なごりの雪 (四) 「忙しくて結構な事だね」 障子を開けても振り返りもせず、文机に向かったままで客を迎えた背に掛けられた皮肉は、しかし言葉程に、その横柄に拘っている様子は無い。 室の主よりもぞんざいな物腰で、火鉢の傍らに腰を据えると、八郎は物憂そうに火箸を手繰り、炭に消えかけていた火を熾した。 「昨日は、世話になったそうだな」 後ろを向けたまま、誰がとは云わず、挨拶代わりに寄越した言葉の調子は、凡そ愛想無い。 「役にたっちゃ、いないよ」 だが八郎のいらえも、それに輪を掛けて素っ気無い。 「斎藤から聞いた」 「どんなものだかな」 「で、用件は何だ」 「調べはついているのだろう?彦根の商人(あきんど)」 互いの相手を文机と火鉢に決めて、背中で交わす話は短い。 「彦根と、総司が言ったのか」 土方が筆を止めたのを気配で察しても、八郎は手持ち無沙汰のように、火箸を手繰る手を止めない。 「そいつの訛りが、室町の店の者と同じだと気付いたらしい」 気の無い風に告げる言葉の終わらぬ途中で、短い舌打ちが聞こえて来、胡座をかいたままの姿勢で、土方が体ごと回転したのが、今度は畳をこする衣擦れの音で分かった。 「あんただって、その日の内に知った筈だ」 恋敵を、先にこちらへと向かせる、たったそれだけの事を譲れぬ己の矜持に、胸の裡で呆れながらも、ここらが折れ時と判じて、八郎も又緩慢な動きで土方を顧みた。 「どうやら無事だったらしいな、そいつ」 既に其処まで調べ上げている、土方の性急さの先にあるものを、唇の端だけに浮かべた笑みが揶揄していた。 「それを確かめろと、総司がお前に云ったのか」 苦々しげに眉根を寄せた端正な顔(かんばせ)が、想い人への苛立ちと憤りに歪む様を楽しみながら、しかしもう一方で、こればかりは忌々しいながらも、自分と同じ心情の相手を笑う事も出来ず、殊更焦らすように、八郎は口を開いた。 「近江商人らしいが」 「どう云う人間かは知らん。だが六角堂近くの旅籠にいた。名は直次。十日程前から滞在し、宿帳には、確かに彦根と記してあったそうだ」 「山崎さん辺りの調べかえ?」 「山崎はまだ長州だ。斎藤が人相風体を教えて、伝吉に探らせた」 「総司の勘も、あながち外れちゃいないようだな」 再び勢いを得た炭火に煽られ、白い蒸気を吐き始めた鉄瓶へと視線を落として呟いた八郎の声が、どうにも物憂げだった。 「総司には、俺から云う」 だがその八郎に対し、唐突とも思える発言は、二人の間に、何らかの約束事が交わされたと感づいた、土方の牽制に他ならない。 「余計な事に首を突っ込むな、とか?だがあいつは自分の目で確かめなけりゃ、あんたの説教でも聞きはしないだろうよ」 「聞かせるさ」 語尾が踏んだ、最後の音の余韻も消えぬ内に、即座に云い切った強引こそが、土方の自信の顕れだった。 そしてその核(さね)にあるものは、昨夜容態の急変した総司を、我が腕に抱きかかえ、焦燥と苛立ち時を送るしか術が無かった、土方の痛恨であるとは、八郎にも容易に知れる。 だが些かも変わらぬ思いを抱き、行き着く先とて寸分も違(たが)わず同じと承知していても、全てを恋敵に委ねて仕舞にしてしまう事を嫌うのは、これも又、八郎の譲れぬ矜持だった。 「手並みを、見せて貰うさ」 そんな稚気とも負けん気ともつかぬ己への自嘲を、八郎は短いいらえに籠めて返した。 が、互いに胸中に在るものを探るように、束の間出来た沈黙を、腕組みをしたまま、顔だけを白い障子に向ける事で土方が破った。 