流れゆく風の昔に、遠く(弐)




 「早かったのだな」
 玄関に足を踏み入れると、奥から声がした。兵馬だった。出かけるようで袴をつけている。
「暑かっただろう?」
 そのまま式台に立ち、俊輔に笑いかけた。が、弟の、いつもと違う硬い様子に、秀麗な顔が曇った。
「どうした?何かあったのか?」
 口を閉ざす俊輔に、兵馬は訝しげないろを濃くした。
「俊輔?」
「…兄上」
 逡巡を振り切るように、俊輔は顔を上げた。
「吉住殿に、会いに行かれるのですか」
 駆け引きの出来ない不器用な眸が、瞬きもせず兵馬に向けられた。寸の間、二人は睨みあうように互いを凝視していたが、やがて兵馬は無言で三和土(たたき)に下りると、顔を強張らせている弟の横を、一瞥もせず通り過ぎた。
 俊輔は強く目を閉じた。
 握りしめた拳が震え、手の平に爪が喰い込む。その痛みすら覚えず、闇に立ち尽くした。






 夏の終わりの暑さは、盛りの時のそれよりも容赦がない。地を焦がすような天道の陽ざしに、人々は力を奪われ疲れの色を濃くしている。それでも盆を過ぎれば日足は驚くほど速くなり、昼の蝉しぐれに代わり、夜は鈴虫が初秋の音を奏で、あと一息の辛抱を労わる。

 兵馬は、当人の望みで、今年の春先から離れに寝起きするようになった。
 離れと云っても、藩邸の中に宛がわれている屋敷内での事、父高継が書斎にと願い出て作った二坪程の小さな建物だった。それでも其処を自室にしたいと兵馬が云った時、俊輔の胸は騒いだ。離れからは、母屋を通らずとも、庭伝いに自由に外へ出入りする事が出来る。兵馬の希を父から聞いた時、俊輔の脳裏に浮かんだのは、兄の傍らに立つ吉住新三郎の姿だった。

 今宵も兵馬の帰りは遅かった。
 父の高継が帰宅した時にもまだ戻っておらず、高継は眉根を寄せた。迎えに出た義母や家人に、兵馬はと問うた厳しい面差しを思い起こしながら、俊輔は足を止めた。踏んだのは、三つ目の石だった。
 母屋から離れまで続く、飛び石の数は五つ。
 踏んで来た石は二つ。先にある石は二つ。
 ひとつ戻れば、兄を敬慕する弟と、弟を慈しむ兄のままでいられる。だが四つ目の石を踏んだその瞬間、自分は兄を求め、猛り狂う雄になる。そしてそんな自分を、兄は拒絶し、蔑むだろう。
 止められない想いと、拒まれる恐怖が、互い違いに心を搦め取る。俊輔は天を見上げた。欠けた月にかかった暈が、ゆっくりと闇を渡って行く。その行方を、喉首を反らし、頤を突き出し見詰める眸に、ふとひとつの幻影が走った。吉住だった。その刹那、影を追うように、体が前に出た。そして四つ目の石の固さを足の裏に感じた時、俊輔は、己の恋が、もう流されるしかない激しい奔流に呑み込まれた事を知った。


 兵馬は来訪者の存在に気付いていたらしい。文机の上の書物を目で追いながら、
「母上はお休みになられたのか?」
 声をかけず障子を開けた無作法を咎めるでもなく問うた。
「お疲れになられたと仰り、早々に」
「そうか。今日のお出かけは、照り返しの強い頃だったからな。いくら外せぬ用事とは云え、お体に悪い」

 今兵馬が母と呼んだ人と、兄弟に血の繋がりは無い。兵馬は杉浦家の養子であり、俊輔は父高継が外につくった実子であった。そんな経緯から、義理の母和(かず)は、昔から兄弟に対し、一枚壁を置くようなところがあった。だが兵馬も俊輔も、義母のそう云う態度を然程気に留めた事が無い。それは、懐深い父の気質に包まれ育った事と、兄弟が、実の兄弟以上に仲の良い間柄で、寂しさを感じなかった事に大きく起因する。むしろ最近では和の方が、ひとり家族から孤立するようになっていった。
 その義母の体を、兵馬は真摯に憂えていた。

