なごりの雪 (十)




 意識を逸していたのは、時に計るまでも無い、ほんの僅かばかりの間の事だったらしい。
一度遠のいた声は、それが完全に途切れる寸前に、押し寄せる波のように又彼方から聞こえて来、そうして半ば強引に総司の覚醒を促す。


「沖田はんっ」
必死の叫びが届いたのか、やがて頬に翳りを落としていた睫が僅かに揺れ、血管(ちくだ)の藍を透かせた瞼がうっすらと開いた。
だが漸く現へと戻った総司の思考は、まだ己の置かれた状況を把握するまでには至らず、双つの瞳は焦点を定める事無く、ただぼんやりと物の像を映すに止まり、其処に宿る光は鈍い。

「沖田はんっ」
しかしその虚ろな魂を、此岸へと呼び戻すような強い声が、今一度空(くう)に響く。
「沖田はんっ、うちや、直次です」
「・・・なお・・じ・・」
「そやっ、直次ですっ」
乾いた唇が、戦慄き紡いだのは、始め耳に届いた言葉を、単に反復した無機なものだったが、しかしそれは総司の記憶の淵に、不意に漣(さざなみ)立てるような刺激をもたらせ、横臥していた身体が僅かに身じろぎした。
「ここやっ」
更に声のする方へと、総司は身体を捩ろうとしたが、その刹那、骨の髄まで抉られるような熱い痛みが胸を貫き、くぐもった呻き声が唇から漏れた。
が、皮肉な事に、その知覚が、すぐ直前までの出来事を、今度こそ鮮明に思い起こさせた。
直次は無事だったのだと・・・
そう知った寸座、総司は闇の中に目を凝らした。
「直次さん・・何処です・・?」
「ここやっ、沖田はんっ」
声に励まされるように、吐く息だけで痛みをやり過しながら、ようよう半身を起こして広がった視界に、だが求める姿は無い。
辺りは夜と見紛うばかりの暗さで、人の影はおろか、柱ひとつ、物の像として判別する事が敵わぬ漆黒で覆われている。
「ここやっ、うちはここやっ」
だが間を置かず背後から掛かった声は、それが導(しるべ)のように、総司の面輪を其方へと向かせ、その先に、闇よりひとつ色を濃くした影を見つけた時、細められていた瞳が大きく見開かれた。
「直次さんっ・・」
叫ぶと同時に、立ち上がろうとした途端、しかし不意に体勢を変えられた身は、荒々しい動きを拒むかのように、大きく揺らぎ前に傾いだ。
「沖田はんっ」
その一瞬、手放しかけた意識の端を掴み、強く引き上げてくれたのは、又も直次の鋭い声だった。

どうにか正気は保てたものの、床に崩れた身体は鉛のように重く、指一本動かすにも難儀する。
「無理に動いたら、あかん」
緊張の糸は解いていなかったが、諭す直次の声音には、互いの存在を確かめ合えた安堵があった。
だが総司は、声に出して応える、その僅かな力も惜しむように、無言のまま右腕を前に出すと、今度はそれを支えに身を引き寄せ、更に次は左の腕でも同じようにし、床に伏したままの姿勢で直次の元にまでにじり寄ると、荒くなった息を整えもせず顔を上げた。
案の定、直次の体は胴と一緒に柱にひと括りにされており、足も同じように荒縄で自由を封じられている。


「直次さん、怪我は・・?」
その柱をつたい、何とか半身を起こすと、総司は漸く直次に声を掛けた。
「何ともありまへん。うちの事より沖田はんが・・」
「私は、大丈夫です」
そう云い切った面輪に、案ずるなとばかりに笑みが浮かべられたのを、暗がりの中でも直次の双眸は映し得たが、そのまま肩に触れた総司の手の平から伝わる熱さは尋常では無い。
「沖田はん、・・あんた熱があるんと違いますか?」
自由になる首から上を捻り、質すような厳しい眼差しを向けても、見つめる深い色の瞳の主は、僅かに首を振るだけで否と応えた。
その総司を凝視する直治の脳裏に、ふとこの若者と初めて遇った時の情景が過る。

