さくら(六)




 新撰組監察方山崎烝が、田坂家の玄関でおとないをたてた時、山崎は、二人の隊士を後ろに連れていた。自分の組の者ではないが、総司も顔は見知っていた。二人とも腕が立った。

「沖田さん、此方でしたか」
 三和土(たたき)から、山崎は穏やかに笑いかけた。
「山崎さん、島崎さんの事でいらしたのでしょうか?」
 来訪の目的を問う総司に、山崎は目を合わせたまま頷いた。
「島崎音人を連行します。これは局長からの命令です」
 いつもと変わらず静かな物言いだったが、遠く響く五ツ(午後八時頃)の鐘の音を背負いながらの声には、引かぬ強さがある。
「局長命令…」
 言葉の持つ厳めしさに、思わず呟き返した総司だったが、
「新撰組に居候していりゃ、当分心配は要らないだろうよ」
 不意に掛かった声に振り向くと、いつの間にか直ぐ後ろに八郎が来ていた。更に八郎は、
「それに新撰組が島崎さんを預かってくれりゃ、此処にも厄介を掛けずに済む」
 音人を軟禁する事に躊躇している総司の迷いを見透かせたように、苦笑した。その一言が、総司に心を決めさせた。
「分かりました。私も一緒に帰ります」
 理由も分からず突然、咎人のように連れ行かれるのならば、音人は憤りと不安に駆られるだろう。ならば自分が傍らに居る事で、少しでもその動揺が鎮まりはしないかと、総司が同道を申し出たのは、そんな思いからだった。
「少し待っていて下さい、島崎さんを呼んできます」
「お願いします」
 表情は変わらないが、山崎の声に安堵の響きが混じった。それが、総司を了承させた、つまり一番の難所を通過した所為だろうと察し、八郎は腹の裡で苦笑しながら、この苦労人を労わった。
「山崎さん、此処の主は生憎往診中だ。留守番は俺がしよう」
 それは昼間音人を襲った者達が、今度は診療所を標的にした際は、キヨを護るとの申し出だった。
「では隊士を一人残しますので、お願いします」
「気遣いはいいよ。あの仏頂面、端から俺を用心棒の勘定に入れて、算盤弾いてんだろう?」
「申し訳ありません」
「正直だねぇ」
 恐縮する山崎をからかう声が笑った。その時だった。かたりと鳴った音に、其処に居た者達の視線が奥に向けられた。そして間を置かず起こった小さな声に、誰よりも早く総司の身が翻った。その後を八郎が追い、框に飛び上がった山崎と二人の隊士が続いた。



 仄暗い廊下に、キヨは呆然と立ち尽くしていた。音人が使っている部屋の前だった。
「キヨさんっ」
 慌てて振り向いたキヨの顔が硬い。
「島崎はんがっ…、島崎はんがおりまへんのやっ」
 声も動転している。
「いない?」
 総司の横をすり抜けて、八郎が、部屋に踏み込んだ。
 室内には丸火鉢がひとつ。炭には灰が被さっていたが、冷気の中には、まだ温もりの余韻が溶けている。出奔してから、そう時は経ていない。

「キヨさん、最後に島崎さんを見たのは何刻(いつ)頃だったか、覚えているかえ?」
 キヨを落ち着かせるように、ゆっくりと、八郎は問う。寸の間、キヨは目を伏せ考えていたが、やがて顔を見上げた。その目に、もう不安げないろは無かった。
「半刻にはならしまへん」
 はっきりとした、調子だった。
「若せんせいが、急な患者はんの家に行かはるのを見送った時、丁度六ツ半(午後七時頃)の鐘を聞いたんですわ。それから風が強うなったなぁ思うて、沖田はんと伊庭はんのお部屋に炭を持って行きました」
「覚えている。そう云えばそのあと島崎さんの部屋に持って行くと云っていたが、それがあの人を見た最後かえ?」
「そうどす。その時、島崎はんはお部屋に居はりました」
 キヨは八郎を見、そして総司を見、しかと頷いた。
「変わった様子はありませんでしたか?」
「ありまへんでした。昼間あないな事があって、吃驚しましたやろとか、足は痛みまへんか、とか…、そないな話はしましたけど、島崎はんは、いつもと少しも変わりまへんでした」
 音人の声音、物言い、顔の表情のひとつひとつを思い起こすように、キヨは慎重に言葉を続ける。そのキヨの声を耳にする総司を、焦燥が追い立てる。

