なごりの雪 (十四)




・・・風が出てきたのか。
忍び込むそれに流される焔の気侭が、室に出来た淡い明暗を操り、障子に映る人の影を、自在に揺らす。
音も無く、しんと静まり返ったその静寂の中、総司は無言で土方を見上げている。

 事件以降、新撰組に預かりの身となっていた直次だが、二日経った日の夕方、これから元居た旅籠に帰るのだと、それを告げる為に見舞ってくれた。
その時直次は、全てを土方に任せたから、何もかも、きっと上手く行くのだと、憂慮する事はひとつも無いのだと、高い熱で応える事も侭ならなかった自分の視界の中で、安堵させるように、幾度も頷いて見せた。
その夜、やはり見舞ってくれた一が、直次の身辺は、島田と、もうひとり伝吉が護衛に当っているのだと、教えてくれた。
――あの時。
全てを土方に託したと、直次は云った
ならば妙の事も、そして自分の心が辿った軌跡も、包み隠さず土方に語ったと云うのだろうか。
幸いを掴む前に、それを失う事に怯えてしまったのだと。
相手を想う気持ちが強ければ強くなる程、失うのが怖かったのだと。
だがそうして逃げた後、好いた女性(にょしょう)の危機を目の当たりにして、我が身を捨ててもその人を護りたいと、その人の為だけに生きたいと、・・・初めて自分の気持ちを、真っ向から見据える事が出来たのだと。
それ等の全てを、直次は、土方に語ったと云うのだろうか――
総司の心裡で、今さまざまな思いが綾を織る。


「妙と云う女が、直次の事を、今どんな風に思っているのかは分からん。が、俺は菱屋と云う店(たな)とその女の身を護ると、直次と約束した。それが奴の希(のぞみ)ならば、叶えてやらなければならん。作った借りは、返すさ」
その想い人の胸中を知らずして、続ける土方の口調は、次第に素気無いものとなる。
直次の希を叶える、その事が即ち総司自身の希であるのなら、又も自分は、この愛しい者に負けを期するのだと。
それが土方を、不機嫌にする。
否、きっと何処まで行っても、この者への勝ちなど、有りはしないのだろう。
それが惚れた弱みの付けと、ひと括りに仕舞いにしてしまうには、どうにも忌々しい苛立たしさの当たり処のように、土方は憂鬱げに顔を顰めた。

だが総司はその土方を見上げたまま、いつまで経っても沈黙の砦を出ない。
「どうした?」
流石に不審を察し、問う声がくぐもる。
それでも総司は暫し黙していたが、やがて伏せていた瞳を上げた時、其処で待っていた眼差しに合うと、漸く逡巡を捨てたかのように、唇を震わせた。
「・・直次さん」
小さな呟きは、一度瞳を伏せ、しかし直ぐに又土方を捉えてから零れ落ちた。
「自分は傲慢だったと、言っていた」
「傲慢?」
繰り返す土方に、総司は微かに顎を引くだけで頷いた。
「妙さんを好いていたのに・・・それなのに、妙さんも自分の事を想ってくれているのだと気づいた途端、逃げ出してしまったのだと・・目の前の幸せを掴む事よりも、その幸せを失くす事を先に思って、怯えてしまったのだと」
伝えたい言葉を捜しあぐね、幾度かつかえながら、総司は必死に直次の心情を聞かせようと続ける。
そしてその意図するものが何なのかを敢えて問わず、土方は無言で見守る。
「けれど妙さんの危急を知って、何もかもかなぐり捨てて、好いた人を助けると誓ったのだと・・その時初めて、直次さんは自分の心に正直になれたのだと、・・・そう云った」
ようよう語り終えた時、そうする事で全ての躊躇いを捨て去るかのように、総司は細く息をつき、そして深い色の瞳を土方に向けた。

