なごりの雪 (十壱)




「事切れて、一昼夜は経っているな」
「ではここに来て、直ぐか」
屍となった男の脇に方膝つき、傷口辺りに付着した血痕の固まり具合と、体の硬直の度合いとを確かめ、抑揚無い調子で告げる田坂にも、それに応える八郎の物言いにも、仏に対する情は無い。
そして更にその傍らに立ち見下ろす一の横顔からも、感情と云うものは削ぎ取られている。
否、この三人の面に唯一共通して在るのは、深い焦燥と、それに煽られた苛立ちだけだった。

 総司の不調を告げられ、即座に立ち帰った其処に目当ての姿は無く、不気味な程の静寂だけが、男達を迎え入れた。
それから間を置かず、柱に叩きつけるようにして、障子や襖を開ける乱暴な音が、暫し屋敷中に響いていたが、求める者の影すら見つける事は出来ず、各々の裡を覆う焦りは、極限にまで高められていた。
そうしている内に見つけたのが、村瀬十四郎の遺骸だった。


「骸(むくろ)が無いと云う事は、・・・直次と云う奴は、まだ無事か」
一の、声を籠もらせるようにした呟きは、そうであれば、恐らくはその手がかりを掴んで消えたのであろう総司も又無事であるとの憶測を、自らが信じようとするものだった。
だがそれに一縷の希を託す心情は、其処にいる誰もが胸の裡に秘するものでもあった。
「外に出たとは、考えられないのか?」
探し尽くして、しかし手かがりのひとつも見つけられない憂憤に、一を振り向いた八郎の顔(かんばせ)が険しい。
「無理だ。俺達があの場に戻るまでは、僅かなものだった。その間に、あいつが動ける範囲は知れている」
即座に返ったいらえに、田坂の面にある厳しさが増す。
それは即ち、一から見て、総司の病状が、抜き差しなら無い状態であったと云う事を意味していた。
もしも今敵に囲まれれば、総司に刃を振るう力は無い。
それが田坂を焦らせる。
だが一瞬重い沈黙が流れたその時、三人の視線が一様に上げられ、そのまま彼方の一点に据えられた。

「奴等、帰って来やがったようだな」
視野に、表を守っていた伝吉が走り来る姿を捉え、此方に悪くなった形勢を察しての、吐き捨てるような八郎の物言いだった。
「数は?」
骸の脇から、ゆっくりと立ち上がりながら、誰に問うとも無く声にした田坂の横顔も物憂げに曇る。
「七、八人とか云っていたな」
「では二人ずつか」
が、一に応えたその声も終わらぬ内に、更に複数の馬の嘶きが、曇天に棚引くようにして響いた。
「・・土方さんか?」
「いや、違う。新撰組なら、あんなまとまりの無い囲み方はしない」
視界が捉え得る限りまで遠くを見据えようと眸を細めた八郎に、いらえを返した一の声音が、僅かばかり低くなった。


「数が、増えたのかえ?」
目の前に来た伝吉に、衒う風もなく問うた八郎だったが、聞こえてくる喧騒の具合から、外の敵は、この屋敷を出て行った数を遥かに超えているとは踏んでいる。
「川原から戻ってきた奴等と、長門屋から逃げてきた奴等とが、間が悪い事に、丁度今表でかち合いやした。それに間もなく、新撰組も駆けつけるでしょう」
門からここまでは、決して短い距離では無い。
が、それを走ってきた伝吉は、息を乱す事も無く、不利となった状況を一気に語り終えた。
「ならば、あの人も来るな」
土方と、敢えて云わず、八郎の唇が皮肉に歪んだ。
「急がねばならない。・・乱闘になれば、探すのが難しくなる」
一の言葉の意図しているのが、どうしても見つけ出さねばならぬ者の姿であるとは、其処いる誰もが周知の事だった。
「ばらばらに動かない方が良いな」
田坂の言葉に、一は頷くだけで是と応えた。
「ならば、あいつの居なくなった辺りに固まっているのが得策か。・・・伝吉、お前は新撰組を屋敷の中に入れるな。余計な邪魔が増えるだけだ」
構えなど、些かも見せぬ自然体でありながら、何処にも打ち込む隙の無い八郎の言葉が終えるその寸座、つと一の体が前に出た。
「抜け駆けかえ?」
「新撰組、だからな」
焦る心をそのままに、いらえは背中で返った。
だがそれに瞬時の遅れも取らず、伝吉の視界の中で、二つの影が飛び出した。




