なごりの雪 (十弐)




 人間は極限まで追い詰められた時、神経は異常に鋭敏となり、五感が研ぎ澄まされる。
それは元来人と云うものが、この世に生を与えられた他の生き物と同様、窮地に陥れば、その身一つを凶器に変え敵に牙向く、野性的な本能を有している証でもあった。
そして今の土方が、そうだった。

総司を見つけられないとは、露ほどにも思ってはいない。
しかし次第に増す白煙と、息すらまともに出来ないきな臭さの中、総司を捜して踏みしめる足は、時に焦燥に追いつかずもつれ、苛立ちを激しくする。
その怒りのぶつけ処のように、己の行く手を阻む襖を、土方は次々に開け放つ。

容赦なく鼻腔に入り込む煙を、折った片肘を口元に当て塞ぎ、もう片方のそれは、刃を振るい、視界を遮る白い帳を切り開いて行く。
神仏に縋る事すらせず、唯一の者を、必ずや己が手で奪い返すと揺ぎ無い信念のその姿は、夜叉よりも苛烈な形相で白煙の中を進む。

だが捜し求める者を、この双眸に捉えるまで、何処までも止める事はしないと誓った歩みを、或る一室に踏み込んだ刹那、土方は突然止めた。
物の像も判別し難い視界の悪さの中に立ち尽くし、鋭い光を宿す目を釘付けているのは、ひとつの方向へと流れを作ってる煙を、小さな渦のように巻かせている一点だった。
其処に在るのは、壁を背にした違い棚と床の間。
そして床の間に掛かる、掛け軸。
暫しその箇所を、睨みつけるようにして見ていた土方だったが、突然凝視していた眸が細められた。
流れに、漣(さざなみ)立て渦を作っている白煙は、確かに掛け軸の脇で起こっている。
そう判じた寸座、止められていた足が、飛び掛らんばかりの勢いで畳表を蹴った。




 本当に此処に、外に通じる道が在るのだろうかと、そう疑いを持っても何ら不思議の無い、継ぎ目など何処にも触れ得ぬ壁に手を滑らせながら、直次は幾度も後ろを振り返る。
この隠れ牢の中にも蔓延し始めた白煙と異臭は、建物の中を、急速な勢いで火が回っている事を知らしめる。

「沖田はんっ、もう少しや、辛抱してやっ」
叫び声は十分に届いている筈なのに、総司は横たわったまま身じろぎしない。
自分とて、息苦しさに喘がずにはいられないのに、肺腑を損ない動けぬ総司には、どれ程の負担となっている事か。
それが直次を、狂気にも似た焦燥に走らせる。
「もう少しや・・」
必ずや何処かにからくりを解く術が隠されている筈だと、もう幾度同じ場所を探ったのか分からぬ直次の手が、だが己を鼓舞するように呟いた途端、不意に止まった。
そのまま壁にぶつける勢いで耳を付けると、外から何かを叩きつけているような振動が伝わる。
それが人の為せるものであるのか、それともこの異常な状況下が作り出す幻なのか・・・
が、そんな懸念に躊躇している暇(いとま)は、今は寸分足りとも無かった。
「ここやっ」
直次は壁の向こうへと、力の限りに声を放つ。
しかし叫びは、その幾倍もの大きさになって、内に反響するに過ぎない。
――声は、外へ届いていない。
それに気づいた寸座、直次が次に取った行動は、己自身を壁にぶつける事だった。
即座に壁から離れると、肩を怒らせ身を斜めにし、勢いのまま、直次は体当たった。


