なごりの雪 (弐) 根にも葉にも、湿り気などひと滴も無いだろうと思える枯れた草でも、踏みしめれば起き上がろうと、無遠慮な者への抵抗を見せる。 川原の石は、流れ来る途中で角が取れて丸くなった分だけ滑り易く、急ぐ足の邪魔をする。 身を潜める時は必死で、そんな事にまで思いを巡らせる余裕など無かったが、いざひとつ物を探すとなると、足場の悪さ、そして川原の広さに閉口する。 加えて、直ぐに見つかるだろうと高を括っていた愚考を笑うかのように、川上から吹きすさぶ風が、総司の髪も衣も全てを、後ろへ後ろへと浚う。 それをやり過ごそうと瞳を細めて視線を下にした時、傾きかけた陽が煌くばかりの視野の中に、ぽつんと殺風景な影が飛び込んできた。 風呂敷に包まれ、放り出されたように在るその四角の箱が、探していた代物だと判ずるや、総司の面輪に漸く安堵の色が浮かんだ。 だが其処に向かって走り出そうと身を動かした刹那、僅かに開いた唇の隙を狙って入り込んだ冷気が、雷(いかずち)の一瞬よりも疾く、総司の喉を滑り肺腑を貫いた。 その瞬間、胸を裂かれるような激痛に、息が止まった。 更に間髪を置かず襲った咳に、気の道は塞がれ、大きく波打つ背と共に膝が折れ、華奢な身が震えながら地に崩れ落ちる。 片方の手指で口元を覆い、もう片方のそれは堪え処を求めるように、枯れた葉を掴み、それでも足りず、指は土を剥ぐ。 ――そうして経た辛苦の時は、如何ばかりのものだったのか。 ようよう治まりを見せた咳の合間に、荒い息を繰り返しながら薄く瞳を開いた総司だったが、つと落とした視線が捉えたのは、己の手の平を染めた鮮やかな朱の色だった。 だが咄嗟に指を折り、その禍禍しい証を自分の視界から隠すと、まるで今起きた出来事を現から切り離すかのように、総司はゆらりと立ち上がった。 が、その寸座、完全な体勢に身を整える間もなく、薄い背に異常な緊張が走り、すぐさま振り返った瞳が映し出した人の像に、蒼い面輪が強張った。 呆然と凝視する総司の様子など意に介する風も無く、直次は不自由な足を引き摺り際まで来ると、其処に屈みこみ、腰に下げていた竹筒を抜き去り、同じように印籠から紙の包みを取り出した。 「ただの塩です。けど、血止めになります」 竹筒の水に、包みの中の粉を入れて溶くと、それを言葉の無い総司に差出しながら告げる声には、相手の身を案じる真摯がある。 「薬にもならんけど、飲まんよりはなんぼかええ」 柔らかな物言いで促す主に、まるで精巧に細工された人形のように表情を無くした硬質な面輪が、漸く微かに振られて否と応えた。 「けど・・」 「・・すみません、大丈夫です」 相手の好意に礼を云って浮かべた笑みが、ひどくぎこちなくなるのが分かったが、それを取り成す術が、今の総司には無かった。 掌に鮮やかに刷かれた朱の色を、見られたと―― その狼狽だけが、総司の裡を占めている全てだった。 そんな総司を、直次は無言で見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。 「新撰組の、沖田はん・・」 告げた途端、自分に向けられた双つの瞳の中で揺れていた色が、瞬時に警戒のそれへと塗り替えられたのを目の当たりにして、直次が少しだけ頬を緩めた。 「驚かせてしもうて、堪忍でっせ。さっきの浪人達が、そう言うてましたんや」 総司の気丈な視線にあっても、風に靡く枯草の気侭とも似た、淡々とした物言いは続く。 「うちは、あんたはんが何処の誰でもかましまへん。命助けて貰ろうた事には、変わりおへん。けど、新撰組も、御定番組もそれから奥詰も、・・今はあきまへんのや」 あまりに唐突な言葉は一時総司を混乱させたが、しかし皮肉な事に、直次の真意を読み取ろうと動き始めた思考が、失っていた余裕を取り戻すに功を成した。 