なごりの雪 (七) 「縁と云うものは、不思議なものだな」 途切れた会話の先を引き受けるのでも無く、暫し無言でいた田坂だったが、不意に開いた口から出た言葉の唐突さは、弱気を知られまいと、重い沈黙に籠もっていた総司の面輪を上げさせるに十分だった。 「君と初めて会った時を、思い出したのさ」 不思議そうに見る瞳に、苦笑がてらのいらえを返しながら、田坂の目が、そう遠くも無い、しかし確かにもう其処へは戻ることの出来ない、来し方の時を懐かしむかのように細められた。 「田坂さんの荷物を、川に落としてしまって。・・・それで二人ずぶ濡れになって、小川屋さんにまで、お世話になってしまった」 「ほとほと頑固な奴だと、呆れたさ」 「田坂さんは、強引だった」 負けずに応える声音には、責める言葉とは裏腹に、それまでのぎこちなさが消え、和らいだ響きがある。 「次ぎの日、ここに遣って来た君を見た時には、正直驚いた」 不可思議な縁を懐古するように、束の間宙を見ていた田坂の眸が、ゆっくりと戻され、次ぎの言葉を待つ者を捉えた。 「あの時、もう少しだけ平気な顔をしていたいと、・・そう云ったよな」 低い、だからこそ耳に触りの良い声の調子も、静かな物言いも、それまでと少しも違(たが)えずに、田坂の眼差しは、見つめる相手に是とのいらえを促す。 だが総司は、言葉に秘められた意図を判じかね、何と応えて良いのか躊躇う風だったが、やがて小さく頷いた瞳には、心の底まで見透かされてしまう事への怯えと、そしてこの相手に、はどんな小さな隠し事も敵わぬとの諦めが交差していた。 「今も、それは変わらないのか?」 「・・田坂さんの言っている事が、分からない」 いらえを返す面輪は、己の胸の裡を悟られまいとの警戒が、知らぬうちに表情を硬くする。 「簡単な事さ。今も平気な顔をしていたいのかと、そう聞いている」 「平気な顔・・?」 「自分の胸に在る、目を逸らせてしまいたいような禍禍しい感情も、弱気に傾く心も、そんなものなど見ぬ振りをして、もう少しだけ平気な顔をしていたいのだと・・あの時そう云っていただろう?」 過去を今に引継ぎ、淡々と語る田坂の面差しを見つめながら、その真意を計りかねている唇は、やはり頑なに沈黙の砦から出ようとはしない。 「君が平気な顔をして、強気を貫き通したいものが何なのか、それは俺には分からない。だが医者としての俺は、きっと君が目を逸らしてしまいたいその一つを、現のものとして、認めさせぬ訳には行かないのだろうな」 「そんな事はない」 「嘘を、つくなよ」 身を乗り出し、急(せ)いて否と首を振る総司に、苦笑しながら応える双眸は柔らかい。 ――若い肉体に棲む宿痾は、攻める手を緩める事無く己の存在を誇示し、常にこの者を憂慮と辛苦から解き放してはくれないのだろう。 たった一年先の、他愛の無い約束を交わす事すら、躊躇わせる程に。 そして医師としての自分は、ぎりぎりの際で平気な顔を続けている総司に、否が応でもその全てを、直裁に知らしめなければならない。 田坂の問いかけは、そんな己への煩悶でもあった。 「嘘じゃない、・・本当に、嘘なんかじゃない。目を逸らせてしまいたい自分は・・もっと他にいる」 かぶりを振り、真摯な瞳を向けての訴えは、確かにそれが、総司の偽りの無い心だと田坂に伝える。 己の裡の、核(さね)にあるものは―― 目を逸らせていたいのは、知らぬ振りをしていたいのは、土方に置いて行かれるその日が、確かに近づいている予感と、そしてそれへの狂い出しそうな恐怖に、ともすれば足元から浚われてしまいそうになる自分なのだと。 