霧杳 -muyou- (参)




「薬草の匂いに混じらせ、建物全体に阿片を焚き染めていたのは、俺の家を彷彿させる事で、沖田君の心に隙を作らせる為だったらしい。が、瑞枝と云う女性の話では、量も僅かなもので、直接では無く、間接的に吸った事から考えても、阿片自体がそう大きな影響を及ばすとは思えない。問題は、飲まされた茶の中に含まれていた毒の方だ。あの家の薬棚にあったものから察すれば、毒は間違いなく朝鮮朝顔だ」
薄い皮膚から浮き出ている鎖骨の下の傷を、丹念に清めながら、田坂は早い口調で説く。
だが土方は、瞳を見開き細かく震える総司の身を、治療の妨げにならないよう押さえたまま、言葉を返さない。
「朝鮮朝顔は、その場で人の息の緒を断つ程に強い毒性を持っているが、量によっては、幻覚、錯乱、昏倒などを起こすに止(とど)まり、九死に一生を得る事もある。飲まされた量さえ分かれば・・・」
いらえを待たずして独り続ける田坂の声には、傷を処置して行く手際の迅速さとは裏腹に、一番の肝心を掴む事の出来ない苛立ちと焦燥がある。
しかし尚も一言も応えず無言でいる土方の険しい横顔には、今もしも、己の腕が抱いている身に触れえんとする者があれば、即座に牙剥くであろう、獣のような凄烈さがあった。
その土方の心中を、田坂は推し量る。


――土方は応えないのでは無い、応えられないのだ。
狂おしい程に愛しい者の、身の内に通う温もりを探しだそうとするあまりの必死が、それ以外の一切を断ち切ってしまっているのだ。
が、それは形を変えれど、田坂にも同じ事だった。
先程から独り語りを止めないのは、そうした途端に出来た静寂の中で、この糸よりも細い呼吸が止まってしまうのではないのかと・・・、沈黙に籠もった瞬間に襲う孤独が、己を怯ませ、弱気に掬われてしまうのを、そうする事で何とか踏みとどまっているが故だった。
その姿勢が、例えどんな局面に置かれようと、現実だけを見据え、先を判断して行かねばならない、医術を専らとする者の本来あるべき姿だとは思わない。
だが皮肉にも今はそうする他、医師としての自分を全うする術を、田坂は知らなかった。

同じ懊悩の中に居、しかし全く別の方法で己を支えている、目の前の恋敵の存在を脳裏から打ち消すと、田坂は、総司の肩から胸までを厚く覆った白い晒の端を手早く結んだ。



「田坂先生」
掛かった声よりも早く、気配で反応し、咄嗟に襖の向こうに目を遣ったのは、土方も田坂も同時だった。
「入ってくれ」
命じるように急(せ)かせる口調に、土方も異は唱えない。
それに応じ、山崎は素早く襖を開けると、身を滑り込ませた。
 
「届いたのか」
視線を、己の腕(かいな)の中に在る者から僅かにも逸らせる事の無い主は、後ろを向けたまま、険しく、そして低い声で問う。
「はい」
しかし其処に、常に怜悧な土方の、極限まで追い詰められている胸の裡を察し、山崎は即座にいらえを返した。
だが同時に山崎は、広いの背の向こうに垣間見えた若者の痛々しい様に、息を呑んだ。

 十分に承知していても尚、驚愕せざるを得ない、俊敏な身ごなしを見せる細い四肢は力なく弛緩し、時折、硬直したように小刻みに震える。
見開らかれた瞳は、現を離れ、夢幻に彷徨う魂魄そのもののように、何も映し出そうとはしない。
それは思わず走りより、手を握りしめ、声を掛けずにはいられない焦燥に駆り立てられる、あまりに悲愴な姿だった。
「山崎っ」
だが土方の怒声は、その刹那の躊躇すら許さない。

「ご依頼のものを、小川屋殿からお預かりして参りました」
今は無用の弱気を捨て去ると、山崎は田坂の脇に回り、油紙にくるまれた小さな包みを差し出した。
しかし田坂は、それを直ぐには手に取らず、暫し凝視したまま動かない。
視線の先にあるものは、黒味かかった三つの丸薬。
そして細められた土方の双眸も又、鋭い光を湛え、小さな物体に視線を止めている。
「それか」
が、沈黙は瞬時に破られ、土方が田坂を見遣った。
「そうだ」
短い遣り取りには、張り詰めた弦から、今正に矢を射らんと構えているような緊迫と、そしてそれを越える焦りがあった。