 風すら吹き抜けるのを躊躇っているようなしじまの中、蝋燭の灯に照らされ、片方だけに落ちた鼻梁の影が、直次の面を寂しげなものにする。

「奉公していた店の名は菱屋。お嬢はんは、妙はん云いました。もしかしたらお嬢はんも、うちの事を想うていてくれはるんやないか、・・・それはずっと前から気づいてました。せやから余計に、希を捨てきれんかった。けどうちは、そのお嬢はんの気持ちに、何時の頃からか、知らん振りをし始めてたんですわ。これは片恋や、そう自分に思い込ませようとしたんですわ」
焔の揺らめきは、仰臥して直次を見上げる総司の面輪にも、陰影を落とす。
それが、解せぬ相手の心裡を慮るように、揺らめいた。
「・・何故?」
「怖かったんですわ」
怪訝に問う声に、唇の端を少しばかり歪め、笑いながら応えた直次だったが、しかしそう告げ終えた途端、視線は一度宙に投げられ、そして再び、今度はその倍の時を掛けて、ゆっくりと総司に戻された。
「怖い・・?」
「そう、怖かったんですわ。・・・沖田はんは、人を好いた事がありますやろか?」
偽りなど、すぐさま見透かされてしまいそうな眸に据えられ、だがそれでも尚、本当を云うに躊躇う心を、総司は、乾いた喉に無理矢理息を嚥下する事で打ち砕き、細い頤を微かに引いて頷いた。
「ほな幸せを掴んだ途端、それがするりと逃れてしまうような、不安な気持ちになった事がありませんやろか」
穏やかな語り口だったが、しかしその直次を見る総司の面輪が、一瞬の内に強張った。
「何も不思議な事や、あらしまへん。そうあって、当たり前ですのや。大切なもんなら、・・それが大事なら大事な程、失くすのはいやや、そう思うて、見えもせん怖さ恐ろしさに踊らされて震えるのは、人なら、当たり前の事ですのや」
確かに恋にいるのだろう者の、漣立つ己の心裡を取り繕い隠す術を持たぬ一途さに目を細め、そしてそれが故に苛まれている慄きと弱気を包み込むように、慰撫して諭す声は柔らかい。

「けどうちは、その幸せを掴みもせん内に、それを失う事の怖さに、先に負けてしもうた。
・・・八っつで両親(りょうおや)を亡くして、そんで奉公に上がって、いつも必死やった。卑屈な気持ちになった事なんか、一度もあらへん。けど気づかんうちに、お天道はんが決めはった自分の定め云うもんに、引け目を感じていたんやろなぁ。この手で掴み取った幸せなら、確かなものやと安堵もする。けどふって湧いたように、目の前に差し出された幸せには、尻込みしてしまう。うちみたいな人間に、そないな幸せはよう似合わん、分不相応や、そんな風に思うてしもうたのですわ」
「直次さんが引け目を感じる事など、ひとつも無い」
強い口調のそれは、下された過酷な因果を恨むでもなく、呪うでもなく、ただ懸命に生きて来た人間の心に、引け目などと云う思いを植え付けた天に対する、総司の怒りの迸りだった。
「おおきに」
だがその総司に向ける直次の眼差しは、凪ぐ海原にも似て、静かなものだった。
「せやけど幸せ云うもんに、素直になれんようになってしもうていたうちは、お嬢はんを自分の手に出来る悦びよりも、いつかその幸せが壊れる事に、怯えてしもうた。・・それが何時の間にか、この身に染み付いていた、不甲斐ない性(さが)でしたのや」
「・・・そんな」
「気いついた時には、頭を上げない旦那様に、店(たな)を出ると約束してました。
・・・お嬢はんが祝言を挙げはったのは、うちが店を出た、その一月後の事でした」
床に置いた蝋燭に点された焔の灯かりは、座している直次の顔までは届かず、語り終えたその表情が、薄闇に紛れて分からない。
だが総司には、差し出された僥倖に背を向けるまでの直次の心を、我が身と重ね合わせて知る事が出来る。