「お体の障りにならぬと良いが…」
「兄上」
 俊輔は焦れるように声を掛けた。
「何だ?」
「私はまだ兄上から答えを貰ってはおりません」
「…答え?」
 兵馬はちらりと視線を投げかけた。綺麗な眉根を訝しげに寄せている。
「夕刻、お出かけになられる時に、吉住殿と御一緒かとお伺い致しました。その答えを、頂いてはおりません」
「それを聞いてどうする」
「私はっ…」
 声が粘るように、喉に絡んだ。その重い塊を無理やり押し出すように、
「私は、兄上を好いている」
 俊輔は言葉にした。

 一瞬にして迸った心と、その瞬間失くした兄の笑い顔。
 全身の血が、炎暑の籠もる土に吸い取られて行くように、指先が冷たくなる。だがもう引き返す道は無い。

 兵馬は微動だにせず俊輔を見詰めていた。そして静かに又視線を書物に戻し、云った。
「私は、お前の想いに応えてやる事は出来ない」
「兄上っ」
「戻れ。家の者が気付く」
 淡々と、感情の欠片すら見つけられない冷厳な響きに顔を強張らせながら、俊輔は足を踏ん張った。
「私は、諦めません」
 兄は振り向かなかった。
 その背に俊輔は、もう鎮められない禁忌の業火が、音を立てて己を焼き尽くしながら、やがて堕ちる修羅の地獄絵を見ていた。






「俊輔さまっ、旦那さまがっ」
 廊下を転がるようにして来た作治が、擦れた声で叫んだ。俊輔の生まれる前からこの家に仕えている物静かな老僕は、見た事も無い程取り乱していた。体は小刻みに震え、顔の皺のひとつひとつが凍りついてしまったかのように、恐ろしく蒼ざめていた。それを見た瞬間、俊輔は父に何が起きたのかを判じた。呆然と我を失くしている作治を置いて、俊輔は部屋を飛び出した。
 父の部屋は、廊下を曲がった二つ先。だがその僅かな距離が、辿りつくことのできない久遠に思えた。


――伊都の実家である鈴木家から使いが来たのは、半刻前だった。
 使いの者は表立つのを憚るように台所口に現れ、高継を呼んで欲しいと、低く、早口で伝えた。日は落ちていたが、まだ闇の色は薄く、土間の片隅にだけ、ひっそりと夜の気配が忍びよっていた。
 高継は帰宅したばかりで着替えもしていなかったが、手渡された鈴木正膳からの書状を、その場で開いた。
 文字を追うにつれ峻厳な横顔は強張り、その緊迫した様子に、傍らで見守っていた俊輔は息を呑んだ。
 やがて読み終えると、高継は素早く書状を仕舞い、鈴木家からの使者を人目につかぬよう裏口から帰した。そして今度は俊輔に向かい、奥の間へと、短く告げた。
 父上、と呼んだ時、もう高継は背を向けていた。そして振り返る事は無かった。

 目の前に端坐した息子に、高継は、己の感情を抑えるように静かに語り始めた。
 書状には、今日の夕刻、藩の若い者達が江戸家老内野左衛門を襲い、その中に兵馬もいた旨が記してあった事。先程の使者は鈴木正膳が独断で遣わしてくれたもので、じき藩から正式の使者が来、杉浦家は幽閉となる事。そして裁きが下された時は、潔く咎を受けるようにと、愕然と凝視している俊輔に淡々と告げた。
 云い終えると、高継は立ち上がり部屋を出ようとした。その背に、俊輔は叫んだ。兄は、兵馬はどうなるのかと。
 高継は足を止め振り向いた。そのまま暫く無言で俊輔を見詰めていたが、やがて短く、腹を切る事は許されまいと呟いた。
 身を翻した父の背を眸に映しながら俊輔は、闇にとぐろを巻くように籠る熱(いき)れの中、ひとり茫然と立ち尽くしていた。



