なごりの雪 (九)




 弥生と云えど、都の春はまだ浅い。
だが一日ごとにその勢いを増す天道の陽は、闇からの開放を早くし、温(ぬく)い季節の到来の間近を、確かに告げる。
そうして寒気を、或いは風雨を隔だつ為の雨戸も、強い陽を断ち、眠りに在る者の安息を妨げぬ為の其れへと、役目を増やす。
それでもその隙間を縫うようにして忍び入る陽光は、目覚めぬ者の怠惰を叱る。

面輪に戯れる細い光を、睫が揺れるか否かの、僅かな動きでやり過ごそうとした総司の瞳が、不意に大きく見開かれ、次の瞬間慌てて夜具を剥ぎ起き上がろうとした身は、しかしその意志を適えられる事無く、小さな呻き声と共に前に傾いだ。
無防備な体勢で吸い込んでしまった冷気は、狙いすましたかのように、未だ癒え切らぬ患部を容赦無く直撃し、忘れかけていた宿痾の存在を知らしめる。
錐で揉まれるような痛みを、少しずつ息を吐くことで和らげ、そうしてようよう苛むものをやり過すと、左の胸を庇うようにして、総司はゆっくりと夜具の上に身を起こした。


 あれから土方が去り、独り残された落ち着かぬ時を、どれ程経たのか。
室を覆う闇の色が、漆黒から濃紫に、やがて少し色を軽くして藍に変わり、じき夜明けも近いのだと、そう思ったまでは覚えている。
だがその後の記憶の曖昧さを辿れば、何時の間にか眠ってしまったらしい。
既に早朝と云うよりは、人々の営みが始まっているかのような、活気のある明るさが辺りを覆っているのに、この室だけは、外とは不釣合いな静寂に包まれている。
それも自分を起こさぬようにとの配慮であると知れば、安寧と夢寐を彷徨っていた我が身が恥ずかしい。
だがこうしている間にも、現に刻まれる時は、確実に先へ先へと進んで行く。
悠長にしている暇(いとま)など、何処にも無かった。

結局の処。
直次の無事に関しての情報は、土方から得る事は出来なかった。
だが土方は、新撰組が探っている旅籠を、直次も又同じように探っているのだと云った。
そしてもしも直次が新撰組の邪魔になるようならば斬ると、眉根ひとつ動かさず、即座に云いきった。
それは、本当だろう。
が、行方知れずと云う事は、直次も又、自分が探るものの核心に迫っているのかもしれない。
否、きっとそうなのだろう。
ならば土方の邪魔をせず、手を煩わせず、尚且つ、直次が巻き込まれぬようにするには、新撰組が踏み込むその前に、かの人物を見つけ出し、長門屋から引き離さねばならない。
それが、辿り着いた結論だった。
僅かに残る胸の痛みと、今度は上手に折り合いをつけながら、漸く身体の全部を縦にすると、総司は室の隅に置かれている乱れ箱へと向かった。


 着替える途中の大きな動きには、まだ鈍い痛みが走ったが、どうにか袴の紐を結び終えると、総司は、もう疾うに起きているのであろう家人達へ挨拶に向かう為に、障子の桟に手を掛けた。
だが触れた指は、不意に其処で動きを止め、踏み出そうとしていた足は、敷居の際で縫い付けられてしまったかのように、それ以上先へ進む事は無かった。
――そのまま息をも詰めるように、暫し神経を鋭くしていたが、やがて澄ませた耳に聞こえて来たのは、耀い静謐を無遠慮に破る馬の嘶きだった。
そしてそれが土方の馬だと即座に判じた刹那、全ての動きを止めていた身は、その戒めを一瞬の内に解き、次の瞬間、驚く程の俊敏さで廊下に飛び出していた。

