さくら(九)




「他愛も無い話しを暫くされた後、利聲様は、ふと庭に目を遣った。そして云った。殿の膳に、毒を盛ってはくれぬかと」
 語りを邪魔せぬよう、黒い瞳が、瞬きもせず音人を見詰めている。
「俺は訊いた。もし断れば、自分は此処で殺されるのかと。…当り前だ、藩主毒殺を打ち明けられ、否と答え、命あって帰られる方がおかしい。だが利聲様は、無理強いはせぬと首を振られ、ただ本家との絆を、この手で断ち切ったらさぞ愉快だろうと思っただけと笑われた。だがその笑い顔は、何処か空しく、心からのものでは無いように思えた。利聲様の纏う寂寥は、俺の心にある空洞と似ている…、おぼろげではあったが、そう感じた。もしかしたらこの人は、父親の慈愛を欲しながら恵まれず、その葛藤を引き摺っているのでは、とも思った」
「…それで、加担すると?」
「失くすものも無かった。欲しいものは、もう生涯手に入らない。ならば人の道を外すのも面白いと思った」
 火影に、苦い笑いが浮かんだ。
「利同様暗殺は、誰が見ても病死としか判らぬよう、少しの不自然もあってはならない。その為には長期に渡り、盛る毒を微妙に調整する、神経と根気が要った。そして俺には、それを成し遂げる自信があった。…だが世の中と云うものは、皮肉なものだな」
 淡々と語っていた調子に、自嘲めいた吐息が混じった。
「毒を盛り始めて一月ほど経った頃、俺は薬草の本を探し、父の書斎に入った」
「…島崎さんが小さい頃、書物を読み耽ってしまったと云う?」
 音人は黙って頷いた。
「目当ての物を探している最中だった。積み重ねられた本の間から、俺は偶然、手紙のようなものを見つけた。それは長い事本に押しつぶされ、紙は少し湿り気を帯びていが、確かに父の手で書かれていた。目を走らせると、利聲様のお父上である利保様の供で伊勢へ下った折に付けた、短い道中記のようなものである事が分かった。だが更に読み進めると、そこには…」
 ふと声を止め、心の裡を整理するように、音人は闇の一点を見据えた。束の間そうして沈黙していが、ややあって再び口を開いた。
「そこには、父としての、俺への思いが綴られていた」
 語り聞かせる調子に、もう乱れは無かった。
「道中、奈良に立ち寄った時、幕府直轄の薬草園を見学したらしい。無数に植えられた薬草を、俺に見せたらさぞ喜ぶだろうと、父は書いていた。…興奮していたのは、いつもは几帳面な細い字なのに、そこだけは迸るような勢いがあったので分かった。そしてその同じ筆で、自分に似て世渡りの下手な俺に、気苦労の多い城勤めは向かない、子の才能を伸ばさず摘み取るのは親の為す事で非ずと、記していた」
「ではあの養子の事は…」
「父は父なりに、俺の先を考えたのだろう」
「お父上は…、島崎さんの事を、大切に思っていたのです」
「死んで、教えてくれても遅い。俺は父に疎まれ、憎まれ続けていれば良かった。だから俺も父を憎んできた。ずっとそうして来た。…今更どうしろと云うのだっ」
 問い糾す声には、煩悶に煩悶を重ね続け未だ出ない答えへの、やりきれない憤りがあった。音人は、膝の上の手を固く握った。その震える拳に、総司は、いつか川原で見た横顔を重ね合わせていた。

 あの時、父を憎み続けているのだと云った横顔は、同じように、胸を抉られるような哀しい顔だった。音人は父親を憎む事で心に壁を造り、長い事、人としての一切の感情を封じ込めてきた。だがその壁は、届かなかった父の手紙により、脆くも崩れ去ってしまった。突然己を庇護して来た囲いを失い、音人は今、どうして自分を立て直して良いのか判らないのだろう。
 総司は夜具の隙から手を出すと、少しづつ指を這わせ、音人の膝に触れた。

