なごりの雪 (壱)




 梅花が盛りの仕舞いを告げ、人々が次なる桜花へ憧憬を馳せる彩り薄いその時期は又、花に浮かれた心を嘲笑うかのように、たちまち凍てた季節へ遡らせる、四時の狭間でもあった。
余計なものを一切削ぎ落とすような冷気が、ものの像をより鮮明にしている今日のような日は、尚一層その感が強い。


「・・待ち伏せか」
世辞にも器用とは云えない互いの性格が邪魔をしてか、さしたる話題も無く無口が続く道程では、あまりに唐突な言葉だったが、しかし告げた一の口調はあくまで淡々としており、それに驚いている様子は無い。
「一さんに掛かったら、待っていた人達も張り合いが無くて、きっとがっかりする」
声音に笑いを含んで揶揄する総司の横顔が、当たる残照でより白く浮き上がる様を、一はちらりと見遣ったが、直ぐに正面へと視線を戻した。
「こちらから仕掛けた方が、いいだろう」
「でも此処はまだ・・」
「待ち伏せされたのは俺達だ。遠慮する事はなかろう」
云い淀んだ原因が、ここが新撰組では無く御定番組の持ち場だと云う事にあると、それを踏まえての一のいらえには応えず、総司はただ困ったように沈黙した。
「律儀な事だな」
そんな隣に、前を向いたまま言い放つ物言いには呆れが籠もる。
「けれど今ここで斬り合いになったら、関係の無い人にも迷惑がかかる」
総司の唇からぽつりと漏れたそれは、決して大きなものでは無かったが、言葉そのものは明瞭な韻を踏んで一の耳に届いた。

未だ日の落ちきらない往来では、家路に足を急がせる者、店先に着いた大八車から荷を下ろし、それを中へ運び込んでいる者、その誰もが、今日と云う日を仕舞うに忙し気だった。
確かに今下手に刀を抜いたら、周りの者を巻き込んでの乱闘になるだろう。
否、血走った敵方の凶器が、関わりの無い者まで傷つける可能性は大きかった。


「だが奴等、昨日今日に新撰組に怨みを持つ輩とも、又違うようだな」
「何故分るのです?」
少しも歩調を緩めず、まるで他人事のように語る長身を、総司が面白そうに見上げた。
向けられた瞳の中に隠せぬ好奇心を見つけ、こんな時にも其方を優先させるこの者の胆の在り処の不思議さに、無愛想を決め込んでいた一の片頬にも、仕方無しの苦笑が浮かぶ。
「今日の形(なり)は、ずいぶん大人しいつもりだが、それでも俺達の顔を知っているとなると、そう考えるのが自然だろうさ」
己の格好を顧みての嘯きは、それが浅葱に白の山形を染め抜いた、どうにも人気の無い羽織と対比させているのだと察した総司の唇から、遂に堪えきれない小さな笑い声が零れ落ちた。
「暢気な奴だな」
「そうかな」
「あの辻まで行ったら走るぞ」
含み笑いのいらえには言葉を返さず、一は用件だけを短く告げ、正面へ向けていた双眸を細めた。
「川原に、人がいないかな?」
「こんな夕刻、寒いだけの川原に出る物好きもいるまい」
総司の懸念は、其処で又関わりの無い者を巻き込む危険は無いかと案じたものだったが、一はその杞憂を素っ気無いいらえで封じた。
「それを・・」
だがじき件(くだん)の辻に差し掛かろうとする寸座、不意に一が、総司の胸の袷辺りを指さした。
「落とすなよ」
云われた其処から、小さな紙片の一端が覗いているのに気付いた途端、総司の頬に、鮮やかな朱が刷かれた。

 紙片は、室町通りが丸太町通りと交差する少し南手前に在る、太物商白砂屋の出している受け証だった。
近江に本店があるこの店は、太物だけでは無く呉服までをも手広く扱い、京、大坂、そして江戸にも店(たな)を持つ、所謂近江商人の典型であった。
それが近年では店を点在させていると云う利を生かし、何れかの店に前払いした金の受け証で、他の地に在る店の商品が購入できると云う、その斬新な商いの手法が評判を呼び大層繁盛していた。

兎に角朝から晩まで、良くもあれだけの女性(にょしょう)が暇と金を持て余しているものだと、一度誰かが溜息混じりに云っていたその話を、普段こう云う話題を振られても申し訳無さそうに笑っているだけで、凡そ関心を示さない総司が耳に止めておいたのには訳があった。
それは脳裏にその姿を思い起こした途端、慕わしさと、懐かしさと、そして少しだけ切ない思いに満たされる姉光への、総司の憧憬と感傷がさせたものだった。

