霧杳 -muyou-(壱) その姿はあまりに唐突に、そして強引に、決して遡る事の出来ない来し方へと、総司をいざなった。 身なりの悪い女性(にょしょう)では無かった。 むしろ煙る雨に溶け入りそうな薄ねずの着物は、遠目ながら、凡そ婦人が身につけるものなどには縁の無い総司にも、質の良さが判じられた。 どこか裕福な商家の妻女、そのような雰囲気を纏った女性だった。 ――これから墓参しようとしていた寺の、黒く草臥(くたび)れた木の門から入れ違いに出てきた人影に気付き、前を邪魔する傘を上げたのは、目当てとする其処までは、今少し距離のある場所だった。 だがその寸座、深い色の瞳は驚愕に見開かれ、泥濘(ぬかるみ)を踏みしめていた足は、這いいずる根に絡めとられてしまったかのように、動きを止めた。 そのまま暫しの間、映し出される像を呆然と追っていたが、やがてそれも雨の帳にかき消されてしまうと漸く我に返ったか、総司は空(くう)を切るような俊敏さで地を蹴った。 しかしその身が向かった先は、息をも詰めて凝視していた姿では無く、すぐ間近の光縁寺だった。 松原忠司の墓前には、今手向けられたばかりの香華が雨に濡れ、勢いを失くした白い煙が、行方を彷徨うように宙に霧散していた。 その様を確かに瞳に映すや、総司はすぐさま踵を返し、入って来たばかりの門を今一度潜り出た。 そうして視線が探すのは、もう迷いも無く、蛇の目に隠れ、綾小路を東へと上って行ったあの女性の姿だった。 見失ってしまった背に、果たして追い付く事ができるのか・・・ 差す傘の重みすらもどかしく走る胸の裡は、次第に振るいを大きくして行く心の臓に輪を掛けて、激しい焦燥に駆られて行く。 この道を東へ上った先は大路と交差し、人通りも多くなる。 そうなれば、もう見つける事は適わないだろう。 思うようにならない足に苛立ちながら、身が濡れるのも構わず走り続ける総司の脳裏に、忘れ難い光景が蘇る。 それは丁度一年(ひととせ)前の今日、九月一日、松原忠治がある女性と心中を図った、ほんの数日前の出来事だった。 未遂に終わりはしたがその年の七月、松原が腹を切った時、丁度田坂の診療所で療養を余儀なくされていた総司には、事実を知らされなかった。 屯所に戻り初めて事の経緯を知り、驚きのまま見舞った総司の身を、狭い三畳程の布団部屋に寝かされていた松原は、腹の傷の苦しさに青い顔をしながら、暑さが堪えるのでは無いのかとひたすら案じた。 巨漢とも云える体躯に似合わず、笑えば優しげな目元が人を安堵させる風貌の主は、それでは貫禄が出ないからと丸坊主にし、池田屋の直ぐ後の政変では今弁慶の異名をとった豪放な気質の人でもあった。 そんな松原が、何故心中などと云う結末を選んだのか・・・ 松原の死後暫くして、総司はその理由を、ようよう人伝に聞く事が出来た。 それは松原が四番隊の組長になったばかりの春、天の戯れと片付けてしまうには、あまりに残酷な因果に端を発する出来事から始まった。 月の無い分、花の香が闇に濃く纏わるような深更、たまさか私用で出かけた帰りの道で、何者かに斬られ既に絶命していた浪人者の遺骸を、持っていた巾着の中の処書きを頼りに家人の元へ運び込んだ松原は、まだ乳飲み子を抱える婦人の狼狽を目の当たりにし、以後何かと面倒を見るようになった。 しかし元々病を持っていた子供は、看病の甲斐も無く、僅かばかりの命数をこの世で刻んで生を終えてしまった。 夫の非業の死の後、間を置かずして子をも亡くし悲嘆にくれる婦人の姿は、元々情の厚い松原の胸を深く痛めたのであろう。 だがその情が災いに転ぶのも又、人の世の尽きぬ皮肉であった。 哀れと手を差し伸べる心と、縋る寄る辺を求める心は、この一件を切欠に、互いの垣根を一足飛びに越えさせてしまったらしい。 やがて日を置かず女の元へ通うようになった松原に、屯所内では好奇の目を向ける者も出てくるようになった。 そんなある日些細な口論から、夫を亡くし間もない妻女を、同情と云う餌で釣ったと罵られた松原が憤慨し、身の証を立てようとしたのが、切腹未遂の原因だったと云う。 