なごりの雪 (十五-終章-)




 春信を覚えるには、まだ程遠い大気の冷たさが、遮るものの無い陽射しを直裁に浴びている身には心地良い。
やがて来る、芽吹く季節の風と、過ぎ行こうとしている、籠もる季節の風は、時に睦み合い時に隔ちあいながら流れ、肌に触れて、今が四時の狭間と教える。
その双つの風に乗り、時折読経の声が聞こえてくるが、それも耳に障りのあるものでは無い。
むしろ己の寓居で聞いている時よりも、遥かに心穏やかでいられる勝手に、土方は胸の裡だけで苦く笑った。


「色々と、お世話をお掛けしてしもうて、ほんに申し訳ありませんでした」
直次と則宗に纏わる今回の一件についての経緯を、土方が語り終えたとき、質商菱屋の若女将妙は、縁(へり)の藍が目に鮮やかな畳の上に両の手を付き、豊かな黒髪を丸髷にしたこうべを、静かに下げた。
そして次にゆっくりと顔を上げた時、土方を見る目には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「此処には、うちが生まれて直ぐに亡うなった、母の墓があるのです。そんな縁もあって、小さい頃から、この境内ではよう遊ばせて貰いました」
語る声音は、女性(にょしょう)のものにしては、幾分低い。
だがそれが、歳に似合わぬ落ち着きを、聞く者に覚えさせる。

 伝吉を菱屋に使いに出したのは、昨日彦根について直ぐの事だった。
それへの返事の中で、今日見(まみ)える場所として、妙は城下を少し外れたこの寺を、名指して来たのだった。

「・・直さんとも、よう遊びました」
濡れ縁の先に広がる庭へと向けた目が、過ぎてしまった時を慈しむかのように、緩やかに和んだ。
「ほんま、よう泣かされて・・けど、いつも優しい人でした。うちはきっと直さんのお嫁さんになる、そう決めたのは、いつの頃やったんやろ。あんまり昔の事で、覚えてもいませんわ」
笑えば、片頬だけに笑窪が出来る妙の語りを邪魔せぬよう、土方は無言を出ない。
「直さんの家があないになってしもうて、菱屋に来てくれる事になった時、それがどないな形でも、うちはほんまに嬉しかった。これからはずっと傍にいられるんや、そないに思うて。
・・・ほんに、罰当たりな子供でした。けど小さな頃は傍にいられるだけで嬉しかったんが、大きくなるにつれて、姿見ただけで、胸が痛くなるほど、切のうなってしもうた・・・ああうちは、直さんを好いているんや、そう気づいた時には、自分の想いを知られるのが怖くて、つれない素振りをするようになってました」
だがその片恋の辛さ切なさとて、この女性(にょしょう)にとっては、既に来し方の残影になっているのか、妙の面に浮んだ翳りは、ほんの一瞬の事で、再び土方に向けられた目には、葉を透いて零れ落ちる陽溜りにも似た、穏やかな色があった。

「・・昔。今貴方が云ったのと、同じような事を問われた事がある」
聞くに徹しているかと思っていた相手から、不意に発っせられた低い声は、少しだけ妙を驚かせたようで、ゆるやかな曲線に縁取りされた目が、鈴を張ったように瞠られた。
「同じような事を?」
「小さな頃の好きが、大人のそれになるのには、どんな切欠があったのだろうかと、そう問われた」
淡々と云うよりは、むしろ素っ気無い物言いに、妙の面に柔らかな笑みが広がった。
「それに土方様は、どないな風に、お応えしたんですやろ?」
「さて、忘れた」
悪戯げな揶揄に苦笑交じりのいらえを返しながら、土方の双眸は、今は此処にいない者の姿を、現の幻のように映しだす。

――晩夏の夕暮れ時、縁に腰掛ながら、総司は問うた。
何故人は、小さな頃の好きのままでいる事が、出来ないのだろうかと。
大人のそれになるには、どんな切欠があったのだろうかと・・・
その真摯な瞳に応える術が見つからずに苛立ち、無下ないらえを返したのは、過ぎた季節の幾つかも直ぐに数えられる、僅か数年前の出来事だった。
既にあの時、総司の存在が、己の傍らにあって当然のものと、迷いも無く信じ込んでいた自分は、しかし一体何を見、何を知っていたと云うのか。
愛しい者の眼差しを受け止めてやる事も出来ず、孤独に放って置いた歳月はあまりに長い。
土方の胸の裡を、後にも先にも、己が生涯で唯一の後悔と贖罪が走る。