 刀を逆手に持ち、柄の先を打ち付けるようにして壁を叩いていた土方の双眸が、内から返る僅かな振動に気付いた刹那、鋭く細められた。
すぐさま壁に耳を当てると、微弱ながらも、確かに何かをぶつけているような、鈍い響きが伝わる。
「総司っ」
咄嗟に叫んだそれに、いらえは戻らない。
「総司っ」
更に声を大きくしても、人の声は聞くに敵わず、ただ波動だけが、同じように繰り返し伝わる。
この向こうに、総司がいる。
壁の何処かに、必ず通じる道が隠されている。
だがそう確信しても、其処へと導く標(しるべ)を探している時が、今は僅かにも無い。
こうしている間にも、紙と木で造られた砦は、現の姿を失くす、その最後の足掻きのような轟音を立てて崩壊して行く。
火の手は、直ぐ間近まで迫って来ているのだと――。
瀬戸に立たされた焦燥が、土方に、人に授けられたものとは思えぬ力を湧き立たせる。
壁から耳を離すと、渾身の力を己が身に籠めるように、土方は一度息を吸った。
そうして体全部で壁に当たり、在る筈の入り口を壊す。
例えそれで肉が裂け、骨が砕けようが、そんな事は厭うものでは無かった。
吸った息を吐くや否や、土方は己の身を、激しく壁にぶつけていた。


――体当たった刹那弾き飛ばされた、その突然の衝撃は一体何だったのか。
それを知る間も無く、喉を遡るようにして漏れた己の呻き声で、一瞬飛ばした意識を、直次は取り戻した。
だが次の声を発する間もなく、先程とは比べものにならない勢いで入り込んでくる白煙に息が痞え、激しく咽た。
その咳も治まらぬうちに起き上がり、慌てて振り返った直次の眸が映し出したのは、横たわる総司に、煙を裂くようにして歩み寄る、ひとつの影だった。

「・・総司っ」
知らぬ者の声に、思わず警戒を露に身を堅くした直次を、後ろを向けている土方は知らない。
だが例え知ったとしても、今の土方には、己の腕に抱く者以外へ気を掛ける余裕は無い。
「総司っ、」
うっすらとではあるが、開かれた瞼の隙から覗く瞳は、確かに意志を持って自分を映しているのに、色の失い唇は動かず、いらえを返そうとはしない。
それが土方を、止まる処を知らぬ不安へと駆り立てる。

「血ぃ吐いたんやっ、早よう此処を出んと、息を詰まらせてしまうっ」
突然聞こえて来た、悲壮な叫び声が、漸く己の背後に人がいることを、土方に知らしめた。
「・・血を?」
誰とも確かめず、質す様にして向けた顔が、瞬時に強張る。
「そうですっ。せやしこれ以上煙を吸わせたら、喉かて塞いでしまう、早よう出なあかんっ。早ようっ、早ようっ」
そうしている間にも、白色と黒色を交互に練りながら流れ込む煙は、さながら堰を切られた奔流の勢いにも似て、直ぐ其処に居る者の顔貌すら分かり辛くする。

「辛抱できるな?」
言い含める声に、総司が顎を引こうとする仕草で是と頷くのを見届けると、抱(いだ)いている身の貝殻骨辺りに、土方は己の手を差し込み、それで上半身を起こした。
だが背負う体勢に持って行くのだと、傍らで見守る直次が漸く安堵に浸ろうとしたその寸座、地響きのような轟音が、其処に居る者達の耳を劈き、同時に湧き上がった粉塵が、何をかをも、一瞬の内に闇の向こうへと葬り去った。

 
 意識を逸していたのは、二度三度瞬きを繰り返す程の、ほんの束の間の事だったのだろうが、気づいた時、土方は本能的に身じろいだ。
が、何かの重みが動きを阻み、思うようにならない。
その焦りが、漸く意識の全てを覚醒させた。
「・・総司?」
僅かの隙の中で、無理矢理身を反転させるや、土方はすぐさまその名を呼んだ。
だが目の位置を下に移した刹那、視界に飛び込んで来た光景に、身に流れる血潮は凍りつき、ありとあらゆる神経が、一瞬の間も置かずして硬直した。
それは己の身の上に覆い被さるようにして伏せる者の姿と、更にその背の上を封ずる、無残に焼け爛れた梁だった。

――心の臓が、どくりと鳴る。
落ちてきた梁から、総司が自分を庇い下敷きになったのだと。
其処までは、辿る事が出来た。
が、その先の思考が、動かない。
「・・総司」
声を出している自分がいるのが、不思議だった。
「総司っ」
叫び、肩を揺すっても、堅く閉じられた瞼は開こうとはせず、睫の微かすら動かない。
更に総司の白い額を朱に染め、面輪に滑り滴る鮮血は、土方の喉口から湿り気の一滴をも奪う。
音を立てて崩れ落ちる天井も柱も、土方の視界には無い。
逆巻く煙の息苦しさも、押し寄せる火勢の灼熱も感じ無い。
ただ欲しているのは、己の身に被さり伏す者へ求める、いらえだけだった。