そしていつか必ずやって来るその時に、土方の袖を引き、行ってはくれるなと、置いて行かないで欲しいのだと、縋りつき、足手まといになってしまうだろう、おぞましい自分なのだと。 怖いのは病ではなく、知ってしまった土方の温もりを、もう離す事など出来ない臆病な自分なのだと・・ 「本当なのです」 それを隠して、総司の必死は続く。 「・・嘘など、ついていない」 是と頷かず、さりとて否と責める訳でもなく、ただ静かな眼差しを向ける医師に告げる語尾が、次第に気弱に小さくなる。 「俺は、相変わらずだがな」 だが返ったいらえは又も意外すぎて、総司に伏せかけていた瞳を上げさせた。 「平気な顔で知らぬ振りをしていれば、己の裡に在る、目を背けたくなるような禍々しい感情の溜まりも、どろどろした欲の渦も、いつか穏やかな流れに変わるのでは無いかと、相も変わらず、僅かばかりの期待を捨てかねている」 「・・田坂さんが?」 「人は、所詮脆い。だがだからこそ、そんな自分を見せまいと、矜持も持てば意地も張る。が、どんなに頑張った処で、何事にも揺るがぬ強靭な精神など、培われる筈が無い。・・人が人である以上、こればかりは避けて通れぬ難問さ。俺もこれで平気な顔を見せ続けるのには、中々苦労を強いられている」 「そんな風には見えない」 「見せているつもりは、無いからな」 衒う様子も無く、呆気無い程さらりと返った強気な言葉に、深い色の瞳が見張られ、だが直ぐに色の薄い唇から、小さな笑い声が零れた。 「笑うなよ」 「・・でも・・」 言い訳する言葉は、含み笑いが邪魔をし、後が続かない。 やがて止まらぬ無礼を忍ぶように、視線を逸らせたその所作は、何気ない遣り取りの中で、自分の裡にある翳りを機敏に察してくれた田坂の心根に触れ、目の奥が熱くなるのを誤魔化す、今総司が出来る、精一杯の術だった。 「まあ、そう云う事さ」 笑うを堪えるに難儀している相手の様子に呆れながら、しかしここ等が話しの仕舞い際だと見極め立ち上がった身ごなしの滑らかさは、衣擦れの音ひとつさせない。 「・・田坂さん」 そのまま障子の桟に手を掛けようとした背の主の動きを、躊躇いがちな声が止めた。 が、声に振り返った視線が捉えた面輪は、続きを紡ぐに逡巡しているのか、蒼い強張りを解かない。 だが田坂は促しもせず、無言で先を待つ。 そのぎこちない沈黙の重さに負けたのか、一度伏せかけられた瞳が、再び上げられた。 「・・私は、キヨさんとの約束を護りたい」 最初の音が僅かに掠れはしたが、勢いに鼓舞され、一気に語り終えた最後が、総司の心の有様そのものを映し出したかのように、強いものとなった。 田坂の視界の中で、端坐したまま見上げている眼差しは、偽りの言葉は要らぬと、真摯に迫る。 きっとそれを云うのに、総司は、今己の精神の隈なく全てを張り詰めてしまったのだろう。 凝視している面輪は、触れれば鋭質な音を立て、砕け散ってしまうだろう程に硬い。 その深い色の瞳を、暫し無言で見ていた田坂だったが、やがて閉じていた唇が、ゆっくりと開いた。 「俺は、そうする」 ひとつひとつ区切るように、力強く伝えたわけではない。 否、むしろ口調は淡々と気負い無く、物言いは柔らかだった。 だが、そうしたいと希(のぞみ)を告げるのではなく、そうするのだと、医者としての己の信念を告げた面差しは、それを現のものにする自負に満ち、厳しくも揺るぎ無い。 「それ以上、身体を冷やすなよ」 「あのっ・・」 身じろぎもせず見つめている双つの瞳の主を笑って叱り、そして向けた背に、今一度呼びとめる声が掛かった。 