こもよみこもち 
ふくしもよ みふくし持ち 
この岳に菜摘ます子 
家のらせ 名のらさね
そらみつ倭の国は 
おしなべて われこそをれ 
敷きなべて われこそませ
我をこそ 背とはのらめ 
家をも名をも


        
万葉集 雄略天皇  




              
       

              櫻の森の物語 (上)




              それは――
              不思議な光景だった。
              現の見せる幻か。
              それとも櫻花が惑わす、
              うたかたの夢だったのか。
              ただ我が目に刻みし姿だけが、
              時を経て、尚も鮮やかに蘇る。






 櫻が花開く頃合を、瀬能忠顕(せのうただあき)は嫌っていた。
が、人々が愛でる季節を厭う、その理由を問われても、明快な答えがある訳では無い。
それでも語れと迫られるのならば、楚々とした風情でありながら、世を彩るあまねく一切を、一時、己の花弁の淡い薄紅一色に染め上げてしまう、その強かさが気に入らないとでも告げようか・・・
そんな呆れた癇症を、声にはせず、唇の端だけで苦く笑った片頬に、茜色の陽が斜めに射し込む。
だがその光の中、白を金色に変えて舞う花弁も又、今己の思考を占めていたそれである事に気づき、忠顕は緩く歩かせていた馬を止めた。

 おもむろに見上げた其処には、やはり櫻の大木が、四方に枝を張り巡らせ、今が盛りと花をつけている。
これも櫻を厭うた自分への、天のあざとい戯れかと、自嘲の笑みに口元を歪め、再び敷き詰められた花弁の中を進もうとした刹那、つと前に落とした視線の先に、西陽を跳ね返し煌めく何かがある。
普段ならば気にも留めずに過ぎ行く些細が、今は何故か気にかかり、忠顕は一瞬眸を細めると、躊躇い無く馬を滑り降りた。
 拾い物を掌の上に乗せて見れば、其れは白を基調にして、幾つか似たような彩の糸を組み込んだ紐だった。
「・・・下げ緒か」
だが暫し無言で見詰めていた忠顕の唇から、やがてくぐもるように漏れた呟きには、僅かの間に漣立った感情の痕があった。
 一部しか形の残っていないそれが刀の下げ緒だと、即座にそう判じられたのには、訳がある。
否、この縛り方に難儀する事が無くなり、そしてそれを巻いた刀の重さを、常に己の身と共にある、ごく当たり前なものとして過ごした時の方が、今こうして洋式の軍服を纏う忠顕にとっては、遥かに近しい昔だった。



――昨年正月、京に於いて遂に火蓋を切った戦は、江戸幕府の瓦解と共に、忠顕の全てをも一変させた。
それは己の来し方を遠く葬り去り、そして行く末を強引に捻じ曲げねばならぬ、断崖へまで追い遣られたと、そう言い切るに相応しい、あまりに激しい変わりようだった。

人に告げた処で、はてと首を傾げられるのがおちの、畿内のごく小さな藩の藩主であった瀬能家を、忠顕が封襲したのは、戦の始まった慶応四年、その同じ春に、明治と改号された年の正月の事だった。
倒幕か、佐幕か。
揺れ動く時代の嵐の中、禄高一万石の弱小藩ながらも、忠顕の父忠輝は、徳川家への忠誠を貫こうとした。
しかし世の流れは、そのささやかな切願すら容赦なく斬り捨てた。
 藩内の領民を戦に巻き込む事を憂い苦悩した末、戦の始まった睦月三日の翌日、忠輝は新政府軍へ恭順の意を示す密書を送った後、家督を子の忠顕に譲り自らは隠居した。
そして国家老ひとりをあの世への供に自刃したのは、それから僅か数日も経無いうちの出来事だった。
だが忠顕は、父の亡骸を前に、泪ひとつ零す事も許されなかった。
否、迸る奔流の如く変わり行く時勢の荒波は、哀しみに沈む時すら、この若き君主に与えなかった。

新政府軍は、鳥羽伏見の戦の後に恭順の意を示した藩に対しては、日和見的な立場でいた事への、或いは徳川よりの姿勢であった事への戒めとして、過酷な仕打ちを課し、それを他藩への見せしめとした。
忠顕の藩とてその例外ではあらず、駆りだされた戦に於いては常に最前線に立たされ、弾除けのように扱われた藩士達の無残を、日々目の当たりにせねばならなかった。
それでも忠顕は、戦わねばならなかった。
己が背負う数多(あまた)の配下と領民の為に、自ら兵を率い先頭に立ち、北へ北へと、転戦を続けた。
 やがて春が行き、天が暗雲に長く阻まれる季節も抜け、強烈な陽が、地に生きるものを焦らし始めた夏、忠顕の軍は、越後長岡での戦の後漸く開放され、自領へ戻る事を許された。
が、その時点に於いても、未だ北の地では、旧幕軍の生き残りが、新政府軍相手に熾烈な争いを繰り返していると聞いた。
しかしそれも忠顕にとっては、最早どうでも良い事だった。
生き伸びる為に――。
力無き極小藩の民と家臣達が、どのような事があっても新しい世で生き延びる為に。
これから忠顕がやらねばならぬ事は、目まぐるしいほどにあった。



