている。それがひどく心許ない風情で、俊輔を戸惑わせる。
「先日、兵馬さまをお見かけいたしました」
「兄上を?」
「はい」
意志の強そうな光を帯びた眸が、俊輔を見上げた。
「吉住新三郎さまと、御一緒でした」
俊輔の面に、硬い色が走った。見てはいけないものを見てしまった後悔に怯えるように、伊都は弱く瞬きをした。
「深川に、かつて私の世話をしてくれた乳母がおります。そこへ行った帰りでした。遅くなり、足を急がせていた時、偶然、お二人の姿をお見かけしたのです」
「兄は吉住殿と気が合うらしい。二人で歩いていたとて不思議は無いさ」
俊輔は声を平坦にした。喉元に、澱にも似た闇が痞えているような、ひどい不快感がある。だが伊都は追う手を緩めなかった。
「私に気付かず、お二人は、大川に沿った船宿にお入りになりました」
俊輔は、伊都を凝視した。
兵馬と吉住が念弟だと云う噂は、昨年の秋頃から人の口の端に上るようになっていた。伊都の言葉の意味するものも、その延長線上にある。
「伊都殿は、何が云いたいのだ…」
乾いた喉にねっとりと絡まったものを、俊輔はようよう言葉にした。
「お伺いしたいのは、俊輔さまの御心でございます」
「私の?」
「はい」
毅然と見詰める眸の奥に、仄かな火が熾きた。それは俊輔の知らない、激しい色をして揺らめいていた。
「俊輔さまの御心にあるのは、兵馬さまだけなのでしょうか。…他の者が入る隙は、もうどこにも無いのでしょうか?」
「意味が分からぬ」
俊輔の顔、声、仕草に映る心のどれも見逃すまいと、伊都は瞬きもしない。そして俊輔は、己の裡に起こった激しい動揺が、早く振幅を小さくするのを、祈るような思いで待っている。
息の詰まるような重いしじまが、二人の間に流れた。
どれほどそうしていたのか、不意に小さな水しぶきの音がした。川に戯れていた水鳥が、沈む天道を追って羽ばいたのだ。そしてそれを切欠にするように、伊都の口元が緩んだ。
「…俊輔さまの、意気地なし」
伊都は笑おうとした。しかしそれは、そうなる前に、くしゃりと歪んだ。そしてそんな自分を見られるのを厭うように、伊都は慌てて顔を伏せると、小走りに俊輔の横を通り過ぎた。
立ち尽くす俊輔の頬を、潮の香りを乗せた風が撫でる。
走り去った伊都の背。
その背は、知っているそれよりもずっと小さかった。想いに応えてやれなかった後ろめたさが、辛く心に圧し掛かる。だが今俊輔を打ちのめしているのは、ひとりの少女を不幸にした罪悪感ではなかった。
兄兵馬と、吉住新三郎の情事――。
臓腑を舐め尽くし燃え上がるような嫉妬の焔に、俊輔はきつく唇を噛みしめた。
今兄の顔を見たら、伊都が云っていた事は本当なのかと、激情のままに問い詰めてしまうだろう。
だが想いを口にした瞬間、自分も又、伊都のように全ての光は断たれてしまうのだろうか。ならばこの呻吟の中で、苦しさにのたうち回りながら、一縷の希を持ち続ける方が幸いなのか…。
笑いながら泣いていた伊都の顔が、川の水面に揺れる。
それがゆらゆらと揺れながら、沈み消える。
橋の手前で動かず、俊輔は、川が夜に染まり行く様を見詰めていた。
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