桟に掛けた手はそのままに、顔だけを向けた田坂の視線の先に、膝立ちになっている総司の姿があった。 「あの、・・ありがとう」 そうして呟きにも似た小さな声音が、細い筆で丹念に描かれたような形の良い唇を震わせ、漸くひとつの言の葉を紡いだ。 「聞き分けの良い患者でいてくれよ。でなければ俺の平気な顔も、心許ない」 揶揄するように云い置き、来た時と同じように、身を滑らせる分の隙だけを空け廊下に出た背は、もう振りかえること無く、音も立てずに桟と桟を合わせた。 気を付けてはいても、古い造りの建物の床は、湿り気を吸い取られて痩せた処が、踏みしめる度に、小さな乾いた音を立てる。 雨戸の隙から入り込む冷気が、手燭の灯を微かに掠め、先に伸びた影を自在に操る。 通り抜けるを邪魔された不満を、当り散らすかのように風が大きく板戸を打った時、見るとも無しに視界に入れていた己の影法師が、一際大きく揺れた。 「・・平気な顔、か」 それにつられるように、田坂の唇が動き、低い呟きが漏れた。 深夜急な知らせで駆け付けた其処で、開かぬ瞼の主の肌に残る幾つかの刻印は、己の裡に澱む、嫉妬の焔を燃え立たせるのに十分過ぎた。 ――あの時。 ほんの僅か、針の先程もいらぬ切欠があれば、迸る想いを踏み止める己が堪え性は、見るも呆気なく箍を外してしまうのだと。 堪えているのは、裡に苛烈に渦巻く恋情なのだと。 ともすれば口をついて出てしまいそうな想いを封じ込め、深い色の瞳を向けていた者に、平気な顔を見せるのが精一杯だった。 「さて、いつまで続くものやら・・」 独り語りの仕舞いに浮かべた笑みは、半ばそれを諦め、しかしそうする事を良しと許している田坂の、己へ向けた自嘲以外の何ものでも無かった。 三日寒い日が続けば、その後を追うように四日温(ぬく)い日が続き、季節は少しずつ貌を変えて行くのだと、人々は白い息を吐きながら、花を愛でる日を語る。 だがそうして緩んだ心の隙を嘲るように、天は悪戯に、行きかけた季節の名残を舞わせる。 それを視界の端でちらりと捉え、だが直ぐに視線を正面に戻して進む八郎は、今己の面に、どうにも物憂い色が浮ぶのを隠しきれない。 こう云う季節の変わり目は、想い人の身に巣食う宿痾を、直裁に攻撃する。 だが八郎の胸の裡を重くしているのは、天候への憂いだけでは無く、この診療所の玄関で案内を乞うた時、患者を捌く合間を縫って出てきたキヨとの、何気ない会話の中で知った事実だった。 キヨは白いものを見上げながら、直次と云う行商人が、昨日来ると云った約束を果たせなかったのは、以前に捻った足が、この寒さで痛む所為かもしれないと、憂い顔で語った。 だが何気なさを装いながら、更に聞き出した話は、八郎の裡に、憂鬱の種だけを植え付けた。 彦根の行商人、名を直次。 何かしら事情を持つらしいこの男と総司が、出来得るのならば、再び巡り遇う事の無いようにと念じた己の希(のぞみ)は、又も叶わなかったらしい。 約束が果たされなかったのは、それはもしかしたら足の所為だけでは無く、直次の身に何か異変が起きたからでは無いのかと、キヨは懸念を隠さなかった。 そしてその事を、総司がひどく案じているのだとも告げた。 だがそれだけで総司が大人しく終わるのならば、自分の心は是ほど重くは無い。 否、今この裡に在る、苛立ちと云いきって良い焦燥は、必ずや直次の無事を確かめに動き出すであろう、想い人への憤りだった。 ――これは明らかに、貌も知らぬ男への、愚にもつかない妬心なのだと。 