「・・終わったようだな」 呟きにも似た物言いの言葉は、誰に向けてと云うものでは無く、土方自身にも止めようが無く、不意に漏れたものらしかった。 それが証拠に、凡そ感情と云うものを表に出さないこの男にしては珍しく、安堵と懸念のその両方を声音に含み、しかもそれを隠さぬ無防備を、八郎は白い蒸気の此方で聞き止めていた。 「何だ、やはり居たのか」 障子を開けた途端の田坂の一声は、室の真中で火鉢を囲い、行儀悪く胡座をかいている八郎へと向けられた。 「暇だからねぇ」 それに悪びれもせず嘯く様すら、この男の持つ本来の品の良さと相俟って、憎らしい程洒脱に映る。 「田坂さん、あんたも休む時が無いね」 「もう諦めたさ」 軽口に、軽口で返す会話は、己の意の侭にならぬ者を唯一と決めた、互いへ向けての揶揄でもあった。 「大分落ち着いた」 今度は切れ長の三白眼を向け、黙したまま見上げている土方に、病人の様子を教えながら、田坂は二人の真中あたりに腰を下ろした。 「手数を掛けた」 「いや先に痛みが強く出て、幸いだった」 「どう云う事だえ」 「胸の膜の炎症は、酷くなり水が溜まると厄介な事になる。沖田君の場合、そこまで行く前に痛みの方が先に出て、新たな病を教えてくれた」 怪訝に問う八郎を一度見遣り、そうして再び土方に向けた田坂の顔(かんばせ)には、つい先程までの安穏さはもう無い。 「大事は無いのだろうか」 己の胸の裡を、そのまま容(かたち)にしたような、土方の声の重さだった。 「昨夜も云った通り楽観は出来ないが、このまま安静を続ければ大丈夫だろう」 「暫くは、あいつも籠の鳥か。それも何時まで持つのやら。あんたも苦労な事だな」 安堵の間も無く、すぐさま向けられた八郎の揶揄に、端正な面が苦々しげに歪められた。 「彦根の商人の一件も、糠に打つ釘にならなきゃいいがな」 「彦根・・?白砂屋の事か?」 だが厭味ともつかぬ含み笑いに返ったのは、当の土方では無く、田坂の怪訝そうな声だった。 「知っているのかえ」 「さっき沖田君に聞いた」 「彦根も膳所も、同じ近江か」 田坂と膳所藩との関わりに気付いた八郎が、ふと目を細めた。 「俺自身とは、あまり関わりの無い地だがな。が、白砂屋の勢いは、近江に居なくとも耳に入るさ」 「膳所にも、出店があるのか?」 不意に口を挟んだ土方の調子は、白砂屋の商い上手を皮肉るように素気無い。 「其処までは知らん。キヨに聞けば分かるだろうが」 「だが羽振りの良い商人は、彦根じゃ大事にされるだろうに」 流石に男の領分では無いと笑う田坂を横目に、しかし八郎は、話の本流から離れた別の事を話題にした。 「禄高の復元の事か?」 その意図を即座に察しはしたが、興の無い事へのいらえには力も入らぬらしく、田坂の声には、ただ相槌を打ったに留まる程度の、気の無さがあった。 「天誅組の退治と、先だっての出兵だけでは、流石に五万石は戻るまい。裏で使った金は、さてどれ程のものか」 「彦根の奴等は、良く働いたさ」 皮肉とも、揶揄ともつかぬ物言いをした八郎に、これも又空誉めの体(てい)宜しく応えたのは、土方だった。 「だがあの時は、お陰であんたも楽が出来ただろう?彦根藩に礼のひとつも言った処で罰は当たらないぜ」 その渋面の主の不機嫌を、更に煽りたてるような、八郎の笑い顔だった。 ――近江彦根藩は、これより六年前、年号が万延と代わる直前の安政七年三月三日、藩主であり幕府の大老であった井伊直弼が、攘夷派の急先鋒である水戸藩士により、江戸城桜田門外で殺害された。 