それから二月ほどし、土間と、あとはひとつ、畳の室があるばかりの狭い家作で、胸を突いた女と、腹を切って息絶えていた松原が見つかったのが、一年前の今日の事だった。 前代未聞の心中事件は新撰組に少なからぬ動揺を齎し、決して表立ってではなかったが、暫くの間はそこかしこでこの件に関する事情を憶測する声が絶えなかった。 切腹未遂のあと、四番隊の組長から平隊士へ降格され自暴自棄の日々を送るようになった松原が、子を失い世を儚んでいた女を道連れに心中を図ったと云うのが大筋の見方だったが、しかし総司には、耳に入ってくるこれらの噂がどうしても信じ難かった。 何故かと問われても、明瞭ないらえがあった訳ではない。 だが強いて形にするのならば、それは偶然垣間見てしまった、ある出来事に由来する勘・・・と、そう説明する他無かった。 そして其処まで総司を思い詰めさせた出来事とは、心中事件の幾日か前、夏と秋の狭間を行き来する時が、あっけない程に、すとんと天道を落としてしまった夕暮れの侘しさの中で、偶(たま)さか出遭ったものだった。 その日、田坂の診療所からの帰りが思いの外遅くなってしまい、西本願寺の北側にある木立を早道にして足を急がせていた総司の視界に、不意にひとりの婦人と佇んでいる松原の姿が飛び込んできた。 何か真剣な話をしているらしく、二人は総司に気付く事は無かったが、総司も又、人目を憚るかのような二人の様子に遠慮し、其処を大きく遠回りして屯所へ戻った。 が、遠くから、しかも僅かばかりの時ではあったが、松原の顔(かんばせ)には峻厳の中にも相手を包み込むような温もりがあり、それは女の為に自暴自棄に陥った人間の持つ投げやりな様相とは対を為すものに、総司には思えた。 そしてその時、寂しげな造りではあったが品の良い面差しの婦人は、先程、瞬くにも及ばぬ一瞬、差す傘の間から垣間見えた横顔に酷似していた。 ――松原の墓に手向けてあった香華。 あれは紛う事無く、あの婦人の手によるものに相違ない。 昨夏、こんな暑い中を歩き回っては身体に良く無いと、床の中から真摯な声で諌めた松原を、自分以外に慕ってくれている人間がいた事が、総司には嬉しかった。 前を遮る傘を、遂に畳んでしまい、総司は走る。 やがて願いは天に通じたのか、綾小路通りを縦に横断する広い通りにぶつかろうとするそのほんの手前で、探し求めていた後ろ姿を、双つの瞳はしかと捉えた。 「あのっ・・」 声を掛けたのは、まだ相手の顔貌(かおかたち)を判別するには難しい程に離れた処からだったが、振り返った婦人の面には、明らかな警戒の色が浮かんでいるのが分かった。 しかし総司は相手が立ち止まってくれた事で、逆に躊躇いを捨て距離を縮めた。 「さき程松原さんの墓前に、香華を手向けてはくれませんでしたでしょうか?」 直截に出したその名に、相手は隠す事の無い反応を示し、傘の下から総司を見る双眸が少しだけ細められた。 更に、腰に差した大小すら重たげに映る身を雨に濡らし、前髪から伝わる雫を拭いもせず、愛想のひとつを云うでも無く、ただ細い線に縁取られた面輪を硬くしていらえを待つその不器用な姿に、薄い紅を差した口元にも小さな笑みが浮かんだ。 「松原はんの、お知り合いですやろか?」 声は、女性としては幾分低いものだったが、それが辺りを霞ませる雨の柔らかさにも似て、頷いた総司の耳に、不思議と心地よく馴染んだ。 「ほなおたくさんも、今日が松原はんのご命日と知って・・?」 再び無言で頷いた総司だったが、その様子を見ていた女性の面が、ふと和らいだ。 「傘・・・」 続けて語られるだとのばかり思っていた松原との縁(えにし)は、しかし突然不可解な言葉に変えられてしまい、その意図を判じかねた面輪が、たちまち困惑に染まった。 だが女性は、そんな総司に向かい、自分の視線を落とす事で、其方を見よと促す。 そうして戸惑いながらも同じように視線を辿れば、其処には傘を握り締める、骨ばった己の手指があった。 