「…それで、島崎さんは、途中で投げ出したのですか…?」
「いや、それだけでは無い」
 膝に触れた総司の手を夜具に戻しながら、音人は首を振った。
「その中には、利保様の、利聲様への思いも綴られていた」
「利聲様への…?」
「利保様は、利聲様が憎かったのでは無い。利聲様の命を救わんが為に、毎木様と富田の企てを本家に訴えたのだ。もし本家に無断で願い出た飛騨領の払い下げが認められれば、本家の怒りは計り知れない。利聲様の命も危ない。しかしまだ企てであったあの時点なら間に合った。例え富山が加賀の傀儡になっても、利聲様の命だけは助ける事が出来た。だから利保様は加賀に訴えた。それが、利保様の真意だったのだ。…子には愚かになるものらしいと、利保様が笑われたと、父は書いている」
「その事を、利聲さまは…?」
「知らん。俺はこの手紙を読んだその足で出奔したからな。だが利保様の御心を、利聲様に伝えなければならない。…利聲様を、お止めしなければならない」
 長い語りを終えた時、音人は肩の力を抜くように、少し前屈みになった。その音人に総司は、
「…神棚の、手紙…。はやく、とどけて、あげなければ…」
 一言一言区切るように伝えると、唇辺に笑みを浮かべた。だが胸は荒く上下し、もう声を出すのも大儀そうだった。しかし総司の様子は、音人に、医術に関わる者としての意識を呼び戻した。

傷は一刻も早い縫合を要するのだと。
縫合には通仙散が必要なのだと――。
田坂の声が、音人の耳に蘇える。
そしてその配合を、自分は託された。
だが人を殺めようとした同じ手で、人を救う事が出来るのか…。
音人は、初めて恐怖と云う際に立っていた。が、その恐怖を、音人は切り捨てた。恐れを越えて守らなければならないものが、目の前にあった。

「利聲様に渡す前に、ひとつ仕事がある」
 静かな語りかけに、切なげに閉じていた瞼が、ゆっくり開かれた。
「あんたの傷を治す」
 見上げた瞳に、音人は笑いかけた。
「治ったら、俺を拾った寺の脇にある、あの蕎麦屋でおごれ」
「…さくらの、木の…したの…?」
 つられて、総司の面輪にも弱い笑みが広がった。
「そうだ。命の代価としちゃ、安いもんだろう」
 強気な言葉に、細い顎が、嬉しそうに引かれた。






「沖田君に通仙散を与えるのは、無謀と云っていい」
 説く田坂の顔を喰い入るように見、音人は聞きいている。
「発熱、出血、衰弱…。今の彼は、通仙散を使用してはならない条件全てに当てはまる。だがこのままでは、命を落とす。脈が、だいぶ弱くなって来ている。一刻も早く出血を止めたい。難しい事は承知の上だ」
「薬草は、六種類全て揃っているのか?」
 問うた目が、刃の切っ先のように鋭い。
「揃っている」
 田坂の強い視線を受けると、音人は独り考えるように目を伏せた。

 通仙散の配合は、曼荼羅華(朝鮮朝顔)八分、草烏頭(そううず、別名とりかぶと)二分、ビャクシ二分、当帰二分、センキュウ二分、南星炒(なんせいしゃ)一分と云うものだった。だがこれらは、患者の体力やその時の状態と非常に深く関わり、微妙な匙加減が成功を左右した。更にその匙の量である「分」も、当時は流派により異なった。華岡青州が通仙散の配合を門外不出として来たのも、このような事情により、分の差異や誤った判断で命を落とす危険を考慮した為である。が、固く護られてきた法度も、優秀な弟子の一人で、後、水戸藩医政の第一線を担う本間玄調がその配合を本にした事で、広く巷に知られる事となった。
 田坂達は今、破門と云う代償を経、外科手術の普及に努めようとした玄調の恩恵に預かろうとしていた。
 