――あの川原で。
自分の両の眼(まなこ)が見たのは、慌てて握り締められようとした総司の掌と、その唇の端を染めていた朱の色だった。
驚愕に見開かれた瞳の、闇よりも深い色が、ぎやまんのように光を透けさせ、それと相対する白い膚を染めた朱の色は、そのあまりの鮮やかさが、万物の彩り全てを削ぎ落としてしまったかの如き荒涼とした冬ざれの中、酷く残忍でいながら、しかし不思議な程に妖しく玲瓏な残像として、直次の記憶に刻まれている。

「直次さん、動かないでいて下さい」
だが束の間、己を過去に置き去りにしてしまった直次を現へと引き戻したのは、背後から、耳朶近くで囁かれた硬い声だった。
言葉の意図を判じかね、後ろを振り向こうと顔を捩った途端、己を縛りつけている縄が更に強く皮膚に食い込み、その痛みに、直次は一瞬眉根を顰めたが、しかし次の瞬間、まるで其処で堰き止められていた血潮の流れが一気に解き放たれたかのように、ふわりと身が軽くなった。
その寸座、腕を滑った荒縄が、丁度蛇が地に落ちるにも似た、鈍く乾いた音を立てて床に散らばった。
「・・今、足の縄も解きます」
我が身に何が起こったのかすら判じる暇(いとま)も与えず、弱い声が、今度は先程よりもずっと下の方から聞こえてきた。
その位置関係から、括りつけられていた柱と体の間に脇差を入れ、縄を断ち切ってくれた総司が、今は足元に回ったのだと、漸く直次の思考が其処まで追いついた。
やがて言葉と違わず、直ぐに足の自由も得られ、その刹那、直次の唇から、長い拘束の時からの開放を安堵する息が漏れた。


「大丈夫ですか?」
「大事おへん。・・おおきに」
右手で左腕を擦りながら、深くこうべを垂れる直次に、総司が首を振った。
「直次さんを見つける事が出来て、良かった」
「沖田はん、もしかしてうちの事、ずっと探してくれてたんですやろか?」
「見つからなければ、どうしようかと思った。けれど無事で良かった」
心の安堵を、屈託の無い笑いと共に告げる総司に、それを見ている直次の顔にも、つられるようにして笑みが浮かんだ。
「それよりも、早くここを出なければ・・」
だが安閑の時も束の間で、すぐさま総司の思考を占めたのは、そう時を置かずに敵が戻って来ると云う現実だった。
「ここの戸は、内からは開きまへん」
しかしその言葉を、直次の、厳しく低い声が否定した。
「開かない?」
「ここは捕まえた者を、閉じ込めておく牢と違います。・・一度入れたら食べる物も与えず、光も無い暗がりの中に、幾日も放っておく処です。そうして孤独の中で狂い出す寸前まで追い詰めて、秘め事を吐かせるのですわ・・奴等、うちをここに入れる時に、そないに云うてました」
調子の中に、既にその地獄の一端を垣間見たかのような微かな慄きがある直次の語りを、相手の顔貌すら判じ難い闇の中で、総司は返す言葉を忘れたように聞いている。
が、そうまでして敵が吐かせようとしていると云う事は即ち、それだけ大きな秘め事を、直次が握っていると言う証でもあった。
だが今はその事を後回しにしても、何とかここを脱する方法を、先に見つけなければならない。

「でも中に入る事が出来るのならば、其処は必ず外に通じる道にもなる筈です」
声に力が籠もらない分、ひとつひとつの言葉の韻を明瞭に踏む事で、総司は今自分たちの置かれた状況の厳しさを、直次に訴える。
「何処かに、灯がある筈ですわ。あいつ等がうちを此処に連れてきた時、蝋燭に灯を点けて、その明かりを頼りに、柱に縛り付けましたのや。けどそれを消した時、もうお前は二度と光は拝めんのや云うて、見せしめのように、火打ち石も蝋燭も、隅に放り投げて行ったんですわ・・・確かあの辺りに・・」
直次も総司の言葉の緊迫感から、悠長に助けを待つ余裕は無いと理解したらしく、解き放たれたばかりで足元が覚束ないながらも、それを探すべく立ち上がり、闇の一隅に向かって歩き始めた。
だがその刹那。
己の背後で、総司の面輪が苦渋に歪み、咄嗟に胸元に当てられた手指が、其処を鷲掴むようにして強張り震えたのを、直次は知らない。