閉じられている雨戸が光を断ち、視界がひどく悪い。
が、その仄暗い中で、先を見定めようと細めた瞳に、最初に飛び込んで来たのは、待ち望んでいた人のそれでは無かった。

「・・一さん」
零れ落ちると云うにふさわしい呟きは、当人の意識の外でもたらされたものだったらしく、それが証拠に、総司はその後の言葉が続かない。
やがて予期せぬ人の姿は、呆然と見る瞳の中で、早馬を駆けさせて来た名残の息の乱れを整えながら、真正面まで来て立ち止まった。
「副長命令だ」
「土方さんの?」
更に唐突な言葉に、相手のそれと合わせる為に少し目線を上にした、細い面輪が強張る。
遅れてやって来た八郎と、更にその後ろに田坂の姿を視界に入れても、深い色の瞳は一を見つめたまま瞬きしない。
「彦根藩士、村瀬十四郎を追えと云う事だ」
「・・彦根、藩士?」
心許ない反復が漏れたその寸座、突然何かに思い当たったように、咄嗟に総司が一を見上げた。
「もしかしたら・・直次さんの事と・・」
「詳しい事は、俺にも知らされてはいない。だが新撰組は、直き長門屋に踏み込む。俺とお前は、其処から姿をくらました村瀬を追えとの事だ。そいつの潜伏先には、伝吉が見張りについている」
「伝吉さんが?」
「行けるか?」
今懸念をぶつけた処で、真実のいらえが戻る筈が無いと承知しながらも、屯所を離れていたその僅かな間に、更に肉が削げた薄い身は、一の胸の裡を禍々しい重苦しさで覆い、敢えて問わずにはいられない。
「何とも無い」
案の定、笑みを浮かべて即座に言い切った声音の明瞭さは、それ以上、己の身への詮索を許さない。
だがその強気の瞳が、一の後方に立つ田坂の姿を捉えた一瞬、微かに揺らいだ。

医師として、全身全霊で病と対峙してくれているこの人に、これから自分が取ろうとしている行動は、決して許せるものでは無いだろう。
だが今は、田坂の口から迸るどんな罵声も批難も、総司には覚悟の内だった。
が、意を決し瞳を上げたその時、かの人の唇が、総司のそれよりも一瞬早く動いた。

「平気な顔をする為に、直次とか云う奴に会わなきゃならないのだろう?」
放たれた調子は、苦い笑いを浮かべている顔(かんばせ)と同じように、不承不承の感を隠さない。
「けれど・・」
ためた勢いを不意に削がれれば、丁度体当たりをかわされた身が踏鞴(たたら)を踏むように、戸惑いが総司を襲う。
「馬は、どれを使ってもいいのかえ?」
その総司を横目で見、更に田坂の後方にいた八郎が、一に向かい問うた。
「構わない」
返ったのは必要だけに止められた、短いいらえだった。
しかしその遣り取りによって、此処に来たのは、一ひとりでは無い複数で有る事が、総司にも知れた。
「馬を連れて来ただけだ。乗って来た者達は、既に長門屋に向かった」
その総司の疑念を見透かし、それが言葉になるより先に、一が答えを寄越した。
「ご丁寧な事に、四頭だ」
それが誰と誰に宛がわれたものなのか・・・
うんざりとした田坂の物言いは、恋敵の用意した筋書きに、まんまと乗せられざるを得ない、忌々しさの現れだった。

「土方さんのは、雲雀葦毛の奴かえ」
「そうだ」
「なら俺は、そいつじゃないのを貰うよ」
諾と頷く一に、ちらりと視線を流しただけで、八郎は気負う風も無く、ゆっくりとした所作で踵を返した。
「場所は?」
その背より一歩遅れて歩き出した田坂が、己の後に続く一に問う。
「鴨川を下り、十条と交差する手前に位置する、商家の寮だ」
早春の冷気の中、馬を駆って来た、その若い英気をまだ額の汗に留めて応える一を、更に総司が追う。

「急ぐぞ」
開け放たれ、朝の陽射しが白銀に彩る玄関を視界に捉えるや、背後の者達に告げた八郎の声音が、一瞬厳しさを増した。





 鴨川は、都の中央を外れ南に下ると幾分細くなるが、宇治川を始め、途中幾つかの川と交わり、やがて桂川と合流して川幅を広くし、淀川と名前を変えて大坂に至る。
四季折々に都の風情を水面に映す川も、古来より氾濫を繰り返し、その都度人々を畏怖させて来た。
その鴨川が、十条通りを貫く辺りに存在する、くだんの寮よりもかなり手前で馬を繋ぎ、四人は川原へと向かう道を歩んでいる。
人目を忍び、身を隠している者達は、地に響く蹄の音すら機敏に感じ取る。
それ故に取った策ではあるが、真っ向から吹きつける風は、明け方よりも逆に冷たさを増している。