 黙考していた音人が、不意に顔を上げた。
「通仙散を飲ませてから意識が薄れるまでに、通常二刻(四時間)程かかる。それまで彼の体力は持つか?」
「二刻は待てない。早い効き目を現すものは、強いだけに、危険な副作用を孕む事は分かっている。それでも、そう云う通仙散が欲しい」
 声には、体ごと前に押し出すような切迫感があった。几帳面に刻まれる時が、田坂から余裕を奪って行く。
「薬の力をぎりぎりまで弱くし、身体に負担をかけず、しかし効果の現れを早くする…」
 低く呟くと、音人は再び目を伏せたが、すぐにそれを上げ田坂を捉えた。
「通仙散の効き目が持続するのは、三刻程だ。それを半分…、いや、六分の一の半刻(一時間)にする。その間に、あんたの手術は終わるか?俺の仕事とあんたの仕事、僅かな狂いも許されない」
「終わらせる」
 田坂は確乎と云い切った。
「通仙散を試した事はあるのか?」
「ある」
 躊躇い無く返ったいらえに、田坂の口辺に薄い笑いが浮かんだ。
「成功率は?」
「八分から九分…。だがまだ人体で試した事は無い」
「ではそれを、人の体で完全にしてもらう」
「揃えてあると云う部屋へ案内してくれ」
 目を細めた田坂に、挑むような一瞥をくれ、 
「通仙散を調合する」
 音人は立ち上がった。その刹那だった。胸の一番深い処で、何かが、切なく疼いた。それは昔、父の優しい声を聞いた時に起こったものと、良く似ていた。
 音人、と――。
 それは云っていた。






 調合は、半刻も経ずに終わった。
 細かく砕いた六種類の薬草を三度煮立たせたその上澄みを、音人は総司に飲ませた。
 意識の混濁まで、通常の半分、およそ一刻と田坂は測ったが、四半刻を過ぎた頃には、総司の意識は朦朧として来た。
 田坂は、四肢の先を軽くつねったり叩いたりしていたが、全く反応を示さなくなると、手術をする部屋に総司を運んだ。
 板を張っただけの部屋の中央に、蒲団替わりの油紙を厚く敷き、その上に総司を寝かせる。
 行燈を四方の隅に置いた室内は明るい。更に田坂の手元を、キヨが手蜀で照らす。
 音人に視線を向けた田坂が頷いた。それが合図だった。
 
 
 皮膚を傷つけないよう慎重に、田坂は、総司の胸から腹に巻かれている布を剥いで行く。血糊で貼り着いてしまった部分には焼酎を湿らせ、血の塊を溶く。この焼酎の刺激とて、意識があったら大変な苦痛になる。ちらりと視線を動かすと、総司は昏々と眠っている。
 最後の布を剥がした終えた時、浮き出たあばら骨に沿って、二寸強の傷が露わになった。
 田坂は焼酎を張ってあった盥から、先が鋭い刃になった、丁度耳掻き程の細い棒を取り出すと、それですっと傷口をなぞった。その寸座、鮮血が、堰を切ったように吹き出した。裂けた皮膚の下に、白い、紙のように薄い脂肪層がある。傷はそれを突き破り、ぽっかりと口を開けていた。
 丹念に傷口を検めていた田坂が、顔を上げた。そして、
「手伝ってくれ」
 音人へ短く告げると、すぐに傷へ目を戻した。
「なるべく細かく縫う。吹き出す血が邪魔だ、拭ってくれ」
 云いながら田坂は、盥に浸してあった針を手にした。それは通常外科の縫合に使う畳針よりもずっと細く、先が緩く円を描いて曲がっており、既に糸も通してある。
「始めるぞ」
 一瞬器具に気を取られた音人の意識を、厳しい声が呼び戻した。気づいた時、田坂はもうひとつ目を縫い始めていた。






 遠く、鐘の音がした。七ツ(午前四時)の鐘だろう。暁更と云うにもまだ早いこの頃合い、桜月の冷え込みは一層深くなる。

「…そろそろか」
 八郎が、独り呟いた。だが土方は応えない。固く口を閉じ、沈黙の中にいる。その脳裏には、僅か一刻前の出来事が巡っている。

 通仙散を使用する事、それには危険が伴う事。だがそうしなければならない事。そしてその調合を、島崎音人に託する事。
 それらを田坂は訥々と説き、そして総司の状態から、通仙散の本来の使用方法では間に合わない事を伝えた。危険に危険を重ねる治療になると告げた峻厳な面差しを、土方の眸は克明に焼き付けている。その田坂に、土方は無言で頭を下げた。だがひとつだけ、意識が無くなるまで、総司の枕辺に居させて欲しいと申し出た。
 