「けどそないな話を、今もこうして覚えておられる土方様は、きっとそのお方の事を、大事にされていたんですやろうなぁ」
忘れたと、告げた偽りを透かして笑う声音に、見るものによっては冷たいとすら映る、切れ長の三白眼が細められた。
「おなごの勘と云うものは、案外に鋭いものらしい」
「おなごの勘は、男はんのそれよりも、よほどに働くもんです。・・・せやし」
低い声の揶揄に応える妙の面から、小波が引くように笑みが消えた。
「うちは、逃げましたのや」
微笑の余韻を残した口元が、微かに動いて紡いだ言葉には応えず、土方は無言のままその先を待つ。
「もしかしたら直さんも、うちの事を好いてくれてるのと違うやろか・・そう気づいたのは、ほんまに何が切欠だったんですやろ。・・・けどそうと知った時、うちは嬉しいとは思いませんでした」
「何故に?」
「・・・怖くなって、しもうたんですわ」
だがその時の慄きすら、還る事の出来ない昔に閉じこめて、妙は再び笑みを浮かべた。
「うちは、菱屋の養女ですのや。これは父と母以外の、誰も知らん事です」
一瞬目を細めた土方に静かに笑いかけ、そして最初の言葉を選ぶようにして、妙はゆっくりと唇を開いた。

「うちのほんまの母は、父の腹違いの妹です。母がまだ今の私よりも若い頃、出入りの行商人を好いてしもうたのやそうです。・・・さんざん遊ばれて、その男が姿をくらまして、初めて騙されてたんやと気づいた時には、母のお腹には、うちがいたんです。それが辛かったんですやろなぁ・・・母は私を産むと、直ぐに亡うなってしまいました。それでやや子に恵まれなかった今の父と母が、うちをほんまの娘として、育ててくれはったんですわ」
声は時折言い淀むかのように籠もる事もあったが、妙は己の身の上を、湿り気の少しも見せずに語り終えた。
「奉公人の直次と所帯を持ちたいと望むのは、育ててくれた親へ、恩を仇で返す事になると、そう思ったのだろうか」
一人娘として育てられたのならば、伴侶は店を継ぐ者となる。
だから勝手は許されぬと自分を戒めたのかと、土方の言葉は問うていた。
だがそれに、妙は小さく首を振り、否と応えた。

「うちがほんまに菱屋の娘やったら、きっと直さんと所帯を持ちたいと、ただそれだけに、一途に思いを馳せる事が出来たのかもしれへん。けどうちは、それが出来んかった。
・・・うちは、自分の弱気に負けましたのや」
最後の一言を紡いだ時、初めて自嘲ともとれる、寂しげな響きがあった。
「己の弱気に負けたとは?」
しかし敢えてそれに知らぬ振りを決め込み、土方は先を促す。
「きっと心の何処かに、自分の生まれに引け目があったんですやろ。誰にも喜ばれずに生まれて来たんやて思う心が、自分でも知らんうちに、幸せになる事に、臆病にさせてしもうていた。・・・なんや、幸せを手にした途端、まるで泡(あぶく)のように消えてしまいそうで、怖かったんですわ。そないな落ち着かん、切ない思いをするのやったら、最初から何も手にせん方がええ。欲しいものなど、端から持たん方がなんぼもええ・・・そないに、思うてしまいましたのや」
自ら幸いに背を向けた、弱い、莫迦な人間なのだと笑う妙を、土方はただ黙って見つめている。

 総司が直次に惹かれたのは、己の弱気を封じ込める為だった。
幸いを掴んだ瞬間、今度はそれを失う事に怯え始めた総司は、そんな自分を何よりも忌み嫌い、強い精神の在り処を求めて直次に拘った。
そして今妙が吐露した心情は、立場こそ違うが、紙の一重にも違わぬ薄さで、想い人に呻吟の時を強いているそれと同じものだった。
だがもしも総司が、裡に秘め続けていた想いを、誰にも知らせず悟らせず、その手で葬り去ってしまっていたら・・・
天が人の世に為す気紛れひとつで、自分は総司と云う唯一の者を、永久(とわ)に掌中に出来ずにいたのだと、今更ながらに知る戦慄が、土方の背を氷の剣で逆撫でる。