 幾ら暗闇に慣れた目とは言え、目星となるものが一つも無い中で、何かを見つけようとするのは意外に至難な事で、凡その検討はつけていた筈が、求める物の影すら判じられず、悪戯に過ぎ行く時は直次を焦らせる。
が、その内苛立ちまぎれに両手を伸ばし、闇雲に辺りを探り始めた、それが功を成したのか、指先に触れたひやりと冷たい磁器の感触に、細めていた目が見開かれた。
「あったっ」
歓喜の声は、物音ひとつしない闇を震わせるようにして響いたが、返る筈のいらえは無く、ただ蔓延るようなしじまが虚空を作る。
それが直次に、背後で起きていた異変を知らせた。
慌てて振り返った眸が映し出したのは、床に伏し、身じろぎしない薄い影だった。

「沖田はんっ」
前につんのめりながら、泳ぐようにして駆け寄り、肩を揺すり名を呼ぶ声にも、総司は応えない。
「しっかりしておくれやすっ」
狂乱じみた悲愴な叫びだけが、繰り返し閑寂を劈く。
だがその必死が天に通じたのか、幾度目かに名を呼んだ時、堅く結ばれていた唇から、笛を吹くような音と共に細い息が漏れた。
それを凝視する直次の双眸は、この先の僥倖に通じる、少しの変化も見逃すまいと瞬きしない。
やがて瞼が微かに開いたのと同時に、事切れたかのように無防備に投げ出されていた総司の右の指先が、震えるように動いた。

「沖田はん、分かりますか?」
弱った身の神経に障らぬよう、ひと言ひと言区切りながら、ゆっくりと耳元で告げる声に、総司の瞳が、その声の主を虚ろに探す。
「今、灯をつけますよって」
例え灯をともしたからと云って、それで総司を、苛まれている辛苦から救う手立てにはならない。
だがそうと承知しながらも、辺りを照らす灯火が、少しでも病人を力づけるものになる事を願い、直次は火打ち石と金を叩き合わせる。
「直ぐに、つきますよって。・・もう大事おへん」
言葉にする事が、せめて活路へ通じる事を念じ、直次は独り語り続ける。

――やがてきな臭い匂いと共に散った火花が、蝋燭の先に点り、漆黒ひと色だった闇の帳を、ぼんやりと押し開いた。

「・・すみません」
その事が、意識の覚醒を促す切欠となったのか、色を失くした唇が戦慄くように震え、掠れた声音が短い言葉を紡いだ。
だがそれ以上の力は、既に身の内の何処にも残ってはいないらしく、先程のように、もう総司は立ち上がろうとはしない。
それが直次を、得も云われぬ不安へと駆り立てる。
とても十分とは言い難い灯りの中でも、片頬を床につけて横臥している面輪の蒼さは、血潮が流れている人のものとは思えない。
見つめていれば、押し流されてしまいそうになる不安を払拭するかのように、直次はつと手を伸ばすと、白い額に触れた。
その刹那、総司の瞳が、漸く意志のある色を宿し、己の額に、躊躇いがちに置かれた指の主を仰ぎ見た。

「こないに熱があるのに、出て来たらあかん。大人しゅう寝てなあかん。キヨはんや、皆を心配させたらあかん」
無理を叱る声音は、ほつれた髪をかきあげてやる指の動きの優しさと寸分も違わず、柔らかい。
「・・・でもそうしたら、直次さんを見つける事が出来なかった」
振り絞る声の弱さを悟られまいと、ぎこちなく浮かべた笑みが、直次の目には返って痛々しい。
「一遍や二遍逢うただけのうちの事を、なんでそないに親身になってくれるんや。うちには、沖田はんの気持ちが、よう分からん」
それは確かに非難の言葉であったのに、静かな口調には責め立てる棘は無く、言い終えるや、総司を見つめていた表情が一瞬くしゃりと歪み、そして直ぐに呆れたような笑い顔に変わった。
「何故だろう・・。私にも分からない」
その直次を見上げ、ようよう整えた息の合間を縫って言い訳する面輪にも、屈託の無い笑みが広がる。

「・・あんたは、阿呆や」
「大莫迦だって、言われた」
「それやったら、うちのような唯の阿呆には敵わん筈や」
だが笑って揶揄する直次の物言いの、その一番底に漂うものが、紛れもない自嘲だと、機敏に察した深い色の瞳が、それにどう応えて良いのか分からず、一瞬戸惑いに揺れた。
「うちは阿呆ですねん。・・意気地がのうて、一番大事なもんを逃してしもうた」
が、その総司の心裡を知ってか知らずか、続けられる調子は、直前までの会話の流れを些かも損なわぬ、衒いの無いものだったが、淡々と語られる言葉の奥に、更なる重さが在るのを判じ得た総司の面輪からは次第に笑みが引き、見開かれた瞳が直次を凝視した。