文と一緒に受け証を送れば、光は日本橋にあると云う白砂屋の支店で、好みの織物を手にする事が出来る。
届いたそれで、姉はどのような織物を選ぶのだろうか。
そしてその時、どんな眼差しで、それらを見比べるのか・・・
今も遠い地から、慈愛の限りを注いでくれる姉に、不孝ばかりを尽くしている自分が、何を今更と自嘲してみても、一度馳せてしまった思いは、日に日に総司の裡に膨らんで行った。
そして今日、白砂屋の京の店を任されている者が、一の知り合いである小間物問屋の主と懇意であると知った総司は、躊躇う己を鼓舞して同道を願い、女性(にょしょう)ばかりの客で賑わう大店の暖簾をくぐったのだった。
――折りしも今は、其処からの帰路であった。

その大事な受け証を、凡そ剣客の其れとは似つかわぬ、蒼みが勝る細い指が慌てて懐深く仕舞いこむ様を、視線を動かすだけで確かめた一の体が、つと前に出た。
「走るぞ」
云った時には既に背を見せた一に、寸分の遅れも取ること無く、総司の足も地を蹴った。
その刹那、後ろで大きなどよめきが起ったのは、一瞬虚を突かれた敵が狼狽から立ち直り、一斉に追い始めた乱暴な挙措が、其処に居合わせた者達を驚かせたからに相違なかった。
それを背中で聞きながら、一も総司も走る足を止めない。
あと僅かで、堀川が見えて来る筈だった。
そして川原に下りれば、敵の数がどれ程であろうと、少なくとも関わりの無い人間を巻き添えにする事は免れる。
それが一と総司の出した結論だった。


如何ばかりか走り、やがて視界に飛び込んで来た大路の突き当たりは、路(みち)とは違えて土が盛り上がり、未だ新芽もつけぬ枝を垂れさせている柳が、几帳面な距離を置いて植えられている。
其処が川原に通じる土手と見極めるや、二人の足が一層勢いを増し、金色(こんじき)の光の中、身を低くして駆け抜ける姿は、すれ違う者の目に、さながら一陣の風と錯覚させる。
更にその後を、これは土埃を上げての集団が追う。
それを目に入れた人々は、慌てて大路の端に寄り、身を竦めてやり過す。
そうして突然の災禍が過ぎ去ったのを見届けた者達が、安堵の息を吐くのと同時に眉根を寄せる迄、時に計れば瞬く間の出来事だった。



 二条城の威容をほぼ真正面に捉えて、土手を滑り川原に下り立ち、ふたりそれぞれに敵を迎え撃つ体勢を整えた寸座、総司が彼方の一点に視線を止めた。
「駄目だっ」
そしてやおら振り返り、鯉口に手を掛けた一を認めるや、その先の動きを阻む鋭い声が飛んだ。
それに呼応するように、咄嗟に総司の視線の先を追った一の眸が、次の瞬間険しく細められた。

川の下手から、確かに此方に近づいて来る人影がある。
そう遠い距離でも無い相手の姿は、西日が邪魔をして細部までは分からぬが、こうしている間にもみるみる距離は狭まる。
背に負うている荷物の関係か、少しうつむき加減に規則正しい歩を刻むその人間は、どうやら此方の様子には気づいていない。
あまりの間の悪さに、舌打ちのひとつも零れるのをようよう堪えた一が、再び視線を正面に戻し捉えた敵は、大方の予想通り少ない数では無い。
しかもそれ等は、既に土手を滑り下りようとしている。

「総司っ」
だが敵の動向をちらりと見遣った、その僅かにも及ばぬ一瞬、風が巻いたと錯覚する程の俊敏さで脇を走り抜けた薄い背に、一の怒声が放たれた。
が、言葉返さぬ背は、自ら斬り込む事で敵の注意を逸らせるその隙に、関係の無い者の身を護れと告げて、もう振り向こうともしない。

