霧杳 -muyou- (弐) 仏壇に見立てた小さな文机の上には、童が戯れに折るような紙の人形がひとつ。 添えられた一輪の、桔梗の白の儚さと相沿うように、ひっそりと置かれていた。 「まさか奈津さんが、あのような事になっていようとは露知らず・・」 掌を合せている総司の後ろで、男は、事実を知った時に受けた衝撃を、今一度思い起こしたかのように言葉を詰まらせた。 ――瑞枝の夫君であるこの人物は相川平蔵と云い、頼まれれば医師の真似事のような事もするが、本来は薬の調剤と、それについての学問を専らとしているのだと教えてくれた。 更に、長いこと大坂の蘭学塾で修行をしていたが、その学問を究める為に夫婦で長崎へ旅立ち、昨年の暮れに二年ぶりで大坂に帰って来、初めてあの惨事を知ったのだと、義姉が苦境にいる時に、何の手も差し伸べてやる事が出来なかった自責の念を、苦しげに吐露した。 「義兄が殺された事も、その後間を置かずして一粒種の悠太・・この子は私達が大坂を離れる時にはまだ生まれていませんでしたが・・・、その子を亡くした事も、そんな大事な事を、私達は何ひとつ知らずにいたのです。瑞枝はそれを大層悔やみまして、京に落ち着いてから暫くは、毎日のように奈津さん達の住んでいた近くまで足を運び、姉を偲んでいました」 そんな風にして気の済むようにさせてやる他、妻の嘆きを慰撫する術は見つからなかったのだと、云い終えて、つと目を伏せた寂しげな所作が、相川の辛い胸の裡を物語っていた。 「・・ではその時に知られたのでしょうか?一緒に亡くなったのが、松原さんと云う事を・・」 話を進めれば自ずと触れ得ねばならない事柄とは云え、心中の相手を知った時、松原の事をこの二人はどう捉えたのか・・・ それが総司の杞憂だった。 「松原さんには感謝をしています。奈津さん達の当時を知る同じ家作の方の話では、浪人であった義兄が日々の糧を得るのがやっとの生活だったのが、その義兄に突然先立たれ、本当ならば明日にも路頭に迷うところを、これも縁に違いないと、松原さんが何くれとなく面倒をみて下さったのだとか」 「そうでしたか・・」 松原と奈津と云う婦人との間で、どのようにして互いを求め合う情が育まれて行ったのか、そして何故二人してこの世に終(つい)を告げたのか、其れは分からない。 だが少なくとも今、その相手方の身内の者にとって松原の存在が忌むべきもので無い事が、総司を安堵させた。 「ただ分からないのは、これから仕合せなど幾らも得られただろうに、何故奈津さんと松原さんが、あのような結末を選んでしまったのかと云う事です」 総司が常に抱いていた疑問は、相川にも又同じものだったようで、還る事の出来ない時への無念を、吐く息に紛らわせた声が、一段低くくぐもった。 しかし総司の心裡ではもうひとつ、心中する前に、何故松原が腹を切ろうとしたのか、その掴めぬ理由が拘りとして残っていた。 「ですが・・・、今となっては、あれやこれや何を思いを巡らせたとて、所詮生きている者の感傷にしか過ぎないのです」 その総司の思いを知る由も無く、語り終えた相川の面に、苦い、それでいて虚しい色が浮かんだ時、奥から足音を忍ばせて来る人の気配がした。 それが瑞枝である事は、姿を見ずとも知れた。 「・・あの、あちらに仕度ができましたけれど・・」 障子の端に半分だけ映った影は、其処に立ち止まり膝を折ると、遠慮がちに伺いを立てた。 「今行く」 それに短く応えただけで、相川の視線が総司から離れる事は無かった。 「今日は松原さんと、奈津さんの命日。こんな事しかできませんが、身内がするささやかな供養に付き合うと思い、茶を一服馳走させては貰えませんか」 思いがけない申し出ではあったが、静かな声に強引さは無い。 だが唯ですら予定外の行動で、田坂の処に行く筈だった時を遥かに過ごしてしまった焦燥が、総司にいらえを躊躇わせる。 