 そんな感傷ともつかぬ感情の綾に絡め取られる事を嫌い、手にしていた下げ緒を、再び地に滑り落とそうとその時。
立ち上がった忠顕の視線が、遠くの一点に、吸い寄せられるようにして止まった。

 此方を見ない後ろ姿は、確かに人のものなのだろうが、折から射し込む光華が、その輪郭を朧げなものにし、一度瞬きした瞬間、夢かと消え行きてしまいそうな錯覚を起こさせる。
しかも時折は、櫻の幹の陰に隠れ、視界からも姿を消す。
が、それは相手に動きがあるからこその事であり、だとすれば、今確かに己の眼(まなこ)が映し出しているのは人であるのだろうと、一瞬覚えた奇妙な感覚を打ち消すや、忠顕は唇の端を緩めた。
だがその気の緩みが、皮肉にも気配を悟らせる結果となったのか、背を見せていた相手が、徐に振り返った。
その刹那――。
引き締まった口元に浮かべられかけた笑みは、不完全な形のまま、歪みだけを残して止まった。

 向けられた、黒曜石の漆黒にも似た瞳の色は、四方に跳ね返る金色(こんじき)の光すら深く沈め、忠顕を凝視して瞬きもしない。
細い筆で、時を掛けて丹念に描かれたような面輪の線と、其処に形良く収まる造作は、精緻を極めるが故に、血の通わぬ作り物のようにも思える。
それでもこの者が若い男子であろうと云う証は、それら全てに、女性(にょしょう)特有の線の柔らかさと云うものが薄く、有るのは、ぎやまんのように、冷たく繊細な硬質さを感じさせる点だった。

若者は、一言も発せず、忠顕を見つめている。
忠顕も又、無言のまま若者を見ていたが、その相手の視線が、錯覚とも思える一瞬、他所に逸らされたのを、見逃しはしなかった。
そして、その瞳が捉えたものが、何であったのかをも。


「探しているのは、これか」
重い沈黙を破り発せられた忠顕の問いに、しかし若者は応えない。
差し出された下げ緒に、僅かに視線を送りはしたが、硬いままの面持ちは、問いに対する応えの是か非かまでを悟らせはしない。
だが忠顕には、それだけで、いらえの中身は十分過ぎた。
 結われる事無く下された若者の髪は、項の辺りで無造作に纏められている。
が、その艶やかな髪を束ねる縄手が、今自分が手にしている下げ緒と同一のものだとは、後姿しか見せていなかった遠目からでも、容易に判じられた。
地を、淡い色で覆ってしまった櫻の花弁に埋もれるようにして、この者が探していたのは、違(たが)えようも無く、掌にある下げ緒の筈だった。

「これかと、聞いている」
促す声には、次第に頑なな相手に対する苛立ちと、是と応えるよう命じる強引さが籠もる。
それでも深い色の瞳の主は、花弁の淡さよりも透けた唇を開こうとはしない。
「応えたくなければ、それも良し。が、この下げ緒は我が拾い物」
意地の悪い言葉に、さてこの者はどんな反応を示すのか・・・
どうしてもそれを見たいと希(こいねが)う執拗さは、忠顕自身にすら信じ難い行動に走らせる。
「ならば己がものをどうしようが、それは我が身の勝手」
下げ緒を隠すようにして掌を握り締め、踵を返しても、背の向こうで動く気配は無い。
その強情が、忠顕の苛立ちを、怒りまでに駆り立てる。
馬の手綱を取り、鐙に足を掛け、勢いのまま宙に弧を描き鞍を跨ぐと、視界は一瞬にして変わる。
その高い位置から見る若者は、やはり唇を閉ざしたまま、忠顕を凝視している。

「我が名は、瀬能忠顕。国元は、千本万本の櫻が、うねる波の如く山を染め上げる花の里」
高らかに放たれた叫び声は、櫻の枝を震わせ、花を散らせる。
しかしその典雅な舞すら視野に入れる事無く、忠顕は手綱を引き、それに驚いた馬が一際高く嘶いた。
「この下げ緒、返して欲しければ尋ねて参れっ」
怒号にも似た大音声と共に、忠顕の双眸は、食い入るように若者を捉える。
だが玲瓏な面輪は、最後まで、いらえを返す事はなかった。




