なごりの雪 (六)




 麗らかな春日の昼と云えど、障子を通しての明るさに慣れた目には、外の陽射しは強すぎるらしく、室の中に端座している者は、自分に視線を留めている若者の姿を性急に捉えようと、眸を細めた。
だがそれも一瞬の事で、総司の顔貌(かおかたち)が己の視界の中で克明になると、今度は双つの目が驚きに見開かれた。

「いや、沖田はん、直次はんと、お知り合いやったんですやろか?」
束の間ではあったが、互いに次の言葉を探しあぐねているような、ぎこちない沈黙を破ったのは、キヨの不思議そうな声だった。
「知り合いやなんて云うたら、罰があたります。うちはこの方に、命を助けてもろうたんですわ」
「いのちを?」
驚くキヨに、ゆっくりと頷いた直次の面には、既に驚きを仕舞い込んだ代わりの、穏やかな笑みが浮かべられていた。

「あのっ・・」
だがその二人の遣り取りすら、耳には届いていなかったらしく、敷居の際に立ち尽くしていた総司が、突然直次に歩み寄り、傍らに両膝をついた。
「あれから足は、大丈夫だったのでしょうか?」
「お陰さまで、もう歩くのかて大事おへん。あの時は、ほんまおおきに、ありがとうございました」
最後まで云い終えぬ内に深く下げられたこうべは、そのまま中々上げられようとはしない。
「どうか頭を上げて下さい。迷惑を掛けてしまったのは、私の方なのです。・・だから・・」
「直次はん、沖田はんが、えろう困ってはりますえ」
「これは・・すみません」
何時の間にか傍らに来ていた、キヨの笑いを含んだ声音に、漸く頭を上げた直次が、困惑に面輪を曇らせている総司を見止め、又詫びの言葉を重ねた。
「謝らなければならないのは、私なのです」
「そんな事、あらしまへん」
慌ててかぶりを振る、几帳面すぎる直次の律儀は、更に総司を狼狽させる。
「でもっ・・」
つい迸った抗いの声が、焦る。

「あのぉ・・」
が、互いに譲らぬ二人を、キヨの丸い声が止めた。
「うちには何やご事情がよう分からんのですけど、沖田はんもそないに言わはったら、今度は直次はんの方が困ってしまいますわ」
ふくよかな二重の顎を引いて笑う声音は、頑固を諌める言葉とは裏腹に、羞恥でみるみる頬を染める者を揶揄するような、柔らかな響きがあった。
「キヨはんの云うとおりです。あの時の事は、どうかもう気にせんといて下さい。・・・せやけど」
未だ戸惑いから抜け出せぬ総司に、穏やかな調子で語りかけながら、ふと中途で言葉を切った直次の目が、何やら楽しげに細められた。
「又こうしてご縁が出来るとは、思いませんでした」
やがてそう間も置かずに云いきった時、それが直次にとって幸か不幸なのかを判じかねるような笑みが、柔和ではあるが、引き締まった若い面に広がった。
それが一体どちらなのか・・・
「沖田はんと直次はんは、又逢えるように、最初からお天道はんが決めてはったんやわ」
それを総司に判じかねる暇(いとま)も与えず、その偶然の僥倖が、今自分の目の前で形となった事に、キヨが満足げに、幾度も頷いた。
「そうかもしれへんですなぁ。まさかうちかて此方でお会い出来るとは、夢にも思うてませんでした」
「きっと、キヨさんが巡り合わせてくれたんだ」
「それやったら、沖田はんと直次はんに、うちはたんと感謝されな、あきまへんなぁ」
漸く硬さを解いた総司の面輪に広がる笑みを見て、応えるキヨの口調も嬉しそうに弾む。