「妙と云う女を救うが為に、何もかも捨て去った直次の強さ、・・それは嘗て自分の持っていた強さなのだと、お前はそう云ったな?」
頷く瞳は、今度は逸らされる事はない。
「だからそれに今一度見(まみ)えれば、強かった自分を取り戻す事が出来るかもしれないと、俺に云った。だがお前は、その願いを叶える事ができたのか?」
静かな物言いではあったが、見つめる土方の双眸には、発する問いから逃れる事を許さぬ厳しさがあった。
「分からない・・」
が、間を置かずして返ったいらえは、あの夜と、又も同じものだった。
「・・・分からない。・・もしかしたら私は、もっと臆病な人間になってしまったのかもしれない」
一言一言を、自分自身に確かめるかのように、言葉は時を掛け、慎重に紡がれる。
だがその語りの邪魔をせぬよう沈黙を護る土方に向け、骨ばった指が、遠慮がちに夜具の隙から伸ばされた。
それが、何を意味しているのか――。
知りすぎる程に知った手の平が、凍てた白い指先を掴むや一度強く握りしめ、次に掌の内へと、静かに包み込んだ。
くるまれた人肌の温もりは、総司に次なる力を与える。
「・・・けれど」
上から捉える視線に自分のそれを絡め、流麗な線を描く唇が、ゆっくりと言葉を形作る。
「けれど私は、土方さんの傍らにいる限り、きっと強くいられる」
双つの瞳に土方を映して言い切った刹那、総司は爪を立てるかの如き激しさで、包まれた掌の中の指に、強く力を籠めた。

――形有るものが、焔に舐められ姿を失くして行く音だけが、木霊のように幾重にも響く灼熱の中、死ぬなと叫び呼び止める土方の声を、総司は覚えている。
それでも身を襲う苦しさに負け、一度は闇の淵に全てを沈めてしまいそうになった。
だがその自分の腕を、しかと掴み、強い力で引き摺り上げてくれたのは、死ぬなと、今度は耳朶に触れて聞こえた声音と、額に落ちた熱い滴だった。
その二度の声を、違えようの無い現のものとして、総司は己の裡に刻んでいる。
直次は云った。
同じ想いを持つ者ならば、合わせ鏡のように、きっと相手を失くす事への慄きを胸に抱いている筈だと。
そして自分は、確かに聞いた。
死ぬなと、そう命じた土方の声音を。
死ぬなと、死ぬ事は許さないと土方が云うのならば、きっとそれは自分にとって、何を置いても護り通さなければならないものなのだろう。
置いて行かれる事に怯える心は、今この場ですら消し難い。
それは土方を想う生涯に渡り、自分を苛み続けるのだろう。
だがそれすら超えて、自分は土方の傍らに在らねばならない。
死ぬなと、そう命じられる限り――。

「私は、独りよがりの傲慢な人間だった」
笑いかけた筈の瞳から、つと零れ落ちるものを隠す為に、総司は慌てて面輪を伏せた。


――傍らにいる限り、きっと強くいられる。
そう言い切った想い人に、土方は何と応えて良いのか思いあぐねている。
いつか置いて行かれると、見えぬ先に怯える総司に、自分は偽りの安らぎすら、与えてやれはしない。
否、そんな優しさなど、端から持ち合わせてはいない。
抱き続けるこの者の身が、いずれ血潮のひと滴をも枯らせ、冷たい屍になり果てようと、そんな事は構いはしない。
掴んだこの手の肉が削げ、いずれ蒼白き骸だけになろうが、厭いはしない。
この世も、次の世も、更にその先も、お前は必ず自分と在るのだと――。
それをどう言葉にして伝えて良いのか分からず、その苛立ちの代わりのように、土方は握り締めていた手に力を籠めると、もう片方の手を、夜具と背の間に差し込み、静かに病人の身を起こした。
「俺は、希代の大莫迦野郎なのだろうな」
抱き入れた胸の内で、総司が僅かに身じろいだ。
だがその動きすら許さず、拘束する腕の力は強くなる。

「・・傍にいろ」
それがどの世に在ってもとは、もう土方は言葉にせず、愛しい者を封じ込める腕に、更に力を籠めた。




 彦根は、京より凡そ十八里。
粟田口から東海道を下り、草津で分かれて中仙道を行く。
城下の北東部には、中仙道と北国街道との分岐点もあり、かねてより街道の要所として栄えてきた。
 土方が伝吉と共に、西本願寺の一角にある屯所を出たのは、吐く息が、薄闇に白く濁る東雲時の事だった。
そのまま粟田口まで一気に駆けて八郎と合流し、途中幾度か馬を休ませながら街道を走り続けて彦根城下に入り、この夜の宿に草鞋を解いたのは、まだ日も落ち切らぬ頃合だった。
そして翌朝。
土方、八郎は、互いに顔を合わせる事無く、それぞれの目的の場へと向かった。