「・・嫌な風だな」
誰に聞かせるでもない独り語りの呟きが、雲の流れ具合を見上げた八郎の唇から、白い息と共に漏れた。
「降るかもしれんな」
それに応えた田坂の声も重い。

降ると、今自分が告げたのは、水の礫ではなく、地に降り、瞬く間に万物を凍らせる白いむつの花だと、横を行く恋敵も分かっている筈だった。
そして同時に、言葉の先にある憂いは、花の季節にありがちな不意の天候不順が、薄い背を見せ先を行く者の宿痾に災いする事を、案じたものだとも――。
承知している筈だと決め付けて見る八郎の横顔は、一瞬流した田坂の目線の先で、この男にしては珍しく硬さを隠さない。
が、それは傍で見ていれば、かく云う己自身にも、そのままなぞれるものに相違ない。
そうと知れば、想い人の身を、苛立ちを限りにして案じながらも、その実、かの者の動きのひとつも己が掌中に封じ込めない不甲斐なさに、田坂の片頬に自嘲の笑みが浮ぶ。


「何処の鐘だえ?」
「東福寺のものだろう」
暫し無言の行が続いた後、曇天の下、次第に鉛色に染まりつつある情景を、更に重くするような鐘の音に、眉根を寄せた八郎に応える田坂の調子も物憂い。
だがその二人の前を行く総司と、そして更にそれよりも少し先を行っていた一の歩みが、まばらではあったが、家並みが途絶えた其処で不意に止まった。
やがて四人各々に開けた視界の中に、白と黒が碁盤目を作るなまこ壁の塀が、丁度羽を広げた鳥のように、砦を造っている屋敷の姿が飛び込んできた。
そしてそれが土方の云っていた商家の寮だとは、誰が云わずとも一見して知れた。

 川原に隣接する建物、或いは城壁に、漆喰を重ねて水を防ぐ為のなまこ壁は良く用いられる。
が、寮と云うよりは、大名屋敷とでも云った方が相応しい、このように広大な敷地全部を、なまこ壁の塀でぐるりと覆うには、莫大な費用を要する筈だった。

「豪勢なものだな」
商人の中には、近年の落ち着かない世情に巻き込まれ、その煽りを喰い悲鳴をあげる者もいれば、それを上手く利用し、莫大な利を得ている者もいる。
八郎の物言いは、その後者への皮肉だった。
「世の中には、訳の分からない奴がいるものさ」
それに相槌を打つように告げる田坂の目は、しかしそのなまこ壁を背に此方に走り来る、俊足の影に据えられている。


「伝吉さんっ」
やがてすぐ間近まで来た主に、最初に掛けられたのは、逸る自分を抑えた総司の呼び声だった。
「奴等は、じき此処を出ます」
その総司に目だけで会釈をし、伝吉は、鋭い双眸を一に向けた。
「奴等、とは?」
だがその言葉尻を取って問うたのは、八郎だった。
「長門屋に関わっている奴等だ。長門屋は過激な思想の持ち主として、自藩から追われている人間を、他国に逃す仲介屋だ。奴等の逃げ込む先は主に長州だが、要望があれば何処にでも逃す。長崎を経由して、異国への手筈も付けるらしい。最も何処に逃げ込むにしても、それ相応に土産が必要らしいが・・」
伝吉に代わり応える一の口調は、あまり感情と云うものを表に出さないこの男にしては、珍しく皮肉に終始していた。
「自藩の内情、思想の形勢、動向・・どうせ、そんなものだろう?」
淡々としてはいたが、八郎の物言いには、何処か物憂いものがあった。
「らしいな。今長州は、外部の情報、いやそれもより広い、諸藩の本音の部分が、何にも増して欲しいのだろう」
「一つでも、味方をつけておきたいか・・」
忌々しげな呟きに、言葉ではなく頷くだけで、一は是と応えた。

――昨年八月、一部の過激派浪士の暴発により京を追われた長州藩は、今何処からも孤立した状態にある。
が、二度に渡る長州征伐に於いて、長州藩は、意外にも幕府軍を一歩も領内に踏み入らせず、この大掛かりな軍行を不首尾に終わらせ、禁門の政変以降、かの藩が恐ろしい勢いで力をつけてきた事を内外に知らしめた。
そうして内を固めた長州は、今度は再び外との繋がりを作ろうと謀っている。
それは今までのように、闇雲な力関係で押すだけの縦の繋がりでは無く、互いに緊密に手を繋ぎ、幕府に抗し得る横の繋がりを作ろうとするものだった。
だが今珍しく八郎が垣間見せた、政情に対する己の感情の起伏は、未だ太平の世を抜け切れず安寧と胡坐をかいている、幕府上層部への焦燥なのかもしれぬと、横で聞いていた田坂は、もう既に、何処にもそのような名残を止めぬ、端正が際立つ横顔を見遣った。

