なごりの雪 (参) 弥生も初めのこの頃は、明るい陽が射していたかと思えば不意に掻き曇り、それが雪だか雨だか分からぬ怪しい空模様となる。 そんな気侭な季節なのだと承知してはいても、今日のような寒の戻りは、花も近いと浮かれていた分だけ、人の心に得も云われぬ翳りを落とす。 歩を進める廊下の先に、束になって戯れていた光の輪が、ふと吸い込まれるように木目の隙に消えたのを視界に捉えるや、八郎は足を止め、束の間天道を隠した暗雲を仰ぎ見た。 だがそれも僅かばかりの事で、再び歩き始めた顔(かんばせ)に浮かぶ厳しさは、些かも変わるものでは無かった。 廊下の突き当たりが中庭に面し、それを曲がると白い障子が幾つも連なる。 そしてその一番仕舞いに在るのが、目当てとする室だった。 俄かに早まる足の運びに、見(まみ)える相手を案じて落ち着かぬ八郎の苛立ちが、更に拍車を掛ける。 やがて歩を数える間もなく辿り着き、桟に掛けて引こうとした手を、しかし八郎は間際で止めた。 中にいる気配が、ひとつではない。 が、その一瞬の逡巡も、己の胸の裡を狂おしく騒がす危惧に負けた。 声も掛けず、障子を横に滑らせ拓(ひら)けた視界の先に、此方を向いている一の顔があった。 それに一度目線を合わせはしたが、直ぐに脇に敷かれている夜具へと移した八郎の眸が、くくり枕の上から笑いかけている面輪を捉えた。 「今一さんと、八郎さんの話をしていた」 夜具の際までやって来、安堵の跳ね返りのように、ぞんざいに胡坐をかいた八郎に、総司は可笑しそうに語りかける。 「どうせ良からぬ事だろうさ」 「そんな事無い」 浮かた笑みはそのままに、しかしそう告げる声音の弱さは、聞く者を不安に落としめるに十分過ぎた。 仰臥したままなのは、身を起こすまでの力が、もう総司の内には微かにも残っていないのだと云う事実を、八郎につきつける。 顔を見れば安堵できるのだと、そう信じる事で杞憂を振り払おうとした浅慮は、ここでも又無残に打ち砕かれた。 想い人の胸に蔓延る病は、確実にその身を侵し続けていたのだと―― 逃れられぬ現実と、そして何としてもそれを受け容れる事の出来ない狭間で、手を拱いて見ている他術の無い己の無力さに、八郎は今憤懣遣る片無い苛立ちの中にいた。 「そろそろ行く」 新たな客への気遣いか、一が音も無く立ち上がった。 「・・すみません」 その一を目で追い詫びる顔に、もう笑みは無い。 「悪いと思ったら、人の説教は素直に聞く事だな」 言葉面は決して柔らかなものでは無かったが、見上げる位置と見下ろす位置の半ばで、目線を合わせて告げる物言いには、相手の身を思う真実がある。 しかしその遣り取りを聞く八郎の裡に、この男の総司に対する真摯が、新たな感情を漣(さざなみ)立たせる。 「あんたの分まで、説教しといてやるよ」 主に代わり応える調子が、それを隠す分だけ軽くなった。 一の出て行った障子の白を、喉首を、少し仰け反らせるようにして見上げていた総司だったが、やがて足音も気配も、何もかもが消え行くと、漸く八郎に視線を戻した。 「また、一さんに迷惑を掛けてしまって・・」 自分を捉えている眸に合い、言い訳のように口ごもる言葉は、最後まで続かず途切れた。 「仕事か?」 小さく頷く面輪は、身にある全ての血を、凍てた水に変えてしまったかのように色が無い。 「・・少しの間、一番隊を、一さんと永倉さんにお願いする事になったのです」 そう教える、しかしそれが本意では無いと云うのは、仰臥して宙の一点を凝視している瞳が宿す、勝気な色が物語っていた。 新撰組と云う集団にあって、総司の任されている立場は、決して容易いものでは無い。 そしてその事は、総司自身が誰よりも承知している。 視線を合わそうとせず語るその奥に秘めるものは、意の侭にならぬ己の身を憤る悔しさと痛恨なのだろう。 が、その激しさこそが、想い人の身の負担となっている事を思えば、総司の慙愧も、八郎にとってはただ忌むものに過ぎない。 