「沖田はんっ」
だがその土方を現へと引き戻したのは、白煙の帳を劈いて聞こえて来た、怒号のような叫び声だった。
「今助けるよってっ」
何時の間にか傍らに居た直次が、云うなり抱え上げた柱は、まだ火の燻りを内に宿し、素手で触れるには到底敵わぬ代物だ。
しかし今の直次には、その熱さすら分からない。
自分を探しに来てくれたこの若者を助けたいと、ただそれだけが、今直次を支配する全てだった。
その必死に呼応するように、一瞬身の上が軽くなったその隙を逃さず、錯覚かと見紛う俊敏さで、土方が総司を抱えたまま滑り出た。
相前後して、直次の手を放れた梁が、大音声と共に、再び床に転がった。
「これを、こいつに被せてくれっ」
そのままの勢いで素早く脱いだ羽織を直次に渡すと、自分は解いた腰紐で、背負った総司の身を己と堅く結びつけ、土方は立ち上がった。

「・・死ぬな」
――その声は。
飛んでくる火の粉から庇う為に、受け取った羽織で総司の身を覆った刹那、聞き間違いかと思われる程に低く、直次の耳に届いた。
が、次の瞬間、それが錯覚では無かった事を、直次は知る。
「死ぬ事は、許さんっ」
再び聞こえて来たのは、己の背に在る者の核(さね)にまで轟かせ命じるような、唸りにも似た土方の声だった。
思わず顔を上げたその一瞬、だが又も直次は、信じ難いものを見る。
或いはそれも又、焔の砦に囲まれた異常が作り出した、幻影だったのか・・・
しかし、息をしているのかも案じられた総司の瞼が、僅かに震えたのを、凝視していた直次の双眸は、現のものとして、しかと脳裏に刻んだ。
「・・死んだらあかん・・あかんのやっ」
土方の激情につられるように、何処へと彷徨い出た魂を呼び戻さんとの必死が、言の葉に形を変えて、直次の唇からも零れ落ちる。

「行くぞっ」
だがその感傷の時に引き摺られる暇(いとま)も許さず掛かった声に、慌てて其方に目を向けると、既に土方の姿は、白煙の向こうへと消えかけていた。
その後を追い、熱の籠もる床に、直次は素の足を踏み出した。





 まだ暮れ方にも間があると云うのに、建物の内部は、針一本落とす音すら憚るような静寂に包まれている。
それが、今辛苦の時にいる病人への、天の、或いは人の、有る丈の配慮のように、田坂には思える。

「楽観は、少しも出来ません」
だが一瞬裡に過ぎった感傷を即座に打ち捨て、近藤に向かい、医師と云う立場で極限まで憶測を避け、事実のみを語る事を己に課しながら、田坂は言葉を探る。
「元々の病に加え、膜の炎症を併発して弱っていた肺腑が、煙を多量に吸い込んだ事で、息を吸う機能の半ばを損なってしまいました。それに柱の下敷きになった背の打撲が重なり、これは骨の方までは大事なかったが、それでも衰弱の激しい身には、かなりの負担になっています」
「治るのだろうか」
が、病状を説明する、それにすら焦れるようにして、問い質したい一言を、近藤は直截にぶつける。
「危険と、申し上げざるを得ません。今夜が峠となるでしょう」
一瞬も調子を乱さず、面にある表情すら険しくする事無く、田坂は自分を凝視している者に告げる。
だがそれこそが、この若い医師が、医師たる己になり切る事で、全ての感情を排している姿だと、近藤は知らない。
「助けてやって欲しい」
その田坂に向かい、腸から搾り出すような低い声と共に、深く下げられた頭(こうべ)は、そのまま上げられる気配は無い。
「そうするつもりです」
消え行こうとしている愛弟子の露命を繋ぎとめて欲しいと、ただそれだけを切願する近藤へ掛けられた静かな声音には、しかしそうと決めた田坂の、確固たる意志の強さがある。