相手を想う気持ちが強ければ強いほど、失うのが怖いのだと――
だからそれを得る前に、見えぬ影に怯えて逃げてしまったのだと語る直次を、総司は臆病者だとは思わない。
己の来し方で、たった一瞬でも違(たが)う方向を見たのなら、或いは自分の今は、直次のそれと同じものとなっていたのかもしれない。
人の定めとは、散って舞う花弁よりも敢え無く、天が気侭に吹かせる風ひとつで、如何様にも容(かたち)を変えられてしまうものなのだと・・・
その理(ことわり)が、総司の背に戦慄を走らる。


「けどお天道さんの決めた定め云うもんは、そないに簡単なものや無かった」
計らずも垣間見てしまった、天の過酷さに残忍さに、暫し忘我の淵にいた総司を現に戻したのは、直次の声音だった。
「そんな事があって店を出て、太物の行商を始めて半年が過ぎた頃やった。うちは菱屋の窮状を知ることになったのです」
「菱屋さんの、窮状?」
「ある晩、お嬢はんがうちを訪ねて来たのですわ。・・・そうです、妙はんです」
改めてその名を聞き、凝視した瞳の中で、直次が静かに頷いた。
「・・でも何故」
其処に触れる事が、直次の胸の裡に、土足で踏み込む結果へ繋がるのでは無いかとの憂いが、総司にその先を紡ぐのを躊躇わせる。
「藩から預かった則宗が盗まれたと、お嬢はんは、うちに打ち明けはりましたのや」
だがその総司の憂慮を見透かせたように、直次は自ら口を開いた。
「盗まれた?」
訝しげに問う声が、虚空を彩る闇にくぐもる。

「則宗の事は藩の大事ですよって、菱屋でも旦那様と、うちしか知らん事でした。
彦根の今のお殿様は、まだ二十歳にもならん若いお方です。そのお殿様は、将軍様をお護りする為には、用を成さん刀を大砲に変えたかて、何も恥ずかしい事はあらへん、そう云われはったらしいですわ。けどご家老様や、周りは違うた。他所のお殿様から貰ろうた刀までを質に流したやなんて、そないな事が世間に知れたら、譜代筆頭の彦根藩はええ笑いものにされてしまう。せやから絶対に漏らしたらあかんと、旦那様もうちも、ご家老様にきつう口止めされてました。その則宗が、盗まれてしもうた。しかも間が悪い事に、藩も則宗を買い戻そうと躍起になって金を集め始めたのですわ。それを知った旦那様が、これ以上は、隠す事も出来んと観念して、お嬢はんに打ち明けたそうです。・・・藩が質受けする金を用意できたら、質草の則宗は返さなあかん。それができなんだら、店は潰されてしまう。いや・・事情が事情だけに、旦那様も若旦那様も、お嬢はんかて、店中の者の命は無い。それで思いあぐねたお嬢はんが、預かった時の事を知っているうちに、何か心当たりは無いかと、聞きに来はったのですわ」

長い語りを一気に終えても、直次の面は硬さを解かない。
それは此処に至るまでの経緯を言葉にして辿る事で、己の裡にある決意を、より揺ぎ無いものにしているように、総司には思えた。