「私達二人でするだけよりも、沖田さんを交えての三人の方が、あの世の者達も、喜んでくれると思うのです」 柔らかな眼差しと穏やかな物言いは、総司の脳裏に、気の良い笑い顔を見せた、心優しい者を重ねさせる。 確かに、松原は喜んでくれるかもしれない。 或いは、早くに田坂の診療を受けに行けと、叱るかもしれない。 否、常にこの身を気遣ってくれた松原ならば、きっと叱るに違いない。 だがそう思った瞬間、不意に込み上げた感情が、総司の胸の裡を例えようの無い寂寞感で満たした。 もう松原はいないのだと――。 その寸座、抑えられない感傷に負けた細い首が、ゆっくりと縦に頷いた。 「ありがとうございます、瑞枝も喜ぶ事でしょう」 総司から視線を移し、ちらりと障子の向こうを見た相川が、安堵している妻の様子を察してか、双眸を細めた。 案内されたのは、それが故の目的で拵えられた茶室ではなく、普段客室にでも使用しているのだろう、奥まった一室だった。 が、返って格式ばったもてなしを受けるよりも、総司にはこの方が有り難かった。 開け放たれた障子から縁越に見える中庭は、全く手入れをされていないのか、荒れ放題に草が生い茂っていたが、その無造作の中に、秋の始まりを告げる小さな花が雨雫に濡れ、不思議と心を落ち着かせた。 だが慣れた所作で茶筅を回す相川の手元を見つめながら、総司は時折ふと、何処か気だるく、そして心地よいまどろみに陥りかけてしまう自分に気付いていた。 同時に、云いようの無い焦燥が、全ての警戒心を解いてしまうような其れが酷く危険なものであると、神経全てを鋭くし、激しい警鐘を鳴らす。 早くに、この場から遠ざからなければならない。 一方の心でそう焦りつつ、しかしもう一方の心は、この緩慢な安寧に浸っていたいと駄々を捏ねる。 相反する、二人の自分。 漠然とした何かが、心の均整を蝕んで行く――。 「荒れ放題の庭だと、呆れておられるでしょう」 が、自らの異常に愕然とした総司の隙を狙うようにして、茶筅を置いた相川が薄い笑みを浮かべた。 「薬になる草や花を植えていたら、いつの間にかこんなに鬱蒼とした庭になってしまいました。・・流石にこれでは庭と云うには気が引けます」 「ここで、育てているのですか?」 声を言葉にした寸座、現から離れて行くような自分を取り戻せた事に、総司は安堵した。 「そうです。自然にあるものを此処へ株分けしたり、或いは種から育てています」 小川屋のような薬種問屋から仕入れるのでは無く、自らが栽培していると云う相川の言葉に、深い色の瞳が驚きに瞠られた。 「私は医師ではありません。あくまで学問として薬草について学んでいます。ですから今やっている事は、直ぐに世の役に立つものではありません」 そんな総司の様子に、相川は自嘲するような小さな笑い声を漏らした。 「けれど其れは、いつか病に苦しむ人達の役に立つのでは無いのでしょうか」 「さて、どんなものか。・・瑞枝などは家中に薬草の匂いが籠もるのを、大層嫌がっていますが・・」 点てた茶をゆっくりと差し出しながら、相川の声音は今までに無く無表情なものだった。 だがその一言で、先程から無償に慕わしい感覚を呼び起こしながら、しかし自らに警鐘を鳴らすものの正体が何であるのかを、総司は判じ得た。 其れはこの家のそこかしこに染み込んだ、柔らかな薬草の匂いに他ならなかった。 そしてその匂いは、総司に、田坂の診療所を強く彷彿させた。 「・・素人の点てたものですが」 頬骨の高い、神経質そうな面から笑みを消し、相川が促した。 その声に、まるで操られるかのように茶碗へ伸びる手を、もう一人の自分が必死に止める。 それを、紗の幕の向こうでぼんやりと見ている自分がいる。 そんな奇妙な感覚の中、総司は白い茶碗の端に唇をつけた。 口に含んだ濃緑の液体が、口腔に渋い苦味を残し、ゆっくりと喉を流れ行き、そして・・・ 蒼が勝る、白く骨ばった指から離れた茶碗が、いびつな弧を描きながら畳に転がり、端座していた身がゆらりと前に傾ぎ崩れ落ちるまで――。 