問えばそう明確にいらえを返す真実から目を逸らすでもなく、そしてそれを自嘲するでもなく、己の心の軌跡を、そのままの形で受け容れ良しとした八郎の歩みが、目的の室の、閉ざされた障子の白を視界に捉えた途端、少しだけ早くなった。 「雪だよ」 そう声を掛けながら、しかし八郎は、その外の様子を見せるつもりは無かったらしく、直ぐに障子を閉め、まるで来ることを知っていたかのように、無言で見上げている総司の傍らまで歩み寄ると、ゆっくりとした所作で腰を下ろした。 「田坂さんは、知っているのかえ?その格好」 室の隅に几帳面に片付けられた夜具にちらりと送った視線を、紺地の着物に袴まで付け、明らかに外に出ることを目的とした姿に戻して問う調子が物憂い。 「・・八郎さん」 「昨日来なかった彦根の行商人の話なら、聞かないよ」 座して落ち着くのを待ち、そして急(せ)いて掛かった声に、それがいらえだとばかりに、八郎は背を向け火鉢に手をかざした。 「聞いてくれなくてもいい、けれど一つだけ教えて欲しいのです」 「相手の無事を確かめられたのなら、この件は仕舞の筈だ」 「でもっ・・」 「聞かないよ」 「直次さん住まいが何処なのか、八郎さんは知っている筈です」 向けた背を砦に拒む八郎を、横から廻り込むようにして、総司は食い下がる。 「知らないね」 「嘘だっ」 「そう思や、いいさ」 いつにない総司の執拗さは、そのまま八郎の苛立ちを煽る。 「直次さんは、何の言付も寄越さずに、約束を破るような人じゃない」 無言を決め込んでいる相手に説く総司の必死は、心裡にある焦りに追いつかず、短い言葉の中ですら調子が乱れる。 「来られないのは、きっと直次さんの身に何かが起こったからだ。・・あの時直次さんは、新撰組も見廻り組も、駄目だと云った。だからきっと・・」 「それとお前と、どう関係がある」 殊更ゆっくりと体を回し、向き直った八郎の面にある双眸が、その静かな語り口とは凡そ相容れない鋭さを湛え、総司に据えられた。 「新撰組も、見廻り組も、そして御定番組も駄目だと云った奴の事情に、何故お前は首を突っ込もうとする。お前の身を案ずる、周りの人間の思いを知っていながら、何故又無理をしようとする。其処まで拘らねばならないあの男は、お前にとって何だ」 深い色の瞳をしかと捉え、そして逸らす事を許さぬ強い眼差しは、たちまち総司を沈黙に籠もらせる。 だがその頑なさが、今度は八郎の怒りに焔立てる。 「応えろっ」 腹の底から迸ったような怒声に、細い面輪が一瞬強張った。 だが突然とも思える憤怒の迸りは、身を縛り足枷をし、そうして確かに己が掌中に掴んでいても、零れる陽のように、或いは掬う水のように、するりと手を透け逃れ行こうとする想い人を、決して捉える事が出来無いと知る、八郎の焦燥だった。 ――怒りの侭に、暴走する己を止めねばと。 否、もう止める事など出来ぬと知りながら、それでも足掻く己の底にあるものは、みっともない程に苛烈な嫉妬なのだと、そんな事はもう疾うに承知している。 だが八郎は、それを無様と目を背ける己をも、同時に捨てている。 胸揺さぶる恋情の焔は、既に妬心すら糧に燃え盛り、そう遠くない日、いずれ己自身をも焼き尽くすだろう事を、予感では無く現のものとして八郎は確信している。 着けているもものの深藍が、白い面輪に映り、それが総司の頬に刻まれた、病の爪痕である翳りを濃くしている。 たった数日で、天はこの者の命数を、幾つ摘み取ってしまったのか―― 想い人を、己から切り離そうと爪砥ぐ病魔に、そしてその定めを下した天へと逆巻く八郎の激昂は、だが今、当たり処を違(たが)え、総司自身に向けられる。 