「と云う事は・・、京が、あらゆるものの接点と云う事か・・」
「京は一種の治外法権だ。だからそんな仲介屋も、成り立つのだろうさ」
その田坂の、誰に問うでも無い乾いた声音だったが、それに返した一の調子は、そう云う都の事情に関しては、然程興を持つ風も無く淡白だった。

「あの、・・伝吉さん、直次さんは?」
その男達の会話が一端途切れるのを待ち、総司が伝吉に詰め寄った。
「直次と云う男は、同じ彦根の元藩士、村瀬十四郎と云う男に捕らえられ、あの屋敷の中にいやす」
「・・捕らえられて?」
驚きに見開かれた総司の瞳の中で、伝吉がゆっくりと頷いた。
「直次が探っていたのは、その村瀬とか云う輩だったのかえ?」
まるで世間話の続きを引き受けるかのように、気負う風も無く己の憶測を向けた八郎を、総司は未だ驚愕を抜け切れぬ動揺の中で振り返った。
「間違いは、無いでしょう」
「では直次さんはっ・・」
「確かな事は云えやせんが、無事の筈です。直次と云う奴を調べましたが、叩いて出てくる埃はありやせんでした。あいつと村瀬に、どう云う経緯があるのかは分かりやせんが、少なくとも此処の連中にとって、直次は何の役にも立ちゃしない、ただの行商人です。目障りなら幾らでも始末出来た筈が、そうはせずに捕らえ、こんな処にまで連れてきた。合点の行かない事ですが、ひとつ考えられるのは、直次は奴等の弱みを握っているって事です。
・・だとしたら直次自身が口を割らない限り、まだ無事の筈です」
「・・弱み?」
総司の怪訝な呟きに、伝吉が頷いた。
「あっしが副長の命で長門屋を見張るようになったのは、ここ十日ばかりの事ですが、直次は自分の逗留先の旅籠から、筋向かいになる長戸屋を、常に探っている節がありやした」
「では直次さんは、もしかしたらその為に京に?」
総司の脳裏に、旅籠の主が語った、直次は商いとは別の目的で京に来ていたのでは無いかと云う言葉が蘇る。
「外れは、無いでしょう」
是と言い切る伝吉を瞳に捉えた総司の面輪に、俄かに緊張が走る。

伝吉の調べた事実からすれば、少なくとも、直次は新撰組に仇為す者では無い。
が、一切の事情が分からず捕まっている分、逆に此方としても動きづらい。
直次が掴んでいる敵の弱みとは何なのか、そんな素振りを、交わした会話の何処かで、彼は漏らしてはいなかったか・・・


「・・奴等、動くな」
直次との、二度の邂逅で刻まれた記憶を手繰っていた、総司のその思考を断つかのように、一が低く呟いた。
それに促され、視線を屋敷の方角に遣ると、確かに一人の男が、門の脇の潜戸から外を伺っている。

「長門屋から連れて来られる客を引き受ける為に、川原に行くのでしょう。舟は、もう少し下った処に、用意されてやす。其処で引き受けた客を舟に乗せて大坂まで下り、今度は大坂で待っている仲間が、更に西国街道を護衛しながら、長州、或いはその先まで送り届ける・・それが奴等の商売です」
語りながら伝吉の双眸は、敵の動向の少しも見逃すまいと、鋭く潜戸を捉えている。
「ならば直次の追っていた彦根藩士と云うのも、その類の客かえ?だがそいつは、まだ舟には乗ってはいないとなると・・・直次に握られている弱みと云うのが、そいつが持って行くべき、西国への土産と云う事か。手土産を奪われちゃ、相手の屋敷の敷居も跨げぬ、と云うわけか」
明らかにされた内容から推し量った八郎の意見は、端的に的を突いていたようで、伝吉は無言で頷いた。