「あなたの云っている事が、分からない」 暫く沈黙にいた声は、先程の咳で酷使した喉に更に負担をかけたようで、短い言葉ですら掠れたが、それでも直次を捉えている瞳には険しさが増す。 「うちの事を、放って置いて欲しいのですわ。あのもう一人の若いお侍はんが来られる前に、うちはここから去ります。・・助けて貰ろうて、ろくに礼も言わんと姿消すんは心苦しい限りやけど、どうか堪忍しておくれやす」 「でも足がっ・・」 「足は大事おへん。これくらいの痛みなら、もう歩いて帰られます」 「けれど先程の浪人達が、まだ何処に潜んでいるか分からない」 「その時は、その時ですやろ」 「それならば、行かせられない」 迸った若い一途に、それを見つめる眸が細められた。 「沖田はん、お相子・・云うんはどうですやろ」 少しばかり困った風な笑みが、直次の顔に浮かんだ。 「沖田はんは、うちが尻尾巻いて逃げた事を呆れて追わん。うちは・・」 淀みない口調が、其処で逡巡するように一度途切れたが、それも少しの間の事で、思いきったように直次は総司を見遣った。 「うちは、沖田はんの手の平を染めた朱いもんを、見んかった。せやし、あの若い方にも、何も云わへん」 感情と云うものを、再び氷室に閉じ込めてしまったかのように光りを失くした瞳に向かい、微かに笑いかけた主の胸の裡にも、この若者の触れてはならない深部をえぐってしまった悔恨と贖罪が交差する。 「これで、お相子ですわ」 だがその感傷に引き摺られるのを厭い、殊更素気無く告げると、直次はゆっくりと立ち上がった。 「おおきに、・・そして堪忍」 商いの荷物を、肩から滑らせるようにして背に負い、無言のまま見つめる総司に深くこうべを垂れ踵を返すと、直次は二度と振り返らず、不自由な足を庇いながら歩き始めた。 その後姿が段々に小さくなり、やがて一面を染め上げる茜の光華に紛れ、影すら見つける事が出来なくなっても、総司は立ち竦んだまま、直次の消えた先を見つめていた。 木枯らしにも似た寥寥とした風が、もう感覚すらなくす程肌を凍てつかせても、総司は暫しそうしていたが、しかし瞬く事すら忘れたように動きを止めていたその瞳に、不意に光が宿った。 次の瞬間後ろを振り返った視線が捉えたのは、此方に走り来る、見紛う事無き者達の姿だった。 咄嗟に己の口元に手を遣り、指で唇を拭い、そうしてもう其処に新たな朱の色を無いことを確かめると、総司は八郎と一を迎えるべく、風を背に受けて歩き始めた。 「総司・・」 耳朶に触れて囁いても、この愛しい者には、果たしてそれが届いているのか・・・ 呼ぶ声に、微かに開いた瞼から覗く瞳は苦しげに視線を彷徨わせ、膨れ上がった水輪が眦に溜り、ひとつの雫となって黒髪の狭間に消え行くそれすら、総司には意識の外の出来事なのだろう。 覆い被さる広い背に縋る、指の先に籠められた力が、加減を知らず膚に肉に食い込む。 だがそれすら、総司が己を迎え入れる為の辛苦の堪え処と承知すれば、立てられた爪の痛みも、土方にとっては更なる昂ぶりを呼び起こす糧にしか成り得ない。 想い人を今苛んでいるものが、悦びの開放へと摩り替わるその時まで、果たして此方が辛抱できるのか・・・ 試されているのは自分に相違ないと笑うする余裕すら、最早土方には残されていない。 せわしく息する者の額に浮ぶ汗を拭い、眦から零れ落ちる露を含み、浮き出た鎖骨をなぞり、組み伏しているこの身の、隈なく全ては自分のものだと知らしめるように肌を這う舌は、総司の強張りを少しずつ解いて行く。 