なごりの雪 (十参) 「俺はあんた程、嫌な奴を見たことがないよ」 並んで廊下を渡りながら、相手を見ずに、八郎は嘯いた。 「見る事が出来て幸いだったな、礼を云え」 「御免だね」 土方のいらえも凡そ素っ気無いものならば、返す八郎のそれも、あからさまな嫌悪を隠しもしない。 目指す場所は同じながら、共に視線は前方だけに据えられ、僅かにも相手に向けられる事は無い。 否、今この二人は、互いにそうする事を嫌う、譲れぬ意地の中にいる。 ――直次に向かい、救って貰った命が、唯一の者のそれだったと、自分の前で臆面も無く言い放った土方の傲慢な自信が、八郎には忌々しい。 だが土方は土方で、自分と直次の遣り取りを、眉一つ動かさず聞いていた八郎の、不遜な態度が気に入らない。 それはそのまま、自分と総司との絆をどんなに知らしめた処で、己の横恋慕には些かの障りにもならぬと大胆に見せ付けた、八郎の挑戦に他ならない。 「お前も、大概諦めの悪い奴だな」 「生憎とな」 何処まで行っても視線を合わす事無く交わされる言葉は、互いの胸中に抱える拘りの、深さ大きさを垣間見せる。 「その内、あんたに臍を噛ませてやるさ」 「出来るものなら、やってみろ」 挑発する言葉を受け、ちらりと横を見遣った一瞬、土方の唇の端に、不敵とも思える薄い笑みが浮かべられた。 「やってやるさ」 だがそれに、即座に返したいらえの性急さこそ、そうすると決めて揺るぎ無い八郎の自信を、あます処無く見せつけるものだった。 「俺も、お前ほど嫌な奴は見たことが無い」 その様に、厭味の限りを込めて応えながら、廊下を曲がるや、漸く視野に玄関を捉えると、横の八郎を振り切るように、土方は更に足を早めた。 「上等だね」 それに輪を掛けた皮肉な物言いの八郎も又、入り込む早朝の陽が、銀に目晦ましする眩しさの中、二頭の馬の手綱を握り、自分達の到着を待っている島田の姿をより鮮明にするかのように、眸を細めた。 「一刻の内には、戻るっ」 手綱を引き、雲雀芦毛の馬の前脚を立たせ、嘶(いなな)きよりも高く放った大音声は、それを屯所の奥に臥す者へ伝えろと、島田に命じるものだった。 いらえを返す間も与えず、云い終えるなり馬の腹を蹴り走り出したその土方を、黒鹿毛(かげ)の馬に騎乗した八郎が、僅かな遅れも取らずに追い始めた。 人々の営みが始まるには、まだもう少し時が要ろうかと云うこの頃合、人気の無い大路を、馬を駆って向かう五条の診療所には、今回の事件の元凶となった則宗がある。 ――長門屋から逃れ、焼け落ちたあの屋敷で一網打尽にされた者達にも、則宗は、売り捌いて十分に金になると判じられるものだった。 或いは則宗にまつわる一連の事情を形(かた)に、彦根藩を脅す事も可能だった。 刀そのものが持つ価値と、それに付随する大藩の事情。 その両方が齎す相乗効果を知っていたからこそ、則宗の行方を知っている直次の口を割らせようと必死になった。 だがかの名刀が彦根藩に戻る事も又、土方にとって、否、新撰組にとって、必ずや阻止しなければならない事柄だった。 元々勤皇色の強かった岡山藩は、今回の長州征伐に於いて、長州擁護の立場をより明確に打ち出し、これに賛同しなかった。 二度に渡る長州征伐の失敗は、この岡山藩の協力を得られなかった事が、大きな要因となっているとは周知の事だった。 それが譜代大名筆頭であり、本来ならば水戸出身の岡山藩主とは、深い因果関係に有る筈の彦根藩までが、見境無く尾を振るような事になれば、世間の目に長州の勢いを見せつけるようなものだった。 これ以上長州藩よりの藩を増やす事は、そのまま幕府の弱体にも通じる。 