「・・則宗の為に金子を用立てなあかんようになって、うちに婿を取ると聞かされた時には、心の何処かで安堵するものさえありました」
だが現を離れたのは、瞬きも敵わぬ一瞬の事で、直ぐに土方は、妙の声に視線を戻した。
「うちは人のもんになるんや、せやから直さんを、諦めなあかんのや。これからは直さんの声を聞いて切のうなったり、誰か他のおなごはんと話しているのを見て、辛うなったりしたらあかんのや。・・・そう、自分に言い聞かせました」
言葉の仕舞いに、ふと眸を細めて遠くを見つめ、微かな吐息を交じらせ漏れた声音の静けさは、激しい葛藤の末に、漸く仮初の安寧に辿り着いた妙の心裡のように、土方には思えた。
「うちは、きっと阿呆な人間ですのやろ。けどそうするしか、できんかった。・・・土方様・・」
射す陽が、畳の蒼に作る光の輪に一度視線を落とし、しかし直ぐに面を上げて、妙は続けた。
「さっき土方様は、直さんからうちへと託けられた則宗を、預からせて欲しい・・そないに云われはりましたなぁ」
「代わりに、直次と菱屋は必ず護る」
頷いた土方を、妙は暫し見つめていたが、やがて小さな笑みを浮かべた。
「ほなそれを承知するのに、うちにも一つだけ、お願いがあります」
「出来得る事ならば」
「土方様にお預けする則宗の利息を、直さんに、払って欲しいのですわ」
「利息?」
「へえ、利息です」
訝しげに眉根を寄せた土方に返した妙の声が、今己が仕掛けた賭けに、是が非でも勝ちを得なければならない緊張で硬くなる。
「どないな経緯があったにしろ、則宗は直さんのものです。あの人が命を賭けて取り返してくれた則宗を、うちは受け取る事はできしまへん。けど直さんがうちに返してくれると云うそれを、土方様が預かるのやったら、その利息を、直さんに払おて欲しいのです。・・新しい商売を始めるには、元手が掛かります。直さんは、それを助けたい云うた父の申し出を断らはって、店を出て行きました。せやからせめてその足しになるよう、あの人に利息を払おて欲しいのですわ」
想う相手の先に幸いを願う必死が、妙の調子を急(せ)くものにする。
「だがそうなれば、菱屋は彦根藩に金を貸したまま戻らず、尚且つ、その質草である則宗をも失う事になるぞ」
「かましまへん」
菱屋に残るのは、則宗を引き受ける時に他所から融通させた借金だけだと告げる土方に、妙は即座にいらえを返した。
「菱屋は、うちが持ち直してみせます」
云いきって、やがて浮かべた笑みには、射し込む陽の、強さ耀さにも負けぬ潔さがあった。

――妙の烈しさは、総司の秘めるそれを、土方に思い起こさせずにはいられない。
灼熱と白煙の中、意識すら定かではなかった総司が、我が身を挺して護ろうとしたものは、違(たが)いもなくこの自分だった。
その証である、滑らかな額に残る傷跡に触れた刹那、雷(いかずち)のように走った戦慄と、それを凌駕して迸った愛しさは、今も現のものとして、土方の裡に熱く込み上げる。
そして妙が唯一望むものも又、己の幸いよりも、想う相手の幸いだった。
全てをかなぐり捨て、直次の元へ駆け出したい衝動を、ぎりぎりの瀬戸で堪えているのが、妙の本当なのだろう。
だがそれが叶わぬ、辛さ切なさを、自分が直次に出来得る唯ひとつの事に、妙は代えようとしている。
命を賭して自分を救おうとした直次の想いを受け止めた上で、妙の想いの先にあるものは、更にその大切な者を護ろうとする必死だった。
一途な眼差しを向ける女人を見る土方の双眸が、その視線の先に、己の唯一の者の姿を、今確かに映し出す。

「直次への利息、払わせて貰う」
低い声が、しかと告げた言葉に、見つめていた双つの眸が、裡に張り詰めていた緊張の糸を、緩やかに解いて和らいだ。
「・・おおきに」
やがてゆっくりと下げられた妙のこうべの向こうに煌く、早春の陽の眩さに、土方は僅かに目を細めた。



