なごりの雪 (五) 「近江の布やったら、最近うちとこに出入りするようになった者が、他所さんにお勧めしても、恥ずかしゅうない品物を扱こうてます。何やったら、此方にもお伺いするように云うときます」 小川屋治兵衛は、端座している膝の前に茶を置いたキヨに頭を下げながら、それがまるで自分の身内であるかのような、力の入った調子で告げた。 「小川屋はんに出入りしてはるお店の反物やなんて、うちなんかには手ぇが出ませんわ」 「いえ、京に店を構えているのやのうて、近江から行商に来ますのや。せやけど商っているもんは、そりゃしっかりしてます。それにそないに値の張るもんと、違いますのや」 大層心が動いても、それが手に届かないものだと、聞いたと途端に諦めねばならぬと知った、少々恨みがましげなキヨの視線に、小川屋は慌てて言葉を付け足した。 ――総司が田坂の処に落ち着いて、既に三日が過ぎようとしていた。 小川屋は、それを偶(たま)さか、急ぎの薬の根を届けに来た事で知り、その時は一旦帰ったものの、病人の容態が落ち着いた頃合を見計らい、今度は八坂高台寺下に在る店の三笠を手土産に、わざわざ見舞いにやって来た。 そうしてキヨを交えての話題は、総司が白砂屋から半券を買い求めた事に始まり、近江周辺で作られている布地の質の良さへと広がっていた。 「ほな、うちにも買えますやろか」 「うちかて、家のもんに、そないな贅沢はさせてまへん。おなごのべべの値は、際限がありませんわ。それに付き合うていたら、身代が傾きます」 落胆を、すぐさま嬉しさに切り替えたキヨの笑い顔に、こう云う事には、何時の世も変わらぬ婦女子の賑やかさを苦笑せざるを得ない小川屋の声が、それを隠す為にくぐもる。 「けど小川屋はんに太鼓判押してもろうた人のもんなら、間違いはおへんなぁ」 「そう云うて貰えるのは、ほんに有り難い事ですけど、あんまり信用されても、今度はお眼鏡に敵うかどうか、心配になってきますわ」 「小川屋はんの目ぇは、うちが太鼓判押します」 「おおきに、キヨはんの太鼓判なら、えらい心強いですわ」 有無を言わさぬ勢いで、きっぱりと云いきるキヨに、小川屋が破顔一笑した。 「ならば私も、その人から買えば良かった」 「いえ、沖田さまのは、白砂屋はんのがよろしおす」 それまで二人のやり取りを、楽しげに見ていた総司が、つい漏らした本音ともとれる呟きを、小川屋は即座に否定した。 「おなごはんには、品物を買うだけやのうて、あれやこれや手に取って選ぶ、云う楽しみがありますのや。白砂屋はんは、ただ品を送るのやのうて、その選ぶ楽しみをも付け足しましたのや。ほんま、上手いこと考え出しましたわ」 取り扱う品は違っても、其処は商人(あきんど)。 言葉の最後は、小川屋の、ものを商う者としての、偽らざる心境だった。 「あ、それはそうどすなぁ。やっぱり小川屋はんは、ええ事云わはりますわ。うちかてただ買うんや、つまりませんわ。やっぱりどれにしよ思うて選んでいる時が、一等楽しおす。せやから沖田はんのお姉はんも、きっと喜ばれます」 「そうでしょうか?」 「そうですとも」 自信に満ちて頷くキヨの、あまりの確固たる様に、総司の唇からも小さな笑い声が零れた。 「せやったらその者に、此方に回るように云うときますわ。ああそうや、確か明日来るような事を、家内が言うてましたよって、相手に急ぎの用が無ければ、帰りに寄らせます」 「おおきに。なんやもう、今から明日が待ち遠しおすわ」 それが嘘では無い証拠に、キヨの声が、又一段と弾んだ。 「気に入って貰えるもんが、あるかどうか・・こうなると、何や急に心細うなってきますわ」 そう云って笑いながら、キヨと総司を交互に見た小川屋の双眸が、しかし己の推挙する者への自負を隠さず、緩やかに細められた。 「ほなうちは、田坂先生のお叱りを受けん内に、そろそろ失礼させて頂きます。こないに長ごうお喋りしてしもうて、どうか堪忍して下さい」 「いえ、私の方こそわざわざ来て頂いて、すみませんでした」 長話につき合わせてしまった、病人の疲れを案ずる面持ちで暇(いとま)の時を告げた小川屋に、総司が慌ててその懸念を打ち消した。 