さくら(十)
足音を盗むようにして忍んできた影は、障子に姿を落とす間も無く部屋に身を入れた。そしてくくり枕の上の面輪がじっと見上ているのを知ると、表情を柔らかくした。
「起きていたのか?」
腰の刀を抜きながら、土方は枕辺に胡坐をかいた。
「さっき土方さんの声がしたから、待っていた」
逸る思いを知られるのが気恥ずかしいのか、総司は夜具に顎を埋めるようにして笑った。
「キヨさんと話していたら遅くなった」
そんな稚い仕草に、返す声もつい苦笑混じりになる。
実際、総司の一日を語るキヨのお喋りは長く、少しも早く顔を見たい土方の気を揉ませた。それでも総司も自分と同じ気持ちでいたと知れば、悪い気はしない。が、胸に満ちた幸福も一瞬の事だった。
「明日、大丈夫かな…」
小さな声が、心許なく問うた。途端、土方の顔が渋く顰められた。
「なるようにしかならんだろう」
親切とは程遠いいらえは、ありありと苛立ちに染められていた。
漸く仕事をこなし、足を急がせて会いに来れば、想い人は直截に悦びをぶつけて来た。そうなれば土方とて、らしくもなく心浮き立つ。ところがその同じ唇で、この愛しい者は、他の男を案じる言の葉を紡ぐのだ。己の虫の居所を悪い方へ寄せたのはお前の所為だとばかりに、端整な顔が仏頂面を決め込んだ。
が、まさか今の一言が土方の悋気の火種を熾したなどとは知らぬ瞳は、不意に変わった態度の理由が分からず、不安な色に揺れ動く。瞬きもせず見詰める瞳から視線を逸らすように、土方は夜具の脇にある薬盆に目を遣った。
「土方さん…」
重い沈黙に堪え切れ無くなったか、総司が呼んだ。寸座、土方は胸の裡で吐息した。
――視線を逸らせたその時から、己の負けは決まっていたのだ。
それでも直ぐに懲らしめを止めるのは気に入らない。土方は不機嫌な顔のまま、総司に目線を戻した。
「前田利聲公は、今日昼過ぎに山科の寺に入ったと使いを寄越した。御丁寧な事だ」
「利聲様が?」
皮肉めいた物云だったが、総司は土方が話に戻ってくれた事が嬉しいらしく、応えた声が弾んだ。
「暇を持て余しているとは云え、遠国から御苦労な事だな。尤も、藩主毒殺を企てた証を盾に取られては、面倒だの何だのとは云っておれまい」
「利聲様は、島崎さんの心を分かって下さるでしょうか?」
「そんな事まで分からん」
「けれど分かって貰えなければ、島崎さんの思いは無になってしまう」
「他人の事情まで知ったこっちゃ無い」
「私も行きます」
「ばかっ」
布団を剥ぎ、肘を立てて身体を起こしかけた総司を、慌てた声が叱った。その叱咤と同時に、小さな呻き声がした。急な動きが傷に響いたようで、総司は息を詰め、前かがみのまま身じろがない。土方は素早く後ろに回ると、骨ばった背を胸に抱きかかえた。それで安堵したのか、総司が小さく息を吐いた。
「利聲公の事は任せておけ」
意地をした詫びのように、耳朶近く、低い声が囁いた。総司は背を預けがまま暫く無言でいたが、ややあって、
「…島崎さんが、云っていた」
微かに呟いた。
「甘えられる人がいるのは、幸いなのだと…」
「……」
結えから、うなじに乱れたほつれ髪を指に絡め遊びながら、土方は先を促す。
「私の父は、物心がつく前にはもう居なかった。…だから島崎さんが、お父上に持った気持ちを知る事は出来ない。でも傍らに甘えられる人がいる事が、どんなに幸いなのか…、それだけは分かる」
そう云って、総司は斜めに土方を見上げた。
血の繋がりを越え、この世で結ぶ縁のどれよりも強く、己の瞳が今映し出している者こそが唯一の者なのだと、射干玉(ぬばたま)の瞳は訴えていた。その瞳に捉えられた土方の胸に、みるみる込み上げて来るものがある。それは身の内を灼きつくしてしまいそうに熱いのに、穏やかな幸福感に満ち、迸るように激しいのに、まどろむような陶酔に誘う。