八郎は、総司の沈黙を許さない。 「応えろ、総司」 静謐とも思える響きが、いらえを性急に、そして強引に促す。 「・・・言ったら」 八郎を凝視している総司の瞳は瞬きもせず、やがて唇だけが僅かに動き、声とも覚束かぬ言葉になった。 「言ったら、直次さんの居所を、八郎さんは教えてくれますか?」 真摯に案じてくれている八郎に、今返したいらえは、己の身を盾に取って駆引きを強いる、人の道を踏み外した無礼と、十分に知っている。 だが例えそれで、どんな謗りを受けようとも、逆鱗に触れようとも、今の総司には厭うものでは無かった。 直次の居所を知りたいと、ただそれだけを念じた深い色の瞳は、揺るがぬ強さを湛えて八郎を見つめる。 そしてそれは同時に、もうどんなに激しい言葉で諌めても、或いは力の限りで自由を封じ込めても、この者は諦めはしないのだと、遣る瀬無い諦めを、八郎に迫る。 「教えてやる」 己の負けを、抑揚無く告げる声が乾く。 その刹那、総司の面輪が、約束を引き出せた事への安堵と、しかしこれから先を紡がねばならぬ覚悟で、一瞬の強張りを見せた。 「・・直次さんは」 瞳を逸らさず一度息を呑み、そうする事で自分を鼓舞するように語り始めた声音が、酷く硬い。 それは総司自身、決して知られたくは無い急所を、自ら抉らなければならない痛みの所為なのだろう。 だがその無体を承知しても尚、総司の口から真実を聞き出さねば、最早己の裡に滾るものを、八郎は鎮める事が出来ない。 無言が作り出す静寂は、容赦なく、総司に先を促す。 「直次さんは、私と同じ目をしていた」 「同じ目?」 が、紡がれた言葉は、あまりに唐突が過ぎ、八郎に眉根を寄せさせた。 それに頷いた面輪は、未だ緊張の強張りを解かず、纏うものの地色を透かせたように蒼い。 「・・土方さんを追っていた頃、ずっと傍らに在る事が出来るのならば、何も怖いものなどなかった。ひとつだけ、その希(のぞみ)を叶えられるのならば、他には何も要らなかった。 ・・・何を失っても、何を排しても、厭うものでは無かった。そんな昔の私と同じ目を、あの人はしていた。だからどうしても、他人事と割り切る事が出来ない・・あの人を見ていると、昔の自分を思い出すのです」 時折言い淀み、しかし直ぐに意を決したように急(せ)いて先を紡ぎ・・・ そうして漸く語り終えた時、八郎を見た総司の面輪に、ぎこちない笑みが浮かんだ。 その総司に、八郎は物言わず視線を据えている。 ――だが今は違うのだと。 最後の真実を語る前に、総司が言葉を止めたのを、八郎は知っている。 土方を、違(たが)う身でひとつ魂の存在と受け容れ、願いを叶えられたその瞬間から、手にした温もりを失う事に怯え始めたのだと―― そう伝える前に、総司は口を噤んだ。 総司にとって幸いであるべき日々は、常に淵より深い恐怖との隣り合わせだったのだ。 宿痾を囲い、土方の足手まといになるまいと、弱気に傾く己を律しながらの日々は、時に過酷なまでに、総司に精神の強靭さを強いたのかもしれない。 だから直次と云う人間の中に、嘗ての自分と同じ強さを見出した時、総司は其処に己を重ね合わせる事で、或いは弱気を捨て去る事が出来るのではないのかと、縋ろうとした。 それも所詮は敵わぬ錯覚だと、十分に承知しながら。 そしてその一途さの全てが、恋敵の為のものであると知れば、欠片も見つけられぬ程に打ち砕いてやりたい嫉妬に狂いながら、しかし結局の処、踏みとどまる己の弱気が、八郎には悔しい。 