 音人は、田坂とキヨに迷惑がかかる事を恐れ、姿を消したに相違ない。だが刺客達は、既に音人の居場所を突き止めている。見張りも立てていただろう。そんな中、ひとり外に出るのは、敵に千載一遇の機会を与えたも同然だった。危険が、ひたりと音人に寄り添ったのだ。
 目の前を、みるみる覆う澱のような闇に、総司は慄然とした。

「あの人、足を捻っていたな。そう早くは歩けまい。それが幸と出るか災いと出るか…」
 八郎が眉根を寄せた。
「しかも京の地理に疎いと云う事は、それだけ闇雲に動かれてしまう可能性があると云う事だ。行き先も分からずか…。厄介だな」
「奈良かもしれない」
 不意に総司が呟いた。
「奈良?」
 訝しげな視線に、闇に浮かぶ白い面輪が頷いた。
「前に島崎さんが云っていた。京に来たのは、奈良にある薬草の村に行く途中だったと、…そうだ、きっと奈良だっ」
 語り聞かせていた調子が、云い終える頃には、確たる信念を持った強さに変わった。
「奈良にある、薬草の村ですか…?」
 山崎は言葉を止め黙考したが、直ぐに総司に視線を戻した。
「そう云えば、聞いた事があります。幕府直轄の薬草園もあると云う村の事でしょうか?」
 頭の中に整理されている書物を丹念に捲るように、山崎は慎重に問うた。
「そうです、そう云っていました」
「山崎さん、その村、奈良の何処だえ?」
 総司の逸りを鎮めながら、落ち着いた口調で八郎が訊く。
「大宇陀松山藩と云った方が、伊庭さんには通りが良いかもしれません。尤も藩自体は、元禄の世に無くなっていますが」
「大宇陀…、知らんな。どのあたりだえ?」
「大和の南、伊勢寄りの地にあります」
「では山科を抜け、南に行くのが近いな」
「多分…。島崎音人が富山から来た事を考えれば、そう考えるのが妥当でしょう」
「来た道を戻るのなら、迷わず済むからな」
 八郎の言葉に、山崎が目で頷いた。

 北陸地方から北国街道を南下すると、やがて東海道や、奈良へ続く大和街道の分岐点である、山科へ辿り着く。その山科から粟田口を抜けると京だった。だが音人が、京へは寄り道なのだと云ったのならば、元の道、つまり粟田口からもう一度山科街道に出、奈良へ向かうだろうと云うのが、八郎の推量だった。
 
「私は粟田口から、山科街道を探します。山崎さん、土方さんへの連絡をお願いします」
「俺も行こう。代わりの留守番は、そこの御二人さんに頼むよ」
 大柄な隊士二人を見比べると、八郎は、もう廊下の角に消えようとしている薄い背を追い始めた。



 飛び出すように門を潜った刹那、総司の瞳が、闇の向うに揺れる火影を捉えた。提灯の灯だった。
「田坂さんっ」
 叫んだ時、田坂は間近まで来ていた。
「島崎さんが、どうかしたか?」
 総司の声にある尋常でない響きを、田坂は即座に音人と結び付けたらしい。
「居なくなったのです」
「居なくなった?」
「奈良へ行ったのだと思います」
「奈良?」
「薬草の村だとよ」
 不可解を露わにした声には、八郎が応えた。
「お上の薬草園があるそうだ。が、幾ら勉学の為とは云え、命がけとくりゃ頭が下がるぜ」
「ではそれに付き合うあんたは、輪を掛けた勤勉と云う事だな」
 ようやく事態を呑みこんだ田坂が苦笑した。と、その時、二人の遣り取りに焦れたか、突然総司が駆け出した。
「おいっ、待てっ」
 その後を、八郎が追う。
「…どうにも、節介焼きだらけだな」
 遠くなる二つの影を見ながら、田坂は溜息を吐いた。これから先の展開を思えば、気は、手にしている薬籠よりも重い。
 家の中を窺うと、奥で慌ただしく動く人の気配がしている。ふと目を落せば、見知らぬ草履が脱ぎ散らかされている。余程慌てた客らしい。その内、山崎の声が聞こえて来た。新撰組が用心棒ならば、キヨの心配は要らないだろう。
「キヨっ、奈良だかどこかだか分からんが、行って来るっ」
 半ば投げやりに叫び置くと、田坂は憂鬱な足を励まし走り出した。
 乾いた地を、あざとい程の月あかりが白く照らしていた。