 粉塵を上げて勾配を滑り、次々に抜刀する者達の先陣切ったそのひとりが、自ら飛び込んできた相手へと、唸りともつかぬ声を発し、真っ向から刀を振り下ろした。
が、誰が見ても、総司と云う標的をしかと捉えて振られた筈の一閃は、意外にも空を切るだけに終わり、勢いを止めきれずたたらを踏んだ男の身が、僅かに前屈みになったと思った刹那、次に周りの者達の目に映ったのは、地に叩きつけられた巨体が、もんどり打って転がる光景だった。
しかも噴出す血潮が無い事から察するに、総司の刃は返してあり、それが峰打ちだったと分かる。

残照を背後から受けて立つ姿は、逆光が華奢な線を朧に霞ませてはいるが、その中に浮かぶ白い面輪は、息しているのを疑う程に冷たく微動だにしない。
しかし足元に転がる男の、目を剥き苦渋に顔を歪ませるその様は、あまりに対極が過ぎて、それが余計に見ている者を怯ませる。
事実、寄せ集めと一目で分かる集団の後方では、後ずさりする者すら出始めた。


だが今目の前で起った一瞬の出来事が、到底現とは信じられず目を瞬いたのは、敵ばかりではなかたった。
それまでの平和な風景の、あまりに唐突な豹変について行けず、商人風の男は呆然と立ち竦んだまま動けない。
その男の二の腕が、不意に強い力で引かれた。
「荷物を捨て、今来た道を振り返らずに走れっ」
又も突然の展開に、今度は驚愕に目を見張り息を呑む男に、一が命じた刹那、此方に気付いてにじり寄っていた敵の一人が、憤怒の形で上段に振り翳して来た。
刃金の重なり合う乾いた音を、一度鳴らしただけでそれを弾き返した一の刀が、そのまま茜色の陽の中で半円の弧を描き、今度は水平に男の腹を薙ぎった。

「走れっ」
川原の石に打ち付けられた男が、土を掴んでもがく様を凝視し、蒼白になっている人間を叱責する声が、更に険しくなる。
それは背面の川を唯一の盾に、向かい来る敵を一閃だけで倒している総司の元へ、こうしている間にも駆け付けたい一の焦りだった。
しかも相手方は、標的が二分された事を優位と捉えたようで、何人かは総司では無く、一との間合いをじりじりと詰めてくる。
「早くしろっ」
焦燥が繰り出した怒声に、一旦男は身を強張らせたが、しかし皮肉にもそれが今己の置かれた状況を把握させる切欠になったらしく、庇い立つ一の背に向かい、生唾を呑み込むようにして頷くと、慌てて身を翻した。
が、不意の体勢の変化は、川原の石に足を滑らせる結果となり、男は一瞬大きく体を揺らし、地に片膝をついてしまった。
視線を、僅かに後ろに流し、その様を捉えた一の面に厳しさが走る。
この展開は、人ひとりを庇って敵と対峙せねばならないと云う、厄介な条件が出来た事に他ならなかった。
それを視界の端で捉えて見た総司の胸の裡にも、新たな焦りが起る。


――だが緊張の均衡を強いられる牽制は、思ったよりも早くに崩れる時がやって来た。
しかもどうやら天の采配は、一と総司の二人の上に齎されたようだった。

それまで周りにある殺気、気配、それら全てを隈なく網羅する為に神経を集めていた総司の耳を、ほんの僅か、或いは吹き抜ける風と聞きたがえる程に、まだ音と判ずるにも難しい響きが霞めた。
風に乗って細く届くそれが呼子だと、そう察した瞬間、構えを崩さずにいた総司が、又も自ら敵陣へと飛び込んだ。
その突然の動きは、相手に何が起ったのかを判ずる暇(いとま)も与えず、虚を突かれて囲いが乱れるや、総司の刀は既に一人の男の右肩を強か打ち抜いていた。

刀の峰で肩を割られた男は、呻き声ひとつ発する事無く、傾いだ体勢のまま、不精髭の横顔を地に叩き付けた。
それとほぼ同時に、川上からの笛の音が、今度は吹きすさぶ風を劈く勢いで辺りに大きく響き渡った。

動揺は、敵方に顕著に起った。
所詮は数を頼みの烏合の衆、一度形勢不利と見極めれば、当初から戦う意志無く後方にいた者から徐々に後ずさりを始め、二歩三歩遠のくと、直ぐに無防備な背を見せ四つんばいになり、我先に土手を駈け上がり出した。
その間にも呼び子の音は一層激しくなり、しかもそれはひとつでは無く、次々に重なり合って近づいて来る。
それでも残った一握りの敵は、暫し対峙する姿勢を崩さずにいたが、それにも限度があったようで、川原に生える枯れた葦の群が一斉に揺れたそれが合図のように、一番前列に構えていた男が、総司に鋭い一瞥をくれるや顎をしゃくり、後ろに居る者達に退却を促した。