この不祥事により、彦根藩は禄高を十万石減らされ二十万石としたが、文久三年の大和天誅組騒動の鎮圧、そして一昨年、新撰組による池田屋事変で、一部過激と化した長州藩士による御所焼き討ち、所謂禁門の変への出兵等により、必死の巻き返しを計り、僅か四年余りで五万石を回復していた。 今の話は、その経緯に触れるものだった。 そして尚且つ、それらの功績だけでは、当節五万石の回復は、是ほど迅速には成り得ないと、八郎の意見は辛らつに突いていた。 「彦根藩と云えば・・」 それまでの会話の流れを、又も突然変えるような、八郎の安寧とした呟きだった。 「彦根の話は、もういい」 「刀さ」 忌々しげに吐き捨てた土方に、八郎はその不機嫌を全く意に介する風も無く、むしろ己の一言一句が、かの人間の神経を逆撫でる事を楽しんでいるように、片頬に薄い笑みを浮かべた。 「刀?」 だがその言葉に興が動いたのは田坂の方だったらしく、問い返した声には、先を促す性急さがあった。 「所司代馬廻役の鈴木重兵衛殿に聞いた事を、思い出したのさ。あの御仁は刀の目利きだが、嘗て彦根藩の京都藩邸留守居役に、刀を見てくれと頼まれた事があったそうだ」 「銘も分からぬ刀か」 「そう云って仕舞いにしちゃ、彦根藩の顔も立た無いだろうさ」 その程度のものと、端から切って捨てる、如何にも土方らしい物言いに、八郎が苦笑した。 「銘が確かか否か、それを知りたかったらしい」 「偽物が出回っている程のもの、と云う事か」 土方に向けていた視線を、田坂の呟きを聞きとめるや其方に移した八郎が、次に告げるべき言葉を惜しむかのように、僅かに目を細めた。 「則宗、だったと云う事だ」 そうしてゆっくりと銘を明かした物言いには、それによる相手の反応を楽しむ風があった。 「則宗?備前の、あの則宗か?」 「そうだ。後鳥羽上皇の御番鍛冶であり、備前福岡一文字派の祖、則宗だ」 やがて返った田坂の声を聞き、八郎の面に満足げな笑みが浮かんだ。 「本物か?」 則宗と云う銘は流石に響いたらしく、無言を決め込んでいた土方も、胡散臭そうな視線を寄越した。 「だったらしいな。が、菊紋じゃないぜ。一の字は切られていたそうだがな」 「菊紋が、そう簡単に出回るか」 知らぬ素振りを決め込んでいた相手の興を動かし、したり顔の八郎に、すぐさま返ったいらえの乱暴な調子が、それに乗せられた土方の忌々しさを物語っていた。 一文字則宗。 後鳥羽天皇により召し出された御番鍛冶には、その功により、刀の銘に『一』の字を切ることを許された刀工団がいた。 備前の刀工則宗は、その内の福岡一文字派の祖であり、御番鍛冶の筆頭を務め、正月番、十一月番を受け持ったと伝えられる。 中でも傑作刀には、特に天皇の下賜により、菊紋を切ることを許された。 又天皇自ら打った刀にも、菊紋が切られたとも云う。 ちなみに菊紋を銘とする時には、一の字は切らない。 土方と八郎の会話は、この事についてのものだった。 「だが一の字の則宗でも、滅多矢鱈にお目に掛かれる代物では無いだろうに」 「だから鈴木殿も、感慨が醒めやらぬのさ」 田坂の好奇な眼差しを受けた八郎のいらえは、もしもそれが自分であっても同じ事を念じるだろうと、その僥倖に見(まみ)えた者の切望に、些か同情的であった。 「ならばもう一度見せろと、頼み込めばいい」 「それができりゃ、とっくにしているだろうさ」 あまりに素っ気無い土方の物言いに、八郎がこれみよがしに眉根を寄せた。 