「・・・直次さんには、あったのですか?その心当たりが」
「いえ、ありませんでした。・・何も力になれんで申し訳無いと頭を下げたうちに、余計な心配を掛けてしもうて堪忍言うて、お嬢はんは帰って行かれました」
「けれど何故彦根藩は、急に則宗を質受けしようと、動き始めたのでしょう?」
別れてから再び見(まみ)えた時、直次と妙の間に、確かにあったのであろう葛藤を推し量り、ともすればその感傷に引き摺られそうになる心を叱咤して、総司は問う。
「今の上様は、彦根のお殿様が生前に推挙されて、将軍にさせたお方です。けれどお体が弱くて臥せがちやと、聞いています。それで次の上様には、今の上様を決める時に、井伊のお殿様が退けた、一ツ橋のお殿様が有力やと、そないな噂があるそうです」
「もしかしたら・・・新しくなられた岡山藩の藩主が、一ツ橋公の御実弟と云うのと・・」

――浪士組が江戸で結成され、京へ入った年の文久三年、岡山藩主を襲封した池田茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九番目の男子、そして密かに次期将軍と目される一ツ橋慶喜は七番目の男子で、茂政の実兄にあたる。
総司の言葉は、その事を意図したものだった。
だが消え入るように小さな声音が、そのまま己の憶測の自信の無さに繋がっているような呟きに、直次の面にも微かな笑みが浮かんだ。

「沖田はんが、思うたとおりです。・・確かに、彦根藩と水戸藩には、互いに忘れられん因果があります。けど藩を潰さん為には、どないに悔しゅうても、目を瞑らなあかん事もあります。次の将軍様に、一ツ橋のお殿様がならはったら、将軍家と縁続きになる岡山藩は、えらい力のある藩になりますやろうなぁ。その藩主様からの頂戴ものを、質に流した挙句失くしてしもうたと知れれば、江戸での、あの一件から辛酸を舐め、少しでも元の勢いに戻す為に躍起になっているご家老様達は、そりゃ慌てますわ」
淡々と、まるで世間話でもするような直次の口調には、侍社会の茶番な風潮を揶揄する響きは無い。
其処には、例え支配者階級にどのような変遷があろうとも、両の足で地を踏みしめて市井に生きる者達の持つ、逞しさがある。
「そしてうちは、お嬢はんに打ち明けられたその日から、盗まれた則宗を探し始めたんです」
又も意外な告白に、総司の瞳が直次を据えた。

「・・お嬢はんは、一度も助けてくれとは云わなんだ。けどうちはその時、お嬢はんの役に立ちたいと、そう願いました。お嬢はんを護る為なら、この身かていらへん、鬼にも夜叉にもなれる・・・皮肉な事やけど、離れてみてようやっと、うちは自分の心に正直になれましたのや」
己の心情を吐露する直次の物言いは、穏やかな体を崩さない。
しかしそれだからこそ、裡に秘める意志は、確かな強さに根付いているのだと、総司に知らしめる。
「・・うちは、自分の事しか考えておらんかった。失くす事が怖いのやと、それやったら最初からそないなもの持たん方がなんぼもええ、そう思うて逃げてばかりいた。・・・思えば、傲慢な人間でしたわ」
「傲慢・・?」
「そうです、傲慢です。失くすのが怖うて端から背ぇ向けるやなんて、独りよがりの勝手や」
「・・そうでしょうか」
「失くすのが怖い、・・自分がそないに思うのやったら、同じ想いを抱いてくれる相手も、きっと怖いのと違いますやろか。うちはお嬢はんの気持ちを、一度も考えた事がなかった。けどうちが怖いのやったら、お嬢はんかて、心の隅に同じような不安を持ってたんと違うやろか。・・・今は、そないな風に思います」
言葉は、他に邪魔するものの無い静謐の中で淡々と紡がれ、しかし最後は余韻すら潔く、しかと言い切られた。
その直次を、総司は言葉も無く見上げている。

