さくら(七)




 月華に浮き沈みするむ影が、音を盗んでしまったかのように、二人の間に重い静寂が訪れた。しかしそれもそう長い時では無かった。音人が、月を刺すようにして伸びる黒い枝を見上げた。

「奴らの目的は、俺の息の根を止めればそれで済む。あんたには関係が無い事だ。今なら間に合う、早く…」
「逃げません」
「強情だな」
 舌打ちせんばかりに、声が苛立った。
「奴らは必死だ。いくらあんたの腕が立っても、あれだけの数を相手ではどうにもならない」
「教えて下さい」
「何をだ」
 音人が、視線の端でちらりと総司を睨んだ。
「島崎さんが狙われる理由です」
 天を見上げている横顔が、一瞬強張った。
「それは、島崎さんが国元でのお家騒動に絡んでいるからですか?お殿様の交代に関わる企みの証拠を、島崎さんは握っている。だから追われている。…そうなのですか?」
 月の傾きが、森に翳りを作った。その影を方頬に受け、音人はゆっくり顔を回し総司を見た。口辺に、苦い笑いがある。
「そこまで知っていながら、何故俺に関わる?」
「拾ってしまったから」
「拾った?」
 不審げに眉を寄せた音人に、頷いた総司が笑った。
「桜の木を見ていたのに、島崎さんが急に目の前に飛び出してきて、思わず…」
「拾ったと云うのか?」
 つられて、音人も笑った。
「とんだ拾いものだったな」
「いいえ、良い拾いものをしました。でも…」
 総司の瞳が、真っ直ぐに音人を捉えた。
「だからこそ、本当の事を島崎さんから聞きたいのです。でも島崎さんが話したくなければ、無理を強いる気持ちはありません」
 音人は口を閉ざし、総司を見詰めた。青い光に照らされた森は、地にあるものを深い眠りに包み込むように静まり返っている。
 ややあって、音人の唇が動いた。
「俺を拾ったと云ったな?」
 ひたと視線を据えられ、総司は頤を引いた。
「ではこれも一緒に拾ってくれ」
 訝しげないろが、音人を映す瞳に走ったが、音人は無言で懐を探ると、油紙に包(くる)んだ書状を取りだした。
「俺の代わりに、これを届けて欲しい」
「…届ける?」
「そうだ、今はご隠居なさっている、富山藩前藩主前田利聲様に届けて欲しい。あんたにしか、頼めない。いや…、あんただからこそ、頼みたい」
「前藩主、様…?」
 驚きに見開かれた瞳に、音人が無言で頷いた。
「この企てが加賀藩に知れたら、富山は完全に加賀の統治下に置かれる。無論、反加賀派は一掃され、利聲様も今度こそただでは済まないだろう。そう云う意味で全てを知る俺は、反加賀派の連中にとっては危険極まりない存在だ。何しろ本家から迎えた利同様暗殺の一端を担い、遂行途中で放り出したのだからな」
 音人は唇の端を微かに歪めた。しかしその横顔を見詰める総司に、藩主暗殺に加わっていたと自ら告げる音人の言葉は、少なからぬ動揺を与えていた。そんな心裡を知らずして、
「だが利聲様は、己が主君の座に返り咲きたいと願い、利同様の暗殺を企てた訳ではない」
 音人は抑揚の無い声で続ける。
「計らいの大方は負に帰すると承知し、それでも利聲様は、富山が本家の傀儡になってしまう事を憂い賭けに出られた。そしてその企てを利聲様御自身から打ち明けられた時、俺はこの計画に加担する事を承知した」
「何故っ…」
 唇をついて出た声が、音人の選んだ来し方への無念に震えた。
「何故…、か」
 枝と枝の隙間を、風が吹き抜ける。その度、闇の濃淡が、右へ左へ揺れ動く。地に戯れる月の華に視線を置きながら、
「…何故だろうな」
 音人は、声にはせず笑った。それは嘗て川原で見た、胸を刺すような寂しい笑い顔だった。しかしその時総司の五感は、既に、このしじまに潜む異様な気配を察していた。重い殺気が、圧し掛かるようにやって来る。不意に、枝の先に止まっていた鳥が、月を横切るように飛び立った。
「囲まれたようです」
 静かな囁きに、音人が顔を上げた。