「一番、大事なもの・・?」
「そや、一番大事なもんを、臆病に逃げ込んでしもうて、捕まえる事が出来んかった。
・・・逃してしもうたもんは、もう戻らへん。けど最後の足掻きくらいせな、うちは情けない人間のままで終わってしまう」
それは激しい心情の吐露に相違はなかったのだろうが、しかし直次の物言いも、声音の穏やかさも、少しも変わる事は無い。
だが裏を返せば又、裡に秘める決意の堅さ、揺るぎ無さの証でもあった。

「その足掻きって・・、もしかしたら・・」
それが直次の目に、あの強い光りを宿らせた正体だと思い至った瞳が、いらえを求めて、相手をひたと見つめた。
「・・沖田はんは、何処まで知ってはるんやろうな」
その視線を受けて、ゆっくりと問う声が、これから語らねばならない事柄への、ある種の観念と覚悟を秘め、少しだけ低くなった。
「直次さんが、元彦根藩士の村瀬十四郎と云う人と、何か関わりがあるらしいと云う事しか・・」
「新撰組も、あの旅籠は探っておったからな。・・村瀬を見張っていたうちの事も、調べて当たり前やな」
それは皮肉でも批難でも無い、自らの思考を纏める為に漏らしたような呟きだったが、核心に触れる寸座の緊張が、直次の面差しを心持硬くした。
「直次さんの泊まっていた旅籠のご主人が、直次さんは、商いの為に京に逗留していたのでは無いと云っていた」
その直次の裡に残る、最後の蟠りを捨て去らせるように、総司は敢えて強い調子で先を促す。
だがそれを聞いた途端、直次が破顔した。
「よう見てはるわ、伊達に長い事、商いしてはるのと違いますな」
「・・そんな事を云ったら、ご主人に悪い」
仰臥したまま紡ぐ声音には、相変わらず力が無かったが、見上げている面輪にある笑みは屈託無い。

「もう隠す事もできへんな。・・そうです、うちは村瀬十四郎から、盗みを働く為にあの旅籠に逗留していましたのや」
「・・盗み?」
「へえ、盗みですわ」
訝しげに繰り返し、曇った面輪に向けられたのは、忍び笑いを孕んだ直次のいらえだった。
「それを首尾よう果たしたその直後に、このざまですわ」
「では村瀬と云う人が、盗まれたものを又とり返す為に、直次さんを?」
「村瀬は、もう息絶えてます。・・此処に連れて来られて直ぐに、奴等に斬られました」
吐息交じりで語る直次を見つめる深い色の瞳が、僅かに細められた。
「村瀬より、うちが村瀬から盗んだものの方が、あいつらは役に立つと睨んだんですやろう。せやからもうその品を持ってない村瀬は、邪魔になった。・・・うちが盗んだものは、その位の価値はある、刀でした」
驚きが、弱った身の障りにならぬよう、直次の物言いは柔らかい。
「・・刀?」
「へえ、刀でした。うちが太物の行商を始める前は、質屋に奉公に上がっていたと、前にお聞かせしたのを覚えていはりますか?」
無言で頷いた総司だったが、キヨと三人で交わしていた和やかな会話の中で、其処に触れた一瞬、直次の面に宿った翳りは、今も消しようの無い残影として、脳裏に刻まれている。