 粟田口は、京の七口と呼ばれる内のひとつで、そこから東山を超えると山科に出る。

「藩を出奔した状況を察すれば、あの人、関所手形なんざ持ち合せちゃいないだろうな」
「どこかで調達するなどという裁量も無さそうだな」
「ならば、京までは関所破りで来たのか…。案外、度量があるじゃねぇか」
 前を行く総司に、付かず離れず適当な間合いを取りながら話す八郎と田坂に、緊迫感は薄い。
「捻った足の具合は、どんなだえ?」
「大したことは無い。が、使えば痛みは増すだろう」
 相当な急ぎ足でありながら、淡々と語る田坂の息は少しも乱れていない。その横顔を、八郎はちらりと垣間見た。
「あんた…」
 意地の悪い視線に、鼻梁の通った横顔が視線だけを返した。
「治す振りをして、まさか悪くしたんじゃないだろうな」
「捻った処を触った折に、少しばかり力を入れただけだ」
 無情ないらえに、
「とんだ医者だな」
 呆れた吐息が零れた。
「下手に出歩かれちゃ、困るだろう?俺は人助けをしたつもりだがな」
「気の毒にな、島崎さん」
 さして同情しているでもなさそうな声を、春信も遠のく風寒が、千々に砕いた。

 風は芯に針のような冷たさを忍ばせ、膚を刺す。時は五ツ半(午後九時)近くになろうとしているのに、東大路に人影は絶えない。界隈に花街が点在するこの辺りは、夜の眠りに落ちるにはまだ早いらしい。
 その賑わいとは離れ、夜を一段深くし、ひっそりと沈む闇がある。祇園社だった。この北に続く知恩院を越えれば、粟田口は近い。総司の焦燥が、一段と激しくなる
――診療所の事情を察し、田坂の為に、吹き曝しの川原で薬草を探していた音人。蹲った後ろ姿は、近づく気配にも気付かず、ただ黙々と、まだ芽吹くには早い草を寄り分けていた。甘えられる人がいるのは幸いなのだと、そう教えながら、亡くして尚、父が憎いと云い切った横顔は、哀しい程に寂しげだった。
 過去へ追い遣るには鮮やか過ぎる時が、視界の端を流れ行く影のように、総司の脳裏に次々と蘇る。
 緩い勾配を急ぐ足に、壊れかけた肺腑が不満を訴え始めたか、次第に口で吸う息が多くなった。それでも足を止める事は出来ない。
 四条通りを過ぎると、関所に続く道を彩るのは、寺社の塀に影を作る月あかりだけになる。その先へ目を凝らしながら総司は、自分を呼ぶ音人の声を聞いた気がした。
 
 
 祇園社の北の外れ、東大路を挟んで西側に、膳所藩本多屋敷がある。
 己の縁に繋がるその藩邸を前を過ぎる時、田坂は一瞬、横目で垣間見た。だがそれは目的とする地までの距離を測る目星としただけであり、そう深い意味はなかったらしい。が、横の八郎は、その辺りから、田坂の裡に構えが出来たのを察した。そしてそれは、己も同じことだった。視界は平戸藩松浦屋敷の塀を捉えている。その手前に白川が流れ、その白川に沿って幾らも行かず右へ折れれば、粟田口までは一本道になる。夜も更けた頃合、山越えの街道に人は少なく、その分、身は隠しづらい。敵はこの好機を逃さないだろう。否、最後の機会と云えた。
「そろそろか…」
 衒いの無い声に、
「そろそろだろうな」
 返した田坂の調子にも、力みは無い。が、その言葉も終わらぬうちだった。前を行く総司が、突然、走り出した。音人を、或いは音人を狙う何者の存在を、総司の鋭い五感が捉えたに相違無かった。
「あの、莫迦っ」
 小さな舌打ちと同時に、八郎が地を蹴った。それに田坂も続く。
 八郎と田坂、二人の視界の中で、俊敏な生き物のような背が、しなやかに闇を駆け抜ける。その姿をしかと眼(まなこ)に刻みながら、八郎は、腰の刀に手を掛けた。
 