それ故、彦根藩には岡山藩と、今までどおりの緊張関係を続けて貰わなくてはならない。 則宗が何事も無く戻ると云う事は即ち、彦根藩と岡山藩との友好関係に繋がる。 だから則宗は、彦根藩に返さない。 が、直次の希は、叶える。 それが土方の出した結論だった。 馬上に身を低くした視界の捉える光景が、一瞬の内に彼方へと飛び去る。 土方の左手が、己の決意を天に知らしめるかの如く高く掲げられ、その勢いのまま、鞭を振るった。 「へえ。うちも、直次はんからやて云われて預かったんですけど、若せんせいは帰って来はらへんし、どないしよ思うてましたのや」 不審な荷を預かったまま、主も戻らず不安な一夜を明かしたのだろうが、キヨの物言いは、室に満ちる早春の耀さにも似て、おっとりと柔らかい。 容態を悪化させた総司の治療の為に戻れぬ理由を、巻き込まれた捕り物の後始末で新撰組に泊まると、そう伝吉に託した田坂だった。 もしも真実を告げれば、キヨは総司を案じ、屯所まで駆け付けて来たに相違ない。 いつの間にか総司にとって、キヨの存在が、欠く事の出来ないものとなっているのと同様に、キヨも又、総司にある丈の慈愛を注いでくれる。 この婦人の持つ温もりは、想い人の心を縛る棘の縄手を、どれ程解き放ってくれている事か。 それを思うだに土方は、言葉無くして深く頭(こうべ)を垂れる他無い。 「お預かりしたんは、これですのや」 らしくも無い感傷に浸った己を自嘲する間もなく、土方を現に戻したのは、キヨの丸い声音だった。 「何や中身は、分からんのですけど・・」 云いながらキヨは、自分の傍らに在った、大振りの風呂敷にくるまれた楕円形の代物を両の手で持ち上げ、それを土方と八郎の前に静かに置いた。 「開けても、宜しいだろうか?」 「へえ、もちろんですわ」 断る土方に、即座に頷いた面には、託す者への信頼がある。 結び目を解いた包みの中には、木綿を幾重にも巻いた、細長い筒のようなものがひとつ。 土方の器用な手先が、それらの布を、次々に剥がして行く。 その様を、無言で見つめていた八郎とキヨだったが、やがて双つの目が捉えたのは、思いの他地味な拵えの、黒い鞘に収まった刀が一振り。 更に土方は、動きを止める事無く懐紙を口に挟むと、一気に鞘を抜き去り、姿を現した刀身を、己の正面へとかざした。 ――柄から刃先まで、凡そ二尺七寸。 やや細身ではあるが、腰反りが、あざとい程に高い。 だが見る者達の視界の中で、それは白い障子紙を透いて溢れる光華を吸い、そして静かに散らせるように、己の刀身を巻く一文字丁子を煌かせる。 注がれる陽の耀さとは対を為す、何処か潔さすら思わせる、玲瓏な趣だった。 刀に生と云うものがあるのなら、今ここにいる誰もが、その品格に位負けしていると云って良かった。 「刀やなんて、おっかないばかりのものと思うてましたけど、なんやこれは綺麗でよろしおすなぁ」 だが束の間、則宗に心を奪われかけていた男達の魂を引き戻したのは、又しても、キヨの屈託の無い呟きだった。 「キヨさんも、綺麗だと思うのかい?」 「そりゃ、思いますわ」 揶揄するような八郎の笑い声に、キヨは大まじめに頷いた。 「上手く云えんのですけど、・・この刀は、あまり怖い事おへんのですわ」 「怖くは、無い?」 「へぇ。刀はお侍はんの大切な証やろうけど、うちには人を斬る物騒なもんにしか思えへんのです。けどこの刀は、見ていると、何や心が静かになるような・・・そや、どこぞの仏像を見ているような、そんな気がしますのや」 「仏像かえ?」 突拍子も無いキヨの表現ではあったが、笑う八郎の胸の裡にも、確かに似たような感覚がある。 