「直次に、伝える事は?」
門の向こうに、馬の手綱を引き待つ伝吉の姿を視界に捉えると、前を歩いていた土方が、つと足を止め後ろを振り返った。
「今は、ありまへん」
「今は?」
笑みを浮かべて応える女性(にょしょう)に、問う声が怪訝にくぐもる。
「へぇ。今は、ありませんのや。・・せやけど、もっとずっと先になって、それで直さんの姿を思い浮かべた時、胸がちくりと痛む自分を、仕様が無いなぁ云うて笑えるようになったら、あの人に云いますのや」
何をとは聞かず、続きの言葉を、土方は黙して待つ。
「好いていると、どうして云うてくれんかったのやて・・・。幸せを掴んだ途端、それを失くすのが怖かったと、何故云うてくれんかったのやて・・・併せ鏡のように、二人して同じ事を思うてたのに、うちらはお互いの心を見ようともせんで、自分の事ばかり考えてた。・・せやし、神さんが意地悪して、すれ違わせてしもうたんやて、・・・そう云うて責めますのや」
秘めらている筈の、激しい感情の起伏と云うものは、紡がれる言葉の何処にも見せずに語り終えると、妙はゆっくりと土方を見上げた。

「直さんのこと、どうか、お頼み申します」
浮かべた笑みはそのままに、凛と張る声音で告げられた言の葉に、土方が静かに頷いた。



 天道は既に一番高い処を回り、少しづつ、西へと傾き始めている。
だが肌に触れる風の冷たさとは対をなし、ものの影を長く伸ばす陽の強さは、未だ衰えない。

「どちらかに、お泊りになりますか?」
半馬身、後ろについていた伝吉が、前を行く土方に問うた。
午も過ぎた今から京に戻るのでは、どんなに馬を走らせても、深夜遅くになるだろう。
ならば途中の宿場で一夜を過ごし、翌朝早くに発って京に入るのが得策だと、伝吉は云いたいらしい。
が、土方にそのつもりは無い。
夜通し駆け抜け、一刻も早くに京に戻り、この目に刻みたい者の姿がある。

「伊庭は?」
だがそれを口にはせず、土方は、代わりに別の事を問うた。
「へい、副長よりも半刻程早く、彦根を発たれました」
途端に端正な顔(かんばせ)が不機嫌に歪んだのを、広い背中しか見えぬ伝吉には分からない。
想い人に見(まみ)えるべく、己に先駆けて走り去った八郎の後姿が、土方の脳裏に、まるで現のもののように克明に、そして忌々しく焼き付けられる。

「行くぞっ」
いらえの戻らぬ不審に、再び後ろから声を掛けようとしたその刹那、辺りの冷気を劈くような土方の怒声と共に、腹を蹴られた馬が、鋭い嘶きを上げ、疾走するかの如き勢いで走り出した。
同時に、この男にしては珍しく慌てた様子で、伝吉も又馬上に身を低くすると、瞬く間に距離が出来てしまった主の後を追い始めた。




 空を覆う雪雲は、更に厚みを増したようで、時折気紛れに射し込んでいた弱い陽も、今はもう無い。
氷の礫(つぶて)が舞い始める直前の気の冷たさは、降り始めた後のそれよりも、余程に厳しい。
凍てる時を知ってか、地に在るもの全てが、ひっそりと息を潜めてしまったような静寂の中、火鉢にかかる鉄瓶だけが、規則正しく湿った音を奏でる。
そのしじまを破る事無く、思案の内に籠もり無言でいる直次を、土方も総司も、先程からただ黙って見守っている。

――土方と八郎が彦根から戻り、既に十日の余が過ぎていたが、総司が床上げを許されたのは、漸く昨日の事だった。
今しばらくは屯所内で静養と告げる田坂に、総司は始め不満を訴えはしたが、この医師の手を煩わせて来た数々の迷惑を思い起こせば、それ以上の我侭も言えず、最後は不承不承頷く他無かった。
そして彦根藩が菱屋から金を借り受ける際の約定であった期限の一年が、昨日の深夜で経過した今日、土方は初めて直次を屯所へ呼び、則宗を新撰組で預かるにあたり、妙が出した条件を告げた。
更に土方は、則宗の新しい持ち主となった直次に、かの名刀を買い受けたいと申し出たのであった。

八郎の策が功を成し、彦根藩も則宗を奪い返すことを断念した。
が、それは一旦の事に過ぎず、国家老外木伝右衛門は、今も則宗を取り戻すことを諦めた訳では無いと、土方は踏んでいる。
岡山藩と繋がろうとの、彦根藩の目論みを阻止するのならば、則宗は必ずや新撰組の掌中にあらねばならない。
それ故土方は、直次に則宗を買い受けたいと申し出た。
だがその裏には、利息と云う形で分けて払うよりも、纏まった金を一度に渡す方が、商いを起こす上では都合が良い筈だとの、直次の行く末を慮っての判断もあった。


