なごりの雪(八)




「・・これは、うちの勝手な思い違いと、聞き流しておくれやす」
旅籠の主は、ようよう話の核(さね)に触れようとしたが、それでもまだ躊躇いの方が強いのか、それとも出来得るのならば、其処で引き返したいとの思いがそうさせるのか、語りの出だしは、決して歯切れ良いものでは無い。

「直次はんは、お国元の織物を買うてくれる新しいお客はんを京で掴む、そう云うてはりましたけど、あれは嘘やと思います」
「嘘?」
「へぇ・・」
訝しげな八郎の反復に、主は後ろめたさの表れのような、曖昧な頷き方をした。
「こないに小さな宿ですが、私も長いこと商いをしてきました。それやからこそ、この人は今ほんまに商いに必死なんか、そうや無いのかは、見ていれば何とのう分かりますのや」
「では主は、直次には、商いをする真剣が無かったと云うのかえ?」
「それとも、・・違いますのや」
「どう云う事だえ?」
八郎の物言いには、気負いが無い。
が、それだけに、相手を萎縮させる事も又無い。
主は今一度小さく息を吐いたが、しかしそうして切欠を得たように、再び口を開いた。

「直次はんが、自分が商う織物の話をしてくれはる時には、そりゃ、目の色が違いました。それを見てうちは、ああこのお人はほんまの商売人やなぁと、その度に思いました」
「では何故、ご主人はそんな風に思われたのです?直次さんは私にも、彦根の麻布の事を熱心に教えてくました。・・私には、直次さんが、仕事を疎かにしているとは思えない」
飾り気の無い言葉で、直截に胸の裡をぶつけてくる総司に、主の目が、その若い真摯を慈しむように和らいだ。
「仰る通り、直次はんは、確かに商人(あきんど)です。扱うものを、とことん厳しい目ぇで選び抜いて、お客はんに喜んで貰おて、それを自分の嬉しさにも変えられるような、紛れも無い、商人ですわ」
「けれど今、ご主人は・・」
「うちが直次はんの云うた事を嘘や、思うたのは、商いの基盤を作る為に京に来たと云うた、その事ですのや。直次はんには、商いや無い何か別の事情があって、それで京に来たんやないかと、うちはそう思いましたのや」
総司の必死は、逆に主に、それを宥める事で、自らの余裕をも取り戻させたようだった。
いらえの声に、漸くこの人間が本来持つと思われる穏やかさが返ったと、今は無言で会話の成り行きを見守る八郎は聞いていた。

「・・別の事情?」
「へぇ、そうどす。この旅籠に、客として逗留してひと月。直次はんは毎朝決まった頃に出掛け、決まった時刻に帰ってきはりました。それがいつも日の在る、まだ明るい頃合どした。・・知らん土地で行商して、客を掴もうと必死の人間なら、考えられん事です」
「では主は、直次が毎日出掛けていたのは、商いをする振りをしていただけだと、云うのかえ?」
「けれど直次さんが、田坂さんの処に来る事になったのは、小川屋さんの紹介でした。それに見せてくれると約束していた麻織物も、本当は他のお客さんの注文の品だと云っていました」
「そりゃ直次はんの人柄なら、口伝で評判を呼んで、客の一人二人、自然に出来ますやろ。上手く云えんのですけど・・・お侍はんの云うた、商いは何かの事情を隠す為の振り、・・とも又違うような」
鋭く核心だけを突いてくる八郎と、腑に落ちかねて、深い色の瞳を瞬き問う総司に、艶やかな血色の頬が、己の心裡を説くに具合の良い言葉を捜しあぐね、困った風に緩められた。
「では、どう云う事だえ?」
その相手に向い、八郎の調子はあくまで衒い無い。
それが重石を取り除き、主に口を開かせる。
「さっきも云うたように、なんぞ別の事情があって、直次はんは京に来はって、今はそれが直次はんの全てを優先させてはる・・そないに思いますのや。客を掴んで、商いを広げたい。それも直次はんの、ほんまの心やと思います。けどそれは、別に京で無くても良かった・・だから京に来たのは、それなりの理由があったんや無いのかと思うのですわ」
「どうしても京で無ければならない事情が、直次にあったのだと?」
「そないに、思います。そしてそれは、多分商いとは別の事ですわ」
八郎に促されながら、最後は、今まで辿ってきた自分自身の憶測に念を押すように、主は深く頷いた。