冬の名残をちらつかせる、凍てた冷気にも似た沈黙のしじまは、時に計れば如何ほどのものだったのか。 「一度限りだと、誓え」 射るような眼差しに耐えかねたのか、遂に瞳を伏せかけた総司の耳に、八郎の低い声が届いた。 「直次と云う人物に関わるのは、これで最後だと、そう誓え」 咄嗟に見上げた細い面輪にあるのは、己の願いが聞き届けられた喜びよりも、それを八郎が受け容れた事への驚きだった。 双つの深い色の瞳が見開かれ、やがて薄い色の唇を結んだまま、白い喉首がゆっくりと上下した。 「・・誓います。きっと、約束する」 そうして少し掠れた声音が、二度目の誓いを重ねた。 「いない?でも直次さんは此方に泊まっていると・・」 「へぇ。確かに直次はんは、うちのお客はんです。けど一昨日から帰って来やはらへんのですわ。今までそないな事は、一遍かてありませんでしたし、うちの者達とも心配していたとこですのや」 戻らぬ客を、心底案じているのだろう。 白髪の目立つ宿の主は、二度三度目を瞬(しばた)いて、自分を凝視している硬い面持ちの若者に、申し訳無さそうに告げた。 「その直次とやら、いつからの客だえ?」 それまで総司の後ろに立ち、無言で二人のやりとりを聞いていた八郎が、主に問うた。 「かれこれ・・ひと月になります。宿代もきっちり五日ごと、先に払うてくれはって、・・そりゃ律儀なお人でしたのや」 主のいらえは即座に返り、その迅速さが、言葉は偽りでは無いと物語る。 どうやら直次は、ここで客と云う以上の存在になっていたらしい。 然して広くも無い、むしろ木賃宿を多少見栄え良くした、小さなこの旅籠の帳場に座った主の、発せられる問いに戻るいらえの丁寧さや、そして自分達に、時折奥からちらりと視線を投げかけてくる店の者達の憂い顔が、直次と云う人間の人柄を、八郎に知らしめるに十分だった。 「直次さんは、仕事で京に来たのでしょうか?」 「そう云うてはりました。この京でお客はんを掴んで、そんで商いの基盤を作るんやて、云うてはりました」 総司に応える主のいらえは、直次と交わした遣り取りの中で、何か変わった事を見落として無いかと思案しているのか、慎重にゆっくりと返る。 「ならば朝から晩まで、寝る暇(いとま)など無かったろうな」 見知らぬ土地で、新たに商いの基盤を作るのならば、それこそ昼も夜も無く、精を出さねばならぬ筈だ。 それを考えれば、八郎の疑念は最もなものだった。 「・・へぇ」 が、それを受けた主は、意外にも一瞬声の調子を落とした。 「何か、腑に落ちぬ事でもあるのかえ?」 その僅かな変化を見逃さず、問う八郎の物言いは、淡々としている分、応えを躊躇う相手の負担を軽くする。 だが主は、己がふと垣間見せてしまった真実の先を、この見知らぬ者達に伝えて良いものか否か迷っているようで、気まずそうに口を閉ざした。 「お願いです、何か知っている事があるのなら、教えて下さい」 伏せかけようとする憂い顔に、総司は必死に食い下がる。 それでも主は暫し沈黙から出ようとはしなかったが、やがて見つめる瞳の色の深さに負けたかのように、一度息を吐くと、ゆっくりと総司に視線を合わせた。 「これは、私の勝手な想像ですけど・・」 語り出した始めの調子は、未だ逡巡を抜けきれず硬いが、それで話を止めようとする意思は無いようだった。 「直次はん、ほんまは商いが目当てで京に来たのと、違うような気がしますのや」 「・・どう云う事なのでしょう」 主の言葉を判じかねた総司の瞳が、困惑に揺れた。 |