――鋼のような強靭さを見せ付ける近藤の広い背を目に映しながら、だが田坂の胸に去来しているものは、ほんの幾日か前の夜、来年のキヨとの約束を護りたいのだと告げた刹那、総司の瞳に宿った一瞬の揺らめきだった。
そして自分は、その瞳に向かい、確かに約束を果たさせると誓った。
己の信念は、今も微塵も変わりはしない。
だから総司の命脈を、何人たりとも断つ事は許しはしない。
それが天の下した定めであろうとも、決して許しはしない。

「必ず、そうします」
助けると、己がそうするのだと、未だこうべを下げたままの近藤に向かい言い切ると、衣擦れの音ひとつさせず、田坂は立ち上がった。




 隣室の病人は、未だ瞼を開かず、苦しげな細い息を繰り返す呻吟の中にいる。
八郎の視界に、己の座している畳の目だけが、索莫と映る。
思考は、脳裏にある一つの残像で止まったまま、先へ進もうとはしない。

焔の紅に追いたてられるようにして、吹き上がる白煙の中から姿を現した土方と、背に括られた総司を眼(まなこ)に捉えた時、我が身に在る神経の隈なくが安堵で弛緩した、浮遊にも似たその感覚を、八郎は今も鮮明に覚えている。
しかし次の瞬間、己の眸が映し出したのは、白い額から朱の色を滴らせ、まるで生ある証を抜き去ってしまったかのように、微動だにしない蒼い面輪だった。
どれ程強く、どれ程激しく名を呼び続けても、総司の唇からいらえが返る事は無かった。
――記憶は、其処で縫い止められている。
だが人の気配は、それがどんなに僅かなものであっても、剣士としての習い性を、否応なしに八郎に目覚めさせる。
ゆっくりと向けた視線の先で、開いた襖から姿を現したのは、やはり田坂だった。

「追い出されたのかえ」
「外してやったのさ」
揶揄して交わす軽口は、互いの胸中にある闇を見透かし、いつものようには続かない。
外してやったのだと云いながらも、病人との間にあまり距離を置くつもりは無いらしく、今己が出てきた室から、八郎が座している位置よりも近くに、田坂は腰を下ろした。
が、それが、医師としての責務なのか。
それとも人を想う、田坂個人の為せる所業だったのか――
一瞬思った八郎が、唇の端に薄い笑みを浮かべた。
「嫌な奴だな」
その相手の様を見咎める田坂の口調には、だが言葉程の嫌悪は無い。
「お互い様だろう」
苦く笑って皮肉を返しながら、しかし何も出来ずに過ぎ行く時をただ焦れる他無い、その苛立ちを紛らわせるように、八郎は灰に刺してあった火箸を取り上げると、それを手繰り、頼りなくなった火を熾した。

「直次と云う奴の怪我は、どんなものだえ?」
外気に触れた炭が、瞬く間に黒を紅に塗り替える様に、一瞬重ね合わせた禍々しい光景を払拭し、八郎は敢えて素気無い物言いで問う。
「沖田君の上に落ちた梁を素手で持ち上げた時に、手の平に火傷を負った。暫くは痛むだろうが、幸いな事に軽いものだから、後に不自由を残す事は無いだろう」
「・・あいつこそが、恩人か」
誰に聞かせるでも無い呟きだったが、しかし同時に、その人物こそが、今回の火種ともなった因果を皮肉と思いながら、今はこの新撰組屯所の一室に身を預けている若い行商人の顔(かんばせ)を、八郎は脳裏に浮かべた。


「・・さっきから、白いものが、ちらつき始めたよ」
暫し途切れた会話を再び繋いだのは、束の間出来た静寂の時を邪魔せぬ、幾分低い八郎の声音だった。
「積もるかも、しれないな」
それに返った田坂の物言いも淡々としたものではあったが、こうして感情を籠める余地の無い言葉の遣り取りこそ、一瞬でも気を緩めたその途端、底の無い不安の闇へと攫われそうになる己を、ぎりぎりの瀬戸で止め置く唯一の術だと、互いに承知している。