「伝吉さん、中に居る人の数は、どの位なのでしょう?」
潜戸から次々に姿を現し、遂に動き出した敵を視野に入れ、問う総司の声が硬い。
「そう多くはありやせん。多分・・七人か八人、その程度の筈です」
「何故分かる?」
質すように問う一の声音にある性急さは、これから自分たちが起こす行動に対し、少しでも確かな情報を得ようとする焦りだった。
「あっしが見張り始めてからこっち、長門屋からの客を迎える時に出かけるのは、常に七人。しかも最後の奴は、必ず錠を締めて行きやす。それは中が手薄になると云う証に、他なりやせん」
返す伝吉のいらえには、推測と云うよりも、確信に近い自負があった。
「ならば仮に留守の人間が居るとしても、ひとりかふたり。それから直次さんと、その彦根藩士・・中にいるのは三人か、多くても四人。・・・今なら、踏み込める」
言葉にする事で、始め自分の思考を整理しているような総司の小さな呟きは、次第にそれが確固たる信念に裏打ちされた強いものとなり、やがて云い終えた時には、深い色の瞳がゆっくりと男たちを見回した。

――新撰組が長門屋に踏み込めば、何時まで待っても仲間も客も現われない。
そうして異変を察した敵は、逃げる前に、自分達の顔貌を知る彦根藩士と直次の始末をつけに、一旦戻って来るだろう。
対峙する敵の数はどれ程でも構わないが、多ければその分直次を探し難くなる。
だからその前に、何としても直次を見つけ出したい。
総司の焦燥は、其処にあった。

「が、時は限られているぞ」
その総司に掛けた八郎の口調は、あくまで現実を直視し、厳しい。
この空白の時は、確かに敵陣に飛び込むには格好の機会だったが、来るべき者達が来なければ、川原で待つ者達も長門屋の急を知り、この屋敷に立ち返る。
総司も懸念した、その時の限りを、八郎は云っていた。
「分かっている」
だがそれに応える総司の双つの瞳は、既に屋敷の門扉に据えられ、其処から微塵も逸らされる気配は無い。

「踏み込む・・と云うよりも、忍び込むが、正しいか」
同じように、なまこ壁の塀に視線を向けながらの一の声音は、人質が拘束されている状態、屋敷の間取り、それ等、中の状況が全く皆無と云う、此方側のあまりの不利を、揶揄して苦笑するものだった。
「錠を外している暇は無いな。塀を乗り越えるのが一番早い。伝吉さん、あんた縄の用意はしてあるんだろう?」
「へい」
気負の欠片も無く掛けた田坂の言葉に、それが己に課せられた役目とばかりに、強面の容貌の主が頷いた。
「なら中から錠を開けてくれろ。俺は表から入るよ。盗人の真似までは、御免だね」
満更冗談でも為さそうな物言いが、止める言葉など疾うに聞かぬ想い人の薄い背を見る八郎の口から、物憂そうに漏れた。





 なまこ壁の塀に囲まれた屋敷は、外からの憶測を違わず、一種の要塞と云っても過言では無い、堅牢且つ広大なものだった。
それ故限られた時の中、何処に囚われているのか分からぬ直次を探し出すには、五人が行動を別にして効率を図る他無く、総司に宛がわれた箇所は、屋敷の西側の部分だった。

天道を隠してしまった厚い雪雲は、畳の藁に有る湿り気を凍てさせ、冷たい棘と化したそれは、土踏まずから脳髄まで一気に貫き身を震撼させる。
だが微かな物音も、僅かな人の気配も逃すまいと、神経を張り巡らせて進む己の背筋を今震わせているのは、その冷気ばかりでは無い事を、総司は知っている。
壊れかけた身体は、こんな時にも無理を拒んで悲鳴を上げる。
確実に上がってきた熱は、時折足元から掬われるような眩暈をもたらせ、焦る心に拍車をかける。
自分の身体でありながら、何ひとつ思うにならない情けなさ、不甲斐なさを堪えるように、総司はきつく唇を噛み締めた。
その刹那、突然後ろに感じた気配に、薄い背が、風を切るような俊敏さで振り返った。
が、それと同時に、内に籠もる熱は、構えを作る暇(いとま)も許さず、総司の体勢の安定を大きく揺るがした。