一途で、不器用。気の利いた誘い文句に返す言葉すら知らない。だが想い人は、いつもこうして自分を翻弄する。やはり勝てはしないのだと分かっていても、胸に湧く愛しさには、少しばかりの悔しさが滲む。
この想いの丈を、さてどう返してやろうものかと…、思案を巡らせていると、ふと薬盆の上の湯呑みが目に入った。総司は背を齎せ、おとなしく胸の内に居る。土方はそろそろと、湯呑みに手を伸ばした。
「喉が渇いたろう?」
不意に降って来た声に、細い首がゆっくりと回され、土方を見上げた。面輪は柔らかな笑みを浮かべているが、瞳には意図を判じかねた戸惑がある。だがそんな様子には構わず、土方は白湯を含むと、強引に唇を合わせようとした。瞬間、総司は驚き身を捩りかけたが、抗いは難なく封じ込まれ、その仕置きのように、土方は抱いている腕に力を込めた。
強く、大胆に口腔を蹂躙しながら、土方は片方の手を、総司の夜着の上から傷を負ったあたりに触れた。それは唇を犯す荒々しさとは対照的な、労わるように優しい動きだった。
まだ体力の戻らない身の、息が切れる寸でのところを見計らい、唇はようよう解放された。瞳を伏せ肩で息をする総司の耳朶で、土方は耳打ちするように囁いた。すると青白い頬にたちまち朱の色が差し、艶やかに濡れた瞳が、先程までの乱暴者を見上げた。その時を待っていたように、土方は、今度はゆっくりと、流麗な線で描かれた唇に己のそれを重ねた。
火影が、ふたつ身をひとつの影に変えた。
山科にある醍醐寺は、醍醐山全域を寺領とする真言宗醍醐派の大本山で、境内は山上の上醍醐、山麗の下醍醐とに分かれ、都合七十以上の堂塔伽藍が立ち並んでいる。
その総門から少し南に下った辺り。鄙びた田舎風景に溶け込むように、前田利聲の指名した屋敷はあった。山茶花の垣根で囲まれた家は、素朴な庄屋屋敷の風情が強い。濡れ縁を巡らせた部屋の障子は開け放たれており、そこから醍醐山を借景にした中庭を見る事ができる。広い庭だった。
芽吹き始めた草木が浅春の陽を弾き、砕かれた光が宙に踊り煌めき、庭を白く霞ませている。四半刻ほど前に、品の良い老婆が茶を持ってきたきり人の気配は無い。斜め後ろに控えている島崎音人が心持ち硬い表情をしているのを視界の端に収めると、土方は目を閉じた。が、時を置かず、床を軋ませる足音が聞こえて来た。
富山藩前藩主前田利聲を迎えるべく、 土方はゆっくりと、頭(こうべ)を下げた。
「苦しゅうせずとも良い」
聞こえてきたのは、思いの外、清々しい響きだった。それでいて強い。寸座、土方は、頭の中で創り上げて来た人物像を捨てた。思い込みを引きずっていれば、駆け引きは負ける。
「土方と申したか、面を上げよ。それと…島崎、久しいの」
促され、頭を上げると、脇息に左の手を置いた細面が笑っていた。
若い世捨て人は、招かざる客を迎えるに、紬の着流しと云う寛いだ格好だった。
「此処は余の乳母の実家だ。乳母は余に取り、ただ一人気を許せる者。それゆえ、此処を選んだ。今この屋敷の中には、余と乳母、そしてそちらだけじゃ。秘密の話は邪魔者のおらぬ方が、進めやすかろう?」
胸の裡を見透かせたように、利聲が、土方に向けていた目を細めた。
「隠居と云うのは名ばかり。体(てい)の良い幽閉中の身ゆえ、乳母を見舞うと国を出るのも、中々煩く厄介であったぞ。そこまでして呼び出したからには…、土方、その方の話、さぞかし面白いものであろうな」
柔らかく物言う口辺には、微かな笑みが残っている。
「本来ならば、こちらから出向かねばならぬところを、利聲様には御足労をおかけし、恐れ多く存じます。しかし、この…」
土方はちらりと視線で後ろを示した。