「遅いっ」
 この男にしては珍しく尖った声が上がった。その田坂の前で、土方は馬から下りた。
「総司はっ」
「島崎さんを追った、その二人を伊庭さんが追った」
 応えるも調子にも、苛立ちを隠さない。
 辺りを見回すと、低い呻き声があちらこちらから聞こえて来る。中には、地に伏したままのた打ち回っている影もある。どうやら田坂は、この者達の見張りを押しつけられていたらしい。その不満が土方に向けられたのだ。
「重傷だが、皆一応息はある。あとは勝手にやってくれ」
 しかも律儀な医師は、一通り傷を診て回ったようだった。が、それはさぞ乱暴な手当てだったろうと、土方は胸の裡で苦笑しながら後ろを振り返った。
「山崎っ」
 叫ぶや、
「ここを片づけておけっ」
 土方はいらえも聞かず、遠くなる田坂の背を追い森の奥へ走り出した。






 くすりと、分からぬように笑ったつもりが、音人は鋭く感じ取ったらしい。
「何が可笑しい?」
 胡乱な視線が、総司に向けられた。
「だって…。島崎さんが妙に落ち着いているから」
「くそ度胸さ」
 強気な物言いに、今度こそ小さな笑い声が漏れた。
「島崎さんは強いな」
「いや、弱い人間だ」
 打った半畳に返ったいらえは、意外にも真摯な響きを含んでいた。だがそれを訝しいと思ういとまは無かった。殺気は更に強くなっている。敵は闇の中で、確実に獲物の動きを捉えたのだ。
 音人を庇い、一歩前に出た総司の親指が、刀の鯉口を切った。その刹那だった。枯れた森をすり抜けるような風が起こり、斜め右横から黒い影が斬り掛って来た。しかしが銀刀が月光に煌めいたのは一瞬で、直ぐに男は地に沈んだ。斃した相手には一瞥もくれず、総司の視線は、既に次の敵へ据えられている。そして音人は、その背の向うに構える敵の数を、目を細め数えた。
――予想以上に多い。しかも相手は一斉には仕掛けず、ひとりずつ斬り結び、総司の息が切れるのを待つと云う策に出たようだ。そう素早く判断を下すと、音人は、
「これを頼む」
 総司の懐に先程の書状をねじ込んだ。突然の動きに、総司の気が一瞬敵から離れた。その隙を相手は見逃さない。今度は左横にいた相手が、上段から振り下ろして来た。
「島崎さんっ」
 その刃を跳ね上げながら、総司は叫ぶ。だが音人は敵陣に飛び込むように、走り出した。
「島崎さんっ」
 振り向かない背に、必死の叫びが迸る。この時を待っていたかのように、音人を目がけ白刃が繰り出された。寸座、総司は息を詰めた。しかし次の瞬間、見開かれた瞳に映ったのは、絵を重ねるようにゆっくりと倒れる男の影と、入れ替わりに現れた八郎の姿だった。総司は二人に駆け寄ると、八郎の背と己のそれで音人を挟み並び立った。

「お前らが勝手に動くからっ」
 敵の思うつぼだと声を張り上げながら、八郎は袈裟がけに翳された刃を、真下から掬って凌いだ。
「…でも八郎さんだって、遅かった」
 それに不満げな呟きが、ぽつりと漏れた。青眼の構えを取っている総司の横顔を、思わず八郎は見た。
「そりゃぁ、悪かったな」
 静かな口調に徹しようと努めはしたが、それも短気の虫には敵わなかったらしい。
「だがな…」
 次第に声に険が混じる。
「誰が好き好んでこの寒い夜、白刃の下をくぐる酔狂になぞつきあうかっ」
 しかも敵の攻撃が怒りに拍車をかけているようで、いつになく太刀筋が荒い。
「見つけてやるのに難儀したんだ、礼を云えっ」
 二人目を斃しながら、語尾はもう怒声だった。