――薬を飲み干し暫くすると、総司はそろそろと、夜具から手を出した。治療の危険を知っていたのか、珍しく人を恋しがった。それが土方には愛しかった。愛しく、そして怖かった。出した手を包むように握ってやると、総司は指の動きを止めた。
 そうしている内に、息が荒くなってきた。脈を診ていた田坂が、動機や脈が速くなる、これが最初の症状だと教えた。ややあって瞳がぼんやりとしたと思ったら、今度は微かに唇が動いた。自分の名を呼んでいるのだと、土方には即座に判った。だが思わず力を籠めた掌の中の指は、もう何の反応も示さなかった。
 間も無く、意識が完全に失くなると、総司は手術に使う部屋へ運ばれた。
 襖を開けた寸座、板張りの部屋の、無機質に静まり返った冷たさが、土方の胸を刺した。
 その部屋の隅に、白い被布を着けた島崎音人が端坐していた。


 手術の始まりから半刻が過ぎたのだと、八郎は云ったのだ。だが土方には時の経過が曖昧だった。無事終わったと、その知らせを少しも早く待っている筈が、田坂の姿が見えねばまだ総司の命脈は繋がれているのだと、そんな愚かな思いにも捉われる。
 二人の間に、再び重いしじまが訪れた。
 それがどれ程続いたものか…。不意に八郎が障子に視線を遣った。同時に土方も、瞑っていた目を鋭く開けた。

 まだ夜の闇が辺りを包む閑寂の中、足音は静かに此方に遣って来る。待ち切れず、八郎が廊下に飛び出た時、キヨはすぐ間近まで来ていた。
「終わりましたえ」
 柔らかな笑みが、八郎に向けられ、そして部屋の中に立ち尽くす土方に向けられた。
「若せんせいと島崎はんは、まだ様子を診てはります。けど、お二人に早ようお知らせしとおて」
 教えに来たのはキヨの独断らしかった。だが成功を信じている声は弾んでいる。
「キヨさん、かたじけない」
 土方が、深く頭を下げた。
「何を云いますのや…」
 目の奥を熱くするものを不甲斐ないと叱りつつ、土方はキヨの潤んだ声にも、頭を上げる事が出来なかった。






 薄明の空に残る月は、東の稜線に付くように近く大きい。それも昇り始めた天道が、辺りを白い光で染め始めるまでの事だった。

 音人の出した条件である半刻を少し残して、田坂の縫合は終えた。
 術後も、田坂は厳しい面差しで総司の様子を見守っていが、四半刻も経った頃、総司の耳元で名を呼び始めた。
 最初総司は何の反応も示さなかったが、段々に声を大きくして呼び続けて行くうちに、面輪を歪めるなど、鈍く応じ始めた。それを見た音人が思わず声を合わせると、かすかに睫が動き、ややあってゆっくり瞼が開いた。間髪を置かず、田坂はひたひたと頬を叩いた。すると総司は幼子がいやいやをするように、弱く首を振った。続けて、俺が分かるかと問うと、今度は小さく頷く仕草を見せた。その刹那、田坂の横顔に、漸く安堵の色が浮かんだ。

 
 花の季節を疑う程、朝の空気は澄んで膚を刺す。だがその冷めたさが、音人には心地良かった。
 腕を天に突き出すように、大きく伸びをしてから後ろを向くと、黙々と片づけをしている田坂の姿が目に入った。田坂は縫合に使った器具を念入りに洗っている。
 田坂は焼酎を張った盥の中に、縫合に使う全ての器具を浸していた。そして一度使用したものは、針でも、二度と使わ無かった。その盥の中に沈んでいた器具を、音人は思い起こした。それらは音人が見た事も無いものだった。
 
「あの道具だが…」
 躊躇いがちに掛けた声に、田坂が振り向いた。
「あんたが作ったのか?」
 視線を向けられて、思いきったように、音人は問うた。
「下総佐倉にある順天堂を知っているか?」
 音人は頷いた。佐藤泰然の順天堂は、当時西洋医学の権威と名高かかった。
「そこに亡くなった兄の親友がいる。その人から借りた西洋医学の本にあった絵を、見よう見真似で作った。だがまさか使う日が来るとは思いもしなかった。しかもまだ誰もやった事の無い、見事な通仙散の調合と一緒に、だ」
 笑って応えた声に、衒いが無かった。

 一夜明け、困難に立ち向かった若い医師の頬は削げていたが、そこに疲れは無く、むしろ精悍さが増していた。それが瀬戸際で得た自信なのだろうと、音人は思った。そしてその自信は、自分の中にも確かに芽生えていた。
 