名工が、己が打つ一振りに、心魂の限りを注いで造り上げた名刀は、人が生まれ土に還える数多(あまた)の時を経て、人の血潮を吸うよりも、人の心に凛と響く存在に成り得たのかもしれない。 「・・細身すぎるな」 が、八郎とキヨの和やかな遣り取りを他所に、抜き身を鞘に収めて漏らした土方の一言は、凡そ味気無いものだった。 その無愛想な横顔を、八郎は胡乱に見遣った。 確かにこの男も、鞘を抜き放った瞬間、現れた則宗の姿に心を奪われた筈だった。 それは傍で見ていた己の観察からも、しかと判じられた。 が、土方にとって、それは一瞬の事に過ぎなかったらしい。 次にこの男が名刀を見る目は、それが実践に向くか否かの、より現実的な値踏みだった。 「何だ?」 遠慮の無い視線に、問う土方の声が、不機嫌にくぐもる。 「いや」 それに鬱陶しげな短いいらえを返すや否や、八郎は、違い棚に在る掛け軸へと顔を向けてしまった。 「そうや・・・」 だがその二人の様子など視野に無いらしく、零れたキヨの声音は、未だ陶酔を抜け得ず、ふわりと軽い。 「この刀、沖田はんが持ってはったら、刀も沖田はんも、両方一遍に映えますやろうなぁ」 それは既に脳裏に描かれている光景なのか、そう告げるキヨの口調は、揺るがぬ自信に満ちている。 「確かに、総司になら似合うかもしれないな」 「そうですやろ?きっとよう似合いますわ」 成る程と頷いた八郎に、キヨはふくよかな顎を引き、満足そうに頷く。 細身の刀身は、それを実践用として認識するには、確かに今一つしっくり来ない。 それはこの名刀の持つ、ろうたけた美しさが、見る者の精神まで張り詰めさせるような、 一種独特の緊張感を有している所為なのかもしれない。 が、それは想い人にも、通じるものであった。 総司が核(さね)に持つものは、苛烈なまでの激しさだが、それが表に出る機会は殆ど無い。 否、総司自身ですら、己の芯に宿る、その激しさを知らないのかもしれない。 しかしだからこそ、烈と静の感情の均衡を保つ糸は、裡で極端な緊張を強いられ、それが総司を知るものに、時に得も云えぬ、危うげな脆さ儚さを覚えさせる。 キヨの言葉は、其処まで深く思ったのでは無く、単に総司と則宗の姿が似合うと語ったものだったが、八郎はもうひとつ踏み込んで、そんな事をも考えていた。 「キヨさんの意に添わず申し訳無いが、この刀は直次に返さねばならん」 そのキヨの提言を、即座に退けねばならぬのには、流石に土方も居心地の悪さを感じるのか、告げる声に苦笑が混じる。 「あ、そや、忘れてましたわ。それは直次はんの刀でしたなぁ。それやったら、早うお返しせなあきまへん。・・・けどうちはやっぱり、直次はんより、沖田はんの方が、似合うと思うんやけど・・」 一度思い描いてしまった姿は、現のもので無いだけに、より鮮明にキヨの裡に刻まれてしまったのか、心底残念そうな呟きが、明るい室に零れた。 「キヨさんにそう云って貰えたと伝えれば、総司も喜ぶ」 死の淵を彷徨う身の腕を鷲掴み、あらん限りの力で此岸へ引き戻し、ようやっと目覚めた想い人は、今も苛む痛みと苦しさに、呻吟しているのだろう。 それを隠して告げる偽りが、キヨに向ける土方の眼差しを柔らかくした。 玄関に満ちる朝の陽は、土間の黒を銀(しろがね)に変え、人の姿形すら朧にする。 式台で手をつき、客を送る言葉を紡ぎ終え、キヨの優しげな双つの眸が、少し眩しげに長身の男二人を捉えた時、その唇が、躊躇いがちに何かを云いかけて、しかし言葉になる事無く、直ぐに閉ざされた。 「何か?」 それを見止めた土方が先を促しても、キヨは顔を伏せ押し黙ったままだったが、やがてそれも堪えられなくなったのか、意を決したように、土間に立つ二人を仰ぎ見た。 