 丘陵と云っても良い、なだらかな彦根山は、北国街道と中仙道、そして琵琶湖水路をも見下ろせる、要衝の地である。
その上に位置する彦根城は、京都守護及び監視と云う立場から、即座に軍を動かせる事を考慮した、徳川家康の命により築城された。
又、この城の当主である井伊家の歴史は、関が原の合戦の功により、初代井伊直政が、十八万石を賜り入封した事から始まる。
直政から数えて十三代目が、前の大老井伊直弼であり、現十四代目当主直憲は、直弼の次男である。
七カ国、十二大名を動員しての大普請で造られた、その堅固且つ荘厳な要塞の一室で、今八郎は、彦根藩国家老、外木伝右衛門と対面している。

「伊庭殿には、上様から我が殿への、御託けの使者としてのご来訪、忝のうござる」
「先日、上覧試合の折、私が用向きで彦根に出かける事をお知りになられた上様が、今年も掃部頭(かもんのかみ)様と、櫻の花見をしたいものだと、ふと漏らされたそれを、ならば使者としてお伝え致しましょうと申し上げた事で、今日の訪問と相成った次第。それ故、公のものではございませぬ。過ぎた御気遣い、どうか御無用に願います」
その外木に向け、穏やかな笑みを浮かべて語る八郎の調子は淀みない。
「上様は、掃部頭様とは御歳も近く、実の弟君とも思い、何かと頼りに思われておいでの御様子」
「それは直憲様とて、同じこと。御身とこの彦根三十万石は、上様を御護りする為に在るのだと、常日頃口癖のように、仰られておいででござる」
嘗ての禄高を上げ、満足げに頷く外木に、八郎は唇の端を緩めた。
「譜代筆頭の彦根藩主であられる掃部頭様が、そのような御意気であられれば、幕府も安泰」
「左様、ご安心召され。将軍家は彦根藩がお護りするとの直憲様の御熱意で、万が一の合戦を想定し、京に上る賊軍を討たんが為に、昨秋、この彦根山の中腹に、新たな大砲五門を備え付けた処でござる」
「ほう、大砲五門」
鷹揚に語る外木へ相槌を打ちながら、だが八郎の顔(かんばせ)に、薄い笑みが浮かんだ。
「どうやら彦根藩は、大層羽振りが宜しいとお見受けいたした。実は先般、貴藩京都藩邸留守居役殿に、備前の名刀一文字則宗を見せて頂いたと、所司代馬廻役の鈴木重兵衛殿から、興奮冷めやらぬ体で、かの名刀の話を聞かされたばかりでござる」
「則宗・・」
その一瞬、外木の面に、隠そうとして敵わぬ狼狽が走る。
「如何にも。・・鎌倉時代、後鳥羽上皇の御番鍛冶筆頭を務めた、福岡一文字派の祖、則宗の作に間違いは無かったとの事。が、残念な事に、今一度見たいと所望した時には、賊に盗まれ既に手元には無いと、・・・貴藩のお留守居役殿は、そう申されたそうです」
静かな物言いではあるが、凛と響く声音は、広い室を覆う冷気を、瞬く間に張詰めた緊張感へと塗り変える。
その八郎を、外木は暫し言葉失くして凝視していたが、しかしそれを不審と相手に悟られる事を恐れてか、ひとつ息を吸うと、おもむろに口を開いた。

「確かに、一文字則宗は、当藩が、岡山藩主池田茂政様より拝領したもの。が、盗まれたのではござらん」
「はて?ではお留守居役殿は、何ゆえ盗まれたなどと偽りを申されたのか、それも不思議なこと」
淡々とした口調で、しかし刃よりも鋭い問いを投げかけて来るこの男が、果たして何処まで知り得ているのか・・否、何を意図して、このような茶番を仕掛けて来ているのか――。
「・・・留守居役がそう申したのには、少々事情がありましての」
それを探る外木の口調が、警戒で硬くなる。
「ご事情と、申されると?」
だが八郎の向ける切っ先は、その相手に、一瞬の逡巡すら許さない。
「拝領品の則宗は、質に出し申した」
「質に?」
端正な面を訝しげに顰めて呟く声の低さは、それが実か虚かを判じさせかね、更に外木を惑わせる。
「左様。先にお話した五門の大砲。あれを買う為に、金に致した。拝領した折、池田茂政様は、上様を御護りする為には何かと金が必要、それゆえ少しでも役に立てればとの、添え状をつけて下さった」
「ではその添え状の通り、掃部頭様は、則宗を金に換えられたと云われるのでしょうか?」
「・・元々、則宗が贈られて来た経緯は、岡山藩の浪人が、他藩の者どもとつるみ、天誅組と称して大和代官所を焼き討ちしたそれを、当藩の兵が鎮めた事への礼。しかも先方が軍備の増強に備えて使えと、丁寧に添え状までつけるのであれば、その志を無下にする事は返って礼を欠く、金に変えて大砲を買う事こそ、相手の意に応える術であると・・」
「掃部頭様が、そのように仰られたと?」
驚きを装う大仰な声に、外木が、些か忌々しげに頷いた。

