さくら(五)
「…んっ」
白い喉が大きく仰け反ると、薄い筋肉を纏った四肢が突っ張り、次に弾けた昂ぶりの余韻を追うように、ゆっくりと身体が床に沈んだ。
総司は瞳を閉じ、荒い息を繰り返している。だが内に潜む火の塊が、存在を誇示するかのように蠢くと、睫を震わせ瞼を開いた。
膚に血の色が透け、微かに覗いた瞳は、艶を含み茫洋と潤んでいる。この瞳を見る事の出来るのは、己ひとり。その想いが、土方を狂喜させる。
「まだだ…」
耳朶を甘噛した囁きも、夢現(ゆめうつつ)の狭間を彷徨う魂には届かないらしい。見上げている瞳は、上に被さる者の顔を映しはするが、捉えようとはしない。焦点の合わないのは、まだ悦楽の淵をたゆたうているからだろう。だがそうなれば、己を独り放っている想い人の冷たさが、土方には許せない。咎めるように荒々しく腰を進めると、苦しげな声が漏れた。それでも土方は動きを止めず、熱い深遠へ分け入る。その猛るような激しさに、総司は喘ぎ、激しく首を振る。やがて二度目の高みに達した瞬間、骨ばった指が土方の背に食い込み、突き出した喉首が、がくりと、抱く腕の中に落ちた。
夢路にいたのは、束の間の事だったらしい。何かが膚にふれた感覚に、意識がおぼろげに呼び戻された。薄く瞼を開けると、視界を覆う影が、更に闇を濃くしている。その影がぎこちなく動く。土方が、肩に夜着を掛けてくれているのだと判じた寸座、総司の唇から、安堵の吐息が零れ落ちた。
「目が覚めたか?」
労わるような声に、いらえは頷く仕草だけで返った。総司の、いつもの癖だった。
情事の後、総司は沈黙に籠る事で、身体に燻ぶる熱と、羞恥が消え去るのを待つ。だがそう云う想い人がもどかしいと、土方は思う。もっと奔放に、心のままに自分を求めて欲しいと、土方の雄は猛るのだ。欲すれば果ての無い己の業に自嘲しながら、夜着の襟元を合わせ終えると、総司が土方を見上げた。その瞳の中に、不安定に揺れ動くものがある。滅多に見せない、総司のもうひとつの貌(かお)だった。そしてそれは、土方に己の罪を呼び起こす。
土方にとって、総司は常に傍らに在って当たり前の存在だった。だがあまりに近くに在り過ぎたが故に、大事にしすぎたが故に、己の裡にある総司への想いが恋情と気付かず過ごした時は長過ぎた。そしてその長い日々は、総司の裡に、幸いを得たが為に別離を慄くと云う、相反する感情を植え付けてしまった。土方にとって、深すぎる痛恨だった。
「どうした?」
罪を償うように、土方は、見上げている瞳の額に乱れている髪をよけた。
「…夢を、見ていました」
「夢?」
細い頤が引かれた。
「小さな頃の夢です。…試衛館に行ったばかりの頃、朝井戸の水を汲んでいたら、土方さんと初めて会って…。土方さんは、井戸の水を汲むのを助けてくれた」
「小さいくせに、頑固な奴だと呆れたさ」
「土方さんは、意地悪だった」
「下駄の鼻緒を直してやったのは誰だ」
「けれど、怖い顔をしていた」
闇の中で、流麗な線に縁どられた唇が小さく笑った。
「でも…、あの時からなのかな?」
「何がだ?」
「…土方さんを、好いてしまったのは」
遠い記憶を手繰り寄せるように、或いは、再び夢路をたゆたうように、ゆっくりと閉じられた瞼が瞳を隠した。
「気が付いた時には、いつも土方さんを追っていた」
「その割には、お前は素直じゃなかったな」
「土方さんに、土方さんの事を好いていると、知られるのが怖かった…」
揶揄にも乗らず、瞳を閉じたまま総司は語る。
「どう云う事だ?」
「好きだと知られて嫌われるのなら、云わずに嫌われている方がずっと良かったから…」
「俺は嫌ってなどいなかったぞ」
「…だから辛かった」
「何故?」
柔らかな物言いが、先を促す。
「優しくしてくれる程、好きになる気持ちは募ってしまう。その分、いつか土方さんが他の人を好いて離れて行ってしまうのが怖くて、気が狂いそうだった…」