 疾走とも見紛うべき速さで、馬は櫻の森を駆け抜け、視線の先に捉えた景観は、一瞬にして後ろへと流れ去り過去となる。
――果たしてあの若者は、現のものであったのか、それとも櫻の惑わす夢幻であったのか。
或いは、悪鬼か夜叉か・・・
そんな事はどうでも良かった。
だがあの者は、この下げ緒を取り戻しにやって来る。
しかしその邂逅は、次の年の花の季節なのか、その次なのか、更にもっとずっと先の事なのか・・・
否、それは時と云う流れで計る事の出来ないものなのかもしれない。
が、必ず、あの者は遣って来る。
この下げ緒を取り戻す為に、ただそれだけの為に、自分を探して遣って来る。
それだけが、忠顕の確信だった。

その時を待つ昂ぶりと焦燥を、せめて猛るように走る馬の速さで鎮めんと、忠顕は幾度目かの鞭を振るった。





 吉野は、下千本、中千本、上千本、そして奥千本の櫻が、ひと月の余をかけて、薄紅の朧霞に山を染め上げる。
そして芳春の景観が終わると同時に、新緑が息吹く季節を迎える。

だが桜紅ひと色が、次第に山を覆い行く様は、それがあまりに鮮やかな変容であるが故に、時に見る者の心を惑わせ、ひどく落ち着かなくさせる。
が、己の裡に蔓延る苛立ちが、春の訪れと共に、次第に堪えきれぬ程に膨らみ出したのは、何も花の所為では無いと、忠顕は承知している。

 今年の櫻も、麓は疾うに仕舞いを告げ、中腹の其れもそろそろ散り始め、残るは今忠顕が地を踏みしめる、盛りの上千本と、あとは更に山深くの、奥千本を残すのみとなった。
しかし昨年も、その又前の年も、待ち続けている者は現われなかった。
それが、忠顕を焦らす。
だが待つと云うだけならば、此れほどまでに心騒ぎはしない。
こんなにも、胸掻き毟られるような切なさは要らない。

この焦燥の核(さね)を成すもの。
それこそが・・・
愚かしい程に呆気なく堕ちいってしまった、恋情と云う代物である事を、忠顕は承知している。
そう、あの時――。
自分は確かに囚われてしまったのだ。
時が経てば経つほどに、過ぎた季節を数えれば数えるほどに、逢いたいと、何故来ないのだと、切なく狂おしく自分を苦しめるのは、既に抜けられぬ片恋に陥った証以外の、何ものでも無かった。
 立ち止まる事を許されず、常に先へ先へと脇目も振らずひた走るしか無かった自分に、天は何と厄介な代物を褒美にくれたものか・・・
下された因果を恨みながら、あの者が現われるまで待ち続けるであろう己を愚かを、それでも忠顕は笑う事が出来ない。
――堕ちた情念地獄の業火は、既に忠顕自身にも鎮められない程に、高く燃盛っていた。


 だが敷き詰められた花弁が、踏みしめる音すら沈めてしまう櫻の森の中、進めていた足が不意に止まった。
そうして突然襲った驚愕は、忠顕から言葉を奪い、音を失くした虚空は、やがて静謐へと変り行き、時を止める。
ただひとつ。
天すら塞ぐように重なり合った花と花との隙を突いて零れ落ちる陽だけが、少しづつ傾き、互いが作るしじまの長さを教える。
しかし若者は、結ばれた唇を解こうとはしない。
あの時と寸分も変らぬ深い色の瞳だけが、忠顕を見つめる。

「遅かったな」
やがて焦れるように発せられたのは、忠顕の声だった。
「・・・櫻の花の咲く時にだけしか、探せない」
「ならば、麓の花盗人はお前か?」

幾星霜、再びまみえる事を切望し止まなかった姿を眼(まなこ)に映し、そうして今初めて花弁の彩よりも透けた唇から零れ落ちた声音を耳に刻み、心の臓は昂ぶりに弾けんばかりだと云うのに、相手に向ける語り口は、忠顕自身にも、不思議な程に静かなものだった。
捉われた恋情から、もう逃げる事も、目を逸らす事も出来無いのだと知れば、とことんそれに付き合うまでと決めた、その覚悟が己を不敵にしたのか――。
それ程までに、自分はこの者を待っていたと云うのか。
微かに浮んだ笑みに、待ち続けた己への自嘲と、そしてもうそうする他、術を知らなかった切ない想いとを籠めて、忠顕は若者を見つめ返した。