確かに。
直憲ならば、やりかねぬのかもしれない。
池田茂政は、岡山藩主を封襲するや、その最初の仕事として、禄高を取り戻そうと躍起になっている彦根藩に、表向きは天誅組制圧への礼とし、その裏では、兄一ツ橋慶喜を将軍職に就けさせなかった井伊家への報復を企て、則宗一振り、どのように扱うかを、高みの見物と決め込んだのであろう。
だがそれを逆手に取り、直憲は見事添え状の通りの行動を起こした。
八郎の脳裏に、若き君主井伊掃部頭直憲の、精悍な面構えが蘇る。
だが一瞬緩んだ片頬を、八郎は即座に引き締め、外木に視線を据えた。

「互いに了承されてとの事ならば、合点が参りました。いや・・しかしそうであるのならば・・・又ひとつ、異な事が」
「異な事?」
言葉の仕舞は、己の腑に落ちぬ思案に籠もるような、独り語りの呟きだったが、それを聞きとめた外木は、又しても警戒の色を強くした。
「いや、つまらぬ事なのですが。・・・実は先日貴藩の元藩士、村瀬十四郎と云う者が、新撰組に捉えられました」
「村瀬・・十四郎・・」
「左様。過激な倒幕思想持つが故に、藩を追われた者を、希望する諸国へと逃がす、仲介屋のような仕事をしていた長門屋と云う旅籠に、新撰組が踏み込んだ折、其処に潜んでいた処を、一緒に捕らえられました」
眉根ひとつ動かすでもなく、偽りを重ねる八郎を、外木は凝視している。
「村瀬と云う者、初めは中々口を割ろうとはしなかったようですが、新撰組とてその辺りは手馴れたもの。調べを進める内に、一月前まで貴藩の勘定方の役を頂戴していたと、遂に白状したそうです」
感情と云うものを、一切読み取らせぬ抑揚の無い調子で語り終えるや、八郎は、相手の表情に過る翳りのひとつも見落とさぬ鋭い双眸で、外木を見据えた。


――村瀬の横死は、疾うに外木に伝わっている筈だった。
昨夜宿で土方から得た数多(あまた)の情報は、長門屋の一件から僅か五日で集められたものだったが、如何に駆使したとは云え、その諜報力は驚嘆すべきものだった。
それによれば、はやり長門屋の後ろ盾は佐賀藩。
但し、証は無い。
が、佐賀鍋島家三十五万石が関わっていたとなれば、屋敷に火を放つまでして、証拠の隠滅を図ろうとしたその必死も、納得の行くことだった。
更に生きて捕らえた者達を、激しい拷問にかけ吐かせた内容によれば、村瀬十四郎は、彦根藩が大砲五門を佐賀藩より買い入れた際、その商談場所として指定された長門屋に滞在中、かの旅籠の裏の商売を知ったらしい。
そして二度目に客として現れた村瀬は、己の身を長崎まで無事逃す事と、一文字則宗を、異国の商人に売り渡す算段を取り纏めるよう、長門屋、ひいては佐賀藩に申し出た。
しかも佐賀藩の、長崎警備の利を生かして行っていた密輸出入の事実と、長門屋の裏の商売を、脅しの形にして。
それ故、村瀬は斬られた。
だが新撰組の監察方は、その村瀬が生前長門屋に逗留中、幾度か彦根藩京都藩邸からの使者と接触していた事をも、又突き止めていた。