「なら、諦めろと教えてやるんだな」 だが返す土方も譲らず、仏頂面を、更に不機嫌に顰める。 「失くしちまったんだとよ」 「失くした?」 これもあっさり言い切る八郎に、呆れて問い返したのは田坂だった。 「どうしても今一度手にしたいと、二日して鈴木殿が彦根藩の留守居役に申し出た時には、賊に盗まれたと拒まれたそうだ」 「世辞にも上手いとは云えぬ言い訳だな。俺ならもう少しましを云う」 「あんたみたいな人間は、この世にひとりでも十分すぎるさ。が、下手な嘘でも、つかなければならない事情があったんだろうよ」 嘘の上手下手すら、己を基準にして吐き捨てる主へ、ちらりと皮肉な視線を流して告げはしたが、八郎の口調にも、あまりに見え透いた偽りを不審とする同意は有る。 「藩の屋台骨を支える商人(あきんど)の羽振りが良けりゃ、刀の一振り二振り、又調達して貰えるだろうさ」 が、それすら聞き止めず、渋面のまま言い放った土方の物言いには、それがこの話題を仕舞いにすると、暗に告げる強引さがあった。 「・・六角堂近く、か」 だが何の連脈も無く、衒う素振りの少しも無く、体を斜め後ろに捻り、それで炭に熾る火の様子を見ながら呟いた八郎の一言に、一瞬土方の目に険しい色が走ったのを、田坂は見逃さなかった。 「診療所を留守にしていて、いいのかえ?」 「帰ったら、忙しいだろうな」 八郎と並んで廊下を行く田坂の声には、しかしその多忙を厭う様子は無い。 ここ西本願寺の寺領の一角を借り受けた新撰組屯所は、その環境故、否が応でも読経の声が聞こえてくる。 「案外に、耳につけば気になるものだな」 それが病人の神経の障りになりはせぬかと厭う己の勝手を、田坂は苦く笑った。 「今はそんな事を思う余裕など、あいつには無いだろうよ」 が、八郎のいらえは、その懸念を難無く退けた。 「・・彦根の商人(あきんど)がどうのと云っていたが、その事か?」 進める歩調はそのままに、行く手に溜まりを作っている陽の束に目を細めながら、記憶に刻み込まれていた一言一言を手繰り寄せるように、田坂がゆっくりと問うた。 「昨日総司と一さんが、白砂屋の帰りに襲われた。その時巻き添えにして怪我をさせてしまった人間が、彦根の商人だったらしい」 「怪我?」 「逃げる時に、足を捻っただけらしいが・・・。だが直後に姿を消したそいつの事を、総司は案じている」 八郎の説明は、それに伴うあらましを省き、今田坂に伝えるに必要な、要所要所だけを端的につく。 「探せとでも、頼み込まれたか?」 「無事は確かめられたらしいから、その事については、じきに知らされるだろうよ」 「相変わらず、抜かりの無い事だな」 名前は出さぬとも、それが誰の采配の結果かは、田坂にも直ぐに知れたようで、いらえの声には、恋敵の働きの素早さを揶揄するような笑いが含まれていた。 「が、あの人の動いたのは、沖田君の懸念を取り除く、それだけでは無かろう?」 「勘がいいねぇ」 「あんたが六角堂と、わざわざ水を向けてくれたお陰さ」 互いに視線を合わせず、行く先だけを見据えて交わす言葉は短い。 「六角堂近くに、新撰組が目を付けている、何かがあるらしいな。でなければ姿を消した商人のひとりふたり、幾らあの人でも、わざわざその後の行方まで調べはしまい。それに巻き込んだのは、紛れも無い偶然だったとは、一さんの口から聞いている筈だ。尤もその目星、白砂屋とは違うらしいが」 最後の一言を終えた時、八郎の、曲がる事無く引かれた鼻梁の線が、端正を際立たせている横顔に、薄い笑みが浮かんだ。 