時に計れば、それはほんの一瞬の出来事であった。 「・・なに・・を・・」 我が身に何が起こったのか。 それすら判じる間さえ無く、脇に置いた刀を咄嗟に手繰り寄せながら見上げた視界の中で、相川の顔が二重三重に歪む。 そして時を同じくし、体中の血が、まるで床に吸い取られるかのように一気に引き、次に、歯の根が合わない程の震えが総司を襲う。 「薬の服用には慣れている身ゆえ、効き目が現れるのは今少し遅いかと思ったが、案外に早かったな」 刀に触れてはいるのだろうが、その感覚が指に伝わらず、更に強く握りしめようと足掻く総司の耳に、抑揚の無い声が響く。 「飲み続ければ何の薬でも身体は慣れる。そうなれば出す薬は次第に強くせざるを得ない。だが薬と云うものは、過ぎれば毒にもなる。ここの辺りの調整が難しい処だが、君の病の進捗度からして、既に相当の強さの薬が処方されていると思っていたが、そうでもないらしいな・・・。どうやら田坂医師の腕は、噂以上のものらしい」 まるで教本を説くような平坦な口調で語り続ける相川の声が、時に遠くなり、時に近くなり、その変化が総司の感覚を狂わせる。 しかも急速に熱を奪われ震えの止まらない身体は、もう指一本、己の意思で動かす事は出来ない。 「なぜ・・たさか・・さんを・・」 それでも必死に上げた瞳は、大切な人間をあらぬ災禍に巻き込むまいと、気丈に相手を睨みつけ、色のない唇は、呂律も怪しい言葉を突きつける。 「田坂医師の事は、君との関係で調べさせて貰っただけだ、新撰組の、沖田君」 瑞枝から聞いたと思えば知っていても不思議は無い事だったが、今敢えて相川が新撰組と告げた口調には、明らかな悪意があった。 否、それは総司を見下す目に宿る冷淡な色と相俟って、憎悪と云った方が相応しい程に、激しいものだった。 「かつて、新撰組に松原忠司と云う輩がいた」 だがそれも束の間の事で、相川は再び、淡々と語り始めた。 「ところがそいつは一人の人間を殺した挙句、己の悪行を隠して善人になりすまし、その男の妻を上手に丸め込み、あろう事か心中まで図ってくれた。・・・では殺された男の無念は、一体どうして晴らせばいい?松原がさっさと三途の川を渡ってしまったからには、この世の仕置きは、せめてあやつの親しかった人間が償うのは、当然の事だろう?そうは思わないかい、沖田君?」 額からこめかみ、そして頬へと伝わっている冷たい汗の、その感覚すら分からず、それどころか次第に細められて行く気の道からは、笛を吹くような不吉な音が、息をするたびに混じる。 だがそれら、己を苛む全てを振り切るように、苦しげに歪む瞳が、相川を見上げた。 「兄は、松原忠司に殺された。そう、私はその相川正一郎の弟、相川平蔵さ」 凝視する蒼白な面輪に向けられた笑みは、全ての感情を削ぎとってしまったかのように冷酷で、この上なく残忍なものだった。 松原の斬った相手・・・ 相川の言葉を反復する事で、朧になる意識を必死に繋ぎとめようとする総司だったが、突然、刀に伸ばしていた手の甲に走った鈍重な痛みに息が止まった。 その痛みを作る正体が何であるのか――。 ようよう向けた視線の先で、白い足袋に包まれた足が、自分の手指を踏みつけている様を見るや、深い色の瞳が悔しげに細められた。 「刀を握っている手を踏みにじられるとは、さぞ口惜しい事だろう。だが生憎、私には君と斬り結んでも勝算が無い。本当に、残念な事だよ」 更に足の先を食い込ませ、苦痛に耐える様を楽しむかのように告げる声が、低い笑いを忍ばせた。 「が、そう易々と殺しはしないから、安心する事だ。兄の無念を存分に味わってあの世に行って貰わねば、私も半年余りの時をかけてこの筋書きを作った甲斐が無い。・・・松原の墓に香華を手向ける君の姿を目にした瞬間、私は迷う事無く、松原の代わりを君にする事を決めたのだよ。あいつを慕う人間など、この世に生かしては置けないからね。