「・・あ、キヨはん。もしかして、選んではったのは、沖田はんのものだったんですやろか?」
だがその様子を、笑みを浮かべて見ていた直次が、ふと思い当たったように、キヨに視線を戻した。
「あ、そやそや。お喋りしていて、又大事な事を、忘れてしまうところやった」
自分のうっかりに、キヨは呆れたように呟くと、畳の上に広げられた反物の中のひとつを手に取り、傍らに端坐している総司の目線の位置まで持ち上げた。
「うちはこれが似合うんやないかと思いましたんやけど、どうですやろ?」
「・・どう、って?」
差し出されたものは、染めの最初の段階で出来る、白に僅かに藍みがさしたか否かと云う程に薄い、所謂藍白と云われる色合いの絣だった。
「沖田はんは、いつも藍やら紺の、大人しい色目の着物ですやろ?それはそれでよう似合おてはるんやけど、うちは一度こないな明るい色のもんを、着せてみたかったんですわ」
「お顔に、よう映えてます」
「そうどすやろ?ほんま、似合うてはるわ」
「あのっ・・」
手にした反物を、総司の肩口から流すようにして当てながら、満足げに頷くキヨに、ひどく慌てた声が掛かった。
「何ですやろ?」
「選ぶのは、キヨさんのものではないのですか?」
「沖田はんのに、決まってますわ」
そんな事は当たり前だと云わんばかりの、返ったいらえのあまりの淡白さに、何と応えて良いのか分からず、総司の面輪が困惑に染まる。
「けれどキヨさんは、どれが良いのか選んで欲しいって・・」
「せやから沖田はんに、どれがええか決めて欲しい、言いましたやろ?あ、そや。もうひとつは、これなんやけど・・」
相手の狼狽など構わず、更にキヨは、先程よりはもう一段薄く色を重ねた、これも又淡い色の反物を取り出し、言葉を詰まらせている総司に当てる。
「いや、これもええなぁ・・。いっそふたつとも、買うてしまいたくなりますわ」
「それは瓶覗(かめのぞき)云う色ですわ。藍はこんなん白っぽいのものから、黒に近い深藍まで、十六通りの名がありますのや。けど、沖田はんには、淡い色目がよう似合います」
「そうですやろ?うちもそないに思いますのや。・・けどほんま、どっちもよう映えるわ」
「キヨさんっ、困ります」
手にした反物を見つめ、溜息をも吐きかねない夢見心地のキヨを、必死の声が、何とか現に戻そうと焦る。
「何が困りますの?」
「着物なら、自分で買います。だから・・」
「ほな沖田はんは、キヨの楽しみを、取り上げてしまうおつもりですやろか」
それまでの弾むような調子から、一転声を抑え、少しだけ目を伏せ、そうして語り始めたキヨの突然の変化に、総司が戸惑い言葉を呑んだ。
その相手の様を視界の端で捉えると、キヨは端坐した姿勢のまま、改めて総司に向き直った。

「うちは一遍、沖田はんの着物を縫わせて欲しいと、ずっとそう思うてましたのや。せやけどそないな事は、差し出がましい事や、あかん事やと、今まで自分をきつう叱って堪えてきました。けど沖田はんが姉上さまに孝行をされはったと聞いて、ああ、それやったらそのご褒美や云うて、言い訳がつけれる。そないに思うて、この間から、それはそれは楽しみにしてましたんや。・・そのうちの楽しみを、沖田はんは取り上げてしまうおつもりですやろか」
寂しげに見上げるキヨの目にあるものは、こうなれば、自分になど到底敵わぬ年季の積まれた駆け引きだとは、今の総司に気づく余裕は無い。
「けれど、そんなにしてもらう訳には・・」
「そないに高いものと、違いますのや。そうですなぁ、直次はん」
どうしても首を縦にするを躊躇う総司を折れさせる、ここが一番の要とばかりに、更にキヨは直次に同意を求める。
「へぇ。贈られる相手の方に、値段を云うてええもんか、困った事ですけど。・・うちの代物は、白砂屋はんが商のうているような、値の張るもんと違います。せやけど、質では少しも負けしまへん」
困った事と笑いながら告げる顔は、しかし己の扱う品への自負に満ちていた。
「なぁ、沖田はん。うちの願いを、一遍だけ聞いてくれませんやろか」
それでも逡巡を露わにしている面輪の主へ、キヨの柔らかな声が、是とのいらえを強請(ねだ)る。