「ではこの件、これで仕舞いだな」 それを視界の端に捉えながら、この話題そのものを打ち切る事で、想い人の行動をも阻もうとするかのような、田坂の強い物言いだった。 「そう簡単に、聞き分ける奴ならばな」 「自分の目で確かめると、云い出すか・・」 やがて廊下の曲がり角が見えて来、其処で差し込んでいた陽が翳るのを、まるで己の裡にある懸念と、重ね併せるようにして見る田坂の声音が低くなる。 「気苦労は、諦めた筈だろう?」 渋面を作った医師を揶揄するように苦く笑って掛けた言葉は、しかしそのまま八郎の憂鬱でもあった。 昼間の十分な明るさが四方を覆っていても、外からの陽は、障子と云う紙の帳で囲まれた室に慣れた目には眩いらしく、総司は暫し瞳を細めて、入ってきた人の影を捉えていたが、くくり枕の上から見上げている面輪には、小さな笑みが浮んでいた。 「目を、覚ましてしまったか?」 「眠ってなどいなかった」 床の際まで歩み寄り枕辺に座すまでの、土方の挙措の一部始終を、瞬く事も惜しんで見ていた総司だったが、更に少しでも近づこうとするかのように、喉首を反らせていらえを返した。 「嘘をつけ」 「嘘じゃない」 常ならば、障子に影が映るその前に、気配を察する事の出来る鋭敏な神経の持ち主が、開ける間際まで気付かず、尚且つ緩慢に瞳を動かすだけで出迎えた事実こそ、身を苛む辛苦に負けている証に相違無かった。 想い人の屈託の無い笑い顔は、土方の裡に、翳ばかりを落とす。 だがこれ以上問うても、総司は偽りを重ね続けるだろう。 それでも土方は諦めきれず、真実を質す。 「胸は?」 「もう何とも無い」 「お前は、いつもそうだな」 大方予想していた通りのいらえに、怜悧が勝る端正な面に、一瞬苛立ちにも似た険しさが走る。 それを敏感に察した面輪からも、たちまち笑みが引き、その狼狽を隠すかのように、瞳までもが伏せられた。 「・・けれど、直ぐに治る」 だが視線を合わせぬまま、消え入るように告げる強情は、案じる者の胸の裡に燻る怒りの熾き火を煽り、焔立たせるに十分すぎた。 ――呼んでも呼んでも応えぬ身を掻き抱き、血潮の流れる証を求め、首筋を、胸を、手首を探り、息吹の確かを認めんと、物言わぬ唇に己が指を触れ、そうしてこの命脈を繋ぎ止める事の出来る者を待ち、いったいどれ程の焦燥の時を送った事か。 明け方、うっすらと開いた瞼の隙から、再び黒曜石の深い色に似た瞳にまみえた時、捨てた筈の神仏に感謝の念を抱いた自分を、土方は嘲る事が出来なかった。 その露ほども知らずして、想い人は、又もこの腕(かいな)の砦をすり抜けようとしている。 それが土方を、抑える事など疾うに敵わぬ、激しい怒りへと駆り立てる。 やがて大きく息を吸ったのは、この者を搦め取り、動きの全てを我が掌中へと封じ込める、止めの一言を突き刺す為だった。 「昨日、お前と斎藤が、厄介に巻き込んだ商人の名は直次。その時捻った足は、もう大事無い」 感情と云うものを、ぎりぎりまで押し殺した声音は、あまりに低すぎて聞き取り難い。 だがその言葉に、伏せられていた総司の瞳が咄嗟に上げられ、次には驚愕に見開かれた。 「土方さん・・」 「伝吉の調べだ。これで懸念はもう無い筈だ。それからお前は、田坂さんに預かって貰う」 「土方さんっ」 あまりに突然すぎる言葉は、思わず身を起こそうとする程に総司に衝撃を与えたが、それは敵う事無く、途中まで持ち上げられた身体は、短い呻き声と共に、再び床へと崩れ落ちた。 