「島崎殿が是非とも利聲様へのお目通りを願いたいと、縁あって新撰組を頼って来られました折、ならばそれがしが一緒に富山へ赴こうと申したのですが、島崎殿は、それには頑なに首を振るばかりで…。その後は貝のように口を閉ざされ、ほとほと困り果てました。そこで失礼をも顧みず、利聲様に直に伺ってみれば何か事情が分かるのではと局長の近藤が申し、取り急ぎ使者を立てた次第で…」
「もうよい」
大仰に顔を顰めた土方に、くっくと、愉快そうな笑いが返った。
「事情も分からず、か。よう云うわ。新撰組の副長は、希代の策士よの」
利聲の声に、棘は無い。
「土方、望みがあるのならば、早よう云え」
「ではお言葉に甘え…」
土方は、貴人の面に浮かぶどのような色も見逃さぬよう、鋭く利聲を捉えた。
「島崎音人殿を、新撰組で預かりたく存じます」
「勝手にするがよい」
が、利聲は逡巡する様子も無く、すぐにいらえを返した。
「ありがたき仕合せにございます。ただ…」
土方は、少しばかり眉根を寄せた。
「まだあるのか?」
「はぁ…」
利聲は脇息に置いていた肘を立てると、掌に顎を乗せた。続きを愉しげに待っている、そんな風だった。
「噂によればこの島崎殿は、途方も無い企ての証しを握る生き証人」
土方の目が、利聲を窺った。
「さすれば、利聲様には快くお許しを頂きましたが、それでは済まないお方々、つまり御家中の反加賀派の方々ですな、その方達にはどのようにお分かり頂こうかと少し頭を悩ませております」
――その反加賀派の主流である国家老笛木喜十郎とは、同じ今、八郎が会い、筋書き通りに事を運んでいる筈だった。
寸の間、重いしじまが座敷に翳を落したが、それも僅かな時だった。利聲が口を開いた。
「島崎に、利同殿の膳に毒を盛れと命じた時…」
春陽の長閑さにも似た、穏やかな口調で利聲は語り始めた。だがあまりに直截な言葉は、土方にすら驚きを覚えさせた。
「嫌ならばそれでも構わぬ咎めは無いと、余は申した筈。違おたか、島崎?」
問われて、音人が顔を上げた。
「左様に、利聲様は仰られました」
「そうであろう?その思いは、今も変わりは無い。事の成否は天の采配。所詮、それまでの企て事だったのじゃ。血の気の多い者どもは、余が叱っておこう」
利聲は微かに笑い、語尾がくぐもった。
だがその笑い声を聞きながら土方は、先程から己の裡に兆し、みるみる膨れ上がって行く、黒い靄の正体を追っていた。
何かが、違うのだ。
その正体を成すものが、見えそうで見えない。
焦りと、苛立ちが忍び寄る。
土方は意識を集中するように、面を伏せ目を閉じた。すると突然訪れた闇の底で何かが震えた。やがてそれは低いしゃがれ声に変わった。伝吉の声だった。
閉じた瞼の裏で、伝吉は云う。
見張っている間、屋敷に出入りしたのは、国家老の笛木喜十郎のみ。利聲は何事も無いように、穏やかな日々を過ごしていた。だがその穏やかさには、ひどく違和感があったと…。
利聲の、静かな声。
その中にある、まるで水面に映る花のような、実の無い違和感。
耳に残る、清々しい響き。
それは澄み、澄みすぎてこその強さすらあった。
ではその強さ、潔さはどこから来るのか…。
そこまで思った時、脳裏に閃光のよな衝撃が走った。
虚構と、現実。その相対するものを結ぶもの。
もしそれが、潔い決意に裏打ちされたものならば…。
土方は、はたと目を開けた。
瞬間、眩い光が束になって射し込み、思考を覆っていた靄が、はっきりと象(かたち)を現した。
――利聲が心に秘める真実。
それを、寸でのところで見逃してしまうところだった。
土方は胸の裡で、深く息をついた。
「利聲様」
音人の声に、黙考にいた土方の意識が呼び戻された。
「私が利聲様の御前に上がったのは、我が身の保身の為ではございませぬ。この命は、利聲様のお話を受けたした時に捨てております」
音人の声が、いつもより高い。気持ちの中に、昂ぶりがあるのだろう。
「これは私の父が、利保様の供をし伊勢へ下った折、私に宛てて書き、出さずに終わった手紙でございます」