 厚い雲に隠れていた天道が、結局一度も顔を覗かせず仕舞いになるこんな暮れ時は、何処から何処までが日の在る内で、何処からが宵になるのか・・・
その時の経過すら、曖昧にさせてしまう。
しかも暮れ初(そ)み時のこの頃合は、昼と夜の境だけではなく、風の向き強さまでをも変えてしまうようで、大路を吹きぬけるそれは、氷の刃と化して肌を刺す。

八郎は、横に並んで歩く総司を、視線だけを動かし捉えた。
細い線で縁取られた輪郭の横顔は酷く硬く、束ねた髪を後ろへと流す風は、蒼が勝った白い喉首までをも、冷気の中にくっきりと露にする。
それが痛々しい程に、細く頼りない。
更に病み上がりともまだ云い切れぬ頬の翳りが、元々華奢すぎるこの者の風姿を、一段と心許無いものにしている。
だが総司は、直次の滞在していた旅籠を辞してから、神経の全てを、ひとつの思考に集めてしまったかのように、沈黙に籠もっている。
そしてその原因の何かを知りながら、八郎は敢えて知らぬ振りを決め込んでいる。
互いに会話の無い道程は、然程の距離を歩いた訳では無かったが、それでも八郎は、この辺りが限界と見極め立ち止まった。

「駕籠を拾うぞ」
案の定、唐突に掛けられた言葉に総司の足が止まり、深い色の瞳が、不機嫌な物言いの主を見上げた。
「駕籠?」
「無理と見定めたら、四の五の云わせず連れ帰る。それが田坂さんとの約束だ」
拒む言葉など、端から受け付けぬような強い口調は、不思議そうに向けられていた瞳を、今度は驚きに見開かせた。
「お前とて、まさかあの人が気付いていないとは、思ってはいまい?」
狼狽を露わにし、何と応えるべきか判じかねて立ち尽している総司の様など、もう眼中に無いとばかりに、八郎の視線は、己の言葉を実践すべく、既に辻駕籠らしき影を往来に探している。

「・・八郎さん」
しかし聞く耳持たぬ風情で向けた背に掛かった声は、予期していたような抗いでは無く、意外にも、逡巡を隠さぬ、躊躇いがちなものだった。
その様子に、流石に異と感じるものがあったのか、漸く八郎が振り返った。
「さっき私達があの旅籠を出るとき、伝吉さんがそれを見ていた。・・八郎さんも、知っている筈です」
「それがどうした」
だが構えて問うた総司に、いらえは呆気ない程あっさり戻った。
「では何故っ・・」
伝吉が其処に居たことを不審と思う節も無く、否、むしろそれを承知していたかのような八郎の口ぶりに、総司が詰め寄った。
「黙っていたか、か?」
それをやんわりと制し、駕籠を求めて視点を遠くに置きながらの物言いは、やはり淡々と素気無い。
「八郎さんっ」
「伝吉も仕事ならば、仕方が無いだろうさ」
「・・仕事?」
怪訝な呟きに、漸く八郎が、体の全部を向けた。
「あの旅籠の筋向いに、もうひとつ、此方は大きな宿があったのを覚えているか?」
向けられた問いに、ゆっくりと頷く面輪は蒼に彩られ、血管(ちくだ)を通う、血の色と云うものの名残も無い。
「人の出入りが多くて。・・とても忙しそうだった」
外に出た時、ちらりと視野に入ったにも係らず、くだんの店(たな)の光景は、総司の脳裏に鮮明な印象を刻んだようだった。
「あの旅籠を、伝吉は見張っている」
「では伝吉さんは、土方さんの仕事をしているのだろうか?」
「新撰組の内情までは、俺も知らん。が、俺があの旅籠に、直次が逗留していると突き止めた時には、もう伝吉は向かいの旅籠を探っていた。直次があの旅籠に居たのは、偶然だろう」
常に余裕の体を崩さないこの男の、それがずいぶんと急(せ)いた調子は、こうしている間にもきつくなって行く冷え込みに、脆弱な身を曝すのを避けたいと焦る苛立ちの表れだった。
だが総司はその心裡を知らず、再び言葉失くして八郎を凝視している。