「で、俺の何を噂していたって?」 だがそれを吹っ切るように問う声は、心裡にある憂慮など微塵も感じさせず、さり気無い。 「噂なんか、していない」 首だけを捻って向けられた面輪に、再び小さな笑みが浮かべられた。 「・・本当は今日、八郎さんの処に行こうと思っていた」 そうして続けられた言葉には、しかし言い淀むような困惑がった。 それに何故とは問わず、八郎は無言でその先を促す。 「昨日、迷惑をかけてしまったのに、あんな風に別れてしまったから・・それで謝りに行こうと思っていた」 全て云わねば許されぬのだと、そう観念してぽつりぽつり語り始めた口調は、それでも躊躇が邪魔をするのか、先が覚束ない。 「自分が頑固者だと認めるのか?殊勝な事だな」 幾分意地の悪い物言いを受け、もう白より他に透ける色は無いと思えた面輪に、微かな朱が刷かれた。 ――昨日の夕刻、くだんの出来事で一と共に遣って来た八郎は、事の経緯を詳しく問うでもなく、顔をみるなり田坂の元へ行くよう厳しい眼差しで告げた。 それに頑なに首を振り、最後には強い調子で、戒める言葉を遮った総司だった。 暫し剣呑な沈黙が二人の間を支配したが、それも長い時では無く、やがて八郎は無言のまま背を向けると、自分の宿舎の在る川上とは逆の、川下へと歩き始めた。 明らかに新撰組の屯所に向かうのだとそう気付き、止める声を発しかけたその寸座、それを遮るかのように一も又踵を返し、八郎の後に続いた。 その二人の行動の意味するものが、もしも先程の浪人達の襲撃を再び受けたのならば、もう攻防は不可能であろう自分の身体を案じた判断だと察した途端、総司を襲ったのは、足元から掬われるような衝撃と情け無さだった。 そして八郎への抗いは、その自分自身への苛立ちの先にある、八つ当たりだった。 「・・すみませんでした」 詫びる総司の声には、そんな頑なな自分を憤る、遣る瀬無さが籠もる。 「いつもその位に聞き訳が良いと、あの人も助かるだろにな」 だが返った揶揄は、想い人の心裡を乱す感情の起伏が、確かに生有る人のものとしての手応えと受け止めて戻った、八郎の余裕でもあった。 が、それが土方を指しているとすぐさま分かる物言いは、思いの他総司に動揺を与えたようで、深い色の瞳が一瞬狼狽に揺れた。 「どうせ、叱られたのだろう」 その様を見逃さず、更に追い詰める意地の悪さは、安堵が早妬心の熾き火になったのだと、八郎自身十分に承知している。 そんな己への自嘲を、八郎は片頬を緩めるだけの笑みにすり替えた。 「・・いつも」 その視線からつと瞳を逸らし漏れた声が、消え行くように小さい。 「心配ばかりを、掛けてしまう」 身体を動かすのは辛いのか、視線を宙に向け、吐く息だけで漏れた呟きは、聞く者の耳にはひどく心許なく響く。 「それがあの人の甲斐性さ」 だがにべも無く言い切るあまりの遠慮の無さに、再び八郎を見遣った面輪に、漸く屈託の無い笑みが浮かんだ。 「八郎さん・・」 それに勢いづけられたのか、心持逸った声が、形の良い唇から発せられた。 「何だえ」 「昨日、一さんと襲われた時に、巻き込んでしまった人」 「消えたと云う奴か?だが大事には到らなかったのだろう?」 大方話は一から聞いていたらしく、即座に返ったいらえは、紡がれた言葉の更にその先を語る。 「・・足を怪我していたから、無事に帰れたのかなと思って・・」 それに応える、ほんの僅かに置いた間が、総司の懸念の深さを知らしめる。 「無事でなけりゃ、とっくに誰かさんの耳に入っているだろうよ」 敢えて土方と云わぬ裏には、消えた人物に関しては、既にある程度の調べを、かの人間が進めている筈だと推し量る、八郎の確信があった。 否、それはどんな時にも手を緩めぬ妬心がさせる、恋敵に向けた皮肉な観測なのだと、己の裡を垣間見た八郎の唇の端に、薄い笑みが浮かんだ。 