「せっかく持ってはるのに、ずぶ濡れや」 「あっ・・」 声に諌められ慌てて傘を開く様を見ながら、女性は声を殺し、可笑しげに笑い始めた。 だがその面差しに、何処かもの寂しげな風情が漂うのが、ほんの一年前の、近くて、けれどもう二度と還る事の出来ない昔見た人の面影へと総司を誘う。 「松原はんには、姉が、口では云えんご面倒をお掛けしてしまいましたのや・・・二人して一緒にあの世に行ってしもうた、今日がその命日やよって、お参りさせて頂きました」 だがそんな総司の胸の裡など知る由も無く、浮かべた笑みを微かに残したまま紡がれた言葉は、深い色の瞳を驚きに見開かせた。 「・・・では」 「松原はんと心中したんは、うちの姉です」 乱れもせず、むしろ淡々と語られる真実は、何と応えて良いのか分からず立ち竦む総司を労わるかのように、静かな声で紡がれた。 「・・あの、・・もしかしたら、おたく様は新撰組の方ですやろか?」 が、云い終えたその途端、ふと思い当たったのか、余韻も消えぬ内に、それまでとは調子を変えて問う声音に、伏かけた総司の瞳が上げられた。 そうだと、応えるのは簡単だった。 だがそうする事が、松原と心中を図ったと云う婦人の縁に繋がるこの女性の心を、堅く閉ざさせてしまうのでは無いのかとの思いが、一瞬、総司を躊躇わせた。 「どうか隠さんといておれくやす。・・もしそうなら、うちはどないしても、お聞きしたい事がありますのや」 しかし相手は総司の予想を超えて、思わぬ事を問うた。 「姉の墓を、知りまへんでしょうか。姉の亡骸を何処へ葬ったのか・・・、おたくさんは、知りまへんでしょうか」 「姉上さまの・・墓・・?」 そして更に予期せぬ問いに、細い流線を描く唇から零れ落ちたのは、いらえと云うにはあまりに覚束ない、小さな呟きだった。 「そうです。姉の墓が何処にあるのか・・、それを、知りまへんでしょうか?」 「・・姉上さまの亡骸は、家作を持っていた方に頼んで何処かの寺に葬って貰ったと・・そう聞いています」 まがりなりにも光縁寺に墓のある松原と違い、共に手を取り彼岸に渡った婦人に関しては、結果的にこの世に生きたと云う証は何処にも遺されずにある。 そして本来ならばその後を知っていなければならない側の人間であるのに、何の手がかりも教えられない後ろめたさが、総司の面輪を硬いものにさせる。 松原の骸の前に膝まづき、二人を共に眠らせてやりたいと願った自分に、土方は其の希(のぞみ)を許さず、既に女性の亡骸は、家作の大家に処分を一任して来たとだけ告げた。 そして何より、心中と云う最後を武士の散り際として良しとせず、新撰組として、松原の葬儀を出さなかった近藤の立場を慮り、総司にとってもこの事件は、いつの間にか表に出してはいけないものになっていた。 それ故あれから一年、常に胸の隅にしこりとして残しながらも、相手の女性への気がかりは、見て見ぬ振りをして封印して来た。 しかしその女性の血に繋がる者と、まさかこうして見(まみ)える事になろうとは思いもよらず、そうなれば、今度は卑怯と云う負い目が総司を襲う。 「・・すみません、私にはそれ以上の事は・・」 漸く応えた声が、酷く強張っているのが自分でも分かった。 「そうですか・・つまらん事聞いて、堪忍しておくれやす」 静かに返ったいらえの、ほんの微かに空けた間が、隠せぬ落胆を物語っていた。 「すみません・・」 「謝まらんといておくれやす。うちかて姉の大事な時に、京にはおらんかったんです。・・姉があないな事になってたのを知ったんは、もうその歳も終わる頃でした。・・・松原はんとの事やて、姉がくれた文の中で知るだけでしたのや・・」 不孝な妹に当った罰(ばち)なのだと寂しげに笑う顔は、やはりあの時、松原を前に佇んでいた婦人と良く似ていた。 その様を言葉も無く見詰めていた総司だったが、不意に薄い肩が震え、次の瞬間、咄嗟に口元に持って行った手も間に合わず、背を揺らすようにして幾つかの咳が零れ落ちた。 