「本当に、もう何とも無いのです」 更に続けられた言葉には、こうして夜着を身に纏い、見舞い客を迎えねばならない我が身を恥じるような、困惑と心許なさがあった。 「若せんせいが、ええ言わはるまでは、あきまへん」 その総司に、すかさずキヨの叱咤が飛ぶ。 「田坂先生よりも、キヨはんの方が、なんぼも怖いようですな」 含み笑いの小川屋につられるように、総司の面輪にも笑みが浮かんだ。 だがキヨも小川屋も、ともすれば気鬱に負けてしまいそうな自分の心を、何とか引き上げてくれようとしているのだと知れば、やはり総司には心苦しい。 「ほな私は、ほんまにこれで」 細い線の面輪に浮んでいる笑みの曖昧さに、この若者の心に在る複雑を推し量り、それを慰撫するような柔らかな眼差しを送りながら、小川屋は今度こそ立ち上がった。 穏やかな物腰に隠された、この男本来の気性である剛直を垣間見せる、意外に武骨な小川屋の手が、静かに障子を開けた途端、それを待っていたかのように、耀るい陽が、雪崩れ込むと云うに相応しい勢いで室を満たした。 「じき、花が咲きますなぁ」 それに目を細め、その事がきっと全ての吉兆であると云わんばかりに、恰幅の良い後姿が振り返り、総司に笑いかけた。 自分に向けられたその心遣いを、浮かべた笑みはそのままに、言葉にはせず、ただ黙って頷く事で、総司は礼に代えた。 浅春にありがちな、ここ二、三日の曇天から一気に様相を変え、これはこれで季節の先急ぎかと思えるような麗らかな陽気は、臥している身には、その耀るさ華やかさが、己とあまりに掛け離れすぎていて、心が塞ぐ。 ――小川屋が帰ってから、どれ程の時が過ぎたのか。 白い紙の砦は、内と外とを几帳面に隔て、唯一それを透けて気侭を誇る陽は、高い位置から鋭角に射し込み、畳の上へ光の溜りを作っている。 それが本来ならば、到底目にする事の敵わぬ細かな塵を、宙に昇らせ、舞わせ、又静かに降りたたせては遊ばせる様を、先程から総司は飽きる事無く見ている。 やがてつと伸ばした手指の先は、日溜りの輪をいびつにしただけで、掬えると思った光は、するりと逃げて四方に跳ねた。 だが総司はその手を引こうとはせず、上に向けた掌に当たる陽の束を、ぼんやりと見つめている。 まるで世俗を掛け離れて、其処だけが異質な静けさに包まれている今のような時は、例えようの無い焦燥感に襲われる。 もしかしたらもう自分は、この閑寂の帳に塞がれた檻から、出る事が敵わないのでは無いのかと。 床についていれば否応無しに、己に与えられた現実を直視せざるを得ない。 目を瞑り、知らぬ振りしてやり過ごすその卑怯を、天は許してはくれない。 否、恐ろしいのは、衰え行く我が身では無く、土方に置いて行かれる、ただその事だけなのだと―― 底の無い、闇の淵へと引き摺り込まれるようなこの戦慄を、かの人に、迸るままにぶつけてしまいたい自分を抑るには、もう限りがある。 その一瞬浚われそうになった弱気を封じ込めるかのように、総司は伸ばしていた手を力無く落とすと、もう片方の手で閉じた瞼の上を覆い、きつく唇を噛み締めた。 だが凍てた棘で囲われた孤独の時は、あまり長い事では無かった。 近づく人の気配に、目隠しをしていた腕を除けると、総司は弾かれたように身を起こし、そうしてもう既に障子に影を映していた、違える事の無い人の姿に息を飲んだ。 「起きていたのか?」 それが不満ででもあるかのように、土方の一声は、機嫌が良いと云うには程遠かった。 「もう何とも無い」 笑いながらいらえを返し、不意の侵入者を見上げた瞳が、逆光が眩しいのか、少しばかり細められた。 だが土方はそれに応えず、後ろ手で障子を閉め床の際まで来ると、乱暴な所作で腰を下ろした。 「小川屋が、来たそうだな」 「今さっき、帰られた処です。・・小川屋さんにまで、心配をかけてしまって」 そう伝える語尾が曖昧に途切れたのは、この者の核(さね)を成す勝気がさせたものだと知るが故に、今総司の胸の裡を占めている己への不甲斐なさが、土方には手に取るように分かる。 