「金を受け取る事は、できしまへん」
沈黙の時はそう長くは続かず、伏せていた顔を上げると、直次は、正面から土方を捉えて告げた。
「でもそれなら、妙さんの思いが・・・」
「お嬢はんのお気持ちは、嬉しいと思います。けど、あきまへんのや」
妙の心情を思い憂える総司に、直次は柔らかな眼差しを送ったが、すぐに土方へと視線を戻した。
「則宗を、うちのもんだと、お嬢はんが云うてくれるのならば、うちは喜んでそれを頂戴します。けど金を受け取る事は、できませんのや。土方はんが云うてくれはった事も、勿体無い程に有り難いと思います。お嬢はんと土方はん、お二人のお気持ちを粗末にするうちは、しょうも無い莫迦者ですわ。けどうちは、そうする他できしまへん。・・・どうか、堪忍して下さい」
幾分早い調子で云い終え、すぐに頭を下げて隠した顔が一瞬苦しそうに歪んだそれが、言葉にある直次の真(まこと)を物語っていた。

「だが新撰組も、お前に何の見返りも与えず、ただ則宗を預かるのでは落ち着かない」
自分の幸先と、妙の気持ちを慮りながら、しかしそれを負担とさせぬよう、あくまで取引の形を装い譲らぬ土方の物言いに、直次の頬に笑みが浮んだ。
「土方はんには、他にお願いがありますのや」
「願い?」
「へぇ、そうです」
それまでの重苦しさを払拭したかのような、明るい笑い顔に秘められた直次の胸中にあるものを探る土方の片方の眸が、僅かに細められた。
「則宗は、沖田はんに貰おて欲しいのですわ」
しかし時を置かずして発せられた希事(のぞみこと)は、名指しされた本人を驚愕の際へと追いやってしまったようで、総司は言葉を失ったまま、見開かれた瞳だけを直次に向けた。

「総司に?」
呆然と、いらえを返せぬその主に代わり、怪訝に問うたのは土方だった。
「・・則宗を新撰組に預けて、その利息を貰わんでは、お嬢はんのお気持ちを、無下にする事になります。それに土方はんかて、落ち着きませんやろ?何よりうちには、刀なんぞ何の役にも立たしまへん。せやし、うちの命の恩人の沖田はんに、則宗を貰おて欲しいのですわ。願い云うんは、その事です・・」
「そんな事、できないっ」
だが更に続けられようとした語りは、悲壮とも思える抗いの声に遮れらた。
「妙さんは、直次さんの力になるようにと、あの刀を土方さんに預けたのです。だから私などが貰う訳には行かない」
にじり寄り、腕を掴まんばかりにして、必死の面持ちで説く総司を見る直次の目が、緩やかに細められた。
「うちは沖田はんに、ただでお譲りするとは、云うてません」
やがて穏やかな眼差しのまま、微かな笑いを含んで発せられた声音は、真摯な訴えの勢いを、愉しげにかわす。
が、それを受ける細い面輪は、言葉の意図する処を判じかね、たちまち困惑に染まる。
「来年の近江上布は、もう約束して貰いました。けどその次も、又その次の年も、うちは沖田はんに、近江上布を買うて欲しいのですわ。買うてくれるとの、沖田はんの約束が欲しいのですわ。・・・則宗は、その約束の形です」
言葉の仕舞いに、少しだけ落とした調子が、それが偽の無い直次の希であるのだと知らしめる。
そしてその直次を、総司は瞬きもせずに凝視している。

――直次は、生きろと云っているのだ。
来る年も、その次の年も、更に次の年も生きろと、生きて約束を果たせと、そう云っているのだ。
見つめる双眸は、否と拒む躊躇いも迷いも要らぬのだと、欲しているのは、己の言葉に是と頷くただそれだけなのだと、強く促す。
だがそう誓えと、今この場で、土方の前で契れと迫る直次は、何と無体で、しかし何と力強い息吹を、自分に与えてくれる者か。
総司の胸の裡を、熱い、それでいて切ない程に優しい風が吹き抜ける。