これ等明るみになった事実から、昨夜土方は、確信とも云って良い、ひとつの仮説をうち立てた。
それは、村瀬が則宗を菱屋から盗み出したのは、かの刀を質に出すに関し、裏で画策した国家老外木の差し金であり、そして其処で終わる筈の謀(はかりごと)は、しかし村瀬の、思いもかけぬ裏切りにより、今回の一連の事件へと繋がって行ったと云うものだった。
それには八郎も、異議を唱えなかった。
彦根藩の京都藩邸からの使者との接触は即ち、佐賀藩と同じように、村瀬が外木を脅していた事を物語る。
佐賀藩か、彦根藩か。
ふたつの藩を天秤にかけ、そのどちらか、己の有利に働く方を、村瀬は選び取ろうとした。
則宗を掌中にした時、この男も又、己の定めを変えてしまったのかもしれない。
だがその人間の無残ななれの果てを、敢えて偽り告げた自分に、さてこの老生はどう出るのか――
外木を見る八郎の眸が、それを楽しむかのように、ゆっくりと細められた。


「・・村瀬十四郎は、確かに我が藩の勘定方でござった」
乾いた喉を潤す為か、外木は一度喉仏を上下させると、幾らかしゃがれた声で、漸くいらえを返した。
「が、村瀬は過日、新撰組が長門屋に踏み込んだ際、その繋がりのあった屋敷の火災に巻き込まれ、落命致した」
だから新撰組に捕らわれる筈が無いのだと、暗にそう告げた外木の双眸が、相手が繰り出す偽りの意図を推し量ろうと、いよいよ険しさを増す。
「ほう、外木殿は、其処までご存知であられたか。ならばもう一つ、疾うにご承知の事であるかと思われるが・・」
一端言葉を切り、顔(かんばせ)の造作を際立たせる、整った唇の端に浮かべられた笑みは、それが実の無い虚のものだけに、相手にとっては冴え冴えと冷たいものに映る。
その外木の動揺を、八郎は見逃さない。
「村瀬が生前漏らした中に、一度質に流した則宗を、金の工面が間に合わず、藩が質受けする事が出来ぬと云う、止むに止まれぬ事情で、自らが菱屋から盗み出したと、そう驚くべき告白がありました。しかもそれは、次期将軍と噂のある、一ツ橋慶喜公の御実弟に当たられる、岡山藩主との摩擦を避け、更に折り良くば取り入り、彦根藩の安泰を図ろうと画策する、ご家老外木殿の命だと、・・・其処まで村瀬が明るみにしていた事を、かの者の横死を御承知の外木殿ならば、御存知であられる筈。ならば、先程お伺いした掃部頭様と外木殿のご意見は、見事に食い違う。異な事と申したのは、この件でござる」
静かに始まった八郎の語りは、段々に勢いを増し強く迸り、やがて仕舞に近づくにつれ、再びゆっくりと調子を戻し、最後は、刃の切先を突き付けるが如き鋭い視線で外木を捉えて終えた。

だが外木は、睨みつけるようにして八郎を見たまま、応えない。
しかし八郎も又、少しもその目を逸らさ無い。
あまりに広すぎる座敷の上座には、紫紺の敷物が、畳みの藍とは色を違え、未だ来ぬこの城の主を、ひっそりと待つ。
その一隅に座し、無言を通す沈黙の時は長い。

――が、負けたのは、外木伝右衛門だった。

全てを承知の上で、目の前の相手は、偽りの言葉へのいらえに、真(まこと)を語れと迫る。
しかもじきに、直憲がやって来る。
その限られた時を味方にして仕掛けられた罠に堕ちたのは、違いも無く自分なのだと・・・
其処まで思った時、外木の視線がつと逸らされ、縁の向こうに広がる庭へと向けられた。