倒れている者を幾人かで抱え、呼び子の聞こえる方角とは逆の、川上へ向けてまばらに走り出した集団を追わず、総司の足はそれとは逆の川下へと走り出していた。



「一さんっ」
叫び声に振り向かない背の主は、地に膝をついている者の脇から腕を差込むと、それを梃(てこ)にして男の身を起こした。
「・・怪我をしたのですか?」
「足を捻ったらしい」
息を整える間もなくその反対側に回り込み、自分も又、立っているのがやっとの様子の男を支えながら問う総司に、漸く一のいらえが返った。
だが当の本人は痛みを堪えるのに精一杯らしく、唇は堅く結ばれ、歪められた横顔の額には、この季節だと云うに冷たい汗が滲んでいる。
それでも横に来た人間が、自分を庇ってくれる者だとは分かったらしく、苦しげな面が総司に向けられ、言葉にして詫びる事の出来ないもどかしさの代わりのように、薄く開いた目が瞬いた。
「奴等・・面倒だな」
その相手の様子に一旦は安堵の色を走らせた一だったが、土手に集まる人影をちらりと見遣るや、少々苛立たしげな呟きを漏らした。

 京の治安は、御定番組、見廻組、京都所司代、新撰組が各々持ち場を決めて預かっているが、各組織の間柄は決して良好とは云えない。
むしろ新撰組はその実践力が故、他の組織からは疎まれる傾向にある。
先程総司が危惧したのは、その摩擦を少しでも避けようとする思いからだとは、一も承知している。
折角敵を撒いても、町役人に関わられては、余計に厄介が生じる可能性が高かった。

「あの橋のたもと・・身を隠せないかな」
その一の思案を知ってか知らずか、不意にぽつりと、まるで独り語りの呟きにも似て、視線を遠くの一点に止めた総司の唇が動いた。
それにつられるように見た一の視界の中に、確かに橋げたをぐるり一巡した草叢が入った。
冬の残骸のように枯れて水気の無いそれは、しかし色の抜けた茎の頑丈さが、地に蔓延る根の強靭さを見せ付け、確かに屈めば人の姿位は隠してくれそうに生い茂っている。

「ここよりはましだろうな。・・少し辛いだろうが、辛抱してくれ」
其処が面倒を回避出来る唯一の逃げ場と判じ、痛みに顔を歪めている相手に告げた一が、少しでもその負担を避けさせるように、ゆっくりと歩を踏み出した。



――元々深く関わるつもりが無かったのか、それとも早々に諦めたのか。
町役人と思われる幾人かは、川原まで下りて来たものの、其処に斬り合いがあったと云う証が見つけられないと知るや、思いの他あっさりと引き上げてしまった。
或いは浪人同士の摩擦など日常茶飯事の昨今、其処に遺骸でも転がっていない限り、深入りするのを避けているのかもしれなかった。
だがどちらにせよ、自分たちの有利に働いたその事は、天に感謝をせねばならない。
が、そんな思いこそ、らしくも無い己の殊勝だと自嘲する一の口元が、僅かに緩んだ。

「一さん?」
その様を目ざとく見つけた総司が、不思議そうな声を漏らした。
「何でもない」
それに短いいらえを返し、一は総司では無く、後ろに蹲っている男を顧みた。
「あんた、大丈夫か?」
向けられた憂慮に、慌てて頷いた男の顔には、しかし消えぬ痛みにまだ難儀している様が、ありありと残っている。
「・・えらい御迷惑掛けてしもうて、申し訳の無い事です」
漆黒の天に稲びく雷(いかずち)のように、突然我が身に降りかかって来た災難はどうやら遠のいていったのだと、この者なりに判断したらしく、痛めた左足を庇いながらのぎこちない動きではあったが、男は一と総司に向かって深くこうべを垂れた。
「巻き込んで、迷惑をかけてしまったのは私達なのです。・・あの、足は?」
思いもかけぬ相手の誠実に狼狽し、一度傷めた足へと視線を移し、再び見上げて問う総司に、男は緩く首を振ると穏やかな笑みを浮かべた。
「大したことおへん」
だがそう告げた途端走った痛みに歪められた顔が、案じてくれている者への、それが精一杯の偽りだと知らしめる。
「動いては駄目です」
更に体勢を変えようとした男の顔が、又も顰められる様を見て止める総司に、今度は少々決り悪そうな笑い顔が向けられた。
「主人の云う事をきかん、厄介な足で困ったもんです」
それでも笑いながら語りかける言葉の調子に籠もる朗らかさが、少しずつ引いて行く痛みから戻った男の余裕なのだと察した総司の面輪にも、漸く安堵の笑みが浮ぶ。
その遣り取りを、無言で見ていた一だったが、つと視線を、今はもう誰も居なくなった川原へと移した。
そうして暫く辺りを探るように見極めていたが、人気の無いのを確かめるや、ゆっくりと総司に向き直った。
「伊庭さん、今京だったな」
不意に告げられた人の名が、今この場の状況とどうして結びつくのかそれが分からず、深い色の瞳が怪訝に一を捉えた。
「呼んで来る」
「八郎さんを?」
声音には、明らかな不審があった。