「総司っ」
倒れると、咄嗟に目を瞑った瞬間、もう力の欠片も入らぬ身は、しかし冷気を劈くような声と共に何かに支えられ、それ以上前に傾ぐ事無く止まった。
「大丈夫か?」
薄く瞳を開けたそれが切欠となり、一瞬飛ばしかけた意識が鮮明になると、総司は緩慢な仕草で、自分を捉えている腕の主を見上げた。
「・・何とも無い」
「嘘をつくな」
ようよう身を起こし、そうして浮かべかけた笑みが、厳しい双眸に射竦められ、ぎこちなく止まった。
「これ以上は無理だ、引き上げる」
「こんな事、大した事じゃないっ」
「三番隊組長が無理と判じたら、其処で引き返す。一番隊組長はこれに準じるものとする、・・副長命令だ」
「でも直次さんが、まだっ・・」
「此処を、撤退する」
それだけを短く告げると、凍りついたように見開かれた瞳には見ぬ振りをして、引き上げを伝えに行くべく、一は身を翻した。


 その背が廊下の向こうに消えても、総司は暫し呆然と立ち竦んでいたが、主がどのような状況に置かれようとも容赦なく襲う胸の痛みが、皮肉なことに、残された時は今度こそ限られてしまったのだと知らしめる。
 今ここで自分達が引き上げれば、いずれ戻って来る敵に、直次は命を絶たれる。
尚且つ、長門屋に踏み込んだ新撰組は、時を置かずして此処をも襲う筈だ。
それを同時に行わなかったのは、直次を案じる自分の思いを配慮し、救出の機会を与えてくれた土方の采配に他ならない。
だからこれ以上は、その土方の邪魔をする事は出来ない。
ならば退却を伝えられた八郎や田坂が戻って来るそれまでが、直次を救い出す、唯一与えられた時の限界だった。

ふらつく身体を叱咤し、総司は次の間の襖まで歩み寄ると、左右の腕に、力の限りを込めてそれ等を押し開く。
だが少しの動きが、直截に胸を刺激する。
抉るような痛みを堪える額には、玉のような冷たい汗が浮く。
それが滴(しずく)となり目に入ろうとするのを、瞳を細めるだけで遣り過ごし、総司の五感は、ひたすら人の気配を探る。
しかし一処に集めた神経を、更に鋭く研ぎ澄まさせる事は、弱りきった身には過激な負担にしかならない。

幾つか室を通り過ぎ、又も新たな襖に手を掛けようとした寸座、遂に堪えの効かなくなった身体が、総司の視界を白く霞ませた。
咄嗟に身を反転させ、壁に背を預け、そうして何とか倒れるのだけは防いだが、そのまま崩れるように座り込むと、間断無く刺し込む胸の痛みを堪える為に、総司は細い顎を上向け、荒い息を繰り返しながら目を瞑ろうとした。
だが瞼の全てが閉じられようとしたその一瞬、剣士として培われた鋭敏な勘は、視界の端に映った、僅かに異な光景を見逃さなかった。
今一度、今度はゆっくりと瞳を開け、其方へ視線を移すと、室の隅に在る違棚の横、床の間に掛けられた掛け軸の端が、それが錯覚かと思われる微かさで揺れた。

今、己の膚に受ける風は無い。
が、確かに、其れは揺れた。
或いは其処に、風の通り道があるのでは――。

壁に手を当て、それを支えに、残っている力の全てで立ち上がると、総司は躊躇う事無く床の間に歩み寄り、片方の手で掛け軸を除けた。
だが其処に期待していた扉のようなものは無く、贅を尽くした聚楽文様の塗り壁が、視界を阻むだけだった。
それでも総司は諦めず、触れる風を探し、もう知覚さえ朧な震える指先を壁に伝わせる。
同じところを幾度もなぞり、そうしてその幾度目かに、見逃してしまいそうな、ほんの微かな兆しに触れ得た時、あらん限りの力を振絞り、総司は其処を押していた。

 或るひと処を押せば、ほんの僅かな力で回転するように仕組まれていたそれは、人一人通り抜けるのがやっとの程の小さなものだったが、掛けられた力をその幾倍の勢いに増徴させ、総司の身を、放るように扉の向こうへと投げ入れた。


――堅い床に、強か叩きつけられた身は、瞳を開ける間もなく、意識を闇の淵へと沈める。
だがその寸座、確かに聞き覚えのある声が自分の名を叫ぶのを、全ての感覚が途切れ行く中で、唯一現に戻る導(しるべ)として、総司は聞いていた。










事件簿の部屋   なごりの雪(十)