――総司の命脈は、必ずやこの手で繋ぎとめると、医師でもない己がそれを云うのは、暴言だと嘲笑されるだろう。
だが八郎は、そう信じている。
少しも迷わず少しも躊躇わず、己がそうするのだと、信じている。
だから想い人が、呻吟の先で欲し縋る手が、自分のそれで無くとも、今は厭わない。
闇で探す相手が土方ならば、それでもいい。
微かな息が確かなものとなり、やがて瞼が開き、覗いた瞳が現の世を映し出すまで――
例え総司が誰の手で救われようとも、それまでは辛抱が出来る。
が、こんな時にも、苦く胸に蟠るこの思いを何と云うのか。
嫉妬と・・・
即座に返るいらえに、苦笑が漏れる。
「困ったものさ」
聞き取れぬ程に低く漏れた呟きだったが、田坂が此方を向くのが、気配で分かった。

「・・名残の雪が、さ」
硬い面持ちを崩さぬ医師を振りかえらず、火箸を手繰る手も止めず、八郎は、短いいらえだけを返した。




 細く忙(せわ)しい息を繰り返しながらも、苦しさの余りか、意識は時折現に戻るらしく、その都度、薄く開いた瞼の隙から、深い色の瞳が見え隠れする。
が、それも一瞬の事で、直ぐに睫の影が蓋してしまう。
それでも総司の魂を己が掌中に呼び戻さんと、土方は名を呼び続ける。
そうして繰り返されたその幾度目かに、覗いた瞳の中に、潤むものがあるのを見止めた瞬間、土方は、骨ばった冷たい指を握り締めている己の手の平に、あらん限りの力を籠めた。

「総司っ」
だが身を乗り出すようにしていらえを求めても、総司はそれ以上の反応を示さない。
「俺だ」
声が届いていなければ、それでも良かった。
「死ぬな」
そう命じる言葉は、感情の迸るままに声を大きくし、激しく叫んだのでは無い。
むしろ声音は重く低く、物言いは過ぎる程に静かだった。
しかし露に濡れた瞳を、しかと捉えて離さぬ眼差しには、それに否と拒む事を許さぬ峻厳さがある。
「死ぬことは、許さない」
手指を包む掌に籠められる力は、声の静謐さとは対を為して強くなる。
その刹那、細い息をようよう繋ぎ、土方を映している深い色の瞳を覆う水の膜が、微かに揺れた。
「決して、許さない」
それを眼(まなこ)に捉えて続ける語尾が掠れた時、己の頬に熱いものが滑った事を、土方は知らない。
「許さない、総司」
唯一の者の姿を霞ませる何かに苛立ちながら、土方は命じる声を止めない。

「・・許さない」
もう片方の手で、総司の額を包む白い晒に触れ、その上にかかる前髪を掻き揚げてやりながら、それに頬を合わせた時、布に広がる水の輪に、初めて土方は、己の視界を邪魔するものの正体を知った。




 誰もが待ち望んだ僥倖は、前の季節の置き土産である、白く凍てた地を照らし始めた明るさが、好天を予測させる払暁、見守る者達の中で現になった。

うっすらと開かれた瞳は、微弱ながらも光を宿し、暫し何かを探していたが、やがて土方の姿を捉えると、乾いた唇から、糸のような細い息が漏れた。
だが眦(まなじり)に溜まるものを隠しもせず、無事を喜ぶ近藤を瞳に映した時、総司は自分の置かれている状況を異なものと感じとったようで、唇を戦慄かせたが声にならず、それに焦れるように身を捩った途端、微かな呻き声が零れ落ちた。
意識が戻るや否や、今度は背中に受けている損傷が、手加減の無い痛みで総司を苛み始める。
「まだ動くな」
そう叱る田坂の声音にも、しかしひとつの山を越えた事への、隠せぬ安堵がある。
それでも総司は、己の今を掴み得ない心許なさからか、ぼんやりと周囲の者達の姿を瞳に映していたが、不意に立ち上がった人の影を追うように、視線を其方へと向けた。
「後を頼む」
田坂に向かい、こうべを垂れた土方と同じくして、脇に座していた八郎も又立ち上がった。
「直ぐに戻る」
不安げに見上げている面輪の主に、土方は一瞬慰撫するような眼差しを向けたが、ともすれば其処に踏み止まろうと、駄々をこねる己の未練を断ち切るように、素早く踵を返した。