それに新撰組の沖田ならば、兄も喜んでくれるだろう」 無表情に云い終え、下に敷いていた手指をえぐるようにして相川が踵を返した寸座、骨の髄を錐で揉まれるような痛みに、総司の身がびくりと仰け反った。 「既に麻痺に近い知覚とは云え、全部の神経を痺れさせている訳ではないから、骨には痛みが走る筈だ。苦痛が無いのでは、見ている此方もつまらないのでね」 元の座に、又ゆっくりと腰を下ろし、段々に、そして確実に荒くなって行く総司の呼吸に目を細めながら、相川は楽しげに語りかける。 息は吐くだけが精一杯で、しかも言葉を発すれば気の道は塞がれ、苦しさに苛まれる。 その度に遠くなる意識を気丈に持ちこたえながら、総司には、どうしても目の前の人間に問い質さねばならない事があった。 「・・まつばら・・さん・・が、きった・・と・・なぜ・・」 「松原が下手人だと云うのが本当かと、聞きたいのだろう?だが君の一縷の希(のぞみ)を砕くようで悪いが、それは真実だ。・・・去年の春の事だ、松原忠司は兄を殺した。そして事が露見する事を恐れた奴は、兄の遺骸を奈津の元へ運び込み、自分が通りがかりに見つけた時は、既に息は無かったと事実を偽った。その後も善人面をし、なにくれとなく奈津の面倒を見るようなった。だがそれも松原にしてみれば、己のしでかした所業が発覚するのを恐れ、探りを入れる為だったのだろう。しかし所詮は男と女、情を掛ければ行き着く先も決まっている」 それが陳腐な心中事件だったと皮肉に笑い、総司の視線を煩そうに逸らすと、相川は近くの煙草盆を引き寄せた。 「・・兄と私は、越後の小さな藩ではあったが、代々藩校の教授を務める家に生まれた」 何気ない世間話をするように語りながら、煙管に刻み煙草をつめる相川の動きが、総司の視界の中で霞む。 それでも震える手指は、踏みにじられた拍子に離してしまった刀を探る。 「無駄な事を・・」 その様をちらりと垣間見て笑う声には、往生をあきらめぬ者への嘲りがあった。 「兄は幼い頃から父の跡を継ぐべく、育てられてきた。無論、私もその事に少しの疑いも持たなかった。ところが、どこでどう歯車が狂ったのか、ある日同僚と云い争いになり許せぬ侮辱を受けた父が、城内で刀を抜いてしまった。斬られた者はその場で絶命したが、元々気の合わぬ者同士とは云え、此処まで互いを対立させるよう企てたのは、藩校で父の座を狙っていた人間だった。・・その策略に、父はまんまと乗せられたの訳だ」 雁首の火皿に、丸めた煙草を詰めながら、未だ過去にはなり得ない空白の狭間を憎悪するように、言葉は一旦切られた。 「事件後、父は即座に家にとって返すと、追っ手の掛からぬ前に兄と私を逃し、自らは腹を切り、母も後を追った。兄が十八、私は十五、・・・丁度、十年前の事だった。そして国元を逃れた兄は大坂の蘭学塾に私を預けると、自分は京に身を潜めた」 云い終え、煙草盆の炭火に雁首を持って行き火を点けると、相川はゆっくりと吐いた白い煙の行方を視線だけで暫し追っていたが、それにも飽きると、今度は瞳を見開き小刻みに震える薄い身を、面白げに捉えた。 「奈津と瑞枝の事も、聞きたいのだろう?」 焦点の合わない瞳は、既に総司の意識が混濁している証だと物語っていたが、それを承知しても尚続けられる語りは、無念の内に費やした十年の歳月を、怒涛の勢いで取り戻そうとしているかのように止まらない。 「奈津と瑞枝の姉妹は、当家の下働きの者であったのを、必ずや生きて家を再興せよと言遺した父が、供につけて寄越したのさ。尤も父が言外に籠めたのは、この姉妹を売り、それを生きる糧にせよと云う意味だった。・・二人とも孤児だった処を、父が拾って下働きとして養っていたのだ。その恩を思えば、家の大事に身を投じて報いるのは当然の事だろう?大坂に着き、すぐに売った廓は貧相な構えだったが、それでも田舎娘とは云え、二人とも高値で売れたよ」 口角だけを上げ、酷薄な笑みが浮かんだその直後、ようよう刀に触れ得た総司の指が、突然、渾身の力で其れを振り払った。 