その隙を見計らい、内に潜んでいた土方の熱が強引に深部を穿った刹那、くぐもった声と共に、侵入者の腕によって動きを封じ込められていた腰が跳ね上がろうとし、しかし敵わぬ辛さに、弓なりに撓った胸が喉首が、極限まで弧を描いて、切なさと悦びの形を同時に露にした。 「・・総司」 裂かれた身の中心から、脳髄まで震えさせるような熱の激しさを恐れ、抱く腕の内から逃れようとする抗いを、閉じた瞼から溢れる滴を掬ってやりながら、吐く息だけで耳朶に囁けば、再び覗いた瞳は虚ろに声の主を探す。 「俺だ」 お前の内に在るのは確かに自分なのだと、そう知らしめる事で、苦しみの時から悦楽のそれへと誘う声音には、限りない愛しさが籠もる。 やがて食い込むようにして背に縋りついていた総司の指から少しずつ力が抜け、拒み続けていた侵入者を緩やかに受け容れ始めたその兆しを掴むや否や、今度は荒々しいばかりの強引さで、土方は己の昂ぶりを刻み込む。 切なげな喘ぎも、苦しげに寄せられる眉根も、それら一切に知らぬ振りして、土方は容赦無い激しさで攻め上げる。 待ち焦がれていたこの一瞬を、決して逃さぬように。 お前は自分のものなのだと―― 爪の先も髪の一筋にも、隈なく全てに刻み込むように。 天に地に人に、誰憚る事無く、この者は自分のものなのだと、見せつけ知らしめるように。 そうして何よりも己自身に、総司は我が掌中にあるのだと、この腕にあるのだと、そう確(あきら)にする為に。 唯一自由の効く上半身を仰け反らせ、そうして床についた頭(こうべ)の先を右に左に振り、昂ぶりの果てに籠もった熱の開放をねだる薄い身が、限界を伝えるように小刻みに戦慄く。 高みに上り詰めたいのだと、もう許して欲しいと、再び背に立てられた指が切なく食い込む。 「・・一緒だ」 想い人の、朱に染まる首筋に唇を這わせ、そして一気にそれを遡らせて耳朶を噛んで告げた途端、皮膚を滑る濡れた刺激に、総司の身が一瞬強張り、同時に白い喉首が折れんばかりに仰け反り、切ない吐息を漏らすに終始してた唇から、棚引くような細い悲鳴が迸った。 荒い息を吐く度に、鎖骨の窪みが深くなり、薄い皮膚を纏った骨は、鋭利な凶器のように、くっきりと尖った形を顕にする。 閉じた瞼の際を縁取る睫は、時折揺れはするが開く気配は無い。 右の掌を翳し、未だ夢と現の境を見極められぬ者の額に浮いた珠の汗を拭い、そのまま濡れた前髪を静かにかき上げてやると、攣られた皮膚が、紫(ゆかり)の血管(ちくだ)を透けさせた瞼までをも引き、露に滲んだ黒曜石の深い色にも似た瞳が微かに覗いた。 「・・昼間、何処に行っていた?」 己と違(たが)う処で魂をたゆとうている、今その一時すら我慢のきかぬ勝手を自嘲しつつ問う声音には、苦い笑いが籠もる 「何処に、行っていた?」 鈍い動きで向けられた瞳に合っても、土方の問い掛けは執拗に止まらない。 だが現に戻りきれない意識は、言葉の意図を理解できず、総司はぼんやりと土方を見つめている。 それでも応えられぬのが気がかりなのか、弛緩したように力の抜けていた指が、いらえの代わりのように、おずおずと伸ばされた。 「斎藤と、出かけたのか?」 それを受け止め握り締めてやりながら、しかし見つめる視線の強さは、疾く沈黙の砦を解けと命じる。 「・・さいとう・・さん?」 戻りつつある思考に、親しい人間の名を刻み込まれたそれが切欠だったのか、潤んだ瞳が、初めて現を映し出す光を帯びた。 「そうだ。斎藤と、何処に行って来た?」 だが頼りなく繰り返す声に頷いてやるでも無く、土方は更にいらえを促す。 悦楽の余韻に漂う事をも許さず、想い人に向けた無粋な問いは、どうにもならぬ己の妬心がさせているとは、嫌と云う程分っている。 この愛しい者への、飽くなき業の深さには、もう自嘲などと生易しい言葉では到底及ばない。 