続いて室を出る八郎の背を、やはり目線だけで総司は追っていたが、静かに桟と桟が合わさり、二人の姿が襖の向こうに消えてしまうと、それが持てる力の限界だったのか、微かな吐息と共に瞳を閉じた。




 次第に勢いを増してきた早朝の陽は、それまで曇天に閉じ込められていた憂さを晴らすかのように、室の隅々までを、眩いばかりの耀さで覆う。

その中央に座し、土方は、己の向かい側に端座している男を双眸に捉えている。
そして更に横では、八郎が、先程から交わされている両者の遣り取りを、無言で聞いている。

「則宗が、村瀬十四郎の腰にあると知ったのは、ほんまに偶然でした」
その則宗を探すまでに到った大方の事情を話し終え、次なる段階へと話を進める直次の語りは、寸分の淀みも無い。

「藩の秘密を盗み出した人間ですよって、殆ど一日中、長門屋から出る事はなかったのですけど、それでも息が詰まったと見えて、ある日ふらりと外に出たんですわ。勿論、うちは直ぐにその後をつけました。せやけど暫く行った処で、村瀬が行きずりの浪人と、肩が触れたの何のと、些細な事で問答になってしもうて・・・その内に癇癪起こした相手が、遂に刀を抜いたんですわ。けど村瀬は、自分の刀には、柄にも手を掛けんかった」
「其処でおかしいと、あんたは察したのかえ」
それまで一言も口を挟む事の無かった八郎が、初めて先回りの問いを投げかけた。
「へぇ。村瀬は藩の勘定方の人間でしたが、やっとうの腕は大したもんやと、旦那様はよう云うてはりました。その男が、柄に手もかけんやなんて、おかしいと・・。けどその時、もしかしたらあの刀が則宗や無いかと、咄嗟に閃いたんです」
なるべく正確を記する為、感情と云うものを抑え、敢えて淡々と言葉を紡いでいた直次の調子が、一瞬だけ、僅かに語尾を乱した。
それはその時走った興奮を、今再びこの男が裡に呼び起こした名残のように、八郎には思えた。

「それからうちは村瀬の腰にある刀を、何とか見る事は出来んかと、必死にあいつを見張ってました。そんな時でした。長門屋の風呂が壊れてしもうて、うちが逗留していた宿の風呂を、客が使う事になったんですわ。村瀬は始め用心して、中々来んかったのですけど、それでも寒い季節やよって、流石に根を上げたんですやろなぁ。五日目に来た時には、まだ風呂を使うには早い、人気の無い夕暮れ時でした。村瀬は湯殿の戸を少しだけ開け、則宗の姿が見えるようにしてました。けどうちはあいつが目を逸らせた、その一瞬の隙を狙ろうて、則宗を盗んだのです。・・・鷲掴んだ則宗を抱えて、後は勢いのまま走って、そうして逃げ込んだ先は蒲団部屋でした」
事の大事を一気に語り終えて戻った余裕が、安堵の余韻のように、直次の面に笑みを広げた。
「則宗と、確かだったのか」
組んだ腕のその先に、半眼の体(てい)で視線を落とし、沈黙の中で耳を傾けていた土方が、全ての顛末を聞き終えるや、やおら顔を上げて問うた。
「則宗でした。間違いはおへん。うちも長い事質屋に奉公させてもろうていた人間です。それが例え、うちらには縁の無い刀でも、ものの良し悪しは分かります。則宗は、一遍見たら忘れられん、姿の良い代物でした」
この男も又、希代の名刀に心奪われた一人なのか――
しかと応える明瞭な声を聞きながら、直次の目に宿った、一種憧憬にも似た色に、土方はそんな事を思った。

「その則宗、今何処にあるのかを、聞きたい」
が、一瞬己の脳裏を過ぎった余計な思考を直ぐさま退け、土方の問いは、端的に要点だけを突いて行く。
だがその瞬間、それまで隠す事無く全てを語っていた直次が、言いよどむようにして目を逸らせた。
直次の無言は、則宗の行方を明らかにする事が即ち、己を動かしている根源である女性(にょしょう)を窮地に追い込むと判じたが故の防御に他ならない。