「堪忍っ、うちが余計なお喋りで足を止めてしまったよって・・・、この直ぐ近くに家がありますのや、汚くしてますけど、どうか寄って濡れたものを拭いて行って下さい。その内には雨も上がりますやろ」 「・・大丈夫なのです」 終始穏やかだった声音の主の、ひどく慌てた調子に、総司は小さく笑って首を振った。 確かに、つい先程まで厚く天を覆っていた灰褐色の雨雲は、所々切れ間を作り、陽が射すとまでは行か無いまでも、いずれそうなるであろう様相を見せ始めている。 しかし相手の申し出が、身内を案じるにも似た真摯な心根から来ている事は分かるが、例えそれが松原の縁に繋がる者であっても、今会ったばかりの人間の家屋敷に足を踏み入れる程の勇気は、総司には無い。 しかも回復に向かい始めた天候は、皮肉にも時の移り変わりを教え、そうなれば田坂の診療所に行くと云う本来の目的が総司を焦らせる。 一のつく日に診察を受けに行くと云う約束を隠れ蓑に、松原の命日である今日、壬生まで足を伸ばしたのは、土方にも云えぬ秘め事だった。 「姉がお世話になっていた松原はんの墓前に、お参りしてくれる人がいはった・・・、そう知ったら、きっと主人も喜びますよって」 「・・いえ、本当に大丈夫なのです、ここで失礼します」 誘(いざな)いを絶ついらえの調子は、総司自身、不甲斐無い程にぎこちない。 この女性に声をかけたのは、亡き松原に繋がる者を見つけた、ただそれだけの念に囚われ、後先見ずの行動に走ってしまった結果であって、本来ならば、初めて会う人間と如才ない会話を交わす器用さなど、何処を探しても持ち合わせてはいない自分を、総司は十分に知っている。 「・・・姉に教えてあげたら、どないに喜ぶかと思いましたのや・・」 「えっ・・?」 吐く息に、微かに交じった哀しみ色を聞き逃さす、総司が、伏せかけていた瞳を上げた。 「松原はんと姉さんのお参に来てくれはったお人がいたえ・・・そう云うて、教えてやりたかったんですわ」 人の形をした小さな紙の人形を拵え、それに姉の名を書き、朝に夕に語りかけているのだと・・・ そう告げながら、少しだけ傾げた蛇の目の紫が、薄く笑った女性の面に翳りを落とし、ひどく寂しげなものにした。 松原と心中を図った相手の事も、そしてその後の事も、総司には何ひとつ分からない。 否、局長の近藤とて、この件に於いてはそうに違いない。 全ては土方の采配で事は運び、知っている者はその命に従った、ごく僅かに限られる。 だがそれとても家作の持ち主に金を手渡し、処理を一任した時点で、以後の事は知り得ないだろう。 だとすれば松原と違い、相手の婦人は無縁仏として何処かに葬られ、ひとり孤独の中で、土と化すのを待つのだろうか。 名を書き語り掛ける事で、せめて姉の魂魄を慰める事が出来ればと作ったのであろうその人形に、手を合わせたいと思い駆られたのは、亡くなった婦人に情の無い仕打ちを科した新撰組の者としての、総司の自責の念だったのかもしれない。 「あの、ご自宅は、此処から近いのでしょうか・・」 「へぇ、もうすぐそこです。この大宮通を渡って、堀川通に出る手前です・・・、あの・・、寄ってくれはるんですか?」 わざわざ後ろを向き、指をさして教える女性の声が一段高くなったが、再び視線を戻した時、それが勝手な思い込みで無い事を祈るように、最後の言葉は、躊躇いがちに向けられた。 だが小さく頷いた白い面輪を見るや、女性は、今度こそ何の衒いも無い心底嬉しそうな笑みを湛えた。 「おおきに。・・申し遅れました、うちは瑞枝、云います。姉は奈津、云います」 深く頭(こうべ)を垂れ、そして告げる言い回しの妙が、姉の死を未だ受け入れられずにいる、この女性の切ない思いの表れなのかもしれないと・・・ 又降り出した気まぐれな雨を透かせて笑う面に、そんな思いを巡らせながら、総司はかける言葉も見つけられず、暫し無言で佇んでいた。 「・・私は、沖田と云います」 が、その沈黙を不審そうに見る眸と合うと、慌てて姓だけを名乗った総司に、それで礼と代えるかのように、瑞枝と名乗った女性は静かに目を伏せた。 