「沖田はんに、ええ云うて貰わんと、実はうちも困るんですわ」
沈黙を抜け出ぬ総司に、それがキヨへの助け舟なのか、苦笑しながら直次の声が掛かった。
「キヨはんは、ご自分が買うたものを縫って、それで沖田はんに着て貰いたいのですわ。せやし、もしも沖田はんが、このまま自分で買う云うて譲らんかったら、キヨはんはつまらん思うて、きっと仕立てるのも止める云わはるに決まってます。そしたら私も、商売が出来んようになってしまいます」
「それですのやっ。いや、直次はん、上手いこと云うてくれはりましたなぁ。おおきに」
キヨは直次に向かい一度頭を下げると、直ぐに総司に目線を移した。
「直次はんの云うとおりですわ。沖田はんは、キヨに楽しみもくれへんのですやろか」
「でも・・」
「心配せんかてよろし。うちの若せんせいは、腕のええお医者はんです。せやから沖田はんの着物の一枚二枚買うたからか云うて、それで困ることなんか、ちっともあらしまへん。あっ、・・けど・・」
勢いの良い語り口がふと止まり、次に少しだけ、キヨは首を傾げた。
「沖田はんのだけ云うたら、若せんせいが、つむじ曲げはるかもしれへんなぁ」
「田坂さんが?」
「へぇ」
大真面目に頷くキヨに、総司の声音に、漸くいつもと変わらぬ邪気の無い明るさが戻った。
「あ、そうや。ほなこっちの藍白のが沖田はん、そんでこっちの瓶覗のを、若せんせいのにしたらええんや。それでどうですやろ?」
選びあぐねていた二つの反物を手にしての問いに、躊躇いがちにではあるが、とうとう頷いた総司を見て、キヨのふくよかな頬にも、笑みが広がった。

「ほな、これで決まりや」
「けれど、・・それではキヨさんのは?」
嬉しそうに語るキヨに、今度は総司が、案じ顔で問うた。
「うちは去年、若せんせいに買うてもらったばかりですのや」
「それなら今年は、私がキヨさんに買わせて下さい」
「おおきに。せやけど、そないに仰山あったかて、毎日どれにしよ、迷うてしまうだけですわ。沖田はんには・・そうや、又来年、買うてもらいますわ」
急(せ)いて告げる総司をやんわりと制し、キヨの目が和んだ。
「でもそれでは・・」
「お話の途中、申し訳無い事ですけど、ちょっとだけ、ええですやろか」
それでも譲らず、食い下がろうとする総司を、直次の遠慮がちな声が止めた。

「ほんま、沖田はんには云いにくい事なんですけど・・。実は先日捻った足が、まだ時々痛みますのや」
それまでの話の筋から大きく掛け離れた、突然と云えばあまりに突然の言葉ではあったが、しかしその事をずっと懸念していた総司の瞳が、聞いた途端に狼狽に揺れた。
「すみません。・・それで足は・・」
「へえ、普段は大事おへん。せやけど、何や来年の今頃が、痛くなりそうな気がしますのや」
難しげに眉根を寄せ、更に不思議を語る直次が、一体何を伝えたいのかを判じかね、総司もキヨも無言でその先を待つ。
「せやし、ここで来年の商いがひとつ決まれば、薬代の心配せんでもええなぁ・・そう思いますのや」
「あ、それはそうですわ。来年沖田はんが、キヨの反物を直次はんからひとつ買う、云うお約束をしはったら、そりゃ、直次はんは安心ですわ」
頑なな者を引かせる為の、それが直次の罪の無い嘘だと知ると、その先を引き受けたキヨが、大仰に頷いた。
「へえ、そうですのや。こないに情けない話、ほんまは穴があったら入りたい程ですけど、ここはひとつ恥を忍んで、沖田はんにお願い出来れば、うちも助かります」
そう云いながら笑う顔には、翳りの少しも無い。

 あまりに明け透け過ぎる偽りは、それが自分に向けられた掛け値の無い心遣いだと知れば、総司の胸の裡が、温(ぬく)い風に包まれる。
木綿の織物を一反を売ったとて、大した儲けにはならないだろう。
しかも互いが、来年又必ず会える確しかなど、何処にも無い。
それでも今総司は、この嘘に、素直に騙されてみたいと思った。
否、次の年に、キヨに反物を買うのだと、自分自身が信じてみたかった。


「・・それでは来年、キヨさんの分を、私が買わせて頂きます」
告げる総司の声音が、それまでの己の頑なさを恥じるように、少しだけ小さくなった。
「おおきに、これで安心できます」
「なんやもう、来年が早ようこんかと、今から待ちどおしいですわ」
穏やかに笑う直次と、これは心底嬉しそうなキヨに、総司の面輪にも、漸く屈託の無い笑みが浮かんだ。