その直次から、つと視線を逸らせて、総司は土方を振り仰いだ。
そして其処に、共に生きろと、傍らに在れと命じる強い眼差しが、確かに自分を捉えているのを知った時、今一度視線を直次に戻した。
「・・則宗を、頂きます」
ゆっくりと唇を開き紡いだ言の葉は、高鳴る心の臓の音に邪魔をされ、少しだけ語尾が掠れた。
だがそれにも負けず、総司は、己の裡に刻み込むように、そして何よりも土方に聞かせたいが為に続ける。
「だから私は、直次さんの織物を待っている。・・・きっと、待っている」

やがて語り終えた時、静かに、そうして深くこうべを下げた直次の姿が、何故か視界の中でぼやけてしまう不思議を、総司は慌てて目を瞬く事で誤魔化した。





「邪魔だよ」
広い玄関の、式台の上にぞんざいに脚を置き、上がり框に座り込んでいる、到底行儀の良いとは云えぬ格好の土方に、羽織に残る白いものを叩(はた)きながら告げる八郎の調子は、遠慮の欠片も無い。
「あんたのその面白くも無い面(つら)が看板じゃ、来る客も来なくなる」
「総司ならいないぞ」
「いなけりゃ待つさ」
だがそう云う八郎も草履を脱ぐや、同じような格好で、横に腰を下した。

「直次が、来ていたのかえ」
二人の男の間に、丁度境を作るように置かれた細長い布袋をちらりと見遣り、その中身を察しての、八郎の問いだった。
「こいつを、総司に置いて行った」
「へぇ」
相変わらず視線は正面に向けられたままで返った、凡そ愛想の無い物言いだったが、それに応えた八郎も、その事に然して驚いている様子は無い。
「それで総司は?」
「直次を、門前まで送っていった」

則宗を託された総司の反応を問うたつもりが、見事に外して寄越した土方のいらえは、果たして故意か偶然か・・・
否、それは前者に相違ないと、八郎の唇の端が歪む。
幾ら広い寺領とは云え、送り帰って来る道程は、高が知れている。
が、その僅かな時をも辛抱が効かず、玄関先で想い人を待つ恋敵の仏頂面は、直次への妬心がさせる稚気だとは、云わずとも知れる。
だがそれと同じものは、確かに己の裡にもある事に、八郎は自嘲の笑みを浮かべた。
「何だ?」
気配で察したのか、胡乱な視線が、ちらりと横を見遣った。
「あんたには、どうでもいいことさ」
が、八郎は、視線を動かすでも無く、短いいらえだけを返した。


 大の男が二人、玄関の上がり框に腰を下ろしている様は、確かに異様なものなのだろう。
しかもその一人が副長とあっては、外で番に立っている二人の隊士の緊張も、並大抵のものでは無いらしく、向けている背が酷く強張っているのが、遠目からでも十分に判じられる。
だが土方も八郎も、そんな事は全く意に介する風も無く、一向に腰を上げようとはしない。

「・・妙と云う女の申し出を、直次は断ったのか?」
曇天とは云え、屋内よりは多分に明るい外にちらつく氷の礫を、見るとも無しに視界に入れながら、八郎が問うた。
「女の気持ちを汲んだ上で、直次は同じ位置にいたいのだろう」
「同じ位置?」
「菱屋を立て直すと云った、妙と同じように、自分も裸一貫から商いを始めるつもりなのだろうさ」
「同じ位置・・ねぇ」
交えるつもりの無い視線を、過ぎ行く季節の名残の情景に留め、八郎は僅かに目を細めた。

土方の云っている事は分かる。
直次が妙の申し出を断ったのは、それが矜持とか見栄とかではでは無く、そう云うものを超えて、相手と同じ歩幅で歩んで行きたいのだとの、強い想いから来ているのだろう。
それを土方は、同じ位置と云う言葉で云い換えた。
例え報われぬ片恋で終わろうとも、直次はこの先も、身を挺して妙を護り抜くことで、己の想いを貫くつもりなのだろう。
そしてそれは、決して表に出る事は無い。
だが傍から見れば、狂人の愚行と嘲り笑われるだろう生き様を、直次ならば、ごく当たり前のようにやってのけるだろう。
それは勘ではなく、己と重ね併せての確信として、八郎の胸の裡にある。
総司を追い、必ずや捉えると決めた時から、もう人の形(なり)も振りも、とっくに捨て去った。
だから外木伝右衛門が自分を狂人と言い切ったそれは、決して外れてはいなかった。
確かに――