「彦根藩は井伊のお殿様の失敗で、仰山禄高を減らされてしもうた。それで藩は、ここ数年、その禄高を戻そうと必死やった。・・・丁度そんな時、岡山藩のお殿様から、えらい名のある刀を貰ろうた藩は、それを質入して金を作ろうとしましたのや」
「・・直次さんの居た質屋に?」
「そうです。何でも岡山藩を脱藩した人間が、奈良で挙兵して代官所を焼き討ちした時、それを捕らえはったのが、彦根のお侍はん達だったと云う事でした。刀が贈られて来たのは、その礼と、もうひとつ、岡山の殿様が代わられたとの挨拶を兼ねて、・・と云う事やったらしいですわ」
「大和代官所の焼き討ち・・・。天誅組の事でしょうか?」
「そないな事を云うてはりましたけど、うちら商人には、よう分からん事です。けど藩は、その手柄の勢いに乗じて、禄高を戻そうと謀りましたのや。高台に砲台を造り、京へ入る道の警護を固め、幕府にとことん恭順の姿勢を見せようとしはった。それにはどうしても金が要る。せやから岡山のお殿様から貰ろうた刀やて、金になるなら質草にもする。・・それだけ、必死やったんですやろうなぁ」
直次の口調には、虚勢と矜持が、何を差し置いても一番にまかり通る、武士階級への非難は無い。
だが淡々と語られる内容は、下手をすれば岡山藩と間に亀裂を生み、彦根藩そのものの存続にも関わる危険なものだった。
が、直次とて、その事は十分に承知して、全ての顛末を明かしている筈だった。
それを察し、更にこの先暴かれるのであろう真実を待つ総司の裡にも、俄かに緊張が走る。

「貸した金は千両。・・それに十分値する刀だと、旦那様はそう云うてはりました」
「千両・・・」
昨今の騒がしい世情で、貨幣価値は暴落している。
だが一振りで千両の金が、右から左へ動く刀がどのようなものなのか、総司には想像がつかない。
「一文字則宗、・・そう云うてはりました」
その総司の不思議を見透かしたように、直次が笑った。
「・・一文字則宗?」
「知ってはられますか?やっぱり、お侍はんやな」
和やかに細められた目に、総司は頷くだけで是と応えた。
「名前だけだけれど・・」
「商売柄、刀の目利きでもあった旦那様も、生きている間に手にする事が出来るとは思わなんだ云うて、えらい喜ばれてはりましたわ」
その時の光景を脳裏に蘇らせたのか、直次の視線は、総司を見ていながら、一瞬何処にも止めない、空白の時を作った。
「うちが村瀬から盗んだ刀は、その則宗ですのや」
だがそれも束の間の事で、直ぐに語り始めた声音は、もう現の厳しさだけに染められていた。
「けれどその刀は、直次さんの奉公していた質屋さんの・・」
「そうです。本来ならば、質屋の蔵に無ければ、あきまへんのや」
「・・では」
「村瀬に、盗まれたのですわ。けどうちがそれを知ったのは、店を辞めて暫くしてからの事でした」
瞬きもせず凝視している瞳に向けられた直次の眼差しは、どのような真実に触れようと、穏やかな色を失くさない。
それは直次と云う人間が核(さね)に持つ本来の強さと、裡に秘める決意の堅さを物語るものでもあった。

「・・うちが奉公に上がったのは、七つの時でした。お話したように、両親(りょうおや)が商いをしくじって相次いで亡うなった後、父親と親しかった質屋に引き取られました。そこで旦那様から商いのいろはを教えて貰いながら、うちは大きゅうしてもらいました」
「だったら何故、直次さんはその店を辞めたのです?直次さんは、お父上と一緒の仕事をしたかったのだと云っていたけれど、私にはそれだけとは思えない。・・・直次さんは、何も無くて、恩のある奉公先に暇を告げる事の出来る人じゃない」
途中身を苛まれるものに、辛そうに眉根を寄せながら、短い語りを一気に紡ぎ終えた時、それが限界だったのか、総司は一度瞼を閉じ大きく息を吐き、そうしてから再び瞳を開いて直次を見上げ、更なる真実を求めた。
「おおきに、けどそれは沖田はんの買かぶりですわ。うちは意気地の無い、性も無い人間ですのや」
「・・そんな事」
「無い、云うてくれるんは有り難い事です。けどほんまの事ですのや」
直次のいらえには、気負いが無い。
だがその分、上っ面だけの慰めを拒む強さがあった。

「奉公に預けられた店には、ふたつ年下のお嬢はんがいてはりました。・・うちの父親が元気な時には幼馴染やよって、一緒に遊んで、よう泣かしたもんです」
「直次さんが?」
重い真実が暴かれ行く中で、不意に筋を違(たが)えたような話だったが、昔を懐古する和らいだ声音に、総司の面輪からも硬さが抜ける。
「勝気で、気性が激しゅうて、ちっとも大人しゅうしておらん」
「・・もしかしたら」
好いていたのかと、そう言葉に出しかけて、総司は慌ててそれを飲み込んだ。
直次が店を辞し、此処に居るという其れこそが、実らぬ恋であったのだとの、何よりの証だった。
「好いていましたのや」
だがその総司の胸の裡を見透かしたかのように、直次の唇がゆっくりと、推し量ったとおりの、いらえの言葉を形作った。
「お嬢はんと所帯を持ちたい、そないな事、身に過ぎた勝手だと、よう承知してました。けど人と云うもんは、九分九厘あかんと思うても、生きている限り、一厘の希(のぞみ)を捨て切れんものではないのでしょうか」
真摯な眼差しに問われ、独り土方を想っていた己の来し方と、直次の其れを重ね合わせながら、しかし総司は素直に頷くことが出来ない。