「あ、そや・・」
その笑い顔のまま、ふと気付いたように、直次が、総司とキヨを交互に見遣った。
「ちょっと値段が張りますけど・・。今年注文を頂戴できましたら、来年質のええ麻布をお渡しできます」
「麻?・・麻やなんていけません。うちには勿体無いもんですわ」
直次の言葉に、キヨが直ぐさまかぶりを振った。
「確かに、麻は贅沢な品です。せやけどほんまに良い出来の織物は、幾度も洗い張りして、そりゃもう長いこと着られます。・・実はうちの母親の田舎は、近江でも質のええ麻糸の取れる土地なんですわ。せやし、うちの商う代物は、其処から直接に仕入れる事が出来きますのや」
「それでは直次さんの家も、麻糸を取っているのですか?」
故郷を語る直次の眼差しが、其処に思いを馳せさせているのか、少しだけ細められたのを見て、総司の声音も、それにつられるように和らいだ。
「いえ、うちの生まれた家は、彦根で太物を扱う問屋でした。せやけど父親の代の時、商売があかんようになってしもうたんですわ。・・それでも店は潰せんと、必死だったんですやろなぁ。昼も夜も無く働き続けた父親が、急な病で亡(の)うなったのは、漸く先に光が見え始めた時でした。それが心労だったのか、母親も幾月も経たん内に逝ってしもうて。・・父親と懇意だった店に引き取られたのは、うちが八っつの時でした・・奉公に上がったばかりの頃は、慣れない生活が辛おて、どうして二人で逝ってしもうたんやて恨みもしました。けど今考えると、あの世まで一緒やなんて、ほんま仲のええ夫婦だったんやと思います」
笑みを浮かべ、淡々と、少しの湿り気も無い語り口は、だがあまりに拘りの無い様が、逆に紡がれる言葉の裏にある、この人間の通ってきた修羅をよりくっきりと際立たせる。

「調子にのって、つまらん身の上話を聞かせてしもうて、えらい申し訳の無い事です。堪忍してやって下さい」
慌ててこうべを下げ詫びる直次に、キヨが首を振った。
「つまらん事なんか、あらしまへん。けど直次はんのお父はんもお母はんも、直次はんがこないに立派になって、きっと喜んではりますやろな」
「いえ、怒ってると思います」
「どうしてですやろ?」
すぐさま返った、苦笑がてらのいらえに、キヨが不思議そうに、豊かな頬に指を当てた。
「ここまで育ててくれた奉公先に、ひとつも恩を返さんうちに飛び出して、そんで好き勝手に商売始めた息子なんぞいらん云うて、怒ってますやろ」
「ほな直次はんは、前は違うご商売を、してはったんですやろか?」
問うキヨの調子には、商いには厳しいあの小川屋の推す人物が、太物の行商を始めて間も無いと云う事実への、信じ難い驚きがあった。
「この商いを始めてからは、まだ日も浅いのですわ」
「けど、そないには見えませんわ。小川屋はんも、しっかりした商いをすると、太鼓判を押してはりましたえ」
衒う風も無く正直に応える直次に、キヨは又も目を見張った。

「・・では、直次さんがご奉公されていた店は、何を扱っていたのですか?」
その事を聞いて良いのか否かに軽い逡巡があるのか、総司の声は幾分遠慮がちだった。
「それが・・太物とは全く関係の無い商売でしたのや。奉公してたのは、質屋でした」
「質屋はん?」
意外ないらえは、益々キヨを吃驚させたようで、柔らかな声音が、少しだけ甲高くなった。
「へぇ。・・堅い商いで、彦根でも名の通った、代々続く老舗でした。私は其処で八っつの時から、商いのいろはを教えてもろうたんです。・・せやけど、やっぱり父親(てておや)の扱こうていた太物を、商いにしたかったんですわ。それで遂にその気持ちが抑え切れんようになって、店に不義理をしてしまいました」
決まり悪そうに笑いながら語る物言いの、時折言葉が淀むその一瞬に、直次の声に硬質なものが混じるのを、錯覚とは聞き逃せない何かとして、総司は耳に刻んでいた。
「けど直次はんが、今のご商売で立派になられはったら、お世話になったお店(たな)のご主人かて、嬉しいのと違いますやろか」
「おおきに。そないに云うて貰えると、なんや気持ちが楽になりますわ」
だがキヨにいらえを返した直次の声は、総司が胸の裡にしこりとして残したその疑念を、まるで払拭するかのように、殊更明るいものだった。