確かに将軍警護の御役を頂戴する八郎は、大坂と京を行き来し、今は将軍家茂の上洛に伴い、二条城北の所司代屋敷を寓居としている。
そしてその所司代屋敷は、ここから目と鼻の先に在る。
だがだからと云って、突然一が八郎の名を出すその意図が、総司には解せ無い。

「この人を何処に送るにしろ、駕籠を拾うのに、一度は人目に付く場所に出なければならない。例え捕まって問われても、奥詰なら御定番組とて文句が云えまい」
万が一を考慮しての苦肉の策だと、一の片頬に苦笑にも似た薄い笑みが浮かんだ。
「ならば私が行く」
それでも総司は納得の出来ない面持ちで見つめていたが、こうしている間も惜しむように一が立ち上がろうとすると、慌てた声で止めた。
八郎との関わりを考えれば、今其処に行くのは自分の方が良かろうと主張する総司の瞳は、疑いも迷いも無い。
「いや、お前はその人を見ていろ」
だが意外にもそれをあっさり退けると、一は今度こそ立ち上がった。
「でもっ・・」
「今のお前より、俺の方が早い。分かっている筈だ」
更に異を唱えようとした言葉を、今度は容赦無い物言いで遮った目が、聞かぬ者の駄々を厳しく叱咤していた。
その視線を、一瞬強く跳ね返した瞳にある勝気を封じ込めるかのように、一は無言で背を向けると、枯れた葦の原を掻き分けて歩き出した。

――長身の後姿が、視界の中でみるみる小さくなるのを、総司は呆然と見つめている。

一は、知っていた。
あの浪人の幾人かを相手にした、たったそれだけで、悲鳴を上げてしまった自分の肺腑を。
そうして息を繰り返す度に、錐で揉まれるような痛みを、今も必死に隠さなければならない自分を。
だからたった半里にも満たない距離を走る事すら無理だと判断し、自らが使者に立った。

労咳と云う宿痾に蝕まれているとは云え、主治医の田坂の精魂傾けた治療により、幾度か床につくことはあったが、それでも何とか今まで隊務をこなして来ることが出来た。
が、病は確かに内に宿り、攻撃する手を休めてはいなかった。
激しい動きをした時に息の上がるのが、一月前よりも確実に早くなっている。
しかも時折胸を裂くように走る痛みが、ここ二日程は間隔を置かずに頻繁になり、昨夜はとうとう眠れず過ごした。
それは即ち、急速な病巣の浸潤を意味するものだった。
だが最近の己の身の異常を、総司は自分自身にすら知らぬ振りを決め込んでいた。
医師の鋭い観測ですぐさまそれを察し、厳しい顔を見せた田坂に、変わりは無いと笑って偽りを告げたのは、五日前の事だった。
が、そうして必死に護り通そうとした秘め事を、一は難無くを見抜いてしまった。
たった数日の時の経過は、それ程までに己の身を弱らせてしまったのか。
その事実が、総司の心を底の無い漆黒の闇へと引き摺り込む。
胸の裡を、情けなさと、不甲斐なさと、そして悔しさが交互に綾なす。


