さくら(八)
時は九ツ(深夜十二時頃)になろうとしてた。冬の名残の木枯らしが雲を運んで来たのか、先程まで煩わしいほどに煌々と夜を照らしていた月も今は無い。風が巻くようにし、雨戸を叩く。
柱と障子の間に指一本の隙を作ると、病人を看ていたキヨが気付いて顔を上げた。
「うつらうつら、してはります」
夜具の脇に坐した土方に、キヨはそっと告げた。
「土方はん」
息だけで囁いたような声に、総司を見詰めていた視線が上げられた。
「ちょっとだけ代わってもろうて、ええですやろか?せんせの準備を手伝ってきますわ」
「申し訳ない」
「とんでもあらしまへん」
キヨは慌てて手を振った。
「あんなぁ土方はん。…沖田はん、目ぇが覚めるたび、ぼんやりと誰かを探しますのや。きっと夢を見ていて、夢から覚めても、そのお人の事を恋しがっているんですやろなぁ。そんで頭がしっかりして来て、傍にいるのがうちやと分かると、ちょっとだけ笑って又目を閉じてしまうんですわ。けど今度こそ、がっかりせんとすみますわ」
大事を教えた口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。そのキヨに、土方は黙って頭を下げた。
音も立てずキヨが障子をしめると、土方は総司に視線を戻した。
熱が高いのか、蒼白い頬に不自然な朱の色が刷かれている。唇は乾き、そこから荒い息が不規則に漏れている。額の濡れ手拭いに触れると、まだ冷たい。替えて間もないのだろう。が、その感触が覚醒を促したらしく、目の下に深い影を落していた睫毛が震え、瞳が覗いた。
「総司」
土方は小さく呼んだ。しかし潤んだ瞳は、茫洋と、何処を見ているのか分からない。
「俺だ」
二度目の呼びかけにも、総司は暫し虚ろでいたが、ややあって漸く声のした方へ視線を辿った。
「…土方さん」
それは唇の動きだけで辛うじて判じられた言葉だったが、土方は強く頷いた。
「苦しいのか?」
問うと、微かに首が振られた。だがその寸座、綺麗な眉根が辛そうに寄せられた。僅かな動きが傷に響いたのだろう。土方は濡れ手拭いを外し己の手を置くと、指先で、頬に乱れている髪を除けてやった。 「我慢をするな」
総司は固く目を瞑り痛みを堪えていたが、やがて細く息を吐くと瞼を開いた。
「田坂さんが、すぐに楽にしてくれる」
慰撫する声に総司は頷いたが、すぐに又身じろいだ。面輪を歪め、唇を噛み締め、苦労し、脇腹に傷のある方の手を出した。しかし手は力なく夜具に沈んでいる。動かない我が身を厭うように、土方を見上げている瞳に悔しさが滲んだ。その手を、土方は己の掌に包み込んだ。すると総司は、再び唇を動かそうとした。声を発するのには力が要る。土方は総司の息使いから言葉を聞き取ろうと、唇に耳を寄せた。
そのまま、暫し姿勢を変えずにいたが、やがて静かに体を起こした。
――大丈夫だと。
それが総司の言葉だった。
総司が力の限りを尽くし伝えたかったのは、己の辛さ苦しさでは無く、土方を案ずる言葉だった。
「…そうだな」
他に返してやれる言葉は見つからなかった。それ以上声にすれば、不甲斐無く動揺している己を知られてしまいそうだった。
「お前は強かったな…」
掌の中で、骨ばった手が、もどかし気にうごめいた。案ずるなと、再び強く、その手は云っていた。
「そうだな」
握りしめている手に力を籠め、土方は、己の頬を総司のそれに重ねた。その寸座、熱い何かが頬と頬の間を湿らせた。それが総司の眦から伝わったものなのか、それとも己の目の奥を熱くしたものなのか、土方には分からなかった。
愛しい者の温もりを貪る背の上を、闇に移ろい行く時だけが、ひそやかに流れて行った。
「…通仙散」
反復した音人の顔が、強張った。
「そうだ、通仙散だ」
「しかしあの薬はまだ…」
「完全とは云い難い。が、意識を保ったままでの縫合は、患者に激しい苦痛を与え、著しく体力を消耗させる。しかし通仙散を使う事で、それらの負担は回避できる。通仙散の利点はそれだけではない。睡眠にあると云うのは、心の臓を始め、他の臓腑の働きも、覚醒し動いている時よりも落ちると云う事だ。それにより、出血が少なくて済む。そして何よりあの薬を沖田君に使わなくてはならない理由は…」