「沖田はん、もう大事無いのですやろか?」 この診療所に来てから此方、つい直前まで、土方と八郎に見せていた朗らかな調子は失せ、告げるキヨの声音は、酷く硬いものだった。 「隠さんでおくれやす。ゆうべ伝吉はんがお使いに来てくれはった時に、沖田はんに何かあったんやって、直ぐに分かりましたのや。心配で心配で、・・いっそ新撰組にまで行ってみよ思うて、履物も履いたんですけど、若せんせいなら大丈夫や、余計な事したらあかん、そないに自分を叱って、履いたもんを脱いで。・・・けど又すぐに、落ち着かんようになってしもうて・・そのうち明るくなって来たら、もうどうにも辛抱できずに、やっぱり行こう思うた処に、土方はんと伊庭はんが、来はりましたのや。お二人のお顔を見たら、ああ沖田はん、大事なかったんやて、安堵しました。けどやっぱり無事やて、言葉にして聞かん事には、何とのう落ち着かのうて・・・お二人を、疑っているのと違いますのや」 急(せ)く心に追いつかず、時折はつかえそうになりながら、自分の心の裡を語り終えた最後に、堪忍と、心許なく呟いて、キヨは頭を下げた。 その丸い曲線の背を見下ろしながら、土方は言葉が無い。 何も伝えられなくとも、親しい者の危急を勘で知り、独り眠れぬ夜を、キヨは過ごしたのだろう。 冷気が深閑と屋敷を覆う闇の中、どんなに心細い思いをして夜明けを待った事か。 そのキヨの心の軌跡が、土方には手に取るように分かる。 この婦人の笑い顔に騙され、安寧の中に居たのは自分達だったのだと、キヨを見る土方と八郎の胸の裡に、今遣る瀬無く、そしてちくりと痛く、しかし何処か懐かげな、温(ぬく)い風が吹く。 「田坂さんの力で、大事に至らずに済みました」 感謝をいらえにして返す言葉が見つからない、せめてその償いのように、土方は深くこうべを下げた。 そしてその後ろで、八郎も又キヨに向かい、今己が出来得る限りを籠め、静かに礼の形を作った。 「彦根藩か・・」 気負う風も無く不意に漏らした呟きは、片腕に則宗を抱え、もう片方の手だけで器用に手綱を操り、馬を歩かせている、横の土方へと向けたものだった。 その八郎を、土方はちらりと見たが、それも一瞬の事で、直ぐに前方へ視線を戻し、無言の体(てい)は崩さない。 「この一件、案外てっぺんの人間には、知らされていないのかもしれんな」 「どう云う事だ」 問うと云う謙虚さは何処にも無く、むしろ命じると云った方が良さそうな土方の物云いだったが、八郎は振り向かない。 「彦根藩主はまだ若い。確か、今年十九かそこらだ」 語り始めながら、八郎の脳裏に、昨年家持上洛の折、江戸から京までの道中、数多(あまた)の藩兵を率いて供奉を勤めた、若き彦根藩主、井伊掃部頭直憲の勇姿が浮かぶ。 父井伊直弼の暗殺により急遽元服し、十三で家督を継いだ直憲は、その不祥事による禄高の削減にも負けず、藩政の中核を成す家臣達に支えられて必死の巻き返しを計り、大和天誅組の乱の鎮圧、禁門の変等への出兵で、彦根藩の健在を周囲に知らしめた。 十五で家茂の名代を務めて天皇に謁見した聡明さと、相手の意見を愚と思えば、歯に衣着せぬ容赦の無さで責め立てる辛辣さは、父譲りだと云われているが、直接言葉を交わした事の無い八郎には、其処の辺りまでは分からない。 だが栗毛の馬に騎乗し、赤備えの甲冑を付けた集団を、一糸乱れず率いて進む精悍な面構えと、それを引き立てる凛々しい若武者姿は、鮮明な印象として、未だ記憶に刻まれている。 その残像と、今回の事件の裏に根付く彦根藩の姑息さが、八郎には今ひとつ結びつかない。 漏れた言の葉は、己の裡に蔓延る、そんな矛盾を突いたものだった。 