 白川から離れ、粟田口へ向かう一本道を暫く行くと、脇に雑木林が広がる。
 そこを目前にして、総司の耳は微かな物音を捉えた。それは刀と刀を合わせるような硬質な響きでは無く、何かが物に当たるような鈍い音だった。
「島崎さんっ」
 走りながら、声の限りに総司は叫んだ。敵の注意を引きつけるのが目的だったが、それは直ぐに功を制したようだった。葉を落とした枝の重なりから、月華の白がまばらに零れ落ちている。その光の中に浮かぶ人影が、一斉に総司を振り向いた。思ったよりも多い。瞳を細め音人を探すと、敵の囲いの向うに、大木を背にして片膝を付いている影が、此方を見た。音人だった。
「島崎さんっ」
 もう一度叫んだ時、一番手前に居た男が、無言で斬りかかって来た。真正面からの、まるで居合のような鋭い一閃を、身を横に飛ばしながらかわすと、総司は相手の脇腹に刀の峰を打ちこんだ。男は呻くような鈍い声を漏らしたが、身を立て直す事無く前に倒れ込んだ。その相手へは一瞥もくれず、総司は走る。
 後ろで、鋼のぶつかり合う音が聞こえた。八郎だろう、そう思った刹那だった。白刃が、音人めがけて振りかざされた。寸座、総司は息を詰めた。だが次の瞬間、襲いかかった男が、もう片方の手で目を覆いよろめいた。音人が鷲掴んだ土をぶつけたらしい。その一瞬を逃さず、総司は目眩ましを喰らい隙の出来た男の横をすり抜けると、音人を背に庇い敵を向うに回した。しかしすぐさま体勢を立て直した敵は、今度は総司と音人の二人を円の中央に据え取り巻いた。その向こうで、八郎と田坂も死闘を繰り広げている。
「島崎さん」
 鋭い声に、音人が総司を見上げた。ひたと敵に向けている横顔は、冴え冴えと照らす月の青を透かせている。犯しがたい厳しさと美しさを秘めた、剣士の横顔だった。
「走ります」
 音人は、無言で頷いた。
「必ず、一緒にいて下さい」
 立ち上がった音人の手を、総司のそれが掴んだ。



 敵の懐へ飛び込んだ瞬間、前に立ちふさがるように正眼に構えていた男が、もんどり打って倒れた。総司の剣が、相手の鳩尾に的確に入ったのだ。そう判じる間もなく、手を引かれて走る音人の視界は、目まぐるしく変わる。だが何故か、頬を嬲る風の痛い程の冷たさが、今は膚に心地良い。そして何よりも、握りしめられた手から伝わる温もりが、慈雨のように胸に沁み入る。初めて知る感覚に、音人は戸惑う。だが握られている手は、握っている手を放そうとはしなかった。


 低い呻きが聞こえた刹那、総司の身も強く後ろへ引かれた。
「島崎さんっ」
 振り返ると、均整を崩した音人が、前に倒れ込もうとしていた。
「大丈夫ですか」
「足を捻っているのを忘れていた」
 音人は顔を歪めて呟いた。それが如何にも音人らしい、愛想の無い物言いで、総司の面輪に笑みが浮かんだ。
「何だ?」
 黙ったまま口元だけ綻ばせている総司を、音人が見上げた。
「島崎さんが、いつもと変わらないから」
「白刃を突き付けられ、震えあがればいいのか?」
 即座に頷かれ、音人の顔にも仕方無しの苦笑が浮かんだ。
「少しは驚いたさ」
「そんな風には見え無ませんでした」
「驚いたのは、あんたのその腕にだ」
 今度は総司が怪訝に音人を見た。
「ふだんのあんたからは、およそ想像し難いな」
 そう云いながらも、淡々と語る調子は、言葉ほど驚いている風は無い。
「さっき、田坂さんや伊庭さんの姿も見えたが…」
「あの二人なら、大丈夫です。二人とも半端で無く強いから」
 そう教えた時、総司の瞳が悪戯げな色を湛えた。
「今頃は捕まえた相手に、何処の誰かを訊いているんじゃないかな?」
 笑いながら答えた総司だったが、
「でも…」
 ふと、音人を見詰めている瞳が、瞬きを止めた。
「それが何処の誰かは、島崎さん、あなたが一番良く知っている筈です」
 凝視する瞳に、音人は応えない。

 空には少しばかりの雲があり、射る月の光はその縁を黒くかたどっている。その月あかりは、更に木々の合間を縫い地に零れ、白い斑(まだら)を作っている。森と月の織りなす白と黒の静寂の中、音人は総司を見詰め、総司は音人を見詰めている。
 闇に沈む無言の時だけが、ひっそりと影を刻んで行った。

   




事件簿   さくら(七)