「下げ緒を、返して欲しい」
「嫌だと、云ったら?」
「返して欲しければ、尋ねて来いと云った」
「だから探し尋ねて来た云うのか?ならばその殊勝、褒めてやる。だが返してやるとは、云ってはいない」
意地の悪いいらえに、若者の端麗な面輪が強張る。
が、其れを視野に捉えながら、忠顕が視線を釘付けているのは、若者の黒髪を無造作に束ねている白い紐だった。
そして其れこそが、燻り続けていた嫉妬の熾き火を、一気に燃え盛る焔へと塗り変える。

下げ緒の持ち主は、この者にとってかけがえの無い、否、それは多分、激しく想い、そして恋慕う、唯一の相手なのだろう。
その事が、忠顕には許せない。
報われぬ片恋なのだと、千も万も承知している。
それでもこの者の瞳に映るのは、己の姿だけにしてしまいたいと――。
叶わぬと知り尽くしても尚、妬心と云う厄介は、忠顕を愚行に駆らせる。

「返して欲しければ、ついて参れ」
無情に言い放ち、容赦なく向けた背に、あの深い色の瞳はどれ程瞋恚の色を湛えている事か・・・
だがそれも、相手が自分だけに動かした感情だと思えば、今の忠顕にとっては、その怒りすらいとおしい。
が、置き去りにして進めていた歩みが、幾つも行かぬ内に止まった。
その刹那、空を裂くような鋭さで振り向いた忠顕の双眸が映し出したのは、薄紅色に染められた地に、散る花よりもゆっくりと崩れ落ちる姿だった。

「おいっ」
木漏れる陽も、戯れるように舞う花弁も、何一つ変わらぬ閑寂の中、放たれた叫び声だけが、櫻の森に響き渡った。





 斜めに射し込んでいた陽が幅を細くし、そうして室が茜色に染まり、漸く忠顕は今が夕刻に近いのだと知った。
だが目の前で昏々と眠る細い面輪は、その強烈な色すら透けさせ、貝殻の裏のように藍紫の血管(ちくだ)を浮かせた瞼を開こうとはしない。
躊躇いがちに伸ばした指で頬に触れてみれば、人のものとは思えぬ冷たさに、あの勝気な色を宿した瞳は、もう二度と自分を映す事は無いのではと・・・
淵に沈むような、戦慄を覚えずにはいられない。
しかし又、己の温もりが、何処へと彷徨い出た魂を、呼び戻しはしまいかと・・・
先程から忠顕は、その両の思いを繰り返し、眠りにいる者の頬に掛けた指を離せずにいる。

「・・忠顕様」
その忠顕の後ろから掛けられたのは、若い主の所業の意図を掴みかねているのか、遠慮がちに、囁くような小さな声だった。
「医師を呼んだ方が、宜しいのではありませぬか?下働きの者を、走らせましょう」
「要らぬ」
即座に返ったいらえに、敷居際に膝をつき、主の背の向こうに仰臥する病人を見ていた初老の男は、律儀が表に出た顔を困惑に染めた。
「ではせめて麓の屋敷に連れ帰り、休ませたら如何でしょう?この山荘では、碌な薬もございませぬ」
「それも要らぬ」
「しかし・・」
「櫻の季節の幾つかを、あてなく彷徨い続け、漸く探し当てた事に安堵し、力尽きたのであろう」
「櫻の季節を彷徨い、・・探し当てた・・・。どのような事で、ございましょう?」
「もう良い、行け」
背中を向けたままの主は、その言葉の意図する処も、そしてそれを告げる面に浮ぶ表情も、何一つ悟らせはしない。
そんな背を、老僕は暫し目を瞬いて見ていたが、やがて下がれと命じた後の無言の強さに負け、几帳面な一礼をすると、其処に気懸かりを残すかのように、ゆっくりと立ち上がった。


 病人への配慮からか、足音もさせず、忍ぶようにして去る気配が消えると、忠顕は、今一度、今度は眠りに在る者の黒髪へと手を伸ばした。
が、その指先が髪に届くか否かの、ほんの僅か手前で、それが一瞬引くようにして止まった。
 薄っすらと開かれた瞼の隙から、漆黒かと見紛う深い色の瞳が覗き、その寸座、若者の微かな身じろぎが、褥に広がる髪に、極々小さなうねりを起こした。
が、その一瞬の波紋は、金色(こんじき)の陽の筋を更に多岐に散らし、若者自身の面輪にも光の礫が降りかかった。
例え微弱なものでも、現に戻ったばかりの目にはそれすら強すぎたのか、若者は眩しげに瞳を細めた。
だが床に広がる己の黒髪に、結わえていた紐が無いと知ると、端麗な面輪が一瞬の内に凍てたものに変った。






琥珀の文庫   櫻の森の物語(下)