 八郎が怒るのは当たり前なのだと分かりながら、総司の裡にも憮然とした靄(もや)がある。
 敵陣に走り出した音人の行動は、総司に、膚が粟立つような戦慄を与えた。その衝撃が大きかっただけに、音人が危難を逃れたのを目の当たりにした瞬間、安堵を越え、名状しがたい怒りが湧き上がった。しかしその心の揺れは、持って行き場を間違えた。気がつけば、音人への怒りは八郎への八つ当たりに変わっていた。が、自分が悪いと百も承知してもまだ、素直に謝れない時がある。それが甘えなのだと、総司は己の情けなさに唇を噛んだ。

「…すみません」
 聞き取れない程の声が、小さく詫びた。それを背中で聞ききながら八郎は、胸の裡で吐息した。 
 今一番己を苛んでいるのは、総司自身なのだろう。
 音人は自ら危険に飛び込む事で、総司に活路を開こうとした。しかしその行動を見逃した自分に、総司は憤っているのだ。
 謂れのない八つ当たりも、呵責の念に追い詰められた心が縋った甘えと思えば、怒りの矛は敢え無く折れる。惚れた弱みとは思いつつ、八郎は、己の不甲斐なさを苦く笑った。

 その八郎の胸の裡を知ってか知らずか、総司の視線が一瞬遠くへ流れ、次いで硬かった横顔に、安堵の色が走った。だが援軍は、まだ敵陣のはるか向こう、ともすれば闇に紛れてしまう影でしかない。
「漸く、ご到着か」
 悠長な味方に、八郎の声が苛立った。が、土方達の姿は、敵陣にも焦燥を与えた。一人の男が、ひゅっと笛を吹くような細く短い声を発すると、各々が構えを解き一斉に仕掛けてきた。死に物狂いの、捨て身の策に出たのだ。
「島崎さんっ、離れるなよっ」
 叫ぶや否や、八郎は、最初に斬りかかってきた大柄な男の刀を跳ね上げると、交わす刃で胴を払った。相手は呻き声と共に膝を折ったが、その姿を見る余裕は無い。視界の端で捉えた総司は、もう二人目を相手にしている。だが八郎と総司が防御に掛ってしまった分、音人の周りに隙が出来た。相手はそこを狙っていた。
 細身の男が音一つさせず音人の後ろに回るや、弓のように撓って地を蹴り、真上から短い刃を振りかざした。

 音人の眸の中で、月を背にした男の黒い影が、宙で止まった。
 体は金縛りにあったように動かない。
――斬られる。
 無意識に、そう思った。だが恐ろしくはなかった。この世でただひとつしなければならなかった事は、信じて良い者に託した。だから心残りは無い。
 人を殺めようとした自分が、今、天の裁きを受けるのだ。これは当たり前の事なのだ。
 音人は静かに眸を閉じた。

 しかし静粛は、突然、弾き飛ばされるような衝撃と共に破られた。硬い何かに強か打ち付けられた痛みに、音人は呻いた。目を開けると、地面に転がっている自分がいた。が、咄嗟に顔を上げたその刹那、音人を襲ったのは激しい驚愕だった。
「沖田さんっ」
 慌てて立ち上がろうとしたが、破れた袴に足を取られて滑った。
薄い背が、音人の前に立塞がっている。微塵も動かず、先ほど音人に襲いかかった敵への構えを崩さない。だが音人の視線は、その右の脇腹に釘づけられている。赤い血が、闇の中ですら、みるみる袴を染めて行くのが分かる。
「総司っ」
 怒号のような叫びが、森のしじまを劈いた。
 それがすぐ近くにいる伊庭のものなのか、それとも駆け寄る二つの影から発せられたものなのか、音人には判ずる事が出来ない。目も、思考も全てが、凍りついたように、総司の脇腹から吹きだす夥しい血の色だけを捉えている。
 不意に、対峙していた男の体が、ゆらりと前にのめった。そのまま男は地面に倒れ込み、ぴくりとも動かなくなった。