――伝吉が筋向いの旅籠を探っていたのは偶(たま)さかと云う、八郎の言葉は偽りだろう。
伝吉が姿を見せたのは、あの旅籠を出て、直ぐの事だった。
しかもその姿を捉えたのは、錯覚かと見紛う、ほんの一瞬の事だった。
だがその僅かの間に、かの人間は、しかと視線を合わせ、あざとい程に自分の存在を誇示して行った。
伝吉は――
わざと自分の前に、姿を見せたのだ。
それはそのまま、これ以上直次に係るなとの、無言の牽制だった。
そうしてその事が、土方の意志によるものだとは、誰に問わずとも容易に知れる。
だとしたら直次の失踪は、新撰組が追う何かと繋がるのだろうか・・・
総司の胸の裡を、言いようの無い重い影が覆い、それが瞬く間に、居た堪れぬ焦燥と不安へ駆り立てる。


「行くぞ」
だが沈鬱なその思考を遮るような無遠慮な声に、驚いて上げられた深い色の瞳が、既に歩き出している八郎の背を捉えた。
「駕籠など、いらないっ」
そしてその二町程先に、辻駕籠が客待ちしている姿を見止めるや、総司の唇が慌てた声を放った。
「田坂さんとの、決まり事だ」
後ろを見ずに告げられたひと言は、総司に抗いの言葉を詰まらせる。
田坂の名を聞けば、常に恩を仇で返すばかりの我が身は、強い贖罪に苛まれる。
ついて来るものと決め込み、ずんずん先を行く広い背が、もう二度と振り向く意志の無い事を知ると、遣る瀬無い小さな吐息と共に、地に縫い付けられたように止まっていた総司の足が、漸くその先へと踏み出した。





 日暮れて荒れ出した風は、建物全部を揺るがす勢いで雨戸を叩く。
終日厚い雲に覆われた今日のような日は、まだ暮六つの鐘を聞いて間もない宵の口だと云うのに、既に夜更けとも見紛う深闇が、辺りを包み込んでいる。
四方を紙の囲いに覆われた行灯の火が、時折僅かばかりに揺れるのは、閉じた戸と戸の間から忍び込む、隙間風の為せる所業だった。

外と内とを隔だつ雨戸も、廊下と室とを仕切る障子も襖も、どれ程きっちり合わせた処で、所詮人の手に成るものなど、天が気紛れに起こす風ひとつ防ぐ事は出来ない。
そしてそれは、今目の前で瞳を伏せ沈黙に籠もっている者と己の関係に、如何に似ている事か――
どんなに強固な砦を作り囲い、己以外のあらゆるものから隠しても、この者はいとも簡単に、掌中から滑り出てしまう。
その忌々しさに、土方の唇から小さな舌打ちの音が漏れた。
だがそれが、空(くう)を震わせ音と成し、室に響いた寸座、俯いていた総司の薄い肩が、ほんの僅かに身じろいだ。

 あれから八郎と共に田坂の診療所に戻るや否や、まるでそれを待っていたかのように、土方が姿を見せた。
直次の逗留していた旅籠は、室町通りと六角通りの交差する辺りに位置していたから、五条にあるこの診療所とは、そう離れた距離では無い。
が、西本願寺の一角に在る新撰組の屯所には、更に近い。
あの時、その存在を知らしめた伝吉が、直ぐに土方の元へ走れば、むしろ自分達よりも早く此処へ到着しても、少しも不思議は無い。
事実、案じてくれていたキヨに、詫びを告げていたその時、馬の嘶きが外に響いた。
それが誰のものなのか・・・
咄嗟に判じる事の出来た自分は、土方の出現を、或いは心の何処かで予期していたのかもしれない。
そう思いながらも、総司は土方を見ることが出来ない。


「顔を上げろ」
遂に業を煮やしたか、命じる声は、普段聞きなれたそれよりもずっと低い。
だがそのひと言が、怒りを堪えている土方の、ぎりぎりの譲歩なのだと知る面輪が、ようよう上げられた。