「・・そんな言い方」 だが総司はそれを、直次の安否への無関心と受け止めたようで、見上げている細い面輪が、咎めるように曇った。 「あの人、きっと京の人じゃない。・・行商に歩くのに、足が痛ければ困るんじゃないかな」 だから難儀しているのではと案ずる総司の言葉は、しかし八郎にしてみれば、又も厄介に首を突っ込もうとしている、想い人の無鉄砲としか映らない。 「何処の誰でも、勝手に消えた奴の事にまで気を回す暇あったら、自分の身をさっさと治せ」 だからこそ返すいらえにも、暗にそれ以上の関わり封じる強さがある。 「・・彦根の人かもしれない」 だがそんな八郎の胸の裡など知る筈も無く、総司の思考は、既に危惧する方向へと走り出してしまったようだった。 「彦根だろうが京だろうが、お前には関係の無い事だろう」 「昨日行った、室町通りにある店・・其処は彦根に本店があるのだそうだけれど、番頭さんと云う人と、その人の話し方がとても良く似ていたのです・・京言葉とも、少しだけ違う」 うんざりと漏れた声をものともせず、総司は八郎を見上げて執拗に食い下がる。 総司は耳がいい。 ものが動いた時に、人が動いた時に空気を震わせる振動が、音と云う形に成って耳に届くよりも先に、それを気配で察する事が出来る。 天凛と云われる剣の資質は、そのずば抜けた聴覚による処が大きいと、八郎は思っている。 それ故、地の者でしか分からぬであろう、店の者と件(くだん)の人間の訛りを、京の人間のそれとは区別し、二つが同質ものであるとまで言ってのける。 本来ならば驚嘆すべき事柄を、しかし八郎はすぐさま切り捨てた。 総司が次ぎの言葉を繰り出すその前に、どうしてもこの者に、釘を刺しておかねばならない事があった。 「そいつを探すのに手を貸せと云う話なら、俺は聞かないよ」 にべも無い物言いに、総司の面輪がたちまち困惑と狼狽に染まる。 「大方そんな事だろうとは、思っていたがな」 二度三度瞬き、やがて曖昧に伏せられてしまった瞳に、己の推測の確かを改めて知った八郎の声が、益々物憂げなものになる。 「・・八郎さんに、頼もうと思った訳じゃない」 「ならこの話は仕舞だ」 心許ない呟きを、容赦無く切り返すのは、告げる方が余程に気が重い。 だがそれもこれも惚れたつけだと苦く笑って諦めるには、些か癪に障る。 八郎の素気無い調子は、その苛立ちの裏返しだった。 「けれどその人・・」 それでも総司は何とか話を繋げようと必死で、八郎に向け身を捩った。 が、その途端、紡がれる筈の言葉は呑み込まれ、その代わりに小さな呻き声が漏れた。 「ばか、急に動くからだ」 眉根を寄せ、息をも止めて痛みをやり過ごしている薄い肩に触れ、ゆっくりと仰臥させながら叱る声には、諌める厳しさよりも、遣る瀬無さが先立つ。 ――昨日の様子がどうにも気になり、やって来た屯所の入り口で案内を乞うていた丁度その時、外出支度で奥から出て来た近藤から、総司の容態の急変と、病状のあらましを聞かされた。 総司の宿痾は、肺腑を攻撃するだけでは飽き足りず、時に思わぬ周りの臓器にまで魔手を伸ばすのだと・・・ 辺りを憚り、声を潜めて語る顔(かんばせ)に、近藤は険しさを隠しきれなかった。 時を限られた短い立ち話ではあったが、或いは新撰組を離れた昔馴染みであったからこそ、近藤も自分には、己の胸に在る重しを、直截にぶつけて来たのかもしれない。 その八郎の憂慮を知らずして、未だ総司は唇を噛み締め、痛みを遣り過ごそうとしている。 「薬を飲むか?」 問う声に、総司は僅かに首を振るだけで、否と応えた。 「・・大したことない」 やがて瞼を閉じたまま、額にうっすらと滲む冷たい汗に辛苦の跡を残し、ようよう開く事の出来た気の道を遡ってきた声は、掠れて聞きづらい。 肺腑を覆う膜が損なわれているのならば、胸痛の激しさは推して知るべくものあがる。 