「唐から長崎へ渡って来たものを、極秘裏で入手したらしい。毒茸から採取されるものと似ているが、それよりも遥かに毒性が強く、異国では罪人の毒殺用に使われているそうだ。が、この毒が、朝鮮朝顔の毒消しになる。・・毒を持って、毒を制すると云う奴だ」
「使った事があるのか」
「無い」
前の言葉に被せるように、間髪を置かず返ったいらえだったが、しかしその調子の強さが、既にこの方法でしか、総司を救う道は無いのだと土方に教える。
「無いが、今は此れしかない」
そしてもう一度、敢えて言葉にする事で、田坂は揺らぎ葛藤する己を断ち切った。



――相川平蔵の復讐劇を、新撰組に知らせたのは瑞枝だった。
それはふっくらとした頬を赤くし染め、息を切らせて走って来た、童の手に握られていた。
おずおずと差し出された紙片は小さく畳まれ、童の手の平の中で出来た握り皺が紙を脆くし、表に小さく松原忠司と名が無ければ、門番もただの戯れと捨て置いてしまった事だろう。
だが幸いな事に門番は、昨年新撰組に波紋を起こした、かの心中事件を覚えており、粗末な紙片は、不審に思われながらも山崎の手に渡った。
 やがてその内容から事態の深刻さを察した山崎により、文は即座に土方の元に届けられたが、目を通した途端、端正を極めるが故に、時に冷酷にすら映る顔(かんばせ)がみるみる強張った。
最後まで読み終えずして文を投げ捨てた土方は、立ち上がりざま、田坂に使いを走らせよと怒声を響かせると、自らはその韻すら消えぬ内に身を翻した。

 視界を邪魔する煙雨を、鋭い刃で切り裂くが如く馬を疾走させる土方と、後を追う山崎が、ひっそりと静まり返る相川邸に辿り着いた寸座、まるでその到来を待っていたかのように、中から錠が外された。
しかし引き戸を開けた者の姿を見た刹那、山崎の思考は、丁度一年前のこの日に一気に引き戻されずにはいられなかった。
それは己の裡で、未だ終止符を打てずにいる事件に纏わる者と、あまりに良く似た面差しだった。
だが両者が紛うことなく別人だと云うのは、目の前の女性は硬い表情の中で青ざめ震えながらも、確かに息をして現(うつつ)に在ると云う事だった。
そして記憶の中の女性は、松原忠司に抱かれるようにして事切れ、堅く閉じた瞼は、二度と開けられる事は無かった。



「俺がやる」
束の間、過去に気を囚われかけた山崎を正したのは、土方の強い物言いだった。
それは山崎に向けられたものではなかったが、聞く者の神経の末端までをも震わせるような、厳しい声だった。
「頭を起こし、喉を真っ直ぐにし、ゆっくりと胃の腑に流すようにして飲ませろ。白湯の一滴でも気管に入れば、押し返す事の出来ない今の状態では気の道が塞がれ、大事に至る」
小指の先程の丸い粒を手の平に乗せ差し出しながら、田坂の視線は、病人から逸らされる事は無い。
ひとつひとつの言葉は確かに耳に届いているのだろうが、土方も又いらえを返す事無く、抱えている身を今少し起こすと、色の失い総司の唇を割り、黒い丸薬を含ませた。
そして直ぐに口を白湯で満たし、微かに開いている唇に己の其れを重ねると、ゆっくりと、小さな固体を押し流していった。

だが微塵の躊躇いも無いと見えた一連の所作の中で、丸薬を含ませかけたその刹那、土方の手が僅かに止まりかけたのを、田坂の視線は捉えた。
それは山崎にも分からなかったであろう、錯覚とも思える一瞬の出来事だった。
それでも田坂の双眸は、土方の恐怖を見逃さなかった。

寸分足りとも違えれば、総司の命脈は其処で絶たれる。
だからこそ生じる迷いは、同じ想いを抱くからこそ、判ずる事の出来る心情であった。
しかしこの時田坂の裡に、相手の思いが己のものとして分かる、其れが故に、突如として湧き上がった感情があった。
それは目の前に存在する者は確かに、同じひとりの者に想いを抱く恋敵であるのだとの、激しい嫉妬心だった。

 今この場にあっても尚断ち切ることの出来ない恋情と云う名の業の深さを、握り締めた拳の中に封じ込め、田坂は、総司の白い喉が微かに上下するたび、ほつれ乱れた黒髪が、まるで生あるもののように揺らめく様を凝視していた。





 雨は上がったのか、それとも降り続いているのか。
或いは。
音すら立てず、しめやかに地を濡らしていた水の雫は、霧に姿を変え、万物を白い帳の中に包み込んでいるのか・・・
だが針の落ちる僅かな音すら憚るような閑寂の中、膝の上に想い人を抱いて座す土方には、例え天変地異が起ころうとも、今は関わりの無い事だった。