「伝吉の姿を見た筈だ。新撰組は室町通りにある旅籠、長門屋を探っている。伝吉の報によれば、直次と云うそいつも、同じように長門屋を見張っていた節がある。が、その理由までは分からぬ」
一度も息を継がず、感情と云うものの欠片も見つけられない冷淡さで言い放つと、土方は硬く強張った面輪の主を、手加減無い厳しい双眸で捉えた。
「だが新撰組の邪魔だてをするようならば、斬る」
それが最後通牒だったかのように、告げる物言いには容赦が無い。
「俺がお前に云うべき事は、それだけだ」
しかし射るような眼差しで総司を見据え、殊更抑揚無く言い切るそれこそが、我が身に滾る憤りをどうにか堪える、土方の唯一の術だった。
否、こうでもしなければ、瞬きもせず自分を見つめているこの者に、何故応えぬのだと、我が手をすり抜け何処に行こうとするのだと、胸倉を掴み、揺さぶり、罵声を浴びせ、怒りの侭に責め立てる己を止められはしない。
土方の堪え性は、既に透ける紙の一重にも敵わぬ薄さと共に在る。

その土方を、総司は凝視している。
何故、直治を探しに行ったのかと。
何故、直治にそれ程までに拘るのだと。
土方は、敢えて問いはしない。
だがこの沈黙のしじまは、確かに自分に強いている。
次はお前が、語る番なのだと――
そうと承知しながら、しかし総司は、未だ頑なな帳(とばり)りから出ることが出来ない。
己の裡にある想いを包み隠さず、全てを曝け出して伝える事は、そのまま土方の心に、重荷だけを残す結果になりはしないのかと。
そしてそれが、我が身など遥かに凌駕して大切なこの唯一の人の、足枷になりはしないのかと・・・
その慄きが、総司の唇を堅く閉ざす。


 風が軒を叩く音は更に激さを増し、座す畳から這い上がる冷めたさは、もしかしたら外に吹き荒ぶそれに、白いものを混じらせているのかもしれぬと思わせる程にきつい。
だが見つめる先の主は、そのむつの花よりも色を透けさせた面輪に翳りを濃くし、この者の身に残る力の限りを、土方に知らしめる。

臥せて六日。
病み上がりとも覚束ぬ身で、寒風の中、六角堂近くまでの往復を考えれば、それも当然の結果なのだろう。
だがそんな姿を眼(まなこ)に刻めば、想い人の内に巣喰う宿痾が、あざとい現となって土方を襲う。
――又も、己の負けか。
そんな弱気が胸の裡を霞めた刹那、吐け口を失った憤りは、遣る瀬無い吐息へと変わる。

「お前が直次と云うあの男に、何故其れほどまでに拘るのか、俺には分からない」
覆う静寂に沿うように、静かに語り始めた土方の声音には、先程までの責め立てるような厳しさ、激しさはもう無い。
不意に変わったその調子に、躊躇いがちに上げられた面輪には、逡巡が走る。
何を応えて良いのか、否どのようないらえを返して良いのか分からず、言葉を失い、見開かれている総司の瞳に、ゆっくりと伸びてくる大きな手の平が映る。
「分からぬが・・」
やがて言葉と共に、頬に触れたその指先が、思わず身を竦める程に冷たい。
しかしそれは同時に、総司に、この診療所の玄関に飛び込んで来た時の、土方の姿を思い起こさせる。
早馬を仕立てて駆けつけた名残を、荒々しく吐く白い息に止め、呆然と立ち竦む自分を捉えた視線を、土方は長い事逸らそうとしなかった。
その姿が、今一度総司の裡に、ほろ苦い切なさと共に蘇る。
「・・キヨさんを、あまり心配させるな」
そうして頬に手を掛けたまま、ほんの束の間、土方は無言でいたが、やがて発せられた言の葉は、凍てる指先と同じ主のものとは思えぬ程に柔らかい。
「俺も心の臓を凍らせるのは、もう御免だ」
呆然と見上げている瞳に向かって告げる声には、総司が姿を見せたと、伝吉からの知らせを受けた刹那の驚愕を思い起こし、その己の無様を自嘲する苦い笑いが籠もる。
「今日は、もう休め」
どんなに強気を押し付けた処で、結局はこの者に勝てる筈など無いのだと、嫌と云う程承知しながら、それでも諦めきれぬ己の業の深さを断ち切るように離しかけたその手に、不意に違う熱が重なり、それが怜悧な顔(かんばせ)に、不審を走らせた。