利聲は、黙って音人を見ている。
「父の手ではありますが、利保様の、利聲様への御心も記されております」
音人は膝を進め、書状を利聲の前に置いた。
「利保様は、利聲様の御為に、富田御家老らの画策を加賀へ知らせたのでございます。江戸の方々の謀りごとが幕府に認められ成就すれば、御宗家は激怒し、その仕置きたるや計りしれませぬ。しかし先手を打ち、その途中で事を暴けば、御宗家の逆鱗に触れど、利聲様のお命だけは救える…、利保様は、そうお考えになられたのです。利保様は…、例え誤解され憎まれようと、利聲様の御命を救いたかったのでございます」
思いが先走るあまり、時に言葉を危くしながら、訥々と語り続けた声が途切れた。それと代わるように、啼くを潜めていた小鳥のさえずりが、再び聞こえて来た。利聲は、前に置かれた書状を手に取ると、暫し文字を目で追っていたが、ややあって、
「島崎」
音人を呼んだ。
「その方の父への拘りも、どうやら溶けたらしいの」
優しい、包み込むような眼差しだった。硬く強張っていた音人の顔に、戸惑いが浮かんだ。
「私などの事よりも、利保様の御心情をっ…」
「よい」
迸る思いを、短い声が制した。
「先程も申したとおり、利同殿暗殺に関しては、そちを責めはせぬ。そして余の心を慮り、この書状を持参してくれたこと、感謝しておる」
「利聲様っ…」
音人が、いざるように体を前にした。しかしその時、
「そうして貴方様はお己一人の御命を闇に葬り、富山をお救いになるおつもりか」
鋭い声が、利聲を刺した。寸座、音人が驚愕の目を土方に向けた。
その音人には一瞥もくれず、土方の双眸は利聲だけを捉えている。 そして利聲も、土方を刺すように見詰めている。
「いや…」
土方は、いらえを待たず続けた。
「藩主毒殺など、貴方様は最初からするつもりなど無かった」
「ほう…」
利聲は薄く笑みを湛えた。
「計画は、始めから失敗に終わると決まっていたのです。何故なら、貴方様は、ある程度事が進んだ処で自ら企てを公にし、一人責を取り自刃するおつもりだったのですから。それ故、巻き込む者はごく僅かに限った。…そう、知っているのは、島崎殿と、御家老の笛木殿くらいでしょうか」
土方は語尾を緩くし、利聲の面に浮かぶ色を見た。だが其処には、動揺も、激昂も、焦燥も、そう云う人としての感情の綾は一切現れなかった。利聲の眸子は、硝子玉のように土方を映している。
「何故、貴方様がそのような行動を起こしたのか…、いや、起こさなくてはならなかったのか…。それは御家中に蔓延している、御宗家支配への反発が、いつ火蓋を切ってもおかしくない程に膨れ上がってしまったからではございませぬか?」
利聲の目に、初めて細く険しい光が宿った。その目で、束の間、利聲は土方を見ていたが、ややあって緩慢な所作で脇息から体を起こすと、、庭に顔を遣った。音人の視線が、その動きを凝然と追った。
「のう、土方。そちは富山の民が、どれほど苦しい暮らしを強いられているか知っておるか?藩領には急な川が多く、常に水の被害に晒されている。しかも度重なる公儀普請への要請は、急激に藩財政を逼迫させた。その後の大火、大地震、凶作…。余が兄の跡を継いだ時、既に富山は容易ならざる状態にまで陥っていた。何とかせねばと焦る気持ちは、藩主になったばかりの余を焦らせた。父の言葉も聞かず、江戸家老富田の意見に従い飛騨高山五万石を富山に組み込む為、阿部老中に接近した。それもこれも、何とか富山を立て直したいが為だった」
「しかしながら、貴方様の過激な行動に危機を覚えたお父上は、御宗家にその事を密告された」
「あの時、余は宗家とて怖くは無かった」
語尾に、立ち戻れない過去への、乾いた笑いがあった。