「・・総司」
耳元に、唇をつけるようにして名を呼ぶ声に、いらえの戻る事は無い。
そうしてもう幾度、同じ事を繰り返して来たのか、数える事も諦めた。
しかし其れが徒労だと、土方は思っていない。
囁くたび、希(のぞみ)は無残にも打ち砕かれるが、其処で仕舞にしようとは露程も思いはしない。

――確かな証など何処にも無い、しかし唯一縋る事の出来る道を選んだその時から、すでに一刻が経ようとしていた。
相川に飲まされた毒は、未だ総司の身を蝕み続けている。
藍の血管(ちくだ)を透かせた瞼は、突然、怯えるように大きく見開かれ、色を失くした唇は何かを訴えようと、震え戦慄(わなな)く。
だが総司がどのような幻覚を見、恐怖に居ようが、その魂魄を呼び戻す声も、差し伸べる手も届かない。
そうして束の間開かれた瞳は、現の何も映し出す事無く、疲れ果てた身は、土方の腕の中で再び闇に堕ちる。
だが其れは総司にとって決して安息では無く、又新たな夢魔との戦いだった。

幻覚と錯乱、そして訪れる終焉――。
それらを絶つが為に、この手で、この口で与えた薬は、本来人の息の緒を封じる為の毒なのだと田坂は云った。
そして其れしか助ける術は無いのだと知った時、迷う事無く自分は総司の唇を割り、黒い小さな粒を含ませていた。
しかしあの時、刹那にも及ばない一瞬、確乎と決めた自分とは違う、もうひとりの自分が存在したのを、土方は克明に覚えている。
それは紛れもなく、危険な賭けに踏み出す事への、怯み揺らぐ弱気だった。
だが即座に打ち捨てた筈の其れを、今土方は再び思わずにはいられない。
己の選んだ道の先に、果たして希(のぞみ)はあるのか。

「・・総司」
焦燥と煩悶の中で、僅かな光明を見出そうと呼ぶ声は、音にもならない低い呻きだった。
「何処にいる」
それでも土方は問いかけずにはいられない。
「還って来い・・」
沈黙を作ったその瞬間、愛しい者の魂魄は、もう二度とこの掌中に戻る事が無いのではと・・・
そんな埒も無い呪縛に絡めとられている己を、最早自嘲する事すら出来ない。
「俺だ」
呼びかける声は止まる事無く、重いしじまを悪戯に揺らすだけで仕舞いになる。

「・・俺だ・・」
見開かれた深い瞳の、その首筋に顔をうずめ、いらえを寄越さぬつれなさを責める声が、くぐもり途切れた。

 


 
 
 降り続いていた雨は、いつの間にか辺りを霞ませる霧となり、その湿り気が、建物に隈なく染み入り、室を間仕切る紙から張りを無くす。
時の経過を曖昧にするこんな日は、短い秋の日暮れを教える影法師すら見つけられず、急速に薄闇に変わり行く様だけで、一日の仕舞いを知らねばならない。
その時の移り変わりが、端座している田坂の峻厳な横顔に、より深い翳りを落とす。

 老舗の薬問屋小川屋左衛門から、あの丸薬の話を聞いたのは、何気ない世間話の中での事だった。
それが何時の頃だったのか、そんな事すらもう覚えてはいない。
ただ、山深い里で取れる茸から抽出した毒に、唐の国から齎された同じような成分の毒を混ぜ、瞬時に人の息の緒を止めるような強い薬が作られたのは、遥かに昔の事であり、そして其れは武士(もののふ)がこの国を支配する前から、宮中においては頻繁に使用され、そのたびに歴史は塗り替えられて来たのだと――
まるで伽話をするかのように笑って語った小川屋の話は、脳裏の片隅に残っていた。
が、それは田坂の中で、あくまでも記憶として存在するだけのものであり、まさか自ら使わざるを得ない時が来ようとは、夢思わなかった。
だが総司が飲まされた毒が朝鮮朝顔と知った刹那に閃いたのは、小川屋の話していた、この毒だった。
そしてその根拠は、以前、江戸でまだ杉浦と云う姓だった頃、兄兵馬の友人で、医学を学んでいた戸村順次郎宅で読んだ一冊の書物にあった。
その中に、朝鮮朝顔の毒の成分に対抗でき得るものとして、小川屋の云っていた毒を記(しる)してある箇所があった。
人を殺(あや)める毒が、人を救い、又、人を救う筈の薬が、人を殺める。
常に表裏一体を為すこの理(ことわり)は、当時兄への恋慕に苦悩する十五歳だった田坂に、強烈な印象となって深く刻み込まれた。
そして今、その表裏一体と云う逃れられぬ理と、田坂は直面している。
しかも総司のように元来が脆弱な体力の持ち主であり、加えて労咳と云う宿痾を抱えている者には、この治療法は、一塵の重さの傾きとて許されはしない諸刃の剣だった。