「総司っ」
 八郎が脇を支えた。
「気を確かに持てっ」
 云いながら、傷口を確かめる顔が硬い。
「大丈夫です」
 それに確かな口調で応えながら、総司は八郎の腕を外そうとはしない。一人で立つには、もう支えなしでいられなかった。が、気丈に前を見ていた瞳が、不意に揺れ動いた。
「土方さん…」
 目の前に来た土方は荒く息を吐き、羽織にも袴にも、返り血が飛び散っている。端整が過ぎる顔(かんばせ)は、強張り蒼い。総司は脇腹の傷を隠すように身を捩ろうとした。だが土方はその腕を掴むと、強引に動きを止めた。
「見せろ」
 獣が唸るような、低い声だった。
「…掠り傷です」
 だから大丈夫だと応えようとした声が、半ばで途切れた。それと同じくして、視界は急速にせばまり、細い月あかりが点になった。その点の先に、切なくなるような苦しげな顔をしている土方がいる。

 あんな顔をさせてしまったのは自分だ。又心配をかけてしまったのだ。謝らなくてはならない、大丈夫だと、早く伝えなくてはならない。そう心は焦るのに、喉に絡まるように声が出ない。どんなに力を入れようとしても身体は鉛のように重く、指一本動かない。
 総司と、自分を呼ぶ声が遠くなる。すぐ近くにいる人の温もりに触れられない。やがてがくりと、闇の淵に突き落とされたような衝撃が走り、その直後、音の無い静寂が訪れた。それが総司の、最後の記憶だった。






「武器は棒手裏剣のようなものだ。島崎さんを庇おうとして、不自然な体勢から横に刎ねた狂器が、盾となった自分の脇腹に刺さったらしい。傷口はそれ程広く無い。が、元々が突き刺す武器だから、抉るように深く刺さった。急所は外れているが、出血が酷いのはその為だ」
 火影に揺れる田坂の顔が厳しい。その田坂を、土方と八郎は凝視している。
「健康な者でも、多量の出血は命取りだ。増してや彼には病がある。早急に傷口を縫い、出血を止めなければならない」
 それが意図してのものなのか、田坂は淡々と重い内容を伝える。
「その縫合だが…」
 が、澱みなかった声が、ふと途切れた。そこにこの若い医師の逡巡を察し、土方の双眸が鋭い光を湛えた。
「通仙散を使う」
「…通仙散?」
 問い返したのは、八郎だった。
「そうだ」
「だがあの薬は効果もあるが、毒も強いと聞く。手術自体は成功しても、意識が戻らなくなったり、或いは身体の何処かが動かなくなる恐れがあるとも聞いている」
 田坂の答えが己を納得させなければ頑と譲らぬ強さが、声に滲んでいた。


 通仙散とは、この時から六十年程前、紀州の医師華岡青洲が精製した薬である。外科治療の際これを患者に与え眠らせる事で、手術時の苦痛を和らげ体力の温存を図った。だがこの薬の成分は曼荼羅華(朝鮮朝顔)、草鳥頭(とりかぶと)など、通常毒とされる草花がその大半を担っていた。それゆえ、失敗を重ねた中には、人体実験をかって出た母於継の死、妻加恵の失明もあった。そうした犠牲を得て完成した通仙散は、その後数多の人々の命を救ったが、画期的が故に製法は難しく、青洲は通仙散の配合を一子相伝とした。云いかえれば、それほど危険を伴う薬と云えたのである。


「縫合を必要とするのは皮膚だけとは限らない。もし中の筋肉や臓腑にまで傷が達していれば、そこも縫わなければならない。そうなれば縫合時の痛みも出血も激しく、体力の消耗は免れない。ただですら衰弱している身には致命的だ。唯一それらを和らげるには、意識を失くす他無い」
「成功は?」
「持てる力の限りを尽くす」
 挑むような八郎の視線を、静かな声が跳ね返した。
「縫合は俺がする。そして薬草の配分は…」
 田坂は、先程から一言も物云わず自分を見ている土方に目を移した。
「島崎さんに任せる」
 土方の眸が微かに細められた。その分鋭くなった視線を、田坂は真正面から受けた。

 土方は物云わない。ただ黙って田坂を凝視している。一瞬たりとも気を抜けば、押し潰されてしまいそうな強い視線で見ている。だが田坂も又、引かない。
 部屋に、触れれば突き刺しそうな、緊(きび)しい気が走る。
 その気の中、土方が、田坂へ頭(こうべ)を低くした。
「頼む」

 短い言葉にある重い響きを、耳ではなく心の裡で、田坂は聞いていた。

   



事件簿   さくら八