総司は淡々と言葉を重ねる。だがその抑揚の無さが、土方には、心の裡に蔓延る闇から目を逸らそうとしている、総司の必死に思える。
過ぎた月日を取り戻す事は出来ない。総司に孤独を強いた日々を、言葉で埋める事は出来ない。どうする事も出来ないもどかしさに焦れるように、土方はひんやりと冷たい頬に触れた。
「温かい…」
額を、頬を、滑る指を追って、くすぐったそうに総司が笑った。が、不意にその笑いを引くと、土方を見上げた。
「誰かを好きになっても、どうして人は幸せだけではいられないのだろう…」
闇の中で、射干玉(ぬばたま)の瞳が揺れた。その瞬間、いらえを求め、微かに開いていた唇が、土方のそれに塞がれた。
土方は、息を継ぐのも許さぬ程に、強く、そしてしなやかに総司を蹂躙して行く。形の無い不安に怯える心を包む、熱い膚。それに縋るように、夜着を滑り出た腕(かいな)が、上に重なる首筋に巻かれた。
「ほんま、うちは心の臓が止まるかと思いましたえ…」
思い出して、又激しくなった動悸を鎮めるように、キヨはふっくらとした手を胸に当てた。
「あの時伊庭はんが居てくれはったんは、きっと神さまが、島崎はんを守ってくれてたんですやろなぁ」
キヨの興奮は感動に変わり、しみじみと語り終わった時には、人差し指をそっと目尻に当てた。
「それであの…、島崎さんは」
「無事だ、足を捻ったようだが大したことは無い。念の為、今田坂さんが診ているがな」
代わりの声に後ろを向くと、どうにも物憂げな八郎の顔があった。
一のつく日の今日。
日暮れて、前へ前へ伸びる影を追うように、総司が診療所に着いた時、玄関に顔を出したのは、意外にも八郎だった。上がれと促した八郎の調子は、いつもと変わらず飄々としていたが、その気配が纏う厳しさを、総司は機敏に感じ取った。音人に何かあったのだと、すぐにそう判じ、急(せ)いて問う総司を諌めながら、八郎は事の経緯を語り始めた。委細はこうだった。
――八郎がキヨと音人の姿を見つけたのは、偶(たま)さかだった。尤も、目指していた先がこの診療所である事を思えば、それが早くなったか遅くなったかの違いだけだと、八郎は添えた。
ところが二人に声をかけようとした寸前、まるで通せんぼをするように、橋の真中で大八車が止められ、あっと云う間にキヨと音人の姿を隠してしまった。そして不意に波立つようなざわめきが起こると、今度は男の怒鳴り声が聞こえて来た。どうやら喧嘩が始まったらしいとは分かった。が、その刹那だった。八郎の視界の端を、強い光が過ぎった。刃物だと、そう思った瞬間には、足は橋板を蹴っていた。
遠巻きにしている野次馬をかき分け、行く手を塞いでいた大八車の前に飛び出すと、案の定、四、五人の男達が喧嘩を繰り広げていた。中には匕首(あいくち)を振り回している者もいる。異様な光の屈折は、この鋭い匕首の先端が放ったものだった。見回すと、群衆から逃げ遅れ、騒ぎの渦中で動けず、顔を強張らせているキヨと音人がいた。
「キヨさんっ」
八郎の叫びに、キヨが此方を向いた。その時だった。敵に避けられた大柄な体躯の男が、余った勢いを加減出来ず、キヨを庇うようにして前に出ていた音人目がけて突進して来た。匕首が、今度は音人を的にした。
間に合うか、そう思うのと、体の動きは同時だった。八郎は疾風の如く駆けると、男と音人の間に割り入りった。寸座、鞘で匕首を受けた手に、重い衝撃が伝わった。
鋭い音と共に弾かれた匕首が、明るい春陽の中で放物線を描き、川面に水しぶきを上げるまで――。瞬くにも及ばない一瞬の出来事だった。人々が、詰めていた息を吐いた。その時、遠くで大声が聞こえた。騒ぎを聞きつけて来た、町方の者だった。だがその声に皆が気を取られた一瞬、喧嘩をしていた者達が、一斉に身を翻し、取り巻く人の輪の中に分け入った。素早い身ごなしだった。一旦は追い駆けようとした八郎だったが、もう相手の影すら無いのを見極めると、刀を腰に収めながら後ろを振り返った。そこに、青い顔をしたキヨと、そして硬い面もちで男達が去った方角を見ている音人がいた。