「伊庭殿」
庭を見ている横顔が不意に漏らした声に、八郎も、外木の目が捉えている先へと視線を移した。
「あの櫻は、亡き殿直弼様が、元服の折に植えられしもの。それがしは、殿が幼少の砌より、お側でお仕えしていた。・・その殿が、我が子直憲様の元服の日を見ずして、ものの分からぬ者どもの刃に倒れた時、わしは誓った。必ずや直憲様と、彦根三十万石をお護りすると。その為には、例え何と非難されようが、動ずるものでもない」
櫻から一度も目を逸らさず、外木は語り続ける。
「元々は強い攘夷思想の持ち主であられた直弼様が、攘夷反幕を唱えし者等を取り締まり、開国に踏み切ったのは、何が何でもこの国と幕府を護る為であられた。直弼様は、事に臨まれし時、既に御身の死を覚悟召されていた。その直弼様の御心を分からぬ輩どもにならば、何と蔑まされようが、嘲り笑われようが、わしは片腹痛くも無い」
庭に向けていた視線をゆっくりと戻し八郎を捉えた時、外木の目が宿していたのは、己の信念を邪魔するものならば、何をも排する強靭な意志の光だった。

「村瀬を使い、菱屋から則宗を盗ませたのは、確かにそれがしの一存。・・・先の上様が身罷られた折、直弼様が、攘夷派の押す一ツ橋慶喜様を退け、徳川家茂様を将軍の座につけられたのは、ご承知おきの通り。その際直弼様は、慶喜様のご実父であられた水戸藩主、徳川斉昭様を謹慎させ、慶喜様ご当人は、登城停止のご処分に遊ばされた。が、現将軍は御体も弱く、御子にも恵まれず、このままでは、今度こそ慶喜様が将軍職におつきになるのは、誰が見ても必定」
「それ故、慶喜様のご実弟であられる、岡山藩藩主池田茂政様の機嫌を仕損じぬよう、急遽質に出した則宗が必要になったと云われるか」
問う八郎の物言いには、批判も批難も無い。
有るのは、とことんまで真実を突き止めようとする、容赦の無い眼差しだけだった。
「左様。だが菱屋から借り受けた金子千両を、極秘で工面するには、藩の財政は逼迫しすぎていた。其処で村瀬を使ったが、彼奴は盗み出した則宗を使い、今度はわしを脅して来よった。・・則宗の代金二千両。それが直憲様に内密で事を運ばんと画策した、わしに突きつけられた、脅しの値だった」
「二千両。しかしそれは、外木殿の御命の代価と、申し上げねばなりますまい」
だがすぐさま返った、遠慮の無い辛辣な意見と峻厳な視線に、初めて外木の片頬に、皮肉とも自嘲ともつかぬ笑みが浮んだ。
「確かに、我が身ひとつの代価と思えば、良い値がついたと喜び、この首ひとつくれてやるに、何の躊躇いも無い。が、わしにはまだ、やらねばならぬ事がある。直憲様と彦根三十万石を護ると決めた、その仕事が残されている」
言葉の最後に踏んだの韻も消え得ぬ内に、外木は再び、目だけを庭へと移した。
しかしそれは一瞬の事で、直ぐに視線は戻され、強面を印象づける剛毅な口元が、ゆっくりと動いた。
「後は、伊庭殿、貴方が知る通りだ。が・・」
そうして今一度、真正面から八郎を見捉えた外木の顔に、今度は、己の負けを認めざるを得ない諦めと、そして新たな困難に立ち向かう、覚悟の笑みが広がった。
「村瀬に代わる新たな取引相手は、どうやら貴殿らしいの」
だが向けられた矛先に、八郎は薄い笑みを浮かべただけで無言を貫き、是とも否とも応えない。

「譜代筆頭の矜持を捨て、藩の存続を選んだその時から、己の行く末は、死ぬよりも余程に険しい棘の道と承知しておる。が、こたびの一件が、直憲様のお耳に入れば、わしは腹を切らざるを得まい。だがわしは、直憲様が健やかにご成長遊ばされ、彦根の安泰をこの目で確かめるまで、今しばらくは死ぬ訳には行かん。せめて、あと五年。・・・若竹のようなご気性の直憲様が、藩を護る為には、時に己の信念を曲げ、人に道を譲らねばならぬ事を知り、先への糧として、ご辛抱を為される事が出来るようになるまでは、わしはその盾となり、生き抜かねばならん」
自棄では無く、次に道を開く為の布石として、断固不抜として云い終え、取引に応ずると告げる古老の姿を、八郎は一度目を細めて捉えた。
「・・・伊庭殿、貴殿の要望を聞こう」
そして時を置かずして、観念の声が発せられた時、その一瞬を待っていたかのように、沈黙に徹していた八郎の唇が、静かに開かれた。