堀川は、元を正せば鴨川の一支流であり、平安遷都の際、多くの建造物の建立の為、北山で伐採された材木を運ぶ為の運河として利用された。 今も川沿いには御所、そして其れを監視する目的で建てられた二条城がある。 その堀川へと続く道の少し手前を、案内するように先立って歩く瑞枝が、小さな路地を右へ折れた。 そのまま立ち並ぶ町家を二、三軒過ぎただろうか。 犬矢来で外を囲まれた落ち着いた風情の家の前で立ち止まると、漸く総司を振り返った。 「ここどす」 だが感傷に負けて付いては来てしまったものの、いざ現実を目の前につきつけられた重い心は、総司の足に枷をする。 「・・沖田はん?」 距離を置いて立ち尽くしたまま、いつまでも動かない総司に、掛けた瑞枝の声が怪訝にくぐもる。 「瑞枝か?」 が、その一瞬の気まずさを強引に破る声が、暗い建物の内から聞こえてきた。 「帰ったのか?」 「・・へぇ・・」 段々に近くなる声の主は、先程の話から察するにこの女性の夫君なのだろうが、曖昧に返されたいらえは、もしや自分を連れて来てしまった事への、躊躇いがさせているのではないのかと・・・ 総司の裡は困惑一色に染まる。 「光縁寺はんでお墓参りをさせてもろうていたら、松原はんとお親しゅうしていた方とお会いできましたのや。それでお姉ちゃんにも会ってやって欲しいとお願いして、無理にお連れしましましたのや・・」 だがそんな心を見透かせたかのか、瑞枝はすぐ傍らにやって来た人間に短かく経緯を話すと、懇願するような視線で総司を捉え、逃げ道を塞いだ。 「それは、申し訳のない事を・・」 しかし自分の存在が迷惑になるのではとの危惧は要らぬものだったようで、姿を現した男は、突然の客にも然して驚く風もなく、総司に向かうと穏やかな笑みを浮かべた。 「妻が無理を云ったそうで・・・」 更に少しばかり早くなった調子には、連れ合いが無理を強いてしまった事に慌てている様子すらあった。 だがそんな一連の流れよりも先に総司の心を引いたのは、微かに鼻腔を掠める、慣れ親しんだ薬草の香りだった。 それは田坂の診療所を髣髴させながらも、良く似て非なる、不思議な香りだった。 しかも男は田坂と同じように白い被布を纏い、その形(なり)が、余計に総司に親(ちか)しさを覚えさせる。 「・・どうか堪忍して下さい」 一瞬、香に奪われかけた総司の意識を戻したのは、慇懃に詫びる男の声だった。 が、その伸びた背筋と、頭を下げた際の流れるような隙の無い所作は、偶然にも、この人物の来し方に、武に費やした少なからぬ時があった事を総司に知らしめた。 「むさ苦しい処ですがお入り下さい。仏も喜びますでしょう」 促すように笑った顔に衒いはない。 しかし一度抱いた不審は、総司の胸の裡に、この男に対する蟠(わだかま)りを植え付けた。 それは言葉にして説明できるものでは無く、勘としか応えようが無い曖昧なものだった。 だがその不審を警戒までにさせてしまった原因は、この男への疑念だけでは無く、此処に着いた途端、微かに硬くなった瑞枝の面持ちにあるのだとは、総司自身も気づいていた。 「こんな処で松原さんの大事なお客さんを雨に濡れさせていたら、松原さんにも奈津さんにも叱られてしまいます。どうか、お入り下さい」 其処まで思いながらも、男の声に促されるように、重い足が先を踏み出したのは、もう逢う事の出来ぬ人に呼ばれたのか、それとも霧雨にまじり、微かに漂う香に惑わされたのか・・・ 歩みを、ゆっくりと刻んでも五つ。 その五つの歩みの中で、進もうとする心と、戻ろうとする心が激しくせめぎ合う。 しかし土壇場で躊躇う心を封じ込めたのは、先へと腕を引き、背を押す、総司自身にも分からぬ強引な自分だった。 ――建物に染み込んだ香は、雨の湿り気に混じるように身に絡みつく。 やがて迎え立っていた男の前にまで来ると、総司は小さく頭(こうべ)を垂れ、霧杳(むよう)へと迷い込むかのように、薄暗い土間の敷居を跨いだ。 |