「妙と言ったか、あんたが護ると決めた相手は」
しかし躊躇する沈黙の時を与えず続けられた、あまりに突然の言葉に、驚きと警戒に見開かれた直次の目が、土方を捉えた。
「あんたがその女を護りきると、そう決めて則宗の行方を明かさぬのならば、致し方が無い。だが俺はあんたに、俺が唯一と決めた者の、息の緒を繋ぎとめて貰った。その借りを返したい」
眉ひとつ動かさず告げる、端正が過ぎるが故に、感情の起伏が読み取れない土方の顔(かんばせ)を、直次は呆然と見つめる。
しかし己の想い人を、命がけで自分を助けに来てくれたあの若者だと云い切る峻厳な面差しには、些かの動揺も無い。
そしてその脇で、これも又微塵にも表情を動かさぬ横顔を見せている八郎が、無言を貫く。

「総司を助けて貰った、礼を云う」
息を呑んで見守る直次の眸の中で、土方の両の手が畳に置かれ、やがてゆっくりとこうべが下げられた。
その土方を見る直次の胸に今去来するのは、妙の心を知ったあの時、ただ逃げるだけだった己の卑屈さ、愚かさだった。

――土方は、自分の想い人を総司だと、それが唯一護るべき者なのだと、誰憚る事無く云い切った。
そしてこの男は、その己の信念を阻むものには、容赦の無い牙を向けるのだろう。
冷ややかにも思える双眸には、そう知らしめて揺るぎ無い強靭さが宿る。
その男が、則宗の在り処を教えろと、自分に迫る。
想い人の命脈を繋ぎ止めて貰った、借りを返したいのだと。
だとしたらそれは、妙の身を護るとの約束に相違ない。
しかしもうひとつ、直次は承知している。
今礼と言う形を取りながら、土方が自分に告げる言葉のその核(さね)にあるものは、己の想い人が、必ずやそう願うであろう希(のぞみ)だった。
それを叶えてやりたいと、土方は別の言葉に代えて、今自分に申し出ている。


やがて伏せていた面を上げた時、其処に、此方を凝視している双眸があった。
少しも逸らさず相手を見据える視線の中に、唯一の者の切願を現にしてやりたいとの、己の信念を貫く土方の強さ激しさを見た時、直次の心がひとつ判を下した。

「則宗は、キヨはんへ送った荷の中にあります」
静かに語られ始めた真実に、土方の片方の眸が細められ、そして再び口を閉ざしていた八郎が、僅かに視線を流し、直次を捉えた。
「奪った則宗を、蒲団部屋で反物の布に巻くと、それを他の反物とひと括りにして、うちは荷屋に走りました。そしてうちが二日経っても現われなんだら、それをキヨはんの元へ届けるよう、頼みましたのや。最初は菱屋に送るつもりでした。けどあまり長い距離を他人に託すんは、不安になってしもうて。それでキヨはんの元へ、遅らせてもろうたんです。・・・必死の形でうちを探していた村瀬に見つかってしまったんは、その直ぐ後の事でした」
「キヨさんにか?」
流石に土方にも其処までは考えが及ばなかったようで、発した声には、少なからずの驚きがある。
「・・キヨはんと沖田はんに、約束しましたのや。来年必ず近江上布とお目にかけると。せやけど、うちが村瀬に斬られてしもうたら、その約束を果たす事が出来なくなりますやろ?せめてそのお詫びに、自分の手元に有る丈の太物で勘弁して貰おうと、そう思いましたのや。それに則宗には、彦根の菱屋に返して欲しい、云う走り書きを添えました。それを見て、沖田はんなら、きっと則宗を菱屋に届けてくれる、そないな希も、一緒に託しましたのや」
語り終えた直次の面に、室に満ちる早春の陽射しの耀さと、些かも遜色の無い笑みが浮かんだ。

「土方はん、どうか、お頼みもうします」
こうべを下げ、畳みにつけた直次の手に、白い晒が厚く巻かれている。
それが総司の命脈を繋ぎ止めた証であると眼(まなこ)に刻み付け、土方が静かに頷いた。









事件簿の部屋   なごりの雪(十参)