――いつか土方に置いて行かれる事への慄きは、一瞬たりとも自分を開放してはくれない。
だから置いて行かれる前に、置いていってしまいたいと、そう自分は念じた。
だが直次は云う。
同じ想いを抱く者ならば、併せ鏡のように、きっと失くす事の怖さを裡に囲っている筈だと。
ならば・・・
ならば土方も、そうなのだろうか。
自分達はふたつ身でひとつ魂を持つ者であるのだと、嘗て土方は云った。
ならば同じように、自分を失う事を、土方も又、怯えているのだろうか。

「・・・私には、分からない」
掠れた声で、ぽつりと漏れた呟きは、此処にはいない誰かへの、総司の問いかけなのだと、直次にはそう聞こえた。
そのまま沈黙の砦に籠もってしまった蒼い横顔を、直次は暫し無言で見つめていたが、だが蝋燭が芯を短くする焦れた音に促されるように、再び口を開いた。

「探す云うたかて、何を手がかりにしてええのかも分からず、ただ焦るだけの日が過ぎて行きました。そんな時、行商で初めて出来たお客はんに貰うた注文の織物を届ける為に、うちは京に来ましたのや。そしてその帰り道、偶さか、うちは村瀬十四郎の姿を見たんですわ。・・村瀬は、ご家老様の代わりに、則宗を菱屋に持ってきた人間でした」
「則宗を?」
「そうです。村瀬が、則宗を菱屋に預けに来たんです。その頃村瀬は、藩の勘定方の仕事をしていた関係で、幾度か菱屋にも来て、うちにも面識がありました。けど京で遇うた村瀬は、すっかり侍崩れしていて、何かに怯えているように落ち着かん風情でした。その姿を見た時、則宗を盗んだのは村瀬や、うちはそう確信したんです。・・・則宗が質に流されたのを知っているんは、藩でもほんの数人です。則宗を盗んだのは村瀬や、間違いは無い、
・・そう、思いました」
「それで直次さんは、村瀬十四郎を見張る為に、あの旅籠に泊まっていたのですか?」
「村瀬の後を追って、あいつが長門屋に逗留してるのを知った時、うちは迷わず、その筋向いにある旅籠に飛び込んでいました。そしてそのまま、奴の動きを探り始めたんですわ」
村瀬を見た瞬間の、身の内を走りぬけた衝動を思い起しているのか、目線を遠くにやった直次の横顔は厳しい。
だが其処には、その偶然の出会いを、天が下した標(しるべ)と受け止め、己の信念の礎にした者の強さがある。
が、それを見つめていた総司の面輪が、突然苦しげに歪んだ。
それと同時に、骨ばった手指が、胸と喉を鷲掴み、仰臥していた身が弧を描くようにして横に倒された。
その微かな衣擦れの音に気づき、慌てて視線を戻した直次の面が、床に伏し、薄い背を震わせている姿を捉えた寸座、驚愕に染まった。

「沖田はんっ」
咄嗟に掛けた手の中で、又も総司の身は大きく波打ち、やがて口元を押さえていた指の隙を縫うようにして、鮮やかな朱の色が流れ出したのを目の当たりにした瞬間、凝視していた直次の双眸が、凍りついたように見開かれた。




 すでに昼も近いのであろうが、暗雲に阻まれた天道が、気配も見せぬ今日のような日は、時の経過を曖昧にさせる。
つい今しがたまで隣室から聞こえていた、刃金の合わさる激しい音が、空(くう)に余韻も残さずぷつりと途絶え、元のしじまが戻った処を見れば、どうやら一の相手は、冷気を思うざま吸い込んだ畳の上に転がったのであろう。

「見つかったかっ」
そんな事を思いながら、こちらも上段から振りかざされた太刀を交わし、さらに返す刃で胴を払った相手が、もんどりうって倒れる様までを見ず、八郎は隣へと声を掛けた。
「まだだっ」
間髪を置かず、凍てた空気を劈くような、一の低く鋭い声が返る。
だがそれが即ち、この男の焦りだと承知すれば、八郎の顔(かんばせ)も又、俄かに険しさを増す。