「橋の上であないな喧嘩をされたら、ほんま迷惑千万ですわ。おまけに刃物まで振り回して…。お役人さんらも、もっとしっかりしてくれなあきまへんなぁ」
興奮から感動、そして憤慨へと、キヨは忙しい。
「そや、今日は沖田はんも一緒にお夕飯食べて行っておくれやす。御馳走つくりますよって」
「御馳走、ですか?」
「腕によりをかけますぇ。伊庭はんへの、ささやかなお礼ですわ」
キヨはうっとりと、八郎を見上げた。
「八郎さん、良かったですね」
夕餉の仕度を急がねばと、慌てて腰を上げたキヨを見送ると、総司はいたずら気な笑みを浮かべた。
「何がだ?」
「だって、先日キヨさんを怒らせたから、暫くはキヨさんの美味しいご飯にはありつけないと、云っていたじゃありませんか」
「旨い飯はありがたいが…」
八郎は行儀悪く胡坐をかくと、
「あいつ等を捕まえ損ねた」
舌打ちせんばかりに、低く唸った。
「あいつら…って?橋の上で騒ぎを起こしていた者達ですか?」
「あの喧嘩、わざとだ」
「わざと?」
細い線で縁どられた面輪に、硬い色が走った。
「町人同士の喧嘩に見せかけた、猿芝居だ」
「どうしてそんな事を…」
「島崎さんを、狙ったのさ」
見開かれた瞳が、凍てたように八郎を凝視した。
「匕首を持った奴も、それを避けたように見せた奴も、全て計算しつくした動きだった。…匕首は、俺が邪魔をしなければ寸分の違いも無く、島崎さんの心の臓を貫いていただろうよ。しかも身ごなしの鋭さから見て、かなり腕の立つ奴らだ」
障子を透かせた陽が、斜めに、部屋の半ばまで差し込んでいる。その茜色の残照が、八郎の横顔に厳しい翳りを作っている。
「何故、島崎さんが襲われなければならないのです」
詰め寄る総司に、ちらりと、視線が投げられた。
「土方さんから聞いて…、いや、聞かされちゃいないだろうな」
云いかけて止め、そして独り合点するように、八郎は呟いた。
「土方さんは、何を話してくれないのです」
曖昧模糊ないらえに焦れ、総司の調子が強くなった。
「そうせっつくな、今教えてやる」
八郎は、片方だけ眉根を顰めいなした。
「島崎音人を襲ったのは、おそらく富山藩の連中だ」
「富山藩?」
怪訝そうに繰り返した総司だが、ふと何かを思い出したように瞳を上げた。
「先日、八郎さんが、富山と加賀か…、と呟いた…。その事と島崎さんが、何か関係があるのでしょうか?」
「良く覚えていたな、褒めてやるよ。島崎音人は富山藩の、台所方だ」
「台所方?」
声に、どこかすっきりしないと云う響きがあった。
「尤も、台所方はあの人の代からだ。元々島崎家は藩主の侍医を預かる家だ」
それを見透かせたように、八郎は続けた。
「島崎さんの父親も、今より二つ前の藩主の脈を取っていた」
「確かに、島崎さんは、ご自分のお父上はお医者さんだったと云っていたけれど…。でもそれと島崎さんが襲われた事と、どう云う関係があるのです」
絡み合い、もつれ、或いは途切れた糸を繋ぎ合せ、霧の向うにある答えに辿り着こうとする深い色の瞳が、真っ直ぐに八郎を捉えた。
「…話したか無いが、それじゃお前は納得しないだろうな」
見詰めたままいらえを返さない面輪を見、
「仕方が、無いか…」
八郎の口から、重い息が零れた。
「ひとつ、肝に銘じておけ。これから話す事は、全て推測にすぎん」
「それは今はまだ…、と云う事でしょうか?」
「さぁな、だが憶測は、憶測だ。そこのところを間違えるな」
強く促す声に、総司はゆっくり頷いた。
「俺達は…、少なくとも、俺と田坂さんだが…、島崎音人が前の富山藩主で、隠居中の前田利聲殿の手の者であると推量した」
総司は、瞬きもしない。その反応を確かめながら、再び八郎は口を開いた。
「そして、現藩主毒殺に加わっていたと、判じた」
凝視していた瞳が更に大きく見開き、白い頬が強張った。