「岡山藩主の機嫌を損ねぬようなどと、要らぬ気苦労をしているのは、愚に返った年寄り連中ばかりかもしれんと云う事さ」 「彦根の殿さんは、知らぬ事だと云うのか?」 問う土方の目線は、やはり前だけを見ている。 「そうあった方が、自然だと云う事だ」 「では向かうべき相手は、古狸どもか」 馬上で交わす遣り取りは、どこまでも互いの顔を見ずに進められる。 「事を荒立てず、実だけを取るつもりならば、大袈裟にしない方がやりやすい。あんただって彦根藩に恥を晒させて、それで仕舞にするつもりは無かろう?」 意地の張り合いのような均衡を自ら破り、一瞬流した視線と共に、八郎の唇の端に、皮肉な笑みが浮かんだ。 他所からの貰い物をどうしようが、それは受け取った側の勝手だが、しかしどのような経緯にしろ、一度手放したものを、今度は贈った主の力が増強されるからと云って、慌てふためいて取り返そうとしている醜態が明るみになれば、彦根藩にとっては恥を晒すだけで終わる。 しかも取り入ろうとしている相手は、幕府に牙向こうとしている、長州よりの岡山藩。 水野家と並び、代々大老職を出す家柄の彦根藩が其れを為す事は、かの藩の衰退、ひいては幕府そのものの衰退を、世間に知らしめる事になる。 土方は、それを望んではいない。 土方と云う男は、彦根藩に恩を売りつつ、その実雁字搦めに縛りつけ、かの藩の全てを、新撰組の掌中に封じ込める事を目論んでいる。 それを承知して、八郎は土方に鎌を掛けている。 だがその鎌に刈られるでも無く、土方は暫し無言を通していたが、やがてゆっくりと端正な面の唇が動いた。 「伊庭、お前の腹にあるその策、確かか」 すぐ直前までの話の流れなど全く意に介する風も無い、あまりに唐突な言葉ではあったが、その語調は、即座にいらえを迫る強引なものだった。 同時にそれは、交わされた短い遣り取りの中で、今回の一件に幕を下ろすにあたり、事件を逆手に取り、この先新撰組に有利に働く策が、八郎の裡にあると判た得た、土方の先回りの問いでもあった。 「確かさ」 牽制も無く、腹の探り合いもせず、そう云う駆け引きの一切を省き、核心だけをついて来た土方に、いらえを返した八郎の片頬に、薄い笑みが浮んだ。 ――土方と云う男は、結果が良しとなるのならば、例えそれが己にとって親の仇の策だろうが、手段として用いるを厭わない。 が、其処まで徹底できるその神経の図太さこそが、この男の何よりの武器であり、ある種ずば抜けた資質だと、八郎は踏んでいる。 「ならば彦根藩の面倒は、お前にくれてやる」 だがその土方に、どうしても任せると云わせない強気は、紛れも無く、想い人を巡る自分への妬心で有る事に、八郎は愉快そうに唇の端を歪めた。 「嬉しいねぇ」 視界の端に映る隣の男の笑みが、己への揶揄だと知りながら、その挑発に乗るでも無く、土方は仏頂面を決め込んだ。 「長門屋の後ろ盾は、佐賀藩だ」 暫く――。 二人無言で馬を歩かせていたが、不意に土方の唇が動き、又ひとつ真実を明るみにした。 不機嫌面のままの、素気無い一言だったが、しかし此れも又、この一件に関わる大事に相違無い筈だった。 臥せて待っている者の事を思えば、少しも早くに戻りたい苛立ちを抑え、先程から敢えて馬を走らせずにいた訳は、この事を、新撰組を切り離しての話として、自分に聞かせる時を見計らっていたのだとは、八郎も承知している。 「・・佐賀ねぇ」 「どう云う経緯で、仲介屋なぞと云う商売になったのかは知らんが、元々佐賀藩は、長崎警備の任を預かっている関係で、異国へ渡りたいと希望する者どもの段取りをつけていた。その砦が、長門屋だった」 八郎の、然程興も無さそうに返ったいらえを聞かず、土方は先を進める。 