――屋敷の中を隈なく探しても、総司の姿は、未だ影すら見つける事が出来無い。
しかも長門屋から逃れてきた敵は思いの他多く、川原から戻ってきた者と合わせると、結構な数にのぼった。
腕は大した事が無くとも、多人数になれば、それ等を一人ずつ排するのに手間が掛かる。
目の前に、行く手を遮るようにして立ちはだかる男を見る八郎の裡に在るのは、最早焦燥を超えた苛立ちだけだった。
だが対峙する構えを崩さずにいた敵の視線が、つと後ろに現われた気配へと逸らされたその一瞬、目晦ましかと思える素早さで、八郎は相手の懐に飛び込んだ。
次の瞬間、小太りの男は声も放たず、噴出す血潮と共に床に叩きつけられていた。


「長門屋ひとつ押さえられず、新撰組は、何をやってんだっ」
「総司はっ」
刀に付いた血を振るい落とす暇(いとま)も惜しむように、振り向きざま浴びせた八郎の罵声を、これも又、土方の怒号が遮る。
「あんたのし損ないのお陰で、余計が出来た」
床の上で動かぬ者を冷淡に一瞥すると、八郎は挑むような視線を土方に向けた。
それは己を邪魔立てする者ならば、例え誰であろうと容赦はせぬ、嚇怒の目だった。
だがそのひと言で、捜し求めている者の無事がまだ得られていないと知った土方の面も、瞋恚一色の鬼人の形となる。
互いの胸中に迸るものを抑え、一瞬対峙するように睨みあった二人に、しかしその異常な緊張の時を蹴破るかのような、遠慮の無い幾多の足音が聞こえて来た。
「・・来やがった」
自分を見据える鋭い双眸の主に向け、苛立ちも露に、八郎が吐き捨てた。
土方に遅れて到着した新撰組が、屋敷の中に踏み込んだのだと――。
それは言葉にせずとも、容易に知れた。

屋内の、何処にどのように敵が散ったのかを把握出来ぬ実情を思えば、数で勝負を仕掛けた方が、確かに決着は早いのかもしれない。
屋敷前で待ち受けていた伝吉からあらましを聞いた土方の、それが即座に取った策だったのだろう。
それでも激昂とも違わぬこの忌々しさを捨てきれないのは、己が恋敵への負けん気だとは、八郎も承知している。
だがこの男に対する意地だけは、例えこの身が朽ち果てても、捨てもしなければ、譲りもしない。
それも又、八郎の矜持だった。

「斉藤っ」
その八郎の胸の裡を知ってか知らずか、土方は再び、刀と刀の重なる音が熾烈になった隣室へ声を放った。
「この奥には、いない」
しかし戻ったいらえの声は、今敵と刃を交わしている者のそれでは無く、血刀を手に現われた、田坂のものだった。
この男も又、倒した敵は、一人二人の数では無いのだろう。
その名残か、告げる言葉は、上がる息を抑えて発せられたが、其れに孕む焦燥までを隠すことは出来ない。
が、大概の事には動ぜぬ若い医師の苛立ちの様は、それだけ見つけ出さねばならぬ者の身の杞憂を物語る。
それを承知する土方と八郎の面に、新たな険しさが走る。

「副長っ」
やがて刃金の音が止むや否や、短い叫びと共に、曇天が影を作らぬ廊下に一が姿を現した。
「永倉と、屋敷を囲めっ」
それが鬨(とき)の声だと判じるや、頷くだけで身を翻そうとした長身が、しかしその刹那、一瞬の時を切り取るような鋭さで動きを止めた。
同時に、室の中央に立つ三人の顔(かんばせ)にも、一種異常な緊張が走る。