「話せなかった・・」
土方の指先に、強い力で己のそれを絡ませたまま、総司は離れ行こうとする手を止める。
「話したく・・無いのでは無い」
時折掠れる声音は、あまりの必死がそうさせるのだろうが、深い色の瞳は、総司の神経の全てを其処に集めてしまったかのように大きく見開き、蒼い面輪は、触れれば鋭い音を立てて砕け散ってしまいそうに硬い。

「・・どうしても、話すことが出来なかった」
「出来なかった?」
問い返されたいらえに是と応えず、総司はただ面輪を強張らせ、土方を見つめている。
「何故?」
だが土方は、今度こそ、総司が沈黙に逃げる事を許さない。

「弱い・・」
言いかけて一度止めたその先に在るものこそが、総司を直次と云う人間に拘らせている核(さね)だと確信し、土方は無言で次の言葉を待つ。
「・・弱い自分を知られるのが、嫌だった。土方さんに、こんな自分を知られるのが怖かった。だから・・だから、直次さんともう一度会いたかった」
今総司が、あらん限りに神経を張詰め、己を鼓舞して吐露しているこの真情は、本物なのだろう。
だがそれだけに精一杯の思いは、其処に到るまでの心の軌跡を、言葉で補い説く事が出来ない。
そしてその想い人の不器用な語りを、土方は、自分の指を掴んでいる総司のそれに、もう片方の掌を重ねてやる事で促す。
「土方さんに受け入れて貰えたその時から、私は弱い人間になってしまった」
新たに伝えられる人肌の温もりに応えたかったのか、蒼い頬にぎこちない笑みが浮んだ。
「土方さんの背を、ただ追っていた頃は、怖いものなどひとつも無かった。・・・付いて行く事が出来るのならば、何を捨てるのも、何を失うのも恐ろしくなどなかった。この身がなくなる事だって、少しも怖くはなかった。・・・川原で初めて遇った時、直次さんは、あの頃の私と同じ強い目をしていた。だからもう一度あの目に在る強さを見たのならば、昔の自分に戻れるのではないのかと、・・そう思った」
恐れるもの無く、土方を追っていた頃の自分に戻る事が出来るのではないのかと、そう錯覚したのだと・・・
語り終えた総司の瞳から、その己の愚かさを侮るように、葉に宿る朝露の滑る一瞬にも似て、零れ落ちるものがあった。
だがその寸座、それを見られるのを厭うように、見つめる土方の視線を避け、細い面輪が伏せられた。


――風が止んだのか。
何時の間にか室を覆っているのは、凛と冴えた冷気と、それを壊すに躊躇う程に研ぎ澄まされた、静謐だけだった。
往こうとしている季節の名残の吹雪になるのか、それとも迎えようとしている季節の嵐になろうとしていたのか・・
そのどちらとも明かす事無く、天の采配は、又も気紛れに仕舞いにしてしまったらしい。
だが外の気配に気付いたその事に、土方は、漸く己の裡に戻った余裕を知った。

総司は伏せたままの面輪を、上げようとはしない。
ただ掴んでいる土方の指だけは、それが唯一縋り処と決めているのか、一度も離そうとはしない。
その上に重ねていた、己のそれを静かに外すと、相手が身じろぐ一瞬をも与えぬ素早さで、土方は華奢な身を、胸の内へと攫った。

「直次と云う輩の持っていた、その強さに見(まみ)えれば、お前の思いは叶える事が出来るのか?そうすれば、お前は強くなる事が出来るのか?」
「・・分からない」
紡がれた声音はあまりに細く、しかも俯いている分だけくぐもり、神経を傾けなければ、耳に届く前に宙に拡散してしまう。
「分からない、か・・」
が、それを聞き止め繰り返した土方の呟きに、総司が面輪を上げた。
向けた瞳は、幾筋か零した滴(しずく)の名残を止め、それを慌てて手の甲で擦ろうとしたその所作を、土方は細い手首を掴む事で止めた。