「そして佐賀藩は、その仲介で得た金で、西洋から買い入れるのではなく、自藩で、武器弾薬の製造に取り掛かっていた」 「証拠は?」 前方だけを見据えて語る土方に、問う八郎の声も、淡々としたものだった。 「皆、灰だ」 「その灰、土方歳三ともあろう男が、むざむざと捨てはしまい?」 八郎の皮肉は、常に土方の本質を見極めている。 この男は、新撰組に必要とあらば、例え其の証が灰になろうが塵になろうが、そんな事には頓着無い。 無ければ作り上げてでも、佐賀藩を封じ込めるだろう。 結束以来、副長と云う立場を離れず、実質的に新撰組をここまでに作り上げた、それが土方歳三のやり方だった。 「佐賀藩には、長門屋の一件で手数を掛けさせてくれた礼に、その内自慢の兵器を進呈させるさ」 案の定、土方の横顔に、不敵な笑みが浮んだ。 「村瀬十四郎は、彦根藩勘定方として、佐賀藩より大砲を仕入れる際、交渉の場であった長門屋に出入りしていて、その内情を知ったらしい。・・今、則宗を盗み出した後、何故村瀬が長戸屋に潜んでいたのか、其処の辺りの事情を探らせている」 土方の物言いは、その調べで判明する事実こそが、今回の事件を最終的に解決し、ひいては直次の希を叶える術に繋がると、暗に告げていた。 だが八郎は、その土方の語りの、最後の韻も消えやらぬ内に、つと半馬身前に出た。 「新撰組が何を調べ、あんたが何をどう考えて、この一件に落ちをつけ様が、そんな事は知っちゃぁいない。だがな・・・」 云いながら手綱を引き、前脚を高く上げて嘶く馬を操りながら、八郎はおもむろに振り向いた。 「俺は総司を助けて貰った借りを、直次に返す」 威圧的な光を宿した双眸が、土方を捉えるや、端正な面に、豪胆な笑みが広がった。 「それだけだっ」 同時に、恋敵に向け言い放った声が、物の像を凛と鮮明にする朝の冷気を劈いた。 そのまま馬の腹を蹴り、疾風の如き勢いで走り出した八郎を、しかし土方も又、一瞬の遅れを取ることも許さぬ素早さで追い始めた。 ――八郎は、総司を助けた直次への借りを返す、その為だけに動くのだと、明快に言い切った。 其れは即ち、隠すことの無い、自分への挑戦だった。 土方の胸の裡で、突如として焔立った嫉妬が、瞬く間に憤怒の渦へと変わる。 その当たり処のように、前を行く横恋慕の相手を捉え、馬を鞭打つ手に力が籠もる。 必ずや、あの背の主よりも早くに想い人に見(まみ)えるのだと、信じられぬ己の稚気への自嘲すら、今の土方を止める楔にはならなかった。 音を立てぬよう気を配り襖を開けたつもりでも、鋭すぎる程に研ぎ澄まされた勘の持ち主は、とっくに気配を感じとっていたようで、枕屏風を回った途端、深い色の瞳が見上げていた。 「眠っていろと、言った筈だぞ」 ここ二日程、積もる仕事で、来るのがいつもこの頃合になると承知して待っている、その心根を愛しいと思いつつも、口をついて出る最初は、つい叱る言葉になる自分を苦笑しながら、土方は病人の臥す床の傍らに腰を下ろした。 「昼間、眠りすぎてしまったから」 が、そんな事すら総司には嬉しいようで、言い訳する声音には、説教されて沈む翳りは微塵も無い。 ――長門屋の寮で起こった、あの禍々しい火災から既に五日が経っていた。 元々の病の悪化と、土方を庇い落ちてきた梁の下敷きになった打撲とで、一時はその容態が危ぶまれた総司だったが、田坂の治療が功を成し、徐々にではあるが、回復の兆しを見せ始め、どうにか周りの者の愁眉を開かせた。 だが高い熱が治まりを見せ、漸く夢うつつの挟間を通り抜ければ、今度は背中の打ち傷の痛みで、薬の力を借りなければ、眠る事すら敵わぬ呻吟の時は続いていた。 