 何故、父が託した言葉の重さに気付かなかったのか…。俊輔は唇を噛み締めた。
 父は事情を知ると、子の責を取り、自刃する事を決めた。だからあのように、杉浦家の長としての身の振り方を説いた。その父の心に、自分は気付かなかった。兄への想いで、何もかもが止まり、周りなど見えなくなっていたのだ。
 もつれそうになる足に焦れながら、後悔の茨が、俊輔の胸を刺し抉る。

 
 部屋はしんと静まり返り、物音ひとつしない。その静寂さに圧倒されるように、障子に触れかけた手が一瞬止まった。そんな情けなさを叱咤し、障子を開けた瞬間、予期していた光景が現となって、俊輔の視界一面を覆った。
 白装束に身を固めた高継は、脇差を腹に突き刺し、毛氈に出来た黒い血溜りに、前屈みで突っ伏していた。傷は止めを刺すまでには至らず、しかし腹から脇差を抜き、頸を刺す力を残すには深すぎたらしい。
 気配を察したか、高継が、僅かに顔を動かし目で俊輔を捉えようとした。
 
「父上っ」
 鋭い声に、高継はもう一度視線を動かした。
「爺、お前は外にいろっ」
 父の背に回りながら、敷居際で震えている作治に、俊輔は怒鳴った
「…俊輔さまっ」
「障子を閉めろ」
 迸る厳しい声に操られるように、作治は障子に手を掛けた。
 かたりと、一度だけした小さな音が、父子二人を紙の砦に残した。

「父上」
俊輔は低く告げた。
「介錯…、仕ります」
 絞り出すような声に、高継は頭(こうべ)を上げようとしたが、すでにその力は無く、微かに頷く仕草を見せたにとどまった。
 柄を握りしめている高継の手のその上から、俊輔は己の手を重ねた。大きかった父の手は、いつの間にか己の手で包み込む事ができた。目の奥が熱くなるものを、俊輔は宙を睨み堪えた。
 高継の背をかかえ込むようにして起こすと、喰い込んでいた刃に力を籠めた。その刹那、ぐっと鈍い感触が手の平に伝わり、高継の唇の端から、鮮血が滴り落ちた。
 目を瞑ったのは一瞬だった。だがその一瞬が、父子の棲む世を遠く隔てた。恐ろしい程の呆気なさが、俊輔を襲う。
 脇差を抜き前に置くと、俊輔は父を顧みた。高継は、息子を労わるかのような静かな横顔を向けていた。
「…父上」
 初めて、俊輔の頬に熱いものが伝わった。
「父上っ…」
 それが膝の上に作った拳の上に落ちて、弾けた。

 暫し、俊輔は高継の傍らで、じっと動かなかったが、不意に鋭く顔を上げた。 玄関の方で慌ただしい気配がしたのだ。立ち上がりざま、刀掛にあった父の形見を掴むと廊下に出た。
 敷居を跨ぐ間際、今一度高継を見たがそれも一瞬の事で、すぐに屍を守るように隙無く障子を閉めた。






「叔父上っ…」
 客は藩からの使者では無く、鳴滝重吾正親だった。そしてその後ろに、影のように伊都が立っていた。

 鳴滝は、家を継いだばかりの頃江戸詰となり、高継の下に配属された。爾来高継を兄のように慕い、国元に戻った今も、杉浦家とは血の繋がり以上の付き合いをしている。丁度、所用で江戸に出て来ていた。

「委細は、鈴木殿が遣わしてくれた、この伊都殿から聞いた。俊輔、杉浦殿はいずこにっ」
 詰問するように厳しい声だった。
「俊輔っ」
 戻らぬいらえに焦れた足が、上がり框へ飛び上がった。その刹那、鳴滝の目が見開かれた。
 俊輔の着けている袴に、黒いものが点々と飛び散っている。まだ乾ききっていないそれが血だと判ると、鳴滝は奥へ向かって走り出した。