「お前は、どうしても強くあらねばならないのか?」
総司は、やはり土方の手を離そうとはせず、半ば自由を奪われている指先で、白い頬を濡らす其れを拭ってやりながら問う声音は柔らかい。
「強くあらねば、ならないのです」
それに即座に返ったいらえは、薄い色の唇から、ひとつひとつの言の葉を、己の裡にこそ刻み込むように、ゆっくりと紡がれた。
――いつか別つ日が来た時に、縋りついて足手まといにならぬように、土方の心の重石にならぬように、己を律する強い心が必要なのだと・・
「そうあらねば、ならないのです」
その心は言葉にせず、総司は土方を瞳に捉えた。
「どうしても・・」
だがそれ以上を紡がせず、否、むしろそうする事を封じるように、土方は今一度、更に強く己の内へと、抱いている身を攫った。

 総司が強くあらねばならないと、そう念じる先にあるものが、土方には嫌と云う程に分っている。
己に与えられた過酷なさだめを、憤りもせず、嘆きもせず、あるがままに受け止めるこの強い精神の者が、自分と引き離されるその時だけを、唯一怯えている事を・・・
そして常にそれは、総司に一時の安らぎも与える事無く、極限まで追い詰めるてしまうのだと、土方は承知している。
強くあらねばならないと、そう総司を叱咤し呵責し、熾烈な厳しさに走らせる正体は、この自分への想いの果てに有る。
だから錯覚だと知りながら、それでも直次に嘗ての己の強さを見つけ、もしやと念じた総司を、土方は愚かだとは思わない。
想い人を掻き抱く土方の胸の裡に今渦巻くのは、哀れと、そしてどうしようもなく切ない愛しさがだけだった。

「強いお前、弱いお前。・・それは、何なのだろうな」
静かに問う声に、面輪を伏せたまま、総司は応えない。
だが一瞬だけ震えた薄い肩先を覆うように、土方は抱く腕に力を籠めた。





 風が治まれば、その分冷え込みはきつくなる。
しんと静まり返る建物の内は、物音ひとつしない。
まるで何かを憚るような閑寂さが、自分を出迎えてくれた時、あまり叱ってやってはくれるなと、真顔で囁き総司を案じたキヨの心裡のようにも思え、土方は方頬だけに苦い笑いを浮かべた。
が、そんな事を思い進めていた足が、廊下の角を曲がるその寸座、不意に止まった。

「居たのか」
「キヨさんに、泊まって行けと勧められたのさ」
いつから其処に立っていたのか、柱に背を齎せ、腕組みをした姿勢のまま、八郎は顔だけを土方に向けた。
「ずいぶんと、気に入られたものだな」
「あんたと違って、総司に意地をしないからな」
皮肉を返す声に、籠もる陰湿さは無い。
「俺がいつ、あいつに意地をした」
「してるだろ?」
「何を」
「教えてやらなかったんだろう?直次の居所」
自分を捉えている八郎の双眸に、揶揄するような、それでいて爪砥ぐ鷹の鋭さにも似た光を見つけ、土方の目が僅かに細められた。
だがそれも見間違いかと思われる一瞬の事で、再び踏み出した足は、無言を置き土産に八郎の前を通り過ぎる。

「どんな事をしても、あいつは直次を探し出すだろうよ」
下げ気味にした目線が作る視界の、その片隅を翳めた土方の影が、名残も残さず消え行こうとした寸座、物憂い呟きが、大して動きを作らぬ八郎の唇から漏れた。
やがて相手の立ち止まった気配を察し、ゆっくりと上げた顔が、振り返った土方のそれと対峙するように向き合った。

「総司は、直次の中にある何かに、恐れることを知らなかった頃の自分を重ね合わせた。だから直次に、今一度会いたいと願った。そうする事で、弱い自分を制する事が出来ると思ったのさ。・・どう足掻いた処で、所詮は錯覚と知りながら、だ」
それを愚かだとは云わず、八郎は緩慢な仕草で柱から背を離すと、鋭い視線を投げかけている男に後ろを向けた。

「が、どんな思い違いだろうが、錯覚だろうが、あいつはそれを、自分の目で確かめるまでは、あの男を追い続けるだろうよ」
全ては土方を想う総司の必死さ故と承知すれば、後ろに立つ恋敵に向けて放つ声に、少々の苛立ちが籠もるのを止められ無い。
だがそれを敢えて隠さぬ己の稚気を、八郎は、唇の端だけに浮かべた笑みで自嘲した。

そしてその八郎の姿が、まだ十分に視界に止まっている内に、土方も又、己の進むべき先へと踵を返した。










事件簿の部屋   なごりの雪(九)