しかしもしもこれを賭けと云うのならば、話の中にだけ存在していたこの毒を、小川屋が手元に置いている事自体が賭けであった。
だが早馬を駆けさせ、山崎が戻ってきた時、その手には待ち望んでいた小さな粒があった。
この薬を有している事が他所に知られれば、或いは己の身に厄災が降りかかることを承知で、何も聞かず何も問わず、小川屋はこれを自分に譲ってくれた。
その僥倖を、せめて己の選んだ道への光と信じ、田坂は静かに目を閉じた。

 そうして目を瞑り、全ての弱気を退けた途端、皮肉な事に、胸の裡で激しく葛藤を繰り返している現実が田坂を襲う。
其れは地を這い、狂うような懊悩と云って良い、妬心に他ならなかった。
総司の息の緒を繋ぐ切り道を開く事は、全身全霊をかけてしてみせる。
だが自分が出来るのは、其処までだった。
想い人の魂魄を呼び寄せる事の出来る者は、自分では無い。
其れが出来る、唯一の者――。
背の向こうの、襖一枚隔てた室に在る男の存在が、今嫉妬の焔(ほむら)で己の身すら焼き尽くさんばかりに苦しい。

 その激情を、膝の上に置いた手を拳にして握り締めて堪え、動かぬ時が再び刻み始めるのを、田坂は待つ。
 
 
 
 

 希(こいねが)っていた兆しは、闇に点る行灯の火が風で揺らめいた一瞬、微かに映りを変えた仄明(そくみょう)の中で見出された。
だがその刹那、凝視していた土方の双眸は僅かな吉兆を逃すまいと見開かれ、想い人を抱く腕には、あらん限りの力が籠められた。

「総司っ」
呼びかける声に、反応は無い。
だが薄っすらと開かれた瞼から覗く瞳には、開いているだけだったそれまでとは違い、焦点を合わせ何かを映し出そうとする意思が垣間見えた。
「・・俺だ、総司」
言葉にならぬ呻きでも、音とも云いがたい声でも、最早何でも良かった。
呼びかけに応えよと、身を揺すり名を呼ぶ声が、開いた瞼が再び閉じられてしまうのを恐れるかのように急(せ)く。
いらえを欲し、しかし返してはもらえぬ焦燥だけが悪戯に時を刻む中、その幾度目かに、骨ばった指先が、微かに動きかけた。
その気配を察し咄嗟に向けた土方の視線の先で、総司は震える指の節を折り曲げ、爪を立てて、手を持ち上げようとする。
が、そんな些細な願いすら叶えられる事無く、途中で力尽きた手指は、すぐに床に沈む。
だが総司は、同じ所作を繰り返す。
それは土方の声に、必死に応えようとしている、総司の心そのものだった。
その様を、息を詰め凝視していた土方だったが、やがて己の手を総司の其れに重ねると、猛り狂う恋情を迸らせるかのように、荒々しく、そして強く握り締めた。

「・・俺だ」
今一度、声にした途端、視界の中に在る面輪が、不意にぼやけた。
頬に伝わる何かがある。
だが其れすら意識の外におき、愛しい者に止めた視線を、土方は決して逸らせようとはしなかった。





 水の靄(もや)が、二重三重と静かにつもり、霧を深くしているらしいのを、忍び込む冷気が教えていた。
だがいつの間にか、それを薙ぐ風が起こり始めたらしい。

 直前まで真っ直ぐに点っていた灯心の焔が微かに横に揺らぎ、座す田坂の影にも淡い濃淡を作った。
その様を視野に収めながら、今田坂の神経の全ては、背にしている襖に近づいて来る人の気配に注がれていた。
やがてそれが敷居際まで来て立ち止まり、音も立てず、滑るように開けられた瞬間、止まっていた時を再び刻み始める、新たな気が流れ込んできた。
「今、目が覚めた」
 
 一言一言を、刻むように告げる短い言葉が耳に届いた刹那、田坂は、己の医師としての判断が光明を掴み得た事を知り、ゆっくりと目を閉じた。
そして同時に、恋敵への、苛烈なまでの妬心を鎮めるが為に、握り締めていた拳に力を籠めた。


 






琥珀短編    霧杳(四)