いつの間にか、畳を茜に染めていた陽は温もりを無くし、夜にはまだ遠い、薄く透けた闇が、部屋の隅に敷かれ始めていた。
「襲ったのは、富山の者か」
しかと頷く伝吉を見る、土方の目は険しい。
揺らめく火影が、障子に映る二つの影を、大きくし小さくし、外から忍ぶ風が強くなったのだと教える。
「存外早くに、居場所を見つけたな」
「島崎音人は藩主暗殺に加わっていた、生き証人でやす。藩加賀派の連中は、加賀藩がその事実を突き止める前に始末しなけりゃなりやせん。奴らは必死でやす」
「その苦労が、どこかの野次馬のおかげで水の泡か」
土方の唇の端が歪み、
「伊庭の奴、さぞ恨まれるだろうよ」
愉快そうな笑い声が、闇を押し退けた。
「が…」
その笑いを仕舞うと、土方は伝吉から視線を逸らせた。鋭い双眸は、暫し淡い灯を見ていたが、やがて整い過ぎた横顔が渋く顰められた。
「…総司が、島崎の事情を知るな」
誰に聞かせるともない、低い呟きだった。伝吉は心もち目を伏せたが、ややあってそれを上げた。
「副長」
呼ばれて、物憂げな表情のまま、土方が視線を戻した。
「居場所が知れた今、島崎音人を田坂先生の家に置いて置くのは危険でやす。一度暗殺に失敗した奴らは、あらゆる手段を講じて来やす。その時は、田坂先生に迷惑がかかりやす」
寡黙なこの男にしては珍しく、長い言葉だった。
「島崎の身は、新撰組で預かる。その為に、今山崎が田坂さんの家に向かった。取り調べの筋とあらば、島崎も拒む分けには行くまい。…それより伝吉、富山家中の様子はどうだった」
「表立っての動きは見られやせん。侍達にも緊迫した感はありやせんでした」
「悠長で、結構な事だな。水面下では、事は藩主暗殺にまで及んでいると云うに」
「その反加賀派の中心、隠居中の利聲公でやすが、こちらにも全く動きはありやせん。むしろ人を遠ざけるように、最近では滅多に外出もせず、又屋敷を訪ねて来る者も少ないそうです」
「姿を見たか?」
細められた双眸の中で、伝吉は頷いた。
「どんな人物だった」
「年は三十半そこそこ、穏やかな、落ち着いた人物と云う印象でやした。…むしろ落ち着きすぎた感が、あっしにはしやした」
「落ち着きすぎた、感?」
「へぇ。しかも屋敷内は無防備な程に人が少なく、静かでやした。とても藩主暗殺を企て、藩政の巻き返しを狙う人間の屋敷とは思えやせん。…利聲公自身にも、そう云う過激さは感じやせんでした」
「だが島崎音人を狙ったのは、確かに、富山の反加賀派の者達だった」
土方の目に、鋭さが兆した。
「その中心に座すのは利聲公だ。ならば焦りの無い筈が無い。屋敷に出入りする者もいなかったのか」
射していた陽が、流れて来た雲に遮られ、道にぽっかりと影を落とすにも似て、己の推量を曇らせるものに苛立っている口調だった。
「三日、利聲公の屋敷の内外に潜みやした。その間、ひとりだけ訪ねて来た者がいました」
「誰だ」
「五十前後の、身なりの良い男でした。夜遅く、闇に姿を隠すように、供もつけず一人で来やした。調べたところ、家老の笛木喜十郎と分かりやした。反加賀派の人間です」
「家老…」
「富山の筆頭家老は、現藩主の入国の折に、加賀藩から来た織部三左衛門。笛木家は、元は国元を預かる筆頭家老でありながら、織部の為に、今は形だけの家老職にとどまっていやす」
「だとしたら、利聲公との接触は、島崎暗殺に関する為の密会と考えて妥当だろう」
土方の目が、何かを模索するように遠くを見、そして細められた。そしてもう一度伝吉に視線を戻すと、
「だが引っかかるな」
低く呟いた。
「その、利聲公の落ち着き払った様子と云うのが」
伝吉が、無言で頷いた。それを見ると、土方は又目を灯に移した。
「まぁ、そっちの方は追々分かるだろうさ…。が、島崎の連行には煩い事を云いそうだな、あいつは」
それが誰とは云わない横顔が、心底憂鬱げに歪められた。
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