それを承知しながら、尚も堪えの効かない己を嘲る土方の唇の端に、微かな笑みが浮かぶ。 「・・室町通りにある、店に・・」 「店?」 その土方の心裡など知る筈も無く、怪訝な声に頷く総司の仕草が、まだ緩慢だった。 「・・白砂屋と云う、店なのです。・・一さんの知っている人に紹介して貰って・・それで二人で」 ぽつりぽつり、漸く唇から漏れる言葉は、整わぬ息が邪魔をして、聞き取るに難儀する。 「室町通りの白砂屋・・太物屋のか?いずれかの店で半券を買い入れれば、江戸でも大坂でも、其処に在る支店で代物を受け取れると云う、確かそんな商売だったな」 直ぐに其処まで言い当てた情報力に、常ならば驚きに見開かれる筈の瞳が、未だ鈍い反応しか示さぬ事に苦笑しつつ、しかしそれを限りなくいとおしいと思う心は、そのままこの者を欲する昂ぶりになる。 だがこれ以上は、想い人の脆弱な身には負担となる。 一旦駄々を捏ね始めれば、もう止められなくなる己を鎮める為に、土方はやおら半身を起こした。 その動きに敏感に反応した総司が、仰臥している床に広がる黒髪に緩やかな波紋を作りながら、離れ行く温もりの主を見上げた。 「光さんの処へ、送るのか?」 不安そうに見つめる瞳に、問う物言いが、己の勝手な事情を隠す分だけ柔らかになる。 「・・ずっと文を書いていなかったから」 「不孝な奴だな」 言い訳を告げる面輪が、和らげた声音の、たったそれだけで正直に安堵の色を浮かべるのに苦笑しつつ、共に身を起こそうとした総司の背に腕を回し、それで支えてやる土方の胸の裡を、しかし一瞬の翳りが走る。 ――総司の姉光は、かねてより弟の脆い肉体を案じていた。 浪士組に参加し、京に上る弟の意志を知った時、常にたおやかな風情の優しい人が、その時ばかりは誰よりも強固に反対をした。 それに負けぬ激しさで、総司は己の思いを貫こうとし、結局光が折れる形となった時、かの佳人の面に浮かんだ寂しげな色を、土方は今も鮮明に覚えている。 だが江戸に残れと総司に諭す事を、自分は敢えて避けた。 否、光の意向に沿うよう、総司を説得する意志は端から無かった。 総司は常に己の傍らにいるのだと、いつの間にか自分の裡には、その信念が揺るがぬものとなっていた。 思えばあの時、光の懇願に知らぬ振りを決め込んだ自分は、既に人を捨てた夜叉になっていたのかもしれない。 「・・土方さん」 だが一瞬現を離れてしまった土方の思考を引き戻したのは、遠慮がちに呼ぶ小さな声だった。 それにつられてふと視線を移せば、近い位置から見つめている深い色の瞳が、不意に黙り込んでしまった相手の意図を判じかねて、不安に揺れ動いている。 「伊庭が、来たそうだな」 らしくも無い感傷を断ち切り、脇にあった夜着を薄い肩に掛けてやりながら、何気なく突いて出た言葉は、しかし意外な事に困惑に居た者を更に動揺させる結果となった。 その刹那、細い線で丹念に描かれた面輪に、あからさまな狼狽が走り、一瞬の内に硬質なものへと変化した。 「どうした?」 その僅かの変化を見逃さず、土方の声が怪訝にくぐもる。 「何でも無いのです」 即座に返ったいらえは、だが総司の心裡に起った乱れを、そのまま映してぎこちない。 「あの・・、つまらない事で八郎さんを怒らせてしまって・・少しその事を思い出してしまったのです」 それを自分でも察したのか、更に付け足す言い訳は、あまりの必死が余計に土方に疑心を植え付け、総司を見つめる双眸には、拙い嘘を諌める厳しさが増す。 「珍しい事だな」 真実を語れと命じる声音は、静かに低い。 だが追い詰められた先の無さは、逆に総司を堅牢へと籠もらせる。 「本当に、大した事では無いのです。