「ばかっ」 厳しい叱責の主の手は、しかしそれとは遠く掛け離れた慎重さで、息を詰め、眉根を寄せて、痛みを堪えている者の背に触れた。 「急に動くからだ」 幾分声を和らげ、そのまま翳した己の手の平に、総司の辛苦の全てを受け止めるかのようにゆっくりと、土方は骨の形をなぞれる程に薄い背をさする。 その上下が、幾度繰り返されたのか―― 切っ先の鋭い刃を、一度に幾本も突きたてられたような痛みは、吐き出す息と共に少しづつ薄れ、それと同じくして、夜具の端を千切れんばかりに強く掴んでいた総司の指先からも、徐々に力が抜け落ちる。 「・・いや・・だ」 だがようよう音に出来た最初の言葉は、背に置かれた手の主への、抗いだった。 「田坂さんには、明日近藤さんと俺とで頼みに行く」 それを封じ、そして命じる声には、否と拒む一切を許さぬ峻厳さがある。 「いやだ」 が、それをも跳ね除け、土方を見上げた瞳には、どうしても譲らぬ勝気があった。 「決まった事だ」 背に在る手の、其処から伝わる温もりと、同じ主のものとは到底思えぬ、厳しい口調だった。 「こんなのは、直ぐに治る。・・だからっ・・」 「総司っ」 これ以上の抗いをぴしゃりと断つ一喝に、その先の言葉を封じられた深い色の瞳が、呆然と土方を見上げた。 「長い事じゃない」 だから辛抱しろと、駄々を叱る我が身の方が遥かに切ないのだと、云えぬ心裡を隠して告げる声が物憂い。 「少しの間だ」 頬を濡らす悔しさの証を見られるのを厭うように、慌てて瞳を逸らせて俯いた面輪にある、堅く閉ざされた唇が、色を失くした横顔を、更に硬質なものにする。 「辛抱しろ」 それを見つめながら応えぬ主へ掛ける声が、どうにも弱気に傾くのを辛うじて止め、土方は胸の裡で遣る瀬無い息をついた。 「良く、承知させたものだな」 「承知など、しやしないさ」 暦の上では春とは云え、木も芽吹かぬこの頃合は、未だひとつ前の季節の寒さの方が、人々には身近い。 まるで囲うようにしてしている火鉢に手を翳し、笑う近藤に応える土方の面が、その時のやりとりを思い出し、憂鬱げに顰められた。 「ではどうした?」 時には自分をも困惑の極みに追い込む愛弟子の、凡そ普段の優しげな物腰からは想像出来ぬ頑固は、今回も土方を酷く煩わせたであろう事を承知して問う近藤の声は、それを揶揄するような笑いを含んでいる。 「局長命令だと、叱り付けた」 「俺の所為にしたのか」 「仕方が無いだろうさ」 いつの間にやら悪者に仕立てられていた事に、不満そうな近藤を見遣り嘯く土方は、胡座を掻いた右膝についた頬杖の上の顔を、これも又忌々しげに歪めた。 「では後で見舞う時に、恨みの言葉のひとつふたつは、覚悟しておかねばならぬか・・」 それが心を重くさせるのか、厳(いかめ)しい造りに似合わぬ困惑が、近藤の強面に浮かんだ。 「田坂さんの処には、明日行こうと思う。あんたの都合はどうだ」 「午過ぎならば良いが・・俺も一度田坂さんに、総司の身体の事を詳しく聞いて置きたいと思っていた処だ。丁度良い機会なのかもしれんな」 語尾は自分自身に言い聞かせているような、近藤の言葉の核((さね)を形作っているのは、総司を江戸に帰し、養生に専念させる事を諦め切れない苦渋だった。 ――総司を江戸に遣れば、この先病の進行を防げるのでは無いのかと。 否、其処に行けば、必ず健やかで変わらぬ総司に会えるのだと、そう信じる事で現の事実から目をそむけたいと切願する思いは、近藤の裡で日増しに強くなっている。 