「…俊輔さま」
 伊都の震える声に、俊輔は静かに視線を向けた。
「父上は腹を召された」
「……」
「じき藩から沙汰が来るだろう。迷惑は掛けられぬ。早く去られよ。…叔父上に知らせてくれた事、鈴木様の御一存だろう?俊輔が感謝していたと、そう伝えて欲しい」
「いいえ」
 伊都は首を振った。
「私は父から、俊輔さまと和さまを、深川にある私の乳母の家へお連れせよと云われ、此処へ参りました」
 強い眼差しで、伊都は俊輔を見上げた。
「鈴木様のお心、有難く思う。ならば母上だけをお預けしたい」
「俊輔様もお連れせよと、父から申し付かっております」
「それは出来ない」
「どうしてでございますっ…」
「沙汰を待ち、下された裁きを潔く受けるようにと、それが父上のご遺言だ」
「俊輔さま…」
 伊都が一歩前に出、唇を震わせた時、
「俊輔」
 後ろから鳴滝の声がした。暗い中に、顔が険しく青い。まるで憤怒の形のように、見開いた目が赤く充血している。
「お前は伊都殿と行け」
「叔父上っ」
「鈴木殿の御心を思えっ」
 低く、太い一喝だった。
「親ならば、子の危険に二の足を踏むのは当然。それを越え、伊都殿を遣わせてくれた鈴木殿のご厚情を、お前は無駄にする気かっ」
「逃げる事は出来ませぬ。父上はそのような言葉を、私に残されませんでした」
「お前は真実を知らずして、己の命を粗末にするつもりかっ」
 烈しい抗いを、強い叱咤が退けた。
「杉浦殿は先を急いだ…。急ぎすぎたっ」
 搾り出すような声に、悲壮な怒りがあった。
「伊都殿、どうか俊介と和殿を頼む」
 鳴滝は、三和土に立つ伊都を振り向いた。
「私は行きませぬ」
「俊輔っ」
「逃げは、致しませぬ」
「ならば聞く、お前の兄は、兵馬は、何の信念も正義も持たずして、家老を襲撃するなどと云う暴挙に及ぶ者だったのかっ」
 若く、曲がる事を知らない強い眸が、真っ直ぐに鳴滝を捉えている。その視線を、鳴滝は弾き返した。
「内野佐左衛門への疑惑は、上げれば枚挙に暇がない。家中にも、御家老に対し不満を持つ者は多い。そしてその不満はじき堰を切る。だが兵馬達が及んだ行動は、時を見誤った、早すぎたのだ。内野は必ずや、失脚する。しかしその時兵馬の無念を晴らせるのは、もうお前しかいないのだ、お前だけなのだ、俊輔っ」
 どんな言葉でも良かった。死への道を、生きる唯一の標(しるべ)としている若い魂をこの世へ引き止める為に、今鳴滝に言葉を選んでいる余裕は無かった。
「しかし叔父上っ…」
「母御は、和殿はどうするっ。お前とて、和殿のご気性は知っておろう。お前が残ると云えば、和殿も残る」
 鳴滝は、いつの間にか自分の上背を越えた腕を掴まえた。
 和は俊輔には、冷たい義母であった。だが武家の妻女としての嗜みは身につけている女だ。夫に倣う覚悟も出来ている。
 俊輔は唇を噛んだ。晴らせぬ兄の無念と、義母の命。その二つが、俊輔を絡め取る。
「私は今から兵馬に会いに行く」
 弾かれたように、俊輔が顔を上げた。
「これも鈴木殿の、お計らいだ」
 呆然と見詰める眸に、鳴滝は頷いた。
「兵馬の最後の言葉を、聞きに行く」
 俊輔の唇が戦慄き、何かを云いかけた。それを遮るような強さで、
「伊都殿」
 鳴滝は伊都へ、視線を戻した。そしてゆっくりと頭(こうべ)を下げた。
 その無言の仕草が、大切な者を託す思いの丈を語っていた。








短編