素直になれなかった、私が悪かったのです。・・明日、非番だから謝りに行ってきます」 言い切って見上げた瞳には、頑なを解かない強い色が宿っていた。 それを暫し無言で見つめていた土方だったが、これ以上の詮索は、総司の心を更に裡へと籠もらせるだけだと判じたのか、ゆっくりと立ち上がった。 「・・土方さん」 「水を、持ってくる」 戸惑う声には振り向かず、乱暴に夜着を纏い、前を結びながら出て行く背を、掛ける言葉も無く、総司は黙って見送った。 やがて静かに襖が合わさった時、瞬きもせず見つめていた瞳が伏せられ、きつく結ばれた唇から遣る瀬無い息が漏れた。 ――あれから。 戻った一にも、駆けつけた八郎にも、直次と名乗った男の消えた事情を、厄介ごとに巻き込まれるのを嫌うが故に一人で帰ることを望み、それを止められなかったのだと総司は説明した。 あまりに拙い偽りは、案の定、聞いた者の裡に疑惑だけを残したようだったが、ふたりとも敢えてその事には言及しなかった。 それどころか無駄足させてしまった事を詫びる総司に、意外にも八郎は、屯所まで同道すると言い出した。 しかも驚いた事に、一までもがそうする事に異議を唱えなかった。 だがそれを為す理由が、自分の身を案じてくれてのものだと判じた途端、総司の唇を戦慄かせて迸ったのは、激しい拒絶の言葉だった。 が、八郎はその総司の抵抗に臆する風も無く、常と変わらぬ淡々とした風情で背を向けると、屯所への道を先に立って歩き始めた。 そして一も又、無言でそれに続いた。 やがてずんずん遠くなって行く二人の姿に促されるように重い一歩を踏み出しながら、何よりも自分を苛立たせているその一番の源が、今の状態では、事が起こった時に足手まといにしかならない我が身への不甲斐なさに起因しているとは、総司自身も嫌と云う程承知していた。 全ては八郎への甘えなのだと、分かりすぎる程に分かっていて、尚それを止める事が出来なかった情けない自分に、膚を嬲る風の厳しさの中、総司は唇をかみ締める他己を戒める術が無かった。 詫びに行かなくてはならない、そう思う心は嘘では無い。 けれど身体の事に触れられるのには、どうしても素直になれない。 己の胸に巣食う魔物は、胸だけで無く隅々まで隈なく冒し続け、いずれは血の一滴も残さずこの身を滅ぼすのだろう。 だがそれが与えられた定めならば、天命を恨む気持ちも、恐れる気持ちも無い。 恐れているのは、其れが故に、土方に置いて行かれる唯その時だ。 土方の傍らから離れる事は、もう出来無い。 互いを唯一無二のものだと、その想いを許された途端、自分は何と意気地の無い人間になってしまった事か。 置いて行かれるのならば、その時の来る前にこの身を亡くしてしまいたい。 置いて行かれる前に、置いて逝きたいと願うのは、傲慢な事なのだろうか。 置いて行かれるのは・・・ 「・・嫌だ」 我知らず漏れた呟きは、しかし其れこそが、真実の迸りだった。 だがその刹那、垣間見せた弱気を嘲笑うかのように、抉られるにも似た激痛が胸を貫き、総司の息を封じ込めた。 額から頤へと伝わる冷たい汗を拭うことも出来ず、息を吐くことも許されない辛抱の時は長い。 羽織った夜着の袷の辺りを握り締め、痛みを堪える指先には、骨すら折れかねない力が籠もる。 それでも少しも早くにこの痛みを取り去らなくては、土方が戻って来てしまう。 見送った時と同じ顔で、同じ仕草で、何一つ変わりの無いそのままで、自分は土方を迎えなければならない。 その焦りが、総司に大きく息を吸い込ませた。 しかしそれを狙いすましていたかのように、一瞬にして外気は凶器へと姿を変え、脆い肺腑を劈いた。 