「宗家は、富山の内情を常に把握し、支配下に置くことを虎視眈眈と狙っていた。…案の定、事を知るや宗家は烈火の如く怒り、余を藩主のまま隠居させ、父に実権を握らせると、まつりごとの中枢となる家老を送り込んできた。…富山は、加賀の傀儡になった」
「しかしその利保様が、富山を加賀の傀儡とさせても尚、護りたかったもの」
庭に向けていた利聲の面が、ゆっくりと動いた。
「それは貴方様の御命でございました」
ひたと据えた視線を受け止め、利聲の目が細められた。
「面白き事を云う」
「面白き事と云われるのであれば、今暫く御耳汚しをお許し頂きたく存じます」
「語ってみよ」
利聲は笑みを湛えていたが、声は笑っていなかった。
「貴方様は、お父上利保様の御心を御承知だった。それは御隠居を命じられる前か、それともその後の長い生活の中での事かは存じませぬ。ですが貴方様は確かに知ったのです。名君と名高き利保様が最後に護ったのは、国では無く、我が子の命であったと云う事を」
利聲は黙して、土方を見ている。
「やがて利保様が亡くなられると、御家中は再び、加賀派、反加賀派の二つの勢力で分裂の危機に見舞われ始めた。しかし加賀に拮抗する力は、富山にはまだ無い。反旗を翻せば逆に足元を掬われ、今度こそ、富山は完全に加賀のものになってしまうと貴方様は憂えた。何とか暴走を止めなければと煩悶した貴方様は、利同様毒殺と云う苦肉の策を企てたのです。無論、偽りの」
開け放たれた障子から入り込んだ光が、四方に散る。薄い黄金色が混じり始めたそれは、朝から昼へ、時の経過を教えていた。
「この計画を立てた時、貴方様は、我が身の行く末をも決められていた。それ故、この秘事は、御家老笛木喜十郎殿と、この島崎音人殿の…」
視線が指した時、音人は利聲を凝視していた。真実を欲する眸は、瞬きもしない。
「両名だけに、打ち開けられた。貴方様は二人を騙し、実行に移す。しかし途中でこの企てを、御宗家に分かるよう仕向ける。だが御宗家は、家中の反加賀派を一掃する事はできない。何故なら、この企ては、長い隠居生活で御宗家への恨みが嵩じた、前藩主の狂気が為したものだからです。御宗家は貴方様を粛清なさるでしょう。しかしそれこそが、貴方様の本意。貴方様は己の命と引き換えに、反加賀派の者達に、本家の力の大きさを知らしめ、今はまだ力蓄える時である事を教えようとなさったのですから。…貴方様は、御父上から託された富山を、守り抜こうと決められたのです」
長い語りの終わりに、細い息を吐いたのは、土方では無く利聲だった。
「…土方」
利聲の面にもう笑みは無く、声に微かな疲れが滲んでいた。
「今更隠す事も、もう無かろう。…そちの推量は大方当たっておる。だがひとつ、余にも手違いがあった」
利聲は音人に目を遣った。
「父の書状を見つけた島崎が国を出奔し、それに焦った笛木が、余に極秘裏で追手を仕向けた事じゃ。そちらには迷惑をかけたらしい。だが許してやって欲しい。あれも国を守りたいとの一心だったのじゃ」
その追手から音人を守る為に重い傷を負った総司の、血の一筋すら通わぬ白い顔が、土方の脳裏に浮かぶ。音人に調合された通仙散を服し、田坂の縫合を受け、そして目覚めるまで――。
明けゆく夜すら知らず、差し込む朝の陽の眩しさすら知らず、昏々と眠る想い人と同じ闇の中で過ごした時は、今も土方の胸を凍らせる。
だが土方は、禍々しい記憶を敢然と振り切ると、利聲に視線を戻した。
「利聲様、御身お一つで、御家臣、強いてはお家を守ろうとされた御心、それがしの胸にも深く沁み入ります。しかしながら、利聲様には生きて頂きます」
確乎と云い切った声が、まどろむような光に満ちる部屋に響く。
「天命の限り生き、生き抜き、富山十万石を見守って頂きます」
向けた眼差しの強さを跳ね返すように、利聲の眸に厳しい色が差した。
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