「・・狂人なのだろうさ」
白く濁る息が、語尾をくぐもらせた独り語りの呟きに、漸く土方が八郎を見遣った。
だがそれも一瞬の事で、視線は直ぐに又、正面へと戻された。

――狂人と嘯いた八郎が、何を意図してそんな言葉を漏らしたのか、それは分からない。
否、知ろうとも思わない。
しかし土方の耳に、それは強かに刻み込まれ、罪人を断ずる咎のように、あざとく木霊する。
想い人の孤独と怯えを知りながら、敢えて知らぬ振りを決め込み、生きろと、死ぬなと、そう誓わせる自分は、疾うに常軌を逸しているのだろう。
それでも、総司の唇が言葉を紡ぐのを止め、血潮のひと滴(しずく)も通わなくなり、人の温もりを失くしても、自分は掴んだ手を離しはしない。
例え抱く身が屍になろうが、未来永劫朽ち果てる事無く、離しはしない。
生きろと、ただこの自分の為に生きろと、総司に命じ続ける己は、確かに狂人以外の何者でもないのだろう。
だがそうする事に、何の躊躇いも無ければ、無体だとも思わない。


「伊庭」
が、一時捉われた、感傷ともつかぬそんな思考から抜け出すかのように、前を見据えたまま、土方が横の主に声を掛けた。
「妙と云う女が、昔総司が俺に問うた事と、同じような事を云った」
面倒そうに見遣る視線を気配で感じても、土方は振り向くでも無く続ける。
「小さな頃の好きが、大人のそれに変わるには、何か切欠があるのだろうかと、江戸に居た頃、あいつが俺にそう問うた」
「で?」
気の無い相槌を打ちながら、八郎は、漏れた息の白さが、次第に色を透かせて消え行く様を見ている。
「端から傍らにいると決まっている奴に、今更好いた惚れたを教えてやるのも面倒で、知らんと云ってやった」
そう云い切るや、土方の唇の端に、薄い笑みが浮かんだ。
その寸座、それがこの男の自信と、自分への挑戦なのだと承知した八郎の片頬が、皮肉に歪められる。
「意地の悪さだけが、あんたの天凛らしいな」
吐いて捨てるでもなく、むしろ呆気無い程に淡々と返したいらえの素気無さは、これも又是が非でも譲れぬ、八郎の、恋敵への矜持と強気だった。
「生憎とな」
が、ちらりと見遣って応える口調には、此方も引く事の出来ない意地が籠もる。

 その男達の様を見守る雪の白が、行く季節を惜しむかのように、天からおり、地に触れ色をなくす。

「則宗を、総司はもう見たのかえ」
一時流れた沈黙の時を、今度は八郎が破った。
「いや」
土方のいらえに、視線を外に止めていた八郎の目が緩んだ。
「あいつらしいな」
則宗と云う名刀を掌中にしたその事よりも、総司は直次を案じ、短い道程を送る事を大事と選んだ。
そしてそうした想い人の行動が、土方を不機嫌にさせているのは、容易に知れた。
だがその心根を誉めてやるよりも、嫉妬の糧にしか出来ぬのは、何も恋敵だけでは無い。

「さても・・何処まで遠くへ行ったのやら」
脇に在る則宗に視線を落とし、自嘲の苦い笑いを漏らしたそれと共に漏れた白い息が、想い人を待つ八郎の心裡を映すかのように、落ち着かなく四方(よも)に霧散した。





「雪、積もるかもしれへんなぁ」
広大な寺領を囲む土壁が、唯一外界との接点を作っている黒い門を漸く視界に捉えると、直次はつと立ち止まり、差していた傘を、少しだけ傾けて天を仰いだ。
その挙措が、もう直ぐ其処に別れが来たのだと、総司に知らしめる。
「明日の朝までに、止むと良いのだけれど・・」
一瞬捉われた寂寞感を拭い去り、同じように天を見上げて呟く声音が、心許ない。
「降っていたかて、大した事あらへん。京から彦根までは、直ぐですわ」
「・・でも」
案ずるなと笑う直次に、しかし総司は、尚も恨めしげに降りしきる雪を見ている。

明日、彦根に戻る旨を、直次は先程、土方と総司に告げていた。
例えそれが一時のものであっても、親しい者との別れは、一抹の寂しさを総司の裡に植え付ける。
地に生きる人であるのならば、天の齎す気侭には、諦めの息を吐く他無いのだとは承知しているが、それでも執拗に拘るのは、こうして話を途切れさせぬ事で、せめて少しでも、直次と居る時を伸ばしたいのだと・・・
そんな総司の感傷が、させるものだった。