そして乱れた髪が、己の首筋へ、頬へとまつわり付く様を瞳が映した刹那、面輪は戦慄と恐怖の色に染まった。 「そろそろ、幻覚が見え始めて来たらしな・・。刀も、髪も、蛇にでも見えるか、それとも恐ろしい餓鬼か・・が、この世で見る地獄も又楽しいとは思わないかい?」 己の声など、疾うに届いてはいないと知りながら、いらえの戻らぬのを憤る調子が、苛立ち激しくなる。 「楽しいかと、聞いているだろうっ」 応える術などある筈も無く、身を硬直させ震えるだけの総司の姿は、相川の加虐心を更に煽り立て、まだ火のついた煙草が蒼白い指の上に落とされた。 だがその灼熱の痛みすらも、もう総司には分からない。 「・・薬が効くのも思いの外早かったが、この分では仕舞を迎えるのも早そうだな」 舌打ちと共につまらなそうに呟くや、相川は二度目の煙草を詰め火をつけた。 「けれど冥土の土産は、最後まで聞いてもらうよ」 そして宙を見据えるようにして、それをゆっくりとくゆらすと、冷ややかな声が、一度仕舞にした語りを再び紐解いた。 「十年・・・待つのは長いが、過ぎるのは早いものだった。兄は京に在っても国元への探りを欠かさず、天運満る時の到来を待った。その間、私は大坂の蘭学塾で、必死に勉学を続けていた。全ては、必ずや父の無念を晴らし、再び国元の実権を握る座まで登り詰めると決めた、揺るがぬ信念が故だった。が、如何に寝食を忘れ学問に励もうと、世の中にはそれだけでは出世出来ないからくりがあると知るまでに、時はかからなかったよ。・・・そう、すべては金さ」 皮肉に笑った目が煙の白に向けられ、それが大気の中に霧散して行く様を、無機質に追う。 「学んで得た知識はあっても、金が無い。金が無ければ、どんな世界であろうが、頭角を現す事は出来ない。屈辱の中で日々を送り、焦燥だけが悪戯に膨らんで行く、・・そんな時だった、私は遂に千載一遇の機会を得たのだ」 それまでの変化の無い語り口が嘘のように、相川の調子が、その時の昂ぶりを思い起こしたのか、俄かに早くなった。 「私の師が手を付けた下働きの女に、子が出来てしまった。師はその女を気に入っていたが、奥方の実家の力無くしては蘭学塾を維持しては行けないと云う事情をも抱えていた。それを知った兄と私は、生まれた子を兄の子として預かる代わりに、私を塾頭にするよう、師と駆け引きをしたのだ。切羽詰まっていた師は私の出した条件を二つ返事で呑み、兄は今一度奈津を身請けして夫婦の体裁を取るや、師の子を京で育て始めたのさ」 小刻みな震えが、時折、痙攣のような激しいものになるが、先ほどまでの荒い息は既に影をひそめ、呼吸そのものが止まってしまったかのような総司を見下ろす双眸は、平坦に戻った声と共に、残酷なまでに冷たい。 「十年の歳月を費やし、漸く全ての歯車が噛み合い始めたのだ。・・・そう、兄が松原に斬られる、あの時までは・・」 まるで経た歳月そのもののようにゆっくりと吐いた紫煙が、煙管の先で揺れる。 それを暫し見るとも無く見つめていた視線が、再び総司に向けられた。 やがて煙管を脇に置き立ち上がると、相川は、倒れ伏している総司の直ぐ傍らにまでやって来た。 「私はあらゆる手を使い、兄を殺した相手を探した。その中には、金を作る為に、人には云えぬ薬の調合を受けるようになっていた博徒もいた。そしてある日、その者から、下手人が新撰組の松原忠司である事を聞かされた。だがその直後、松原の情にほだされていた奈津が、師から預かっていた子を病で死なせてしまった。それを知った師は激怒し、お陰で私は破門さ」 仰向かせても、見開かれた深い色の瞳は、相川に焦点を合せる事は無い。 「なぁ、沖田君、何故兄は殺され、私はようやっと掴んだ先への希(のぞみ)を絶たれなければならない?こんな理不尽を許してはならないと、君もそうは思わないかい?」 