「一文字則宗は、今新撰組の手にあります」
その事は半ば予測していたのか、外木は僅かに面を硬くしただけで、無言に居る。
「その則宗、お忘れ頂きたい」
何故にとは云わず、短い言葉で、直截に要求を突きつけた八郎に、外木は、しかと目を合わせた。
「忘れろ、・・とは、則宗を取り戻すな、と云われるのか」
「左様。一文字則宗は、大砲五門の形に質に流され、そして質受けする期限までに金の調達がつかず、菱屋のものとなる。・・全ては、決まっていた通りに、運んだだけの事」
もう既に、逃れる道はひとつも残されてはいないのだと、無情に告げる物言いには、気負の欠片も無い。
だがそれだからこそ、譲らぬ意志の強さを、相手に知らしめる。
同時に八郎の双眸は、獲物を見据えて牙砥ぐ獣のそれにも似た激しさ鋭さで、外木を捉える。
が、外木は、口を堅く結び、諾といらえを返さず、沈黙の砦を出ようとはしない。
しかしその最後の足掻きの時すら、八郎は容赦なく奪う。

「外木さん、あんたまだ、死ぬ訳には行かないんだろう?」
豹変したかとも思える、突然の物言いに、外木の目が驚愕に見開かれ、八郎に向けられた。
「己の生涯を掛け、必ずや彦根藩を護ると決めた、あんたの覚悟は確かに聞いた。その為にどんな画策を練ろうが、企てを起こそうが、そんな事は俺には関係が無い。だがな、今回の一件については、俺にも譲れぬ事情がある。彦根を護る為には、見栄も矜持も要らぬと、あんたが言い切るように、俺も己の護る者の為には、手段を選ばない。・・・則宗の一件、あんたのその首と引き換えに、承知してもらう」
これは脅しだと、八郎は思わない。
護るべきものの為に、この男がなりふり構わず己を捨て去ると決めたように、自分も又、己が唯一と決めた者の命脈を繋ぎ止めてくれた人間へ、借りを返し、礼を尽くすと決めただけの事である。
だから諾と承知する言葉以外は、要らない。

「必ず、承知してもらう」
念押す声が、静かに、だが否と拒む一切を許さぬ強さで、外木に突き付けられた。


――発せられているのは、言の葉に姿を変えた、違(たが)う事なき白刃なのだと。
そして自分を捉えている双眸に在るのは、紛う事無く狂気なのだと・・・
針の先すら忍び込む余地の無い程に緻密な策を張り巡らせ、研ぎ澄まされた鋭敏さで、徐々に、だが確実に自分を追い詰め、遂に逃れ切れぬ瀬戸に立たせた、目の前の男を突き動かしていたのは、物の道理など、相容れるべくも無き狂気だった。
そう知った外木の背に、戦慄が走る。
が、その狂気は、己の裡にも、確かに存在する。
否、それこそが、己を成す核(さね)であった。
それを思った寸座、外木の面から強張りが解け、次に皮肉な笑いが浮んだ。

「伊庭殿、わしも貴殿も、ひとつ信念の為に、人の形を借り鬼となった狂人らしい。己が狂人ならば、その愚かさ、そして怖さは百も承知」
「お褒めの言葉と、頂戴致します」
ゆるりと返す端正な面には、つい一瞬前に見せた狂気の迸りは、もう何処を探しても見つからない。
有るのは、怜悧に外木を捉える眸だけだった。
その鮮やかな切り替えに、故老の片頬が歪められた。
「狂人が、狂人に脅かされるとは笑止千万。だが道理で敵わぬ相手ならば、わしにも勝ち目は無い。こたびの一件だけは、負ける他無いのだろう」
己の正直を低く笑った声が、自嘲の分だけくぐもる。
だがその刹那、つと遠方に逸らせた外木の目が、僅かに細められた。

「・・殿が、参られたようじゃ」
漏れた呟きが、己の負けを認めざるを得ない吐息に交じって消える。
しかしその外木よりも一瞬早く、其方に向けた八郎の双眸が、早春の眩い光の中を歩み来る、精悍な面構えの勇姿を映し出す。

記憶の残像を、今現のものとして己の眼(まなこ)に刻みながら身を低くした八郎のこうべが、流れるような、それでいて一分の隙も無い所作で、若き彦根藩主井伊掃部頭直憲を迎えるべく、静かに下げられた。









事件簿の部屋   なごりの雪(終章)