昨日のあの時点で、既に痛みを堪え、少なくない人数を相手にしていたのだと思えば、その精神の強靭さには驚愕すべきものがある。 が、同時にそれは、八郎にとっては、この者に無理を重ね続けるさせる、禍禍しい要因にしかならない。 江戸に、連れ帰りたいと。 触れている肩から、こうして掌に伝わる温もりを、決して失くさぬように。 今なら間に合うと、焦燥に猛り狂う己を抑えるのには、もう疾うに辛抱の際を越えている。 「・・その人・・何か事情が・・あって」 一瞬思考を己の裡へと閉ざした八郎を、途切れ途切れの声が現に戻した。 「少し黙っていろ」 「・・危険な事を、・・しようとしている」 だが叱る声にも怯まず、総司は続ける。 「それはお前には関係の無いことだ」 聞かぬ者を戒める声が、次第に厳しさよりも苛立ちを増す。 「新撰組も、御定番組も、・・奥詰も、・・・今は駄目なのだと言っていた」 「どう云う事だ」 それでも語りを止めようとしない唇から漏れた、言葉の意外さに、流石に八郎が眉根を寄せた。 「分からない。・・けれどきっと危ない事に、関わろうとしている」 漸く会話に耳を傾けた八郎に、まだ身体を動かすには辛いのか、面輪だけを向けて見上げる総司の瞳は必死だった。 あの時強引な取引を強いた男の目には、静かな語り口とは裏腹に、否と拒む事を端から受け容れぬ、牢乎たる意志があった。 あれはひとつ決めた物事に、命を賭すまでの覚悟をして、初めて身に纏う事の出来る強靭さだった。 それは総司にとって、決してあやふやな憶測では無い。 京に上ると、生ある限り土方の傍らにいると決めた時、止める声を聞かず、哀しみにくれる眼差しに合っても尚、決めた意志は微塵も揺らぐ事は無かった。 そしてその時、きっと自分は直次と同じ目をしていただろうと・・ 今だからこそ、知り得る確信だった。 ――そのあまりに強烈な印象が、直次と云う男の残像を、総司の裡から消し去る事を許さない。 「あの人、あそこから川伝いに北へと上って行った」 「だから何だ」 一度相槌を打ってしまったその瞬間から、己の負けだと承知せざるを得ない腹立たしさは、返すいらえに籠めた不機嫌が物語る。 「もう夕方だったし・・・家に帰る処じゃなかったのかな?」 「あの辺りに住んでいると、云うのか?」 くくり枕の上から頷く蒼い面輪が、ひどく真剣だった。 それを見ながら八郎は、胸の裡で遣る瀬無い息を吐く。 確かに今自分が宿舎としている所司代屋敷は、消えた人間が居を構えているのではないかと、総司が推測する方角にある。 日暮れ近かった時刻から察しても、それは強(あなが)ち的外れな事では無いだろう。 だが自分に白羽の矢を立てたその理由に、相手に顔が知られていないと云う事情が絡んでいるのが、八郎のもうひとつの憂鬱だった。 新撰組と露見してしまった己では、迷惑がかかると、総司はそう懸念しているのだろう。 しかしそれは即ち、其処まで総司が相手に心奪われている証でもあった。 関わるなと、この場で云いきり打ち捨てる事は容易い。 だが自分の想い人は、それに黙って頷いてくれる程、聞き分けの良い人間ではない。 とどのつまり。 どう戒めた処で、掬い上げた水を手の内に止める事の出来ぬように、吹きぬける風の気侭を止める事の出来ぬように、この者の走り出すのを止める事が出来無いのならば、せめて出来うる限りの釘を刺す他、もう術は無いのかもしれぬと―― そう己に言い聞かせ諦めた処で、忌々しさは消え去る訳ではない。 「ひとつ約束しろ」 暫しの沈黙のあと漏れた声の調子は、八郎の胸中をそのまま吐露したように、物憂げだった。 「その男にどんな事情があるにせよ、無事を確かめられたのなら、それでお前との関わりは仕舞だ」 否と拒む事を許さぬ厳しさに、瞬きもせず凝視していた面輪がゆっくりと頷いた。 それをしかと眼に刻み込みながら、しかし八郎の胸にある翳りは消えない。 