――持ち続けた願いは、土方に受け容れられて、現のものとなった。
だが僥倖を掴んだその瞬間から、掌中にしたそれを失う事への慄きに、心は震え始めた。
そしてその恐怖は、滾る恋情に身を焦がし、狂いだしそうな嫉妬の痛みに、のたうち回り呻吟していた時など及びもつかぬ激しい孤独に、総司を捉えてしまった。
直次の言葉に頷き、是と言い淀んだ躊躇いは、そんな総司の心中にあった。

「せやけど、やっぱりお天道さんはそないな驕り、よう見てはるわ」
その総司の胸の裡を知らずして、続けられた直次の物言いには、どこか自嘲めいた響きがあった。
それを異と察し、伏せかけていた瞳を上げた総司の視線の先に、初めて見る、直次の遣る瀬無い笑い顔があった。
「藩が禄高を回復するゆうて、それまでも彦根の大店(おおだな)には、えらい負担が掛かってました。うちの奉公先も、その例外ではあらへんかった。もう無理に無理を重ねて限界やったのに、旦那様は、どうしても金を用意する云うて聞かんかった。けど千両やなんて大金、あの時どんなに掻き集めても店には無かった。そんでも旦那様は、諦めんかった。
・・・それまでも、藩に貸した金は帰って来んで、質草になった品物だけが残ってましたんや。せやから則宗かて、いずれは自分のものになる、・・そないに思うたんですやろな」
「稀に見る名刀だと、聞いています」
「確かに素人のうちらから見ても、そこいらの刀と違うのはよう分かりました。けど旦那様は、あの刀に、魂を吸い取られてしまいましたのや」
それが全ての禍の始まりだったと告げる、語尾は呻くような、直次の語り口だった。

「藩の云う額を用意する為に、旦那様は質屋株仲間から、金を借りる段取りをつけはった。・・けどそれには、条件があったんですわ」
「条件?」
「そこの次男をお嬢はんの婿にして、店(たな)を継がせると、そないな約束をしはりましたのや」
「そんなっ・・」
総司の言葉の詰まりは、その女性(にょしょう)への恋情を聞いてしまったが故の狼狽だったが、しかし直次は、そんな相手を慰撫するように、頬を緩めた。
「・・身に過ぎた片恋をしていたんやと、改めて知ったんは、その時でした」
「それで・・其処を辞めたのですか?」
聞きづらい事を、敢えて口にするには勇気がいる。
だがここで吐き出してしまいたい負の心情を堰き止めてしまえば、直次の胸に在る翳りは晴れない。
そう信じ、総司は己を鼓舞していらえを促す。
「いや・・それだけではあらへんかった」
「では何故?」
「旦那様に、辞めてくれと云われたんですわ・・他に商いをするなら、なんぼでも力になる、せやけど店だけは辞めてくれと」
少しも乱れも見せずに語り続ける主を凝視する総司の瞳の中で、商人の持つ穏やかさと厳しさとを、同時に宿したような整った横顔が、ほんの一瞬だけ、苦しげに歪んだ。
「うちが居れば、お嬢はんが縁談に首を振らん。せやし姿を消してくれと、旦那様は、畳に頭を摩り付けはった」
「そんなのは、勝手すぎる」
自分の為に、真摯な怒りを湛えた細い面輪を見て、直次の目が、それをいとうしむかのように細められた。
「けどうちは、それを承知しましたのや。・・・お嬢はんも、うちを好いてくれている、それを知った時に、うちは逃げたんですわ。卑怯者の、意気地なしに成り下がってしもうたんですわ」

瞳を見開き、言葉を無くしたように沈黙する総司の驚愕を包み込むような、直次の静かな声音だった。









事件簿の部屋   なごりの雪(十壱)