だが同時にそれは、土方にとって、或る種の畏怖でもあった。 心弱い者は、強い者へと縋る事を知っている。 それが己を護る術だと、恥じる事無くそうする。 だが総司が裡に秘める精神の強靭さは、己の弱さを外に吐き出す事を許さず、ひたすらに自分を責め、果ては追い詰めてしまう。 それを土方は、危惧している。 己の胸に秘めていた想いの正体が、一体何なのかを顧みる事もせず、結果、この愛しい者を孤独に放っておいた時は、あまりに長すぎた。 そしてその歳月こそが、総司に、脆さ故の強さを纏わせてしまった。 だがこの報いは、必ずや償って行かねばならぬと、それも又、土方の揺るぎ無い決意だった。 「・・土方さん」 一瞬黙考にいた土方を、遠慮がちな声が、現に呼び戻した。 「どうした?」 が、促しても、総司はその先を紡ごうとはしない。 それはつい言葉にしてしまったものの、やはり躊躇に負けて唇を閉ざしていると云うに相応しい、何処かぎこちない沈黙だった。 「直次とか云う奴の事なら、大事無いと云った筈だ」 思いもかけぬ先回りのいらえは、深い色の瞳を大きく見開かせるのに十分過ぎ、そしてその様を見る土方の面が、苦々しげに歪められた。 大方外れる事は無いだろうと踏んではいたが、こうもあからさまに素直な反応を示されれば、土方の心中は穏やかでいられない。 やはり総司は、あの商人(あきんど)を追う事を諦めた訳ではなかったのだと、それが土方の神経を逆撫でする。 何故この者は、まるで大気に透ける陽のように、地に染み入る水のように、捕らえたと思ったその瞬間、いとも簡単に囲う腕をすり抜け、思いのままに走り出そうとするのか―― 手に包みこむ事の出来る蝶ならば、もう何処へも飛べぬよう羽をもぎり、掌の檻に入れてしまう事が出来ように。 それすら許さぬ目の前の想い人に、土方の焦燥は募る。 「・・土方さんは、あの人の事を探ったのですか?」 が、その胸の裡を知らずして、問う総司の瞳の中に見え隠れする批難の色は、土方の怒りの熾き火を煽り立てる。 「捻った足は、歩くに至難を要する程。しかも襲った残党は、あの時点ではまだ目を光らせていた筈。そんな状態の中、ただの町人が、護衛を断り独り姿を消す方が不自然だ」 吐き捨てるようないらえの言葉は、息つく島も無く、それが鬱憤のぶつけ処ででもあるかの如く、一気に語られた。 自分の問うた何が逆鱗に触れたのか分からず戸惑い、凝視する総司にかまわず、土方は伸ばした右手で、夜着の袖に隠れた細い二の腕を、乱暴に掴んだ。 「お前は何故あの商人の事を、それ程までに気に掛ける」 強引に身の動きを封じ、鋭い視線で射竦め、怒りを露にしての唐突な問いは、驚愕にいる総司に真実を迫る。 「云えっ」 応えぬ無言は、それが即ち己への抗いだと、責める声が容赦無く荒ぐのを、最早土方は止める事が出来ない。 細い細い絹糸の両の端を、相反する力で極限まで引き、今この一瞬にも裂かれ千切れると云う寸座のような、張り詰めた緊張の重さに耐えかねたのは、総司の心だった。 「・・これ以上巻き込まれるのは、嫌だと・・」 強張りを解けない面輪の唇が、始め微かに動き、水気を失った喉を遡り搾り出した音の幾つかが、漸くひとつの言葉になると、それに勢いつけられたかのように、深い色の瞳が土方を捉えた。 「これ以上新撰組に関わりを持って、危ない目に遭うのは嫌だと、・・そう言われてしまえば、止める事が出来なかった。けれどひとりで帰してしまった事を、あれからずっと後悔していた。土方さんの言葉を信じなかった訳じゃない、でもっ・・」 「それだけか?」 必死の言い訳は、しかし常のそれよりも余程に低い土方の声に、途中を遮られた。 「それだけ・・って」 「お前の拘りはそれだけかと、聞いている」 顔貌も分からぬ見ず知らずの人間への、これは滑稽な程に愚かしい嫉妬なのだと。 そう云う己を百も承知していて、しかしそれを自嘲するよりも、この想い人の心を、一時でも自分以外の者が占めるその事が許せなく、頑なに口を閉ざす総司に、土方は執拗に迫る。 