「あ、丁度ええ」
その余韻も消えぬ内に、不意に思いついたような、幾分力強い調子の声が、直次の唇から発せられた。
「明日、他のお客さまから注文を頂戴したその麻布が、彦根から届きますのや。それは去年の糸で織ったものですけど、本物を手に取って貰ろうたら、彦根の麻布の良さを、きっと分かって頂けます」
「でもそれは、他の方が買うものでは無いのですか?」
「ほんのちょっとだけ、此方に先に寄ってお見せするには分には、先様にも堪忍してもらえますやろ。これが彦根の麻布や、云うんを見て欲しいんですわ」
総司の懸念に応えて語る直次の顔には、その品を扱う商人(あきんど)としての、自負と矜持がある。
「けど・・」
だがキヨだけが一人、どうにも困った風に首を傾げた。
「そないにええもん見せて貰ろうて、来年まで待てなくなってしもうたら、どないしよ」
「その時には、堪忍して下さい」
満更嘘でも無さそうなキヨの困惑に、直次が破顔した。
「その麻布、今年はもう買えないのですか?」
もしそれが出来得るのであらば、今叶えておきたいのだと、問う総司の声音には、少しだけ先を焦るものがある。
果たしたい約束は、あまり遠くに行かない方がいい。
常に己の裡にある焦燥が、こんな時でも総司を急がせる。

「申し訳の無いことですが、それが出来ませんのや。・・彦根の山間では、質のええ苧麻(からむし)が取れます。それから強い麻糸を撚って、布を織ります。その中でも特にええもんが、近江上布と云われてる代物です。せやけど最近では、藩がその殆どの過程を庇護する代わりに、出来た麻布をも安う買いとってしまいます。そんな訳で、うちのような新参者が、漸く手に入れる事が出来るのも、亡うなった母親の親戚筋を頼り、流して貰えるお陰ですのや」
丁寧に説明を加えて詫びながら、自分に真摯な瞳を向けている総司の、その身体を蝕んでいる宿痾の存在を改めて思い起こし、来年の約束を今年へと急ぐ切ない胸中を慮る直治の裡にも、遣る瀬無い痛みが走る。

「ほな、それを生業としているお店は、困ると違いますか?」
だがともすれば流されてしまいそうな感傷から直次を救ったのは、キヨの柔らかな声だった。
「はい、仰るとおりです。商うものが手に入らんようになって、店を閉じなあかんようになったり、うちの親と似たような事になったり・・今彦根で太物を扱う店は、難儀しています」
少しばかり困ったように笑いながら、しかしキヨに応える直次には、己の過去に、未だ引き摺られているような弱さは無い。
「井伊のお家では、先のお殿様が、江戸であないな事になってしもうて・・それで藩は、何とか減らされた禄高を取り戻そうと、今必死ですのや。それには金も要る。手柄も要る。・・時勢に躍らされて、藩もなりふり構っては、おられへんのですわ」

それまでと何ひとつ変わらぬ、穏やかな直次の物言いだったが、途中ほんの一瞬、声の調子が落ちたその刹那、再び総司の胸の裡に、何とも言いようの無い、奇妙に落ち着かない感覚が走った。
そしてそれは、己が信念を果たす為ならば、邪魔するものは何をも排する覚悟と、揺るがぬ意志に裏打ちされた、あの川原で見せた、直次の強い眸の色と見事に重なり有った。
だが落ちた声の調子と、眸にあった強靭な意志の色と、その二つが、何故すぐさま同じ印象として結びついたのか――
それが総司には、分からない。


「・・あれは、八つの鐘ですやろか」
暫し黙考に籠もっていた総司を、反物を片付け終わった直次の声が、現に戻した。
言われたように耳を傾ければ、確かに遠くから、鈍い鐘の音が聞こえる。
「もうそないになりますの?いや、お菜どないしよ。ちっとも決めておかなんだ」
直次の言葉に、既に夕餉も近い頃合だと改めて知ったキヨが、慌てた声を上げた。
「うちが余計なお喋りをしてしもうて・・・堪忍しておくれやす」
「直次はんの所為と違います。うちが要らん事まで聞き出してしもうて・・此方こそ堪忍」
「いえ、今日は有り難い商売をさせて貰えました。ほんまに、ありがとうございます」
互いを気遣うやり取りの仕舞いを告げるように、直次は、キヨと総司に向かい、几帳面な所作で頭を下げた。

「直次さん、私もその近江の麻布を、早く見てみたい」
「へぇ、待っといておくれやす。必ず明後日、お目に掛けますよって」
総司の邪気の無い笑い顔につられるように、立ち上がった直次の面にも、翳りの無い笑みが浮かんだ。




 もう花の季節も間近かと、心浮かせた温(ぬく)さが嘘のように、日が沈んだ後の空気は、鋭利な刃が身を削ぐにも似た、厳しい冷たさを纏う。
キヨが足して行ってくれた炭の、熾り火が覚束ないのにも気づかず、総司は敷かれた床の上に端坐したまま、先程から身じろぎしない。