「・・畜生っ」
だがすぐさま空(くう)を震わせたのは、地を這うような土方の唸り声だった。

追い詰められた敵が、屋敷のどこかに火を放ったのだとは、焔を見るよりも先に、今鼻腔を刺激する異臭で分かる。
長門屋が、過激な倒幕の士を、希望する地へ逃す仲介屋としての表の看板ならば、此処はその段取りをつける裏の要塞と云えた。
それ故、知られてはならぬ秘密が、この屋敷には載積されている。
逃れられぬと判じたのならば、その証拠の滅失を敵が計るのは、当然の事だった。
それを阻む事の出来なかった己への罵倒を、土方は今短いひと言に籠めた。
が、その刹那、ひとつの影が、土方の視界の端を掠めた。
その動きと呼応するように、否、八郎に遅れを取る、その一瞬をも厭うように、土方の足も又畳表を蹴った。
更に田坂と一も、己が下し、己が命じる先へと走り出す。

――各々が、各々の抱く想いの為に向けた背を追うように、やがてきな臭い白煙が、辺りを包み始めた。




「沖田はんっ、しっかりしておくれやすっ」
揺り動かすのが、病人の容態を一層悪化させてしまうのではとの怯えに躊躇いながら、しかし直次は、いらえを返さぬ者の魂が、今自分と同じ世に在る事を確かめずにはいられ無い。
「こないな処で、死んだらあかんっ」
総司の唇の端から喉首に、そして胸元辺りまでを染めている禍々しい朱の色を、己の着物の袖で拭ってやりながら、直次は尚も呼び続ける。
だがその必死が、闇に沈んでいた意識の深遠を揺さぶったのか、紫(ゆかり)の血管(ちくだ)を透かして堅く閉じられていた瞼が、見間違いかとも思える微かさで震えた。
「沖田はんっ」
一瞬の僥倖を見逃さず、直次は声を大きくする。
やがて僅かに開いた瞼の隙から、深い色の瞳が覗いた時、痩せた肩を掴んでいた指先に、思わず力が籠もった。
が、その痛みこそが、総司の意識を強引に現に呼び戻したようで、虚ろに視線を彷徨わせていた瞳が、直次を捉えるや少しだけ細められた。

「どこぞ苦しいんか?」
覗き込み、急(せ)いて問うても、総司はそれに応える力も尽きてしまったかのように、ただぼんやりと直次を見ている。
「すぐや、すぐに助ける。せやから、しっかりせなあかん」
耳元で囁くようにして告げ、力なく投げ出されていた総司の指先を握り締めた直次の面が、しかしそのあまりの冷たさに怯んだ。
そのままもう片方の手の平を白い額に翳すと、先程の比では無い熱さが伝わる。
直次の胸の裡を、ともすれば暗黒の淵へと沈んで行きそうな不吉な予感と、それを凌駕する焦りが、交互に覆う。


 暫し声も出せず、氷の礫(つぶて)よりも冷たい手指を握り締め、直次は総司を凝視していたが、だがその双眸が、突然何かを察したように上げられた。
そして次の瞬間、その面にある造作の全てが、驚愕と恐怖のふた色に染まった。

どんなに密に外から遮断された隠し部屋でも、流れる大気の気侭までは、封じる事は出来無い。
鼻腔を刺激するものが、きな臭さだと判じた刹那、直次は総司の脇から己の腕を差し込み、力の入らぬ身体を抱き起こした。
「辛抱しておくれやす」
朧げな意識ながらも、事の急変は総司も悟る事は出来たようで、色の失い面輪が微かに頷いた。
負担を掛けぬよう、ゆっくりとした動きで華奢な身を背負い、きな臭い煙が入り込む方角へと移動すると、直次は病人を床に横たえ、そして自らは、その辺りの壁に片頬をつけるようにして、手を滑らせ始めた。

入り口になっている部分には、必ず隙がある。
だから何処よりも激しく、異臭が入り込む筈だった。
だとしたら其処を突き止めれば、外に逃れる道が開ける――。
その希が、今直次を動かす、唯一の力だった。









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