人を殺めようとした人間が、人を救う事が出来るのか。
その答えを、総司の命がくれた。
真摯な心で立ち向かえば、やり直す事はできるのだと。
音人と――。
もう一度、父が呼んだ。
それはあの春の日聞いた、優しい声音だった。

 目から、不意に零れ落ちそうになったものを隠し、慌てて視線を外に遣った時、朝の白い陽に何かが煌めいた。

「桜が、あるんだな」
 呟いた声に、田坂が頷いた。
 





「切ったり縫ったり、医者の手にかかっちゃ人の身体なんざ、道具箱か何かを作るのと同じだな」
 間延びした声が、春陽の長閑けさに溶ける。その八郎の感想に、くくり枕の上の面輪が笑った。が、すぐにそれは小さく歪められた。
「無理をするな」
 顰め面で叱る声に余裕のあるのも、熱も下がり、もう大事ないと押された太鼓判の所為だった。

 音人が調合した通仙散を使い、田坂が傷の縫合をしてから十日が経とうとしていた。
 昨日、田坂は縫った個所から糸を抜いた。すると直ぐに総司は床上げをせがんだ。元々床におとなしくしている気性ではないが、何より、田坂を助け患者を診るようになった音人の、生気漲る姿が刺激になっていた。が、その願いは、にべも無く却下された。

「しかし絹糸で縫われるなんざ、豪奢な奴だねぇ、お前は」
「傷を縫う糸は、皆同じでは無いのですか?」
「さぁ、どうだかな。俺も縫われた事が無いから分からん」
 世間に疎い想い人に、いらえも呑気なものだった。しかし応えながら八郎は、つい先程、廊下を渡っている時に聞こえて来た遣り取りを思い出していた。

 音人は、田坂に、総司の縫合について細かく訊いていた。それに、田坂はひとつひとつ丁寧に答える。
 柱の陰で耳を澄ませていると、何故弱い絹糸を使ったのかと、音人が問うた。田坂は、毛が立ちにくく滑りが良い絹糸が、総司のような薄い皮膚には適していると答えた。又、毛が立ちにくければ、傷口が膿む可能性もその分回避されると判じたと付け加えた。それ故田坂は、二寸余の傷を十以上の針で縫い、弱い絹糸が抜糸まで切れないよう、総司に、仰臥したままの安静を命じた。幾ら寝ているとは云え、同じ姿勢を取り続けるのは辛い。流石の総司も身体の痛みを訴えたが、田坂は取り合わなかった。
 この時代、縫合と云えば珍しく、切り傷はその部分を布なので圧迫して治すと云う大雑把な治療が当たり前だった。それを糸にまで神経を配り、最善の処置を施そうとした田坂の苦労を、八郎は、畏敬の念を持って聞いていた。
 想い人をからかった言葉には、恋敵への、そんな思いが込められている。

「八郎さん…」
 寸の間、余所へやっていた気を、遠慮がちな声が呼び戻した。
「なんだえ?」
「明日の事」
「ああ…」
 忘れていたとばかりに、途端に、声が面倒げになった。

 明日、八郎は土方と共に、山科へ赴く事になっていた。そこで土方は前田利聲に会い、そして八郎は、利聲とは別の場所で、反加賀派の中枢であり富山藩江戸家老のひとり、笛木喜十郎と会う事になっていた。

「すみません」
「仕様がないさ、島崎さんには、お前を助けて貰った借りがある」
「利聲様は分かってくれるかな、島崎さんのこと…」
 それは音人の事だけではなく、利聲の、父への憎しみと哀しみが解かれ癒される事を願った言葉だった。
「その為に、お前は俺とあの仏頂面を使いに出すのだろう?」
「使いだなんて…」
 まだ色の戻らない白い頬に、朱が差した。
「まぁ、どうにかなるだろうさ」
 いらえをはぐらかされて不満なのだろう。見上げている瞳が怒っている。それを眼に刻むと、八郎は立ち上がり縁に出た。

 想い人の瞳にある色が、自分にだけに向けられたものならば、たとえそれが怒りだろうと、八郎には愛しい。
 もっと怒らせてみたい――。
 他愛も無い駄々を想いを己に許し、八郎は、庭に散る葉漏れ陽に目を細めた。



   




事件簿  さくら十