が、総司は応えず、土方を映し出している瞳は、瞬く事もしない。 だが其処には先程まであった勝気は既に無く、真実を探り当てられる事を恐れるかのように、不安定な色が揺らめく。 ――室に満ちる陽の温(ぬく)さとは不釣合いな、凍てた沈黙の時は、如何ばかり続いたのか・・ 「言いたくないのならば、言わなくてもいい」 やがて二の腕を、骨をも砕かんばかりに強く掴んでいた手から、ゆっくりと力を抜いた土方の静かな声が、互いを責め合うばかりのしじまに、仕舞いを告げた。 そのあまりの異質さに、再び総司が瞳を上げた。 「お前が言いたく無いと言うのならば、それでいい」 土方の物言いには、それまでの、怒りの迸りのような苛烈さはもう無い。 是が非でもこの者を縛り付けたいと願うならば、もう行き着く先は、息の緒を止め、その屍を腕(かいな)に抱いている他術は無いのだと―― ついた息に籠もるのは、此処まで総司を追い詰めてしまっても、尚自我を抑える事が出来ない、己への諦めと苛立ちだけだった。 「・・ちがう」 だが拘束していた力が離れ行くのを厭うかのように、それがまるで、土方そのものが己から離れ行くのと重ね恐れるかのように、総司の唇が戦慄き動いた。 「何が違う」 「・・あの時、・・見られてしまったから。だから、お相子にしようと・・」 「見られた?」 想い人のいらえにある言葉の意外さに、土方の眉根が寄る。 「・・一さんが、八郎さんを呼びに走っている間に、咳き込んでしまって・・その時に、あの直次さんと云う人に、少しだけ血を吐いたのを、見られてしまった」 ぽつりぽつり語り始めた声音は、未だ躊躇いに負ける総司の心そのもののように、時折は止まり、時折は掠れる。 「血を?」 俄かに気色ばんだ土方に、総司は視線を合わせず、無言のまま頷いた。 「でも大した事無かったし、直ぐに咳も収まった。けれどあの人はそれを見て、自分を放っておいてくれなら、代わりにこの事は誰にも云わないと言い出して・・」 「それが、相子か」 首を縦にするか、否か・・ 頼りない首筋の、少し上で纏めた髪が横に揺れる、その僅かな動きだけで頷き是と応える仕草が、総司の心を雁字搦めに縛っている縄手の強(したた)かさを、土方に知らしめる。 「・・だから余計に、あの人の事が気になっていた」 俯いたまま漏れた呟きが、相手と、そして交わした約束と、そのふたつの行く先を案じるように、小さく消えた。 血を吐いたと、例え見ず知らずの人間にでも、それを知られる事は、総司にとって畏怖以外の何ものでも無い。 己の身に巣食う病に触れられる事を、総司は極端に嫌う。 それはこの者の持つ本来の気質から来るものが大きいが、しかしその根本は、いずれ動けなくなり、自分に置いて行かれる日が来る事を怯える心の裏返しだと、土方は知っている。 それ故、知られたくは無いと願う思いは、相手の出した条件に、すぐさま総司を頷かせたのだろう。 その心根が、土方には痛い。 そして何よりも、愛しい。 「お前は、大莫迦野郎だな」 二の腕を掴んだままの手に、今一度力を籠め、更にそれを強く引き、揺らいで傾いだ身体を己の胸の内へと浚い、そうして遠慮の無い言葉で叱る調子が遣る瀬無い。 「・・きっと、そうだ」 「莫迦が・・」 これみよがしの溜息と共に漏れた、呆れた声音を聞いて、土方を見上げた総司が、しかしもうひとつ云えぬ真実を隠す為に、細い面輪にぎこちない笑みを浮かべた。 話す事など―― 出来るわけが無かった。 あの直次と云う人間は、恐れるものなど何一つ無く、ただただ土方を追い続けていた時の自分と同じ、必死の目をしていたと。 だが今は、土方に置いて行かれる事に、際限なく怯えているのだと。 得られたからこそ、今度はそれを失う事が怖いのだと。 けれど一番恐れているのは、自分のこの弱音が、いつか必ず土方の足手まといになるとの、その確信だった。 