沈黙の向こうに在る、その近藤の思いを察しつつ、しかし土方は敢えてそれに知らぬ振りして、口を開いた。 「山崎の寄越した話しだが」 相手に感傷に溺れる隙を作らせず、話の筋を切り替えた口調が、俄かに厳しさを増した。 「・・例の、旅籠の一件か」 「室町通りにある、長門屋だ。六角堂の西辺りだ」 「確かなのだろうか」 「商人宿だが、それだけに人の出入りが激しく、どんな人間が立ち寄ろうが不自然は無い」 近藤が二度目の長州から戻り四日。 そのまま長州に残った伊東甲子太郎と、長州藩内部の動向を探る為、同道した山崎と吉村が、かの地に留まっている。 その山崎から、他藩において過激な倒幕活動を展開し、追われる身となった人間が、最近頻繁に長州に逃げ込んでいるとの情報が、近藤の帰営よりも早く、土方の元へ届いた。 分厚い文には、諸藩の治外法権となっている京に一度逃れ、其処から何かの手づるを経て、長州に落ち延びて来るらしいとの推測が書かれていた。 それを元に、直ちに探索に取り掛かり、凡その目星を付けたのが、今土方が近藤に伝えた旅籠、長門屋だった。 「見張りには、島田と伝吉を付けている」 今は二番隊伍長の島田魁を、一時元の監察に戻したその理由は、山崎吉村両名の留守による手薄だけではなく、島田と云う人間の諜報力、地道な調べの確かさを、土方自身が認めているからに他ならない。 「踏み込むのか?」 「いや、もう少し泳がせる。今踏み込んだ処で、大した成果は得られない」 「大物を、網に捉えると?」 「大物で無くともいいさ、新撰組に利を齎せてくれる輩ならばな。それに長門屋の裏に居る後ろ盾・・これは長州では無いらしいが、その実態がまだ掴めていない。踏み込むのはそれを確かにしてからだ」 「相変わらず、如才の無い奴だな」 捕り物ひとつを最大限に利用する、土方歳三と云う稀有な軍師を見る近藤の目が、この男の行く末を楽しむかのように、細められた。 だが近藤は、その旅籠の筋向いに在る、やはり商人宿に、総司が身を案じている人間が逗留している事までは知らない。 そしてその人物が、理由は分からぬまでも、新撰組が目を付けている長門屋を探っている事も。 幾ら言い含めた処で、総司が直次と云う、その商人を忘れる事は無いだろう。 否、いずれ動けるようになれば、己の目で無事を確かめる為に、行動を起こすに相違無い。 想い人は、損得を顧み、それによっては踏み止む事の出来るような、器用な気質の持ち主では無い。 直次と云う人間に、何故それ程までに拘るのかは分からぬが、難儀していると知れば、身を呈して手を貸すことに、些かの躊躇いも無いだろう。 それゆえ、直次が何を探っているのか、長門屋とはどのような繋がりがあるのかが明白になるまで、この件から遠ざけるが為に、田坂の元へ身を預けるのだと―― 流石に其処までは土方も打ち明けられず、愛弟子の恨み言を思い、それに憂慮しているらしい近藤を、億劫そうに見遣った。 「そう云う事だ」 話の仕舞を素気無く告げて、均整の取れた長身が立ち上がった。 「・・歳」 襖の桟に手を掛けるや呼びとめた声に、土方が顔だけで振り返った。 「何だ」 「・・いや、総司はどの位、田坂さんの処に厄介になるものかと思ってな」 「十日もあれば良いだろう」 厳つい顔(かんばせ)を、更に難しげにして問う近藤に返したいらえの根拠こそ、その十日の内に事を終わらせる自信だとは告げず、土方は止めていた足を踏み出し、後ろ手で襖を閉じた。 |