「・・あの」
一瞬忘我の淵に身を置いていた総司に突然掛かった調子は、迷った末と云うような、遠慮がちなものだった。
その声に慌てて伏せていた瞳を上げ、向けた視線が捉えたのは、幾分憂いを含んだ男の顔だった。
「お顔の色が、大層わるおす。何処か切ない処が有るのと違いますやろか?」
左足を庇うようにして、少しだけ身を前に進めて問う双眸にある憂いの色は、相手の様子を真摯に案じているものだった。
「・・すみません、何でも無いのです。それよりも、足は本当に大丈夫でしょうか?」
返すいらえを、そのまま気遣いに代えて誤魔化しても、浮かべた笑みがぎこちなく強張るのが総司自身にも分かる。
「直ぐに戻ると思います。もう少し待って下さい。そうしたら貴方を家まで送って行く事が出来る」
それを隠す為に、告げるや否や、一の消えた方向へと面輪を向けてしまった総司に、相手も掛ける言葉を逸したように黙した。

 見ず知らずの人間にまで懸念を持たせるような、そんな顔を、今の自分はしているのだろうか・・・
暗澹たる思いに沈む自分を知られまいと、遠くを探る振りをする事で、相手の視線から逃げてしまった己の意気地の無さを、罵倒したい情けなさの中に総司はいた。


「足はそのうち治りますやろ。せやから気にせんでおくれやす。けど・・」
だが男はその総司の心中をどう取ったのか、明るく言いかけて途中で止めた言葉の続きを、可笑しそうな含み笑いに変えてしまった。
その変容に、漸く総司も振り向いた。
「おたくさんも、うちも、ほんま、間が悪うおしたな」
総司がそうするのを待っていたように、言葉は直ぐに続けられたが、今度は意図を判じかねた深い色の瞳が怪訝に瞬くと、男はとうとう声を上げて笑い出した。
「堪忍しておくれやす。せやけど、うちも今日は商いが上手い事いかんで、気晴らしに川原でも歩いてみよ、そう思うていつもと違う道を選んだら、あないな目に遭うてしもうた。・・おたくはんらかて、うちがあないな処におらんかったら、もう少しましなやっとうが出来たんと違いますか?」
衒いも無く言ってのける顔は、心底そう思っているようで、同意を求めて向けられた眼差しは柔らかい。
「・・でも巻き込んで迷惑を掛けてしまったのは、やはり私達の所為だから」
「お相子ですやろ。けど命助けてもろうたうちは、おたくはんらには、えらい恩が出来てしまいましたなぁ」
目尻に笑みの名残を留めて、穏やかに語られる言葉のひとつひとつが、総司の裡に不思議な程に速やかに入り込み、それまで雁字搦めに心を縛っていた縄手を解いて行く。

「うちは直次云います。お礼が後先になってしもうて、えらいすみません。・・助けてもうろうて、ほんにありがとうございました、おおきに」
言い終えた途端、先程よりもずっと深く下げられたこうべは、そのまま中々上げられようとしない。
「どうか頭を上げて下さい」
相手に向け差し出した手を、一瞬躊躇って止め、しかし直ぐに又伸ばして肩先に触れ、そうして告げる総司の声には、あまりに直裁にぶつけられた好意に、どう応えて良いのか分からぬ狼狽と困惑が交じる。
「じきにもう一人、助けが来ます。ですから、あの・・」
頭を上げて欲しいと促す必死は、それが嘘をつけぬ不器用な真摯と相手にも伝わったのか、漸く顔を上げて総司を映した双つの眸には、慕わしげな色があった。
「おおきに」
やがてもう幾度目かの礼の言葉と共に笑った顔につられるように、総司の面輪にも小さな笑みが浮んだ。
歳は幾つか上なのだろうが、端正と云って良い造りの顔は、万人を相手にそつ無く世間を渡らなければならない商人と云う仕事柄か、若さに似合わぬ落ち着きがある。
だが直ぐにその視線が、何かを探すように落ち着かなく辺りを見回したのに気付いた総司に、直次と名乗った男が、照れくさそうに困った顔を見せた。
「すみません、捨てて来た荷物が気になってしもうて・・大したもんやおへんのですけど、命が助かったと思うたら、もうそないな心配ですわ。商人(あきんど)云うもんは、ほんま図太い神経してますわ」
冗談めかして告げた口調は柔らかだったが、それでも僅かに浮かべた憂いは本物に相違ない。
背負うた荷を売り商いをする身ならば、その商売道具が無ければ、きっと明日からの仕事にも事欠くだろう。

「探してきます」
「かましまへんのやっ」

止める叫び声よりも早く、薄い背が、金色(こんじき)の陽すら四方に散らす、凍てた風の中に飛び出していた。









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