だからもしも今一度、あの目が宿していた、何をも排する強靭な光に見(まみ)えたならば、自分は強い心を取り戻す事が出来るのでは無いのかと・・・ そんな愚かしい錯覚を信じ、しかしその愚かにすら縋ろうとしている、不甲斐ない自分を隠すように、総司は静かに瞳を伏せた。 啓蟄を過ぎたばかりの頃合の好天は、それが一日持つかと危ぶまれる気侭さで、人々の心を惑わすが、幸いにも昨日の温(ぬく)い陽射しは今日に引き継がれ、手入れの良い中庭に息吹く草木の像を、濃い陰影で地に刻み込み、その耀さを更に浮き立たせる。 建物の一番奥にあるこの室にまで聞こえていた、順番を待つ患者達の喧騒は、昼を過ぎても暫く続いていたが、次第にそれも耳に遠くなり、何時の間にかうたかたの眠りに陥ってしまったらしい。 気付いた時には、記憶が曖昧になる直前までの賑やかさが嘘のような、安穏としたしじまが、室を包んでいた。 それでも総司は暫く、視界に入るものをただぼんやりと瞳に映していたが、やがて風に乗り、微かに聞こえる人の声に引き摺られるように、漸く意識が現に戻り始めた。 だがその声の主が、キヨと、もうひとつは聞きなれない人間のものだと判ずるや、慌てて身を起こし、閉じられた障子の向こうへと、総司は視線を移した。 声のする方角に全ての神経を集めても、田坂の声は其処に無い。 ならば客は、キヨを尋ねて来たのだろうか・・・ そこまで思い巡らせた時、そのキヨらしき気配が、床を踏みしめる音すら憚るように、此方に遣ってくるのが分かった。 「いや、起こしてしもうたんですやろか。堪忍どっせ」 ほんの僅か、指ひとつ入るくらいに障子を開け、初め其処から総司の眠りを邪魔せぬよう室の中を覗いたキヨが、上半身を床から起こして笑いかけている面輪を見るや、驚きの声を上げた。 だが詫びる言葉も終わらぬ内に、今度はいま少し広い隙を作ると、外気の入らぬよう、キヨは恰幅の良い身を急いで滑り込ませた。 「うちの声で、目が覚めてしもうたんと、違いますやろか」 「ずっと前から、起きていました」 屈託の無い笑い顔は、罪の無い嘘を本物にする。 それにつられるように、キヨのふくよかな頬にも、笑みが浮かんだ。 「せやったら、安心しましたわ。若せんせいが、なるべくたんと眠らせておくように、言うて往診に出掛けはったんやけど、それにあんじょうお任せやす、云うて送り出したうちが起こしてしもうたら、もうせんせいに、小言も言えんようになってしまう」 本当にそう思っていたらしく、キヨの丸い声には、正直な安堵の色がある。 「あの・・キヨさん、何か用事だったのでは?」 敷かれた床の際に端坐し、このままでは一向お喋りの止む気配の無いキヨに、総司の方が気懸かりを問うた。 「あ、そうや。すっかり用事を忘れてしまうとこやった。もし沖田はんが起きていはったら、反物持って来ようと思って、覗いたんですわ」 「・・反物?」 「へぇ。どっちがええか、選んでもらおうと思いましたのや」 キヨの言う事が、いまひとつ分からず、総司は小首を傾げた。 「あっ・・」 だがその一瞬、脳裏に刻み込まれていた記憶の片鱗と、キヨの言葉とが結びついて、形の良い唇から、小さな声が零れ落ちた。 「もしかしたら、昨日小川屋さんが言っていた・・」 「そうです。小川屋はんの紹介してくれはった太物屋はんが、来てくれてますのや。けどほんまにええもんばかりで、迷ってしもうて・・漸くふたつに絞ったんやけど、どっちにしようか決めかねているんですわ。そんで沖田はんに選んで貰おう思うて、覗いてみたんですわ」 二重の顎を引いて頷きながら、キヨの声は弾んでいる。 「でも私には、どれが良いのかなんて分からない」 「これが一等ええ、言うてくれたら、それでええのですわ」 狼狽を露わに、困惑の極みにいる総司に、キヨは然も簡単に、いらえを寄越す。 「ほな、太物屋はん、呼んできますわ」 総司の事情など端から気にも留めず、キヨは再び満足げに頷くと、嬉しそうに腰を上げた。 「キヨさんっ」 が、その後姿を、総司の切羽詰った声が、呼び止めた。 「あの、私が其方に行きます」 「あきまへん。若せんせいにも、静かにしてなあかんて言われてますやろ?」 