が、どんなに質そうが、責めようが、その辛さ切なさを一切口にしない想い人の精神の強さは、逆に土方を不安に駆らせる。 今も横臥して見上げている面輪は笑っているが、蒼い頬に落ちた翳りの深さは、それと対を為し、言葉の偽りを、容易に透かせてしまう。 「背中の支えが、高すぎやしないか?」 裡に抱える、そんな重石を吹っ切るように、土方は総司の背に置かれている包みに視線を落とした。 触りの良い絹布に巻かれたその中身は、芯にした綿を、真綿で幾重にもくるんだ物だった。 それを夜具と背中の間に置き、少しでも傷の障りにならないようにと作ったのは、キヨだった。 が、どれ程周りが細やかに神経を配っても、昼夜を問わぬ痛みは、容赦無く総司を苛んでいる筈だった。 「丁度いい。けれど天井ばかり見ていたら、飽きてしまう」 その土方の懸念を、総司は邪気の無い偽りで遮った。 「そうか」 騙されてやるのが、今はこの者の辛苦を救う、せめてもの労わりと知ってはいても、返すいらえの声には、やはり拭い切れぬ憂慮が籠もる。 「もう、何とも無い」 だがそんな心裡を機敏に察したのか、土方を見上げている面輪に、狼狽が走る。 「本当だから・・」 応えぬ主に、言い訳しようと僅かに身じろいだその動きが、総司の前髪を横に流し、生え際に残る、額の白とは異なる色の傷跡を露にした。 「・・土方さん」 更に言葉を紡ごうとした唇は、しかし突然翳された何かの影で、動きを止められた。 その正体が土方の手で、そして指先が傷跡に触れているのだと知るまでに、そう時は掛からなかったが、それが何を意図する仕草なのかを判じかね、深い色の瞳が心許なく揺れる。 「明日、彦根に行って来る」 傷跡に触れたまま、暫し土方は無言でいたが、やがてゆっくりと口を開き、戸惑いの際に追い込まれるように伏せてしまった瞳の主に掛けた声は、低くはあったが、常よりもずっと柔らかなものだった。 「直次の一件、片付けてくる」 「・・直次さんの?」 慌てて見上げ、驚きに瞠られた瞳の中で、土方は頷くだけで是と応えた。 「あいつには借りを作ってしまったからな、そいつを返さない事には、落ち着かん」 云いながら、翳した手を滑らせた想い人の額は、やはり傷跡の其処だけが、指の腹に障る。 ――あの時。 我が身に覆い被さるようにして、梁の下敷きになっていた総司を見た瞬間、恐怖と戦慄が、時の経過を止めてしまった。 眸が映し出す像で、唯一脳裏にまで届いていたのは、この額の傷から流れ出る血潮の紅だけだった。 だが不思議な事に、その色が、凍てついてしまった思考を、再び動かした。 早く血を止めねばと、その焦りが、自分を現に戻した。 人と云うものは、日々どんなに複雑な思念を繰り返しても、いざとなれば、案外他愛も無い単純に還るものなのかもしれない。 そんな自嘲に片頬を緩ませた土方を、総司は凝視している。 「心配するな、悪いようにはしない。尤も彦根藩の面倒は、伊庭が引き受けるそうだがな」 「八郎さんが・・?」 その名が唐突なものだった所為か、今度は少々不思議そうな声音が漏れた。 「伊庭に、策があると云う事だ。俺もふたつ一遍には手が回らん。たまには奴に骨を折らせるさ」 その皮肉が満更嘘でも無いらしい、些か鬱陶しげな、土方の口調だった。 だが総司には、それだけでは通じない。 「ふたつ、一遍て・・?」 先をねだる声音が、急(せ)く。 「伊庭は、彦根藩が則宗を取り戻そうとしている動きを、封じ込める。俺は菱屋・・いや、妙と云う、直次が惚れた相手に会い、則宗を新撰組が預かる旨を納得させる」 「・・妙さん・・に?」 熱で乾いた唇から、反復するように零れ落ちた人の名に、土方が静かに頷いた。 |