無表情な声で問いながら、総司の腰にあった脇差の鞘を抜いた相川は、乱暴に着物の襟元を肌蹴、その切っ先を浮き出た鎖骨の下に沿わせると、銀の波光を煌かせるの其れを横に滑らせた。 その刹那、白い膚に走った一本の筋から盛り上がった朱い雫が、少しの歪みも無く一直線に滴り落ちた。 「だから私は君を殺す事にしたのさ。松原を慕う奴など、この世に居てはいけないからね。一度は売った瑞枝まで又身請けするなど、つまらぬ金も使ったが、この筋書きを完結させる為に必要ならば、それも致し方の無い事だった。尤も、こうして君が餌にありついてくれた事を思えば安い買い物だったが・・・。焚き染めた香も、田坂医師の診療所のものと似ているだろう?しかも少々阿片を混じらせておいたから、摩訶不思議な体験も出来た筈だ。彼岸へ渡る君が心和むようにと、私からのせめてもの心遣いだよ、感謝して欲しいね」 微かな身じろぎもせず、生きている証すら見つけ難い総司に向かい、語りかける声音は優しい。 「さぁ、名残惜しいがそろそろ向こうへ行って、兄に会ってやってはくれないか。兄はきっと君の事を気に入る筈だ。だからこそ、君を選んだと云う事情もあるのだからね。・・・そう、兄は女性を厭う人でね。家督を継ぐには、妻を娶り子もなさねばならない。それ故、国元にいた時分から、その事では兄自身も相当に頭を悩ませていたよ」 今となってはそれも懐かしい思い出なのか、遠くへ視線を投げ掛けた相川の双眸が、ふと和んだ。 が、その瞬間、びくりとも動かなかった総司が、ひときわ大きな痙攣に震えた。 だがそれは、この屈辱に全身で抗う様にも似て、抱きかかえていた相川も、反動で大きく体勢を崩した。 「行儀の悪いっ」 云う事を聞かぬ人形を叱る鋭い声と共に上げられた手が、蒼を透けさせた白い頬に振り下ろされようとした。 しかし、仕置きは為される事無く・・・ 総司の身は放り出され、相川自身は膝立ちのまま、反らせた喉首を両の指で掻き毟った。 やがて時を置かずして唇の端からは紅の血が滴り落ち、苦悶に剥かれた目が、縁に向けられた。 そしてそこに、呆然と端座している瑞枝の姿を認めると、相川は、暫し睨み付けるようにして凝視していたが、やがて相手が、寸分も眸を逸らせる意思を持たぬ事を知るや、歪んだ面に薄い笑みを湛えた。 そして次の瞬間、喉元から胸までを紅に染めた身が、重く、鈍い音を立てて畳に沈んだ。 「・・煙草・・に・・仕込んだの・・か・・」 吐く息だけで繋げる言葉は、その都度多量の血を押し出す。 が、しゃがれて聞き取りがたい声よりも、触れればその途端に砕け散ってしまいそうな瑞枝の硬い面持ちの方が、遥かに痛ましい。 それが己の犯した罪を目の当たりにしている、この女性の慄きを物語っていた。 「・・これが・・お前の・・復讐・・か・・」 畳に伏せた顔を、ほんの微かに持ち上げて問う声にも、瑞枝は応えない。 だが戻らぬいらえの代わりに、相川の耳に、建物の中を乱暴に駆ける幾多の足音が、次第に近づいて来るのが聞こえる。 「・・新撰・・組か・・」 沈黙の中で震える相手にはもう興が無いのか、相川の思考は、じき此処を探し当てるであろう者達へと向けられたようだった。 「余計な事を・・・」 紅一色に染まった口元を皮肉に歪め、近くにあった総司の大刀を握り締めると、相川は其れを支えにして上半身を起こし、畳に片膝をついた。 そして抜き身のまま転がっていた脇差を片手で捉えるや、柄を逆手に持ち、支えにしていた大刀を離した。 一挙に均整を失くした体は、勢いのまま前に倒れ、其れを迎え受けた切っ先は、垂直に相川の胴を貫いた。 その寸座。 障子の白に、畳の青に、そして膝の上で握り締められていた瑞枝の手に、血潮は跳び散り、それまで決して逸らされる事の無かった切れ長の目が堅く瞑られ、同時に、蒼白な面が、この惨劇から逃れるよう初めて背けられた。 「総司っ」 ――真後ろから上がった、獣の咆哮にも似た叫び声すらどこか夢幻のもののように、瑞枝の心は、今ゆっくりと霧杳の中を彷徨い始めた。 |