例えここでどんなに堅く誓わせたとて、言葉だけの約束ごとなど、波に浚われる砂の一粒よりも頼りない。 「きっと、約束する」 その八郎の心の機微を敏感に察したのか、今度は幾分柔らかな声音が、総司の色の透いた唇から発せられた。 だがひとつ願いの成就は、安堵と共に疲労をも齎せたようで、見上げている瞳には、いつのまにかうっすらと滲むものがある。 それが上がって来た熱の所為だとは、云わずとも知れた。 「田坂さんは、今日は来ないのかえ」 問う言葉の裏には、今総司が襲われている辛苦の、せめて僅かなりとも取り除いてやれるのが、医師である田坂ひとりに限られている事への、八郎の焦りと、そして口惜しさがある。 「夜に、来てくれたのだと云うけれど・・」 その事に記憶が無いのだと、戸惑いながら告げる語尾が曖昧に濁る。 それはこうして語る事が即ち、床に臥すまでの経緯を思い出さねばならない、総司自身の遣る瀬無い拘りだった。 そんな心裡を見透かされまいと八郎から視線を逸らし、伏せた瞼を縁取る睫が頬に翳を落としかけたその寸座、不意に瞳が見開かれ、それが紙一枚で外気を隔てている障子へと移されたのと、八郎の面が其方へ向けられたのが同時だった。 「噂をすれば、・・らしいな」 その人と、気配だけで判ずる事の出来るまでに近しい間柄となった医師の足音が近くなるのを聞きながら、天が下すあまりの間の良さ、或いは意地の悪さを皮肉るように、八郎の方頬が歪んだ。 「噂を、されていたのか?」 声が聞こえたのか、開けた障子から姿を見せた田坂の一声はそれだった。 「間が良すぎると、誉めてやっていたのさ」 「どんなものだかな」 白い紙に堰止められ、開放されるのを待っていたように、一気に室に滑りこんできた陽に、目を細めながら見上げた八郎に、応える田坂も遠慮が無い。 「痛みは?」 だが病人の枕辺に座して問うた顔は、既に医師のそれへと変わっていた。 「もう無い」 小さく笑いながら返すいらえは、隠さねばならぬものがある分だけ短くなる。 「主はそう云っても、身体は正直なものさ」 その精一杯の偽りを素気無くかわし、田坂は携えて来た薬箱を開け始めた。 暫し田坂の手元を無言で見ていた八郎だったが、やがてゆっくりと脇に置いてあった大小を取り上げた。 「又来る」 それに気付いて見上げた総司に、常と変わらぬ衒いの無い物言いで告げると、僅かな衣擦れの音もさせず、長身の主は立ち上がった。 「・・八郎さん」 だが障子に手を掛けた背を、躊躇いがちな声が呼び止めた。 それに引かれるように振り返り、敢えて促しもせず言葉を待っていた八郎だが、総司はその先を紡ぐのに思案しているのか、沈黙から出ようとしない。 消えた男を捜せと、その一言を今此処で念押しするには、流石に遠慮があるらしい。 想い人の弱気を心裡で苦笑しつつ、しかし八郎は厳しい面差しを崩さず、口を開いた。 「お前次第だな」 頼まれ事を、聞くも聞かぬも交わした約束次第と釘刺し踵を返した身が、開けた障子の桟と桟を、後ろ手で、ぴしゃりと音立て合わせた。 このまま曇るのかと思った天候は、どうやら持ち直したようで、歩を進める廊下の板敷きは耀い陽射しを貪欲に浴び、光の輪は舞い上がる塵すら遊ばせて、次なる季節の華やかさを教える。 視界が捉えているその光景に飽きないのは、生きとし生けるもの、万物が息吹き始めるようなこの力強い時が、想い人の命脈をも確かなものにしてくれるのでは無いのかと、そんな思いの果てにある。 そのどうにも似合わぬ己の感傷を、しかし八郎は自嘲する事が出来ない。 「・・さて」 だがそれすら瞬時に打ち捨てて、再び前を見据えた双眸に、もう物憂い色は無い。 「どうせ不機嫌面だろうが、・・仕方が無いだろうさ」 一瞬脳裏に浮かべた恋敵の顔に、苦々しい面持ちで独り語りを終えると、それまでの緩慢さが嘘のような足取りで、八郎は目指す室へと歩き出した。 「で、何を約束したって?」 「・・約束?」 