「この雪かて、忘れられるのが寂しいんですやろ。せやし、こないな季節外れに云うて、人に疎まれても、降り続けていたいのですわ。・・なんやうちには、雪が、自分を忘れんでいてくれ、そないに云うてるような気がしますわ」
降り掛かるむつの花を払おうともせず、むしろ横風に流されて舞うその様に、直次はいとおしげに目を細めた。
「・・うちは沖田はんに、もうひとつ、お礼を云わなあかん事がありますのや」
「お礼?」
天に向けたままの横顔から不意に漏れた言葉に、総司は怪訝に問い返した。
「へえ、お礼ですわ」
それにゆっくりと振り返った、直次の双つの眸が笑っていた。

「村瀬に捕まった時、うちはもう生きては帰られんと覚悟しました。けどそれでええと思うた。則宗さえお嬢はんの元へ返せたら、もう自分の命なんぞどうなっても構まへん、そないに決めてました」
語られようとしている、一言一句も聞き逃すまいと、無言で立つ総司の頬を、風に乱された雪が弄る。
だがそれすら今は意識の外に置いているのか、深い色の瞳は瞬きもせず、ただ直次を見つめている。
「けど助けに来てくれた沖田はんの姿を見た時、うちは思わず、ここやっ、云うて叫んでた。ここや、うちはここやっ、・・・声が嗄れるまで叫んで、叫んで・・自分を見つけて貰おうと必死やった。その時うちは、生きたいんやと、生きて、もう一度お嬢はんに逢いたいんやと、一番深いところで足掻いていた、ほんまの自分を知ったんですわ」
想いの丈を迸らせるのでもなく、秘めた恋情を吐露するのでも無く、むしろ淡々と、辺りを白く染め上げて行く、降る雪の静けさにも似て語りは続く。
「沖田はん・・」
やがて直次の面から笑みが引き、真摯な眸が、総司を捉えた。
「うちを忘れんでいてくれて、おおきに。・・ほんに、おおきに」

下られた直次のこうべに、白い礫がおり、直ぐに髪の黒に透けてしまう様を見つめる瞳を、何かが不意に滲ませたと思った途端、今度はそれが頬に滑り落ちそうになったのを、総司は慌てて目を閉じる事で堪えた。
「・・私は」
そうして再び瞳を開き、発した声が震える。
「私は、直次さんを、来年も再来年も、それからその次の年も次の年も、ずっと待っている」
どうしてこの胸に在る思いを伝えて良いのか、その術を見つけられぬ不器用は、語ろうとする言の葉を、知って欲しい言の葉を、ともすれば覚束なく詰まらせる。
だが総司は、まるで睨みつけるようにして直次を凝視し、土方の前で交わした約束を、今一度繰り返す。
生きたいのだと、土方の傍らで生きて、そして来る年も、更に来る年もその先も、直次を待っていたいのだと・・・

「・・・きっと、待っている」
そう告げる代わりに、凍てて色を失くした唇が、戦慄くようにして、ひとつ誓いの言葉を紡いだ。
「・・おおきに」
その総司を、直次も又言葉無く見つめていたが、やがて静かな物言いと共に緩んだ頬が、ぎこちない笑みに変わった。
「あかん、お天道はんが顔見せんと、湿っぽくなってしまうわ」
そんな感傷は自分には似合わないのだと、笑って告げた顔が、だがすぐにくしゃりと歪み、それを隠すようにして、直次はもう一度天を見上げた。

「真っ白やなぁ・・・」

吐く息だけで漏れた、柔らかな声音が、むつの花の冷たさを超えて、温(ぬく)く、総司の耳に触れる。
その熱さと同じように――
死ぬなと、闇の淵に沈んだ魂を揺さぶり起こしてくれた、土方の強い声が、今総司の裡に幾重にも和して響く。

自分が想う強さの分だけ、まるで併せ鏡のように、相手も同じように想っているのだと。
想いの強さに負け、失う事を怯えるのは、相手も同じなのだと。

そう教えてくれた直次の横顔に、白い雪が降りては消え、消えては降りるのを、今度こそ誤魔化し切れずに滲む視界の光景にして、総司は身じろぎもせず見つめていた。








                                             なごりの雪  了






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