「でもっ・・」 必死の食い下がりは、どうしても譲れぬ総司の矜持だった。 見ず知らずの他人を、床に臥せていた夜着のまま迎えるなどとは、考えただけでも羞恥で顔が火照る。 「でもこんな格好ならば、きっと相手の人に、気を遣わせてしまう」 普段の大人しげな物腰からは、とても想像出来無い頑なさに、キヨも漸く、総司の裡にある拘りに気づいたようだった。 「ほな、キヨが持って来ますわ。それやったらええですやろ?」 若さ故の矜持と、焦燥と、そして羞恥とを、複雑に絡ませて見上げている、双つの深い色の瞳に向けたキヨの眼差しが、その全てを包み込むかのように、柔らかく細められた。 それでも総司は暫し逡巡しているようだったが、やがてキヨの逸らさぬ視線に根負けしたのか、細い輪郭の面輪が、曖昧に頷いた。 だが廊下を行くキヨの気配がすっかり消えると、総司はおもむろに床の上に立ち上がった。 すっかり身体を縦にすると、どうにも覚束ない感覚に、たった数日間で削ぎ取られてしまった力の大きさを知り愕然としたが、その己を叱咤し、室の隅の乱れ箱に歩み寄ると、其処に几帳面に畳まれていた着物を手早く纏い、袴をつけた。 此処に来て始めて目にする室の外は、見慣れた筈の中庭ですら、早春の陽射しに彩られ、いつもの其れとは、まるで違うもののような顔を見せている。 その光景に一度瞳を細め、だが直ぐに、総司はキヨを追って歩を踏み出した。 「・・キヨさん」 小さく掛けた声に、中から聞こえていた声が不意に止み、次には慌てて立ち上がる衣擦れの音がした。 やがて開けられた障子の向こうに、身繕いを整えて立つ総司を見たキヨの目が、驚きに瞠られた。 「沖田はん、起きたらあかんて、あないに言うてましたのに」 背丈の関係で、少しばかり見上げる風にして、だが身幅は自分よりも余程に華奢な相手に、キヨは怖い目を向けた。 「けれどもう何とも無いし、キヨさんの着物ならば、私も色々と見て選びたい」 取り繕う偽りは、そのあまりの拙さ、ぎこちなさが、総司の必死を物語り、叱るより先に、諦めの笑みをキヨに浮かべせさる。 ――例え顔すら知らない行商の人間にでも、病で臥せっているのを知られた途端、同情されるその事が、総司にとっては耐え難いのだろう。 だがキヨは、その頑なな矜持を、笑うことが出来ない。 身の内に宿痾を宿す脆弱な身体は、常に憂苦から総司を開放してはくれないのだろう。 他人にはつまらぬ意地だと映る些細な頑固も、総司には捨てきれない拘りなのだ。 総司を見るキヨの胸の裡が、どうにも切ない、それでいて何と言葉で紡いで良いのか分からぬ、優しさに包まれる。 それは決して激しいものでは無く、むしろ風に舞う粉雪のけなげをいとおしむにも似て、キヨの心を、ふわりと温(ぬく)い風で満たす。 花を愛で浮き立つ心で、他愛も無い会話を交わし、炎陽の烈しさに、うんざりと萎える意気地の無さを叱り、落ちる葉の寂しさを語りながら、やがて来る季節の厳しさに曝される身を、労わる言葉で包み込んでやりたいのだと。 いつの時も変わる事無く、総司と共に、そうして時を過ごして行きたいのだと。 そしてその時に、果てなど来る事の無いように―― 神仏が叶えてくれぬのならば、例え閻魔であろうと、今キヨは、切願せずにはいられない。 「あの・・」 そのキヨの背に、中から遠慮がちな声が掛かった。 「あ、堪忍どっせ。すっかり中座してしもうて・・」 慌てて室の中の人間を振り返り詫びたキヨだったが、すぐに視線を総司に戻すと、もう一度厳しい顔を作り直した。 「ほな、ちょっとだけですえ」 嬉しそうに頷く笑い顔に、つい引き込まれてしまいそうになる自分を、胸の裡で叱ると、その代わりのように、キヨは不承不承の仕草を装い、脇を空けて、総司を室の中へと招き入れた。 だがその総司の足が、畳を踏んだ寸座、まるで其処に縫いとめられたように止まった。 「どないしはりました?」 「・・貴方は」 訝しげなキヨの声よりも先に、総司の唇から漏れたのは、ただ驚きひと色に彩られた小さな呟きだった。 |