「いや、取引と云った方が良いらしいな。・・・ま、どちらにせよ、双方相手の出方次第と云う事か」 夜着の前を肌蹴、病人の胸を覆っている白い布に手を当てながら、己の憶測を語る田坂の口調は、まるで世間話の続きのようにさり気無い。 「約束など、していない」 炎症を鎮める為の軟膏を塗ってある布が、身の熱で乾いてしまった部分を、なるべく皮膚に負担を掛けないよう、ゆっくりと剥がして行く医師の横顔を見て返す声が、虚勢の限りを張ってもまだ力無い。 「少し辛抱しろよ」 軟膏を塗った新しい布を胸に置いた寸座、その冷たさに堅くした身を叱る田坂の声に、苦笑が混じった。 「・・田坂さん」 手首を取って脈を計っているその邪魔をせぬよう、総司が小さく声を発した。 「何だ?」 「・・・昨夜は、すみませんでした」 深夜の迷惑を詫びる声が、心底申し訳なさそうに、田坂を見上げている面輪の唇から漏れた。 「聞かぬ患者を持つ苦労には、慣らされたさ」 取っていた手首を夜具の中に仕舞い、そうして改めて総司に視線を向けて返したいらえには、辛辣と云うよりも、それが田坂自身の掛け値の無い心情なのか、些か遣る瀬無さが籠もる。 「・・すみません」 それに更に重ねる言葉は、どう責められても非は自分にあると認める殊勝が、語尾を小さくする。 「胸の痛み、暫く前からあったのだろう?」 それに気付かなかった医師としての己の判断の甘さが、田坂を苦い悔恨から解放させず、問う声には、自ずと質すような厳しさが増す。 「・・少しだけ。でも気になる程じゃなかった」 瞳を伏せての言い訳は、それが嘘だと相手に知らしめる結果にしかならないのを、今の総司には判じる余裕が無い。 「本当です。昨日も室町通りを上って、もうじき丸太町通りと云う処にある店まで出掛けたのに、何ともなかった」 無言のままの田坂を、今度は双つの瞳でしかと捉えて、総司の必死は続く。 「室町通り?」 だが漸く返ったいらえの声は、不審を露にしていた。 室町通り界隈は、新撰組の持ち場では無い。 ならば行ったと言うのは、私用での事だろう。 それが田坂の興を惹いた。 「室町通りに新しく出来た、太物を扱う店で・・」 だが総司は、田坂が沈黙を解いたのが余程嬉しいらしく、面輪には正直に安堵の色が浮んだ。 「白砂屋か?」 が、それも束の間の事で、今度は言葉の先を奪われた瞳が、驚きに見開かれた。 「半券を買い求めれば、其処の店で無くとも、大坂でも江戸でも、白砂屋の出店で品物が買えると云う新手の商売だろう?」 視線を落とした田坂が、不思議そうに見上げている瞳に合い、苦笑ともつかぬ笑いを漏らした。 「キヨが云っていたのを覚えていたのさ。それに白砂屋は彦根にある大店だから、キヨで無くとも、膳所の人間ならば大概は知っている。・・近江商人の典型だ」 「近江商人・・」 田坂の何気ない一言を反復するように、形の良い唇が同じ言葉を紡いだ。 「どうかしたのか?」 「何でも無いのです」 一瞬落ちたその声の調子を聞き逃さず、怪訝に問う田坂に、総司はくくり枕の上から小さく首を振って応えた。 「・・キヨさんに、一緒に行って貰えば良かったと思って。・・・姉に送りたくて行ったのだけれど、一さんと二人では何と無く気恥ずかしかった」 笑みを浮かべて語る面輪は、もう屈託が無い。 「キヨが聞いたら、何故連れて行かなかったと怒るぞ」 内緒にしといてやると続けられた言葉に、笑って頷いたその裏で、今総司の裡を占めているのが、昨日遇った直次と云う男の存在だとは、田坂はまだ知らない。 「さて秘密事もばれずに済むようだし、少し眠るといい」 大事無いと振舞う気丈を嘲笑うかのように、総司の頬に刻まれた翳りは、疲労の色を隠せず更に深くなっている。 案の定、無理を強いていたのか、頷いた途端に瞳を閉じてしまった白い面輪を、田坂は、医師の分別などとっくに捨てた、人を想う修羅に足掻く一己の愚人として、見つめていた。 |