吸った冷気が熱い咳となって喉を遡って来るのと、己の身がゆっくりと床に倒れ行く感覚が同時で、その寸座、聞き違うことの無い土方の声が、耳に幾重にも木霊した。 それに応える事も敵わず、朧だった視界が、斧で断たれたように閉ざされたのが、総司の最後の記憶だった。 「肺腑を覆う膜が、炎症を起こしています」 近藤、土方を前に、田坂の声は、常よりも幾分低めではあるが、医師としての冷静さを失ってはいない。 「それは肺の病の所為だろうか」 病状が進んでいるのかとは敢えて云わず、他の言葉に置き換えて問うたのは、是だとのいらえを聞くに躊躇する、近藤の苦しい心裡だった。 「この病自体は、風邪をこじらせても起りうるものですが、沖田君の場合、元々の病の齎せた可能性が、一番大きいと申し上げるのが妥当かと思います」 淀みなく説明の言葉を続ける医師の顔のその下に、ここまで至る前に、想い人の異変に気付かず進行を止められなかった痛恨と己への憤怒が、田坂の胸の裡を千々に乱しているのを、愛弟子の病状を一言も聞き逃すまいと凝視している近藤は知らない。 「治るのだろうか」 飾る言葉を省いて、直裁に其処を問う性急さが、近藤の隠せぬ不安を物語っていた。 「膜を冒している炎症は、安静にしていれば治ります。が、胸の病への影響は少なからずあります。暫く油断はできません」 語る田坂を見ながら、近藤の顔(かんばせ)も苦渋に歪む。 長州から戻った自分を出迎えた笑い顔が、発つ前と何ら変わらぬものであったのに安堵したのは、つい三日前の事だった。 だが昨秋から二度に渡る自分の留守は、土方の傍らで隊務をこなす総司の心身に、多大な負担を掛けていたのであろう。 無理をするなと云う言葉に頷いては見せるが、それをそのまま聞くような者では無いと知りながら、向けられた笑みに騙されていたかったのは、総司がいつか我が身から離れ行くその時を、信じ得ない己の勝手だった。 それでもまだ近藤の裡では、今こうして目の前に突き付けられた現ですら、真(まこと)と認めたくはない思いの方が、遥かに強い。 「・・歳?」 その近藤が、不意に立ち上がった土方を怪訝に見上げて問うた。 「夜分に、手数をかけた」 ちらりと視線を流しはしたが、近藤には応えず田坂に向け頭を下げると、無言を通していた男は、身幅だけ開けた襖を後ろ手で静かに閉じた。 ――廊下の板張りが、籠もらせた冷気を氷の棘と変え、踏みしめる度に足裏を刺す。 夜具に倒れ臥した身を抱きかかえ、名を呼び揺すっても総司は応えず、閉じた瞼が開かれる事は無かった。 あの時己の裡を走った戦慄を、土方は克明すぎる程に覚えている。 それは最早恐怖以外の、何物でもなかった。 そして未だ過去になり得ぬその禍々しい出来事を、振り切るかのように進める歩の行く先は、蒼白な面輪で昏々と眠り続ける想い人の元でしか無い。 だがその足が、つと止まった。 「・・伊庭」 呟いた名は、不意に脳裏を過ったものだった。 八郎が屯所にやって来たのは、総司と斎藤と連れ立ってだと、外から戻り局長室に顔を出した自分に、何気ない世間話の続きとして近藤は話した。 室町通りの白砂屋へ、総司は斎藤と出かけた筈だった。 だとしたら八郎とは、何処かで偶然出遇ったのか。 否、八郎は来て直ぐに帰ったのだと、近藤は云っていた。 そして総司はつまらぬ事で、八郎を怒らせてしまったのだと云った。 もしや屯所までの同道は、すでに総司の身に異変を感じ取った、八郎の裁量だったのか。 だとしたら、それに至るまでに、八郎をも巻き込んでの何事かがあったのか―― 次々に湧きいずる疑惑を、しかし土方は直ぐに打ち捨てた。 眠る者の息に触れ、そしてその生が確かに現に在る事を、今は一時も早く己の目に刻み込みたかった。 |