思いもかけず再び巡り会えた直次は、最初から最後まで、商人(あきんど)の顔に徹していた。
川原で初めて出会い、互いの身にこれ以上係らないと、半ば強引な取引を承知させた時の、拒む事の一切を許さぬ強靭さは、微塵も無かった。
否、今日見せた、穏やかで翳りの無い貌こそが、本来の直次であるのだろう。
だがあの時の直次の双眸に在ったのは、襲い掛かる獣に、小動物が威嚇の牙を向けるような、何か困難に直面し、もうぎりぎりの際まで追い詰められた者だけが持つ苛烈さだった。
では其処まで直次を動かすものが、一体何なのか――

交わされる会話の途中、不意にその目を思い出させた時が、二度有った。
一度目は、出奔してしまった元の奉公先の事に触れた時。
二度目は、彦根藩の内情に触れた時。
では直次が裡に秘める何かは、このふたつに係るものなのか・・・

だが其処へと思考を巡らせたその寸座、突然の人の気配がそれを邪魔をし、咄嗟に向けた瞳が、蝋燭の灯が、当人よりも一回り大きく障子に映し出している影を捉えた。


「いい加減にしろよ」
入ってくるなり眉根を寄せ、顔を顰めた田坂の叱責が、総司の面輪に朱を走らせる。
「俺はこれ以上悪くする手助けをする為に、君を診ているんじゃないぜ」
常にも増して辛辣な意見は、決して温(ぬく)いとは云い難い冷気の中、薄い夜着一枚で思案に暮れていた、己の無防備さを責められているものだと知れば、総司には返す言葉も無い。

「・・すみません、あの、・・もう眠ります」
夜具の端を回り、火鉢の中を覗き込んで、そうして消えかけている炭の火を熾す為に火箸を操り始めた広い背に向かい、慌てて掛けた言葉が、言い訳を焦る分だけぎこちなくなった。
「・・探していた彦根の商人、遇えて良かったな」
だがそれに戻ったいらえの意外さに、総司の瞳が見張られた。
「そんなに驚く事は無いだろう?」
話の展開のあまりの突飛さに、何と応えて良いのか分からず、声すら飲み込んでしまった主を振り返った面が、仕方無しの笑いを浮かべた。

「・・田坂さんが、直次さんの事を知っているとは、思わなかったから・・」
少しばかりの沈黙は、何故と思う余裕を総司に取り戻させたようで、返す言葉に籠もる調子が、少々強いものになった。
「隠し事は、出来ないものだな」
だがその疑問には応えず、田坂は再び炭を紅く染め始めた火の熾り具合を確かめると、胡坐をかいたままの姿勢で、総司に向き直った。
「隠し事などしていない」
「まぁ、いいさ。そんな事より、キヨに何か約束したらしいな」
全てを見透かされていた悔しさを、せめて声に籠めて知らしめても、又も田坂は素気無い返事を寄越しただけで、もう興は他に移っているようだった。
「えらく喜んでいたが・・キヨの機嫌がいいと、俺も助かる」
更に続けられる言葉も物言いも、不満の面持ちを崩さぬ主への遠慮など少しも無い。
「・・来年、キヨさんに反物を買うと、約束したのです」
もうどのように抗っても無駄と知り、やがて応えた声音には、遣る瀬無い諦めの色が混じる。
「そりゃ、キヨは喜ぶな」
「そうかな」
「そうさ」
「だと良いけれど」
何時の間にか屈託を忘れ、笑みを浮かべて応えた調子には、しかし何処か言い切るに躊躇う風情があった。
それを瞬時に異なものと察し、田坂の面に、不審げな色が浮んだ。
「買うと約束した麻布、とても高価なものなのだそうです。もし手が出なかったら、どうしようかと思って」
だがその相手の杞憂を即座に払拭するかのように、殊更明るい声が先を紡ぐ。

――果たしてその約束を、自分は護る事ができるのか。
否、土方の傍らに、少しの弱気も見せず、凛として在る事ができるのか。
田坂に、・・・天に、神仏に。
それを教えて欲しいのだと。

「・・そうしたら、キヨさん、きっとがっかりしてしまう」
声を限りに、問い質してしまいたい己を封じ込めて語る不器用な言い訳が、いらえを返さず見つめる相手の無言に呑まれ、語尾を曖昧に濁した。









事件簿の部屋   なごりの雪(七)