それまでの淡々とした語り口が、微かに乱れた。その一瞬、医師を越え、一人の人間を想う念に負けた己の未熟さを、田坂は恥じた。が、それはほんの僅かな間だった。言葉は、直ぐに続けられた。
「彼の胸に宿る、労咳の為だ」
労咳と云った時、音人の目に暗欝とした翳が射した。
「…やはり気づいていたか」
その音人を見る田坂の裡にも、鉛雲のような重い憂いが垂れ込めた。
「脆弱な身体つき、皮膚の薄さ、そして何より、抜けるような膚の白さ…。彼はあの病気が症状とする全てを兼ね備えている。ただひとつ違ったのは…」
重かった語り口が、ふと和んだ。
「見た目によらない、頑固者だった事か…」
音人の口辺に微かな笑みがのった。田坂の初めて見る、飾らぬ笑い顔だった。しかし刹那の安寧も、厳しい現実の前では、即座に捨て去らなければならない。田坂は、説く調子を鋭くした。
「では通仙散の必要性も分かる筈だ。沖田君の肺は、普通の半分程の働きしか無い。当然、他の臓腑へも負担がかかっている。今は病の進み具合を如何に遅くし、体力を温存させるかの日和見的な治療法しか施す事が出来ない。そこに今回の傷と出血だ」
田坂の声が低くなった。それは労咳と云う宿痾に手をこまねいている、田坂の、己自身への憤りと悔しさがさせたものだった。
「これ以上出血が続けば、元々の病と相俟って、命取りになる」
「だから通仙散か」
音人の声に、力が戻った。
「俺は反対だ。通仙散は確かに外科手術には特効薬となる。だが千の人間がいれば、体に宿る力はその数だけ異なる。細心の注意を払い、これ以上は無いと云う配合をしたつもりでも、その時々の患者の容体で、命を落とす事も有る。また手術は成功しても、目覚めない、あるいは体の何処かに支障が残る事も侭ある。…それだけ、通仙散の配合は難しい。だから華岡一門は、この配合を一子相伝として守って来た」
音人の多弁は、この若者に、守るべき者が出来た証だった。それを聞きながら田坂は、悋気にも似た感情が、靄(もや)のように心に立ちこめるのを感ぜずにはいられなかった。その渦巻く思いを静かな声に隠し、
「だからこそ…」
田坂は音人を見詰めた。
「配合を託せるのは、あんたしかいない」
ひたと据えた双眸は強い。その視線を音人は、睨むように跳ね返した。
「今こうしている間にも、沖田君の身体の負担は増している。早急に傷口を縫合し、出血を止めなければならない。その為には、あんたの力が必要だ。頼む」
頭(こうべ)を下げた時、それは医師としてなのか、それとも一人の人間としてなのかと問われれば、田坂は即座に後者だと答えた。それが想う者の命脈を繋ぎとめると決めた、田坂の決意だった。
重いしじまが訪れた後、ややあって、
「…俺は、人を殺そうとした人間だ」
ぽつりと乾いた声がした。
顔を上げた田坂と、凝視している音人の目と合った。だがその眸は、暗い闇を湛えている。
「そんな人間が、人の命を救えると思うか?」
田坂に視線を据えながら、音人の眸は、己に答えをくれる者を闇雲に探していた。それは音人の心に生じた、畏怖と云うものの象(かたち)だった。
「暗殺を企てたのは、前田利聲殿か?」
田坂は、意図して話を遡った。
「そうだ」
頷いた音人の顔に、秘事を知られている事への驚きは無い。
「…今は御隠居されている利聲様から利同様暗殺を打ち明けられた時、俺は迷う事無く加担すると決めた」
「何故」
「利同様の暗殺に加われば、亡き父への面当てになる。それに利聲様の御心には、俺と同じ闇があった…。だから決めた」
僅かな隙間から入り込んだ風が、行燈の火を揺らす。そのたび、音人の影は揺れ、先は部屋の片隅に積もる闇に呑まれる。その火影の戯れを見るともなしに見ながら、田坂は、月あかりが映し出したある光景を思っていた。
――実父杉浦高継は厳しい人だった。今になれば、それは父であらばこその、慈しみの表れであったと思う事が出来る。だがまだ厳しさよりも優しさが欲しかった少年の頃、田坂も父との距離を感じていた。そしてその距離は、兄兵馬と父の溝が深くなるにつれ、益々遠くなって行った。兄を擁護するあまり、強く反発した事もある。
そしてあの晩夏の夜――。
兄兵馬が、江戸家老を襲撃すると云う事件が起こった。
事の顛末が知らされると、高継は、その夜の内に子の成した罪の責を取り腹を切った。
澱んだ熱が籠る闇の中、飛び込んだ父の部屋で見た凄惨な光景に、十五才の田坂は息を呑んだ。
高継は、畳みに敷いた毛氈を血で染め苦悶していた。だが敷居際に呆然と立つのが田坂だと分かると、渾身の力を振り絞り目を向けた。来るなと、その視線は強く息子に云っていた。そして高継は今一度、己の力で腹を抉ろうとした。その動きに手繰られるように、気付いた時、田坂は父の背に回っていた。そして短刀に手を添えると、勢いのまま深く突き刺した。寸座、呻き声ひとつ漏らさず、高継はゆっくりと前に崩れた。
息子の介錯で逝った顔は、血潮を浴びてはいたが安らかだった。否、そうであってほしいと、あの時心が刻み込んだのかもしれない。
父の体に刃を喰い込ませた時の感触、柄を握った血のぬめり。そのどれもが、田坂の手には、今も生々しく蘇る。父の命脈を絶ったその事は、澱(おり)のように心に沈み続け、医師として経験を重ね数多の人々の病を治しても尚、消え去る事は無い。音人も同じように苦悶しているのだろう。
人を殺めようとした同じ手で、人を助ける事が出来るのだろうかと――。
だがそれだけは、音人が一人で乗り越えねばならない壁だった。
頑なに口を閉ざしている音人に、
「沖田君に会って来ないか?」
田坂は語りかけた。音人の顔に、戸惑いと、そして救いを求めるふたつの色が走った。
土方は音人を見ると、人物を眼に刻むように鋭い一瞥をくれたが、黙って席を外し二人にしてくれた。総司はくくり枕の上から、屈託の無い笑みを浮かべている。だが此処に運ばれて来た時よりも遥かに衰弱しているのは、音人にも判じられた。
「…島崎さん」
総司が先に声を掛けた。
「何だ?」
「預かり物…」
「預かり物?」
総司は笑って頷いた。
「私の血で、汚していないかな」
心底案じているらしく、深い色の瞳が揺れた。
「それなら大丈夫だ。キヨさんが、神棚に乗せてくれてある」
「神棚…?」
可笑しげな笑い声が漏れたと思うや、苦しげに面輪が歪んだ。
「喋るな」
叱りながら、音人は濡れ手拭いを盥の水に浸した。
「島崎さん…」
荒い息の下から、少し顎を引き気味にして、もう一度総司は音人を呼んだ。
「…前に…、何故お殿様の暗殺に加担したのかと聞いた時、…それは利聲様の御心が、自分を同じだったからだと、島崎さんは云いました」
少しずつ、痛みとの折り合いをつけながら、総司は言葉を繋げて行く。
「…島崎さんも利聲様も同じように、お父上との間に、しこりのような物があったのでしょうか…」
云い終えた時、総司は深く吐息し、瞼を閉じた。閉じられたそれは薄く、貝殻の裏のように紫(ゆかり)の血管(ちくだ)を透かせ、いらえを待っている。
「…あんたは、俺が話さしたくなければ、無理に聞こうとは思わないと云ったな」
総司は瞳を開くと、音人に面輪を向けた。
「では聞いてくれ。いや、聞いて欲しい」
思いもかけない言葉に、見上げている瞳が瞠られた。だがその強い言葉は、音人が長い間抱えて来た心の澱(おり)を、今、堰を切って吐き出そうとしている叫びだった。総司は無言のまま、深く頷いた。
「…父は、男子に恵まれなかった島崎家の養子だった」
語りは、静かに始まった。
「島崎家が、家中でも秀才と評判だった父を養子に望んだ時、父には末を約束した人がいた。だが代々侍医と云う職に就く島崎の家では、父が必要だった。そして父にとっても、この話は千載一遇の好機だった。父の家は、三十石にも満たない馬廻り役。しかも子は多く、父の上にも兄が二人いた。そして何より、貧しい中、勉学の費用を捻出してくれた親を、父は裏切る事が出来なかった。そう云う経緯を経て、父は島崎家に来た」
双つの黒い瞳が真っ直ぐに、見詰めている。その瞳に励まされるように、音人は心の裡を吐露し続ける。
「しかし俺の母は気性の激しい人だったから、父が自分にでは無く、家に惹かれて来た事が堪えられなかった。そして歩み寄る事無く溝は深まり、俺が生まれた時、それは決定的になった。父も母も、俺と云う存在が、互いの憎しみの象徴のように思えたのだろうな」
「…そんな」
「本当の事だ。そんな顔をするな」
不条理を憤る声に、音人の表情が和らいだ。
「俺の性格は、父に似たらしい。父ほどの才能は無かったが、ひとつの事に興を持つと寝食を忘れ、納得するまでそれを調べた。そしてその対象は、父と同じ、医学、薬学だった。だが俺は医学ではなく、薬学を選んだ」
「どうして…」
「父と比べられるのが嫌だったのさ」
淡々と語っていた調子が、不意に投げやりになった。その瞬間、総司は、音人の心を覗いた思いがした。音人は父親を敬愛していたのだ。拗ねた物言いは、その甘えがさせたものなのだろう。
「父は俺に対し、いつも余所余所しかった。それは俺が母の子である限り、仕方の無い事だ。だがひとつだけ、その父に優しく接しられた事がある」
「…どんな事だったのですか?」
熱で潤んだ瞳が、急(せ)いてねだった。
「十になった、春の日の事だ。父の留守に書斎に入り込むと、机の上に薬草の本があった。読み始めたら面白くて夢中になり時が経つのも忘れ、気が付けば日は傾き、西日が座敷の隅まで入り込んでいた。俺は慌てて本を机の上に戻そうとした。が、その時不意に障子に人影が差した。俺は蒼くなった」
「怒られる…と、思ったのですか…?」
「当たり前だ」
悪戯げな問いに、いらえは苦い笑いで返った。
「だが父は、硬く顔を強張らせ動けずにいる俺の傍らに座わると、面白いか?と聞いた。その声の優しさは初めて聞くもので、俺は戸惑い言葉を返せなかった。下を向いてしまった俺に、父は、判らない事があったら聞けと続けた。俺は益々言葉を見つけられず、俯いたままだった。そんな俺の頭を、父は二回軽く叩くと、部屋を出て行ってしまった。しかし俺は、いつまでもその場に座り込んでいた。暗くなり、風が冷たくなっても、耳に残る父の声は温かく、頭に置かれた手の平の感触は優しかった。…薄暮が、庭の桜の花をぼんやり白くしていたな」
遠く闇を見た音人の眸が優しい。音人にとって、それは今も心を温くする出来事なのだろう。
「ところが翌日、父はいつもの近づき難い貌に戻っていた。昨日の父と、今日の父。どちらの父が本当なのか…、十の俺には判らなかった。だから俺は逃げた。今までと同じように、自分は両親に憎まれていると思えば、それ以上傷つく事も無いからな。いや、一時の気紛れで優しさを見せた父を憎いと思った。…そんな事をされなければ、期待などせずに済むものをな」
絞った濡れ手拭いを総司の額に置いた時、音人の口調は又抑揚を失くしていた。
「俺が十五の時だった」
先を紡ぐ声が、来し方を手早く手繰る。
「父は他所から養子を迎え、家を継がせると云い出した。これには母が激怒した。何故俺と云う子が居ながら、養子を迎えるのかと、その時の母の怒りは凄まじいものだった。俺にも父の瞋恚が判らなかった。…ただ」
込み上げる感情の綾を、無理矢理断ち切るように、
「俺はそこまで父に憎まれているのだと、…それだけは判った」
音人は無言で見上げている総司から、行燈の灯へ視線を移した。
「結局、養子を迎える話は流れ、それから五年して父は死んだ。そして俺は形ばかり侍医の職を継いだ。…利聲様の屋敷に呼ばれたのは、侍医として見習いを始め、一年も経たない内だった」
「その時に、お殿様の暗殺を…?」
「そうだ」
頷いた横顔が、暗かった。
「富山藩の騒動の事は知っているかもしれんが…。利聲様は、兄利友様亡き後、藩主の座に就かれた。が、実権は、母の毎木様と江戸家老の富田兵部達に握られ、毎木様達江戸派は、本家の加賀藩には極秘裏で、幕府に飛騨の天領の払い下げを願い出た。それを知った御隠居中の利保様は驚き本家に訴え、富田を自刃させるや利聲様を一線から退かせ、再び己が藩政を司った。以後、富山の藩政には、常に本家が介在している。そして利保様が身罷ると、富山は、加賀藩から利同様と云う幼い藩主を向かえた。…その暗殺に、俺は関わった」
一息に語り終えた時、音人は胸を丸めるように小さく吐息した。
「利保様と毎木様は、心の通わぬご夫婦だった。しかし利聲様は、学問に造詣深く、民を思い、国を思うお父上を尊敬していたと俺に仰られた。だが毎木様との折り合いの悪さは、父と子の絆までを裂き、やがて利聲様は父の手により隠居させられた。…利聲様は、憧憬する父に疎んじられた子の苦しみ、哀しみを、ずっと引き摺って来られた。…